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望みはかなえるものではない Ⅱコリント1:7-11 

2023年10月22日 礼拝


Ⅱコリントへの手紙
1:7 私たちがあなたがたについて抱いている望みは、動くことがありません。なぜなら、あなたがたが私たちと苦しみをともにしているように、慰めをもともにしていることを、私たちは知っているからです。
καὶ ἡ ἐλπὶς ἡμῶν βεβαία ὑπὲρ ὑμῶν, εἰδότες ὅτι ὡς κοινωνοί ἐστε τῶν παθημάτων, οὕτως καὶ τῆς παρακλήσεως.

Ⅱコリント人への手紙
1:7 私たちがあなたがたについて抱いている望みは、動くことがありません。なぜなら、あなたがたが私たちと苦しみをともにしているように、慰めをもともにしていることを、私たちは知っているからです。
1:8 兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、
1:9 ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。
1:10 ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。
1:11 あなたがたも祈りによって、私たちを助けて協力してくださるでしょう。それは、多くの人々の祈りにより私たちに与えられた恵みについて、多くの人々が感謝をささげるようになるためです。

タイトル画像:jplenioによるPixabayからの画像 


はじめに


前回は『慰め』について見てきました。慰めといいましても、日本語の意味とは異なり、それは「聖なる促し」という意味を持ち、主が信者に主の計画を実行するよう直接動機付け、鼓舞し、特定のメッセージを誰かに伝えることを意味するのが実際であるようです。わかりやすく言えば、パウロが伝えた慰めとは、伝道に近い意味があるということでした。今回は、パウロの伝道旅行での困難を交えて、聖書の語る『希望』について語ります。

希望というもの


7節を見ていきますと、『私たちがあなたがたについて抱いている望みは、動くことがありません。なぜなら、あなたがたが私たちと苦しみをともにしているように、慰めをもともにしていることを、私たちは知っているからです。』とあります。

さて、日本語で『望み』という言葉は、すなわち希望です。
希望というものは、将来に対する期待であるとか、明るい見通しを指す言葉です。ところが、皆様も経験があるかと思いますが、希望というものは状況によってその姿を度々変える、変更を余儀なくされるということも含む、裏面的な内容を持つ言葉でもあります。

つまり、日本語における『望み』希望というものは揺らぐ性質をもつということです。漢字を見てみますと、その意味がよくわかります。希望の”希”の字は「願う」であるとか「まれ、めったにない」という意味であることから、希望はかすかな願い、かすかな望みという意味が表意されています。そこから、希望は達成できないもの、希望は叶わないものという意味も込められた言葉であるような気がいたします。

ところで聖書は、この『望み』をなんととらえているのかといいますと、ギリシャ語での『望み』はἐλπὶς(エルピス)。その意味を詳しく見ていきますと、人間の楽観的な予測や希望的観測ではなく、それは常に神によって生み出された信仰の発露になる言葉です。

聖書で言うところの希望とは、『主が いつ、いかにして実行されるかを待ち望むこと』であるのです。ここでカルヴァンの言葉を紹介したいと思います。カルヴァンは、希望を次のように説明します。

「希望とは信仰の不変性にほかならない」。 希望とは、「信仰が持っている目的以外には持ち得ない 」信仰的期待である。

ジョン・カルヴァン『教義学』3, 2, 507

彼によれば。希望は、状況や環境によって移ろうものではなく、変わることのない信仰そのものであり、本当の希望というものは、信仰の目的であるということです。

不変の希望

パウロは、この『望み』により、不変であることをより強調する意味で、『動くことがありません』という言葉を付け加えています。

『動くことがありません』という言葉の意味は、 βεβαία(べバイア)原型は、べバイオス。「堅固な所を歩く」というバイノーという動詞からの派生であり、「歩くのに十分堅固な」という意味になります。

さらには、「踏むことができるもの」は、完全に信頼できるものであるとか、「確かな足場 」の上にあるため信頼に値するものを指す言葉であり、 これは、完全に安全であり、安定したもの、したがって完全な支えを与えることができるものを意味しています。

すなわち堅固な基礎の基づいたもの、明白な事実に基づいたものという意味で使われている言葉です。

つまり、パウロが伝えた希望というものは、明白な事実に基づいた信じるに値する、確実に受取る保証のあるものとして語っています。

希望の基礎

その希望は何に基づいているのかといえば、それは、イエス・キリストの十字架と復活にあることです。パウロは、ダマスコの途上で、彼の使徒性を決定づける一つの事件がおこります。それは、復活のイエス・キリストとの出会いです。それは、使徒の働き9:1-19 に記されている記事に紹介されています。

その記事を要約しますと、パウロと逃亡中のクリスチャンたちを捕縛する同行者たちが、シリヤのダマスコに近づいたとき、突然天からまぶしい光が射し、声が聞こえてきました。これは幻ではなく、パウロだけに語られた復活のイエス・キリストの顕現でした。この出来事は、パウロの全人生、全存在をひっくり返す決定的な体験となりました。その結果、パウロは直ちにダマスコでイエスをキリストと証しすることになります。

パウロはダマスコの途上での体験を通して、イエス・キリストが神であり、三日目に復活されたお方であるという事実を知り、希望は復活にあるということを彼はイエス・キリストとの出会いによって悟ったのです。

死の宣告の中で見出した希望


復活の主との出会いにより、本当の希望を知ったパウロは、世界に向けて宣教を開始します。シリヤのアンテオケから旅を始め、小アジヤに向かいます。ところが、向かったアジヤ(現在のトルコ)に行きますと、ユダヤ人のシナゴグで復活のイエスを伝えると、敵意を持ったユダヤ人たちからの激しい反目を受けたり、偶像礼拝を行う現地の人々からの反発が拡大し、迫害の危機にさらされます。

Ⅱコリント1:8節以降を見ていきますと、アジヤで受けた激しい迫害の中での宣教活動について触れています。

Ⅱコリ1:8 兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、 1:9 ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。 1:10 ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。

Ⅱコリント 新改訳聖書 いのちのことば社

9節には、激しい迫害の中で『ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。』と告白しています。

ここで、『覚悟』と訳されたἀπόκριμα(アポクリマ)という言葉がありますが、それは、「答え」であるとか「宣告」を意味します。つまり、『死を覚悟』したのではなく、『死の宣告』を受けていたということです。
パウロは、死への危機を悟ったというより、『我々は死の宣告を受けた』と訳せることや、アポクリマという言葉自体が、医療用語であったことから推測すると、診断結果によって死が確実であったことが推測できます。

ここから導き出されるのは、パウロは死を『覚悟』しただけでなく、誰が見てもパウロは、回復の見込みが無い状態に陥っていたことを示唆しています。

そうした状況がいつ、一体、どの事件を指すのかは不明ですが、一説によればエペソでの迫害であるといわれております。死が迫っていたのは、エペソだけではありません。

第一回の宣教旅行(使徒伝13-14章)の折、キリストを宣教するための神に召しに答えて、パウロとバルナバはシリアのアンテオケ教会を出発しました。初めは、彼らの伝道方法は、まずその町のユダヤ会堂で 説教するというものでした。しかし、多くのユダヤ人がキリストを拒んだので、宣教師たちは異邦人に証しせよという神の召しに気づき、イエスの証しを大胆に述べていきました。ルステラの町では、パウロは石打ちに会い死んだ者として放置されました。

使徒の働き
14:19 ところが、アンテオケとイコニオムからユダヤ人たちが来て、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにし、死んだものと思って、町の外に引きずり出した。14:20 しかし、弟子たちがパウロを取り囲んでいると、彼は立ち上がって町にはいって行った。その翌日、彼はバルナバとともにデルベに向かった。

使徒の働き 新改訳聖書 いのちのことば社

ルステラでの石打ちから奇跡の生還を遂げたパウロは、幾多の試練や、鞭打ち、投獄を通してもパウロはキリストを述べ続けました。
彼は何度も瀕死の状況を味わうことになります。
そのことが12章23節で触れていますので紹介します。

Ⅱコリ11:23 彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。

Ⅱコリント 新改訳聖書 いのちのことば社

このような状況を強いられたとき、パウロはどうしたのか。彼は、自分自身に信頼すること、つまり自分自身が実行できる改善策ややり方といったものを信頼することを放棄したのです。
死を前にして、彼は手を組み神により頼み、祈ることしかなかったのです。このような状況に置かれたとき、私たちは何を思うでしょう。手を止め、静かに絶望を抱くより仕方ないと思うのです。

しかし、彼は、絶望にとらわれることはありませんでした。なぜなら、神は彼を放っては置かれませんでした。瀕死の彼をリカバリーしたものは、イエス・キリストの復活でした。絶望から救うものが、イエス・キリストであり、復活の御業にあることを発見したのです。

Ⅱコリ1:9 ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。

Ⅱコリント 新改訳聖書 いのちのことば社

パウロはなおも続けます。死者の復活させるイエス・キリストの御業は、死後永遠のいのちを与える約束だけではないことを10節で告白しています。

パウロは、8-9節で死者をも生かす神の力にのみ頼るに至るわけですが、祈りの中で、神は彼を死の危険から救い出されていくという経験から、パウロは神への信頼が強められ、今後も神は救出を与えて下さるという希望が確信に変わりました。

その発見の影に何があったのかと言えば、聖霊の力です。
聖霊は、死の影の谷を歩む時にもパウロの灯火となり、支えとなり、平安をもたらし、生命を支える基礎となっていたのです。こうして、救いは来世だけのものではなく、現世においてこそ確実なものとして、眼の前に提示されているということを、パウロは読者に力強く証ししています。

1:10 ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。

確かな希望のみなもと


パウロは何度も死の危機を味わいましたが、その危機を乗り越えました。その危機を乗り越えたのは、彼の才能や、身体的な能力ではなく、生と死を司る神なるお方への絶対的な信頼でした。

それが、7節の『望みは、動くことがありません。』ἡ ἐλπὶς ἡμῶν βεβαία へ エルピス ヘモーン ベレバイア(希望は確実)という言葉に集約されているのです。

それは、死の危機を通して、ἡ ἐλπὶς ἡμῶν βεβαία へ エルピス ヘモーン ベレバイア(希望は確実)という、いのちを司る神のご主権を発見したのです。パウロはこうした経験を通してこう書き残しています。

ピリピ  1:21
私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。

パウロは、このコリントの手紙の後、ローマ帝国の裁判を受けるためにローマに護送され、斬首刑によって刑死することになりますが、主はその活動が完了するまでパウロのいのちを支え続けました。

この主から頂いた希望というものは、決して消えることがありません。たとえ死を前にしても、いのちを与え続けているのは、主イエス・キリストです。しかも、私たちのいのちは限りあるものではない。この現世にとどまらず、来世にもつながるいのちを頂いている。

1:11 あなたがたも祈りによって、私たちを助けて協力してくださるでしょう。それは、多くの人々の祈りにより私たちに与えられた恵みについて、多くの人々が感謝をささげるようになるためです。

拡がる希望

さらには、このいのちは、信じるすべてのキリスト者に受け継がれ、今もこうして語られている。つまり、パウロを通して語られてこの福音は直接語られたコリントの教会だけでなく、過去から現在に至るすべてのクリスチャンに共有されています。キリストの十字架の苦痛は、私たちの心のなかにあり、同時に、神の慰めも受け継がれています。
パウロが苦しめば、その苦しみを知った人々はとりなしの祈りをしました。

このとりなしの祈りは、クリスチャンの特権です。知人や友人、また遠く離れたクリスチャンたちへの窮状に痛みを覚え、その痛みの解決を主に求める事ができるのは、私たちの特権でもあり、祈りは困窮している人々への力と支えになるということです。

その祈りは、祈られた方々に働き、慰めとなり、力となることで必ず解決の道に進ませてくれます。その祈りの結果を知った私たちは、感謝を捧げられるのです。

パウロは、11節でこう言います。『あなたがたも祈りによって、私たちを助けて協力してくださるでしょう。』
そこには、問題ばかり起こして、今も解決していないコリントの教会の教会員たちへの不信はありません。

パウロの信頼が見て取れます。パウロは、単に彼らの問題を叱責するのではなく、イエス・キリストの十字架により繋がれているという事実を見ているから生み出されるものでしょう。
信頼の基礎は、十字架であることをここでも教えてくれます。