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すべての人へのさばき Ⅰペテロ4章5節

Daniel BoneによるPixabayからの画像

2022年7月3日 礼拝

【新改訳改訂第3版】
Ⅰペテロ4:5
彼らは、生きている人々をも死んだ人々をも、すぐにもさばこうとしている方に対し、申し開きをしなければなりません。
οἳ ἀποδώσουσιν λόγον τῷ ἑτοίμως ἔχοντι κρῖναι ζῶντας καὶ νεκρούς.


| はじめに

前回は、クリスチャンは、度を超した欲望のとりこにならないことについて見てきました。
その生き方の背景には、キリストの聖霊の関与があることでした。
退廃した文化に彩られた古代ローマの習俗に対して、クリスチャンの生き方は、まるで禁欲主義的ととらえられていたようです。
ところが、ペテロはクリスチャンが目指す生き方は、禁欲ではなく、神の摂理とみことばに対する自然な応答であることを示します。
ところが、現世利益に基づく、度を超した欲望の文化を求める古代ローマの人々にとっては、クリスチャンの目指す生き方が理解できなかったようです。
今回のみことばでは、クリスチャンとしての生き方────クリスチャン倫理の根底には何があるのかというペテロの説明になります。

| さばくお方

Ⅰペテロ4:5 彼らは、生きている人々をも死んだ人々をも、すぐにもさばこうとしている方に対し、申し開きをしなければなりません。

ここで、気になる箇所といえば、『すぐにもさばこうとしている方』という言葉です。
『さばき』と聞くと、裁判を受けるというように思うかと思います。裁判というと、犯罪を犯すとその罰のために求刑を受ける場所と想像し、触れたくない、敬遠したいものと多くの人は考えてしまうものです。聖書のいうところの『さばき』について、私たちが想像する裁判を連想するのは、あながち間違いではないでしょう。
そういう視点で見ていきますと、『すぐにも』とありますから、聖書の神は、人間をすぐに裁判にかけて、悪者にしたがるサディスティックな神と思う人もいるかも知れません。
ここだけ見るととんでもない神とヒューマニズムを信じる人々からすればなんてひどい宗教なのだと異論が出かけない箇所に思えます。

さばきとは

では、この『さばき』ということばを別な角度から見ていきますと、ギリシャ語本文では、 κρῖναι(クリナイ)原型はκρίνω(クリノー)です。

κρίνω,v \{kree'-no}.
1) 分離する、分離する、選び出す、選択する 2) 承認する、尊敬する、好む 3) 意見を持つ、みなす、考える 4) 決定する、決意する 5) 裁く 5a) 善悪に関して意見を述べる 5a1) 裁かれる、すなわち、自分の事例を調査して判断を下すために裁判に召喚される5a1) 裁かれる、すなわち、裁判に召喚され、自分のケースが調べられ、判断されること 5b) 裁きを下す、非難を受けること 5b1) 一般生活の問題で裁判官や仲裁者の役割を果たす人、または他人の行為や言葉に判断を下す人 6) 統治すること。統治する 6a) 王や支配者が判決を下す特権であったため、裁判を下す権限を持って取り仕切る 7) 戦士や戦闘員が共に争う 7a) 争う 7b) 法医学の意味で 7b1) 法律に行く、法律で訴訟を起こす

The Online Greek Bible

さばきの二面性

『さばき』と訳されたもとの意味を見ていきますと、選り分ける、承認するという意味であることがわかります。その際に、神の判断が加わることで、結果的に裁かれるというように意味が拡大してきたことがわかります。
つまり、神の好意にあずかる者は、好意的に選ばれるが、そうでない者は裁かれるというような二面性を持つ言葉であるということがわかります。

つまり、神の好意にあずかれる者(キリストを信じる者)は、恵みであるのに対し、神からの好意を受けられない者(キリストを信じない者)はさばきにあうという二面性がクリノーにはあるということです。

神は、すべての人を愛しているはずだから、キリストを信じない者にもその愛は有効ではないのか、神は不公平だと非難を受けかねないところですが、聖書は、死後にさばきがあることを繰り返し伝えています。

死後にあるさばき

新約聖書は、現代の人々、いや、与えられた古代ローマの時代から、今に至るまで私たちに与えられた、いわば警告の書でもあります。

その概念は、極めてはっきりとしており、救われるか、救われないかの二者択一の選択しかないというものです。キリスト教をなぜ伝えるのかと言いますと、人々が救われるために神は警告を与えているからこそ、教会の存立意義があり、クリスチャンの救いの意味があるということです。

現世しかないと考えるならば、福音を伝える意味は無いでしょう。古代ローマの人々のように、犯罪に抵触しない限りにおいて、あればあるだけ自分の欲望を満たすために生きることは許されることです。

しかし、聖書の教える世界観は、現世しかないというものではありません。この世と、死後が明確に存在することが示されています。

死後の状態について

聖書は死後の状態について、一つの教理としてまとめて体系化するに足る十分な資料を与えてはいないが、その散見する資料から、人間は死後その魂は眠ることなく、意識的に存在することを教えている。不信者は苦しみと刑罰の場所に送られる(Ⅱペテロ2:9)。信者はキリストとともにおり、キリストの再臨に当って、からだの復活にあずかる。

新キリスト教辞典『死後の状態』いのちのことば社
  1. 魂は、眠ることなく意識的に存在すること

  2. 不信者は、苦しみと刑罰の場所に送られること

  3. キリストの再臨のときに信者はからだの復活があること

という死後というものについて、聖書は明確な基準を私たちに示しています。

限定のないさばき

ペテロに限らないのですが、聖書は一貫して、すべての人が裁かれることを示唆しています。新約聖書において神のさばきは強調されており、

  1. 来るべき日に全世界がさばかれること
    (マタ25:14‐30,使17:31,ロマ2:16,ヘブ9:27等)

  2. 神はすべての人への裁き主であること(ヘブ12:23)

  3. 裁きはイエス・キリストを通して行われること(ヨハ5:22,27)

  4. キリストの十字架において私たちの罪は完全にさばかれた
    (イザ53:4‐6,ヨハ1:29,ヘブ10:1‐4)

  5. イエスの復活によって事実であることが証明された(使17:31)

『生きている人々をも死んだ人々をも』さばくとした、ペテロの言葉は、死者も生きている人も、救われている人もそうでない人も、あらゆる人が神のさばきの対象であることです。

| 神の法廷での弁明

4:5 彼らは、生きている人々をも死んだ人々をも、すぐにもさばこうとしている方に対し、申し開きをしなければなりません。

 こうして、死後明らかになっているのは、私たちは、神の法廷に立って、『申し開きをしなければなりません。』ということです。
それは、先にも言った通り、信徒であろうがなかろうが、過去の人であろうとも、すべての人は神の前に進み出て一人ひとり弁明をしなければならないことです。有能な弁護士であれば、自分に対する罪状を詳細に反証できるかも知れません。一方、口下手で引っ込み思案な人であったらどうでしょうか。反論すら不可能でしょう。

神の法廷の場に立たされて、私たちは自分たちのしてきたことの一切合切をモニターに映し出されて、そうした罪に対する弁明をしなければならないとしたらどうでしょうか。
反論すらできないことでしょう。

事実、『ロマ 3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、』とありますから、神の法廷の場に立たされて、いかに有能な弁護士であっても、自身の罪に対しては何ら効力はありません。

一方的に有罪です。クリスチャンであろうが、なかろうが有罪なのです。

| 死後の法廷の意味

こうした死後の法廷の価値に何の意味があるのだろうかと思います。すべての人が有罪なら、法廷を開くまでもない。そのまま、刑罰に向かわせて当然ではないかと思います。

ところで、法廷が開かれる意味とは何であるのかということです。
法廷が開かれるのは、私たちが単に有罪であることを示す場ではないということです。死後の法廷が開かれる意味は、キリストの十字架による救いの確かさとキリストの栄光が示されることにあります。

イエス・キリストは神の子であり、その言葉、行いにおいては罪は無かったのですが、人々の罪と妬みによって十字架に架けられて非業の死を遂げるという最後を迎えます。それは、神の永遠の計画であったと聖書は記しますが、イエスの生涯を見ていきますとこれほど報われない人生はなかったと思います。彼の人生のすべてを見ていきますと、家畜小屋で生を受け、十字架刑という奴隷が受ける死刑によって虐げられ、人として見なされない死を迎えたということで、貧者、弱者を極めた人生でした。

誰も喜ばないし、誰も見ようともしないイエスの人生でありましたが、死からよみがえったことで、その人生には意味があり、貧しさであるとか弱者であることが決して幸・不幸を決定するものではないことを復活によって示したのと同様に、死後の法廷においても、イエス・キリストは神であること、また、信じる者には、罪に定めないこと、また、永遠のいのちと神の子としての特権を付与するお方であることを示すことによって、神としての栄光を表すのです。

死後の法廷で、クリスチャンは罪によってうなだれることはありません。

判事である神は、私たちにこう述べるでしょう。

Not Guilty in the name of the Lord Jesus Christ.
主イエス・キリストの名において無罪とする

そこで、私たちは何を見るのでしょうか。
私たちは、歓喜のあまりすぐに賛美を始めるのです。

| すぐに招こうとしておられる

Ⅰペテロ4:5 彼らは、生きている人々をも死んだ人々をも、すぐにもさばこうとしている方に対し、申し開きをしなければなりません。

こうして、さばきについて見てきましたが、
さばきは、すべての人が受けること、また、救いと滅びの厳粛な選別があること。裁きの目的はイエス・キリストの栄光が表されることにありました。

ところで、『さばき』というと私たちは、恐ろしいものと思いがちです。
聖書の訳も本当にそれで良いのかと私自身は思うのですが、
少なくとも、クリスチャンにとっては、さばきは恐ろしいものではないことは事実のようです。

むしろ、賛美すべきことであり、キリストの栄光のうちに私たちが存在するすることの確認として『さばき』があるということです。

そうした、神の栄光の中に加われる恵みを神は『すぐに』求めている。
この『すぐに』と訳された言葉は、『準備している』という意味がありますから、私たちのために祝宴まで用意していると考えられる言葉です。

どうしても、未信者に対する恐怖を抱かせる言葉に捉えられがちな『さばき』という言葉は、クリスチャンにとっては、神の祝福への招きの言葉として受け止めるべきではないでしょうか。

クリスチャンの生き方の根底には、『さばき』への恐怖によって正しい行いをするということではありません。
私たちの生き方の根底には『罪が赦されたことへの喜びと、神の祝福に選ばれている感謝』が中心であるということです。

もし、あなた方が、さばくお方だということで神をビクビクしておそれ、恐怖に囚われて信仰生活をしていたとしたら、周囲の人はどう思うでしょうか。教会は窮屈で、厄介なところだと思いかねないでしょう。
そういう姿を見て、人々は教会に招かれるでしょうか。
私たちの神は、主イエス・キリストを私たちにプレゼントするまでに私たちを愛してやまないお方です。私たちがビクビクしながら受け取るプレゼントではありません。
愛する子に対して喜んで贈ろうとしている神であることをおぼえてください。

また、未信者の方も今、神は祝福への門戸を開き、あなたに、主イエス・キリストをプレゼントしたい、救われることを招いておられるそういう神であることをおぼえていただきたいと思うのです。