長老たちへの懇願───イエスの型になる Ⅰペテロ5章3節
タイトル:Alex YomareによるPixabayからの画像
2023年4月30日 礼拝
Ⅰペテロの手紙
5:3 あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。
μηδ' ὡς κατακυριεύοντες τῶν κλήρων ἀλλὰ τύποι γινόμενοι τοῦ ποιμνίου:
はじめに
迫害のもとにある教会の長老の責任と役割について前回ご紹介しました。それは、殉教の最前線に立つ長老の立場というものがいかなるものであるのか、また指導者というものが、一体どのようなものに立脚しているのかという点について語ってきました。
それは、キリストの十字架に立つことが指導者たる基本であることでした。今回は、指導者としてのあり方について語ります。
カルト化してしまう傾向
支配するのではなくという訳を検証すると
今回の聖句をギリシャ語で見ていきますと、次のようになります。
μηδ' ὡς κατακυριεύοντες τῶν κλήρων ἀλλὰ τύποι γινόμενοι τοῦ ποιμνίου:(メーデ ホース カタキュリエウンテス トーン クレーローン アンラ トゥポイ ギノメノイ トゥー ポイムニウー)
ここで目につくのは、κατακυριεύοντες(カタキュリエウンテス)という言葉でしょう。
原型はカタキュリエウオー。カタ「下に、に従って」という接頭辞にキュリエウオーという言葉が組み合わさった言葉です。キュリエウオーは、『誰かの支配者になる、何かを支配する、征服する、占有する』という意味がありますから、
カタキュリエウオーとは、『完全な管轄権を持つ所有者として(下に)決定的な支配権を行使する;(受動)完全に主人に従う;それを支配すること。』と意味になります。
ここでは、能動態ですから、『完全な管轄権を持つ所有者として(下に)決定的な支配権を行使する』という意味になりますから、単に『支配する』ということ以上に、人を奴隷扱いするということになる意味に取れます。
割り当てられている人たち
次に、新改訳聖書では、「割り当てられている人たち」と訳されている単語は、κλήρων(クレーローン)、原型はクレーロスという単語になります
このクレーロスは、「くじを引く」という意味がそのもとになります。ユダヤ教において、古来から神の御心を探るために「くじ引き」が行われました。
大祭司が着たエポデの付属品にウリムとトンミムがあります。
(出28:30,レビ8:8)
このウリムとトンミムは、神の御心を知るために用いられました。(民27:21,エズ2:63,ネヘ7:65)
くじ引きにおいて、異教的な解釈が加わりそうな時には、神は答を差し控えられました(申18:9‐14,Ⅰサム14:37,28:6)
他方、御自身の支配力をあかしするために、神は異教のくじ引きや占いにも答をお与えになったことがあります。(エゼ21:21,ヨナ1:7)
四福音書にはイエスの衣のくじ引きが詩22:18の成就として記されています。使1:26において、イスカリオテのユダが死んで後、欠けた十二使徒を補うために行われたくじ引きにおいても、神の圧倒的な支配を現すために行われました(箴16:33)
民主的に選ばれる現代とは違って、くじ引きという、ある意味運任せで、前時代的に思われる選択の方法ですが、派閥の数が物を言う民主政が果たして公正かと言いますと、そうとも言えず、実力が拮抗している人を選ぶ際には、「くじ引き」という手法は、選択が困難な際には、合理的な手段であったことでしょう。
こうして、「クレーロス」という言葉を見ていきましたが、「割り当てられている人たち」というのは、文脈から推測しますと、「教会の信徒」という意味に取れますが、そこには、「神によって選び分たれた者たち」という意味が込められていることがわかります。
支配者になってはいけない
こうした単語の意味を捉えていきますと、長老(教会のリーダー)という存在は、教会の支配者という立場になってはいけないということです。
長老という存在は、信徒を見守ることとともに、教えることが長老の望ましい姿とされています。(Ⅰテモテ5:17)
原始教会において、使徒や預言者、教師らが、巡回する教会に対して奉仕することができなくなるにつれ、教えることと宣べ伝えることは地域の長老たちの役目になっていきました。
そうなるとどういうことになるのかといいますと、地域の長老の権威が増大するとともに、巡回が無くなることで外部からの目が入らなくなってしまいます。外部からの目がなくなると、教会のカルト化が進む傾向になりがちです。
通信手段や交通手段に乏しい原始教会の時代、教会がその目的を忘れ、教会が神より選ばれた人の集まりではなく、長老のための教会になりやすい現実があったことでしょう。
教会がカルト化していきますと、どうなるかといいますと、その教会に立てられた指導者である牧師の権威が絶対化されていく傾向があります。
酷いことになりますと、信徒に恐怖心を与える、外部との交流や情報を制限する事により、社会的にも孤立していくことになります。こうして、自分たちの教会や組織だけが唯一正しいというようになります。その教会のトップである長老は絶対的な権威を持ち、神の名前を都合良く用いて長老の命令に絶対服従を求めるようになるといったことがあったことでしょう。
当時から、ペテロは教会のカルト化を危惧していたようでもあります。
従わせるのではなくて、型になること
Ⅰペテロの手紙5:3
あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。
教会の規模は拡大し、また、迫害のもとにあって、巡回できる人員が削られていく、通信手段が限られていくとなると、どの教会も孤立にさいなまれていたことがこうした句からも見ることができます。
孤立を深めると、今度はどうなるかといいますと、カルト化が進行するという結果になりますが、こうした状況にあって、ペテロが勧めることは、「むしろ群れの模範となりなさい。」ということでした。
ここで、「模範」という言葉ができてきますが、本文ではτύποι(トゥポイ)という言葉になります。トゥポイの原型はトゥポス。英語のタイプの語源になります。
つまり、型(タイプ)という意味になる言葉です。「模範」と聞くと私たちはすぐに良い行いをする人というように考えてしまうものですが
──────もちろん、そうした意味も含んでいますが
それ以上にトゥポスという言葉には、神学的な意味が込められていることを考慮しなければなりません。
タイプとアンチタイプ
トゥポスという単語は、はもともとスタンプのように打刻した印を指し、その意味が拡大して、コピーやパターンを示す意味となり、今ではタイプライターを示す単語となっております。
神学的な意味における、トゥポスという言葉は、型(タイプ)を示す言葉であります。
以下に聖書神学における型(タイプ)と対型(アンチタイプ)を紹介します。
(1)二人のアダムの例
ここでは、キリストが対型(アンチタイプ)であり、アダムが型(タイプ)となります。罪による死が一人の男アダムを通して世界に入り、全人類を呪われたように、命は一人の男イエスを通して世界に入り、信じるすべての人が救われるようになりました。
第一のアダムは、第二のアダムであるイエスによって成就された型(タイプ)です。
(2)青銅の蛇と十字架の例
出エジプトの際、イスラエル人が砂漠で神に反逆した時、神はユダヤ人の間に毒ヘビを送り、多くの人が噛まれて死んだという記事があります。
モーセのとりなしの祈りによって、主は救いを与えてくれたのですが、その救いとは、青銅の蛇を仰ぎ見るというものでした。
これは後の主イエスの十字架の予表となった記事です。
主ご自身も、モーセの青銅の蛇について言及してます。
ここでは、青銅の蛇が型(タイプ)であり、十字架が対型(アンチタイプ)となっています。
(3)旧約聖書は型(タイプ)であり、新約聖書は対型(タイプ)
聖書では、タイプはアンチタイプの「影」と呼ばれることがあります(ヘブル人への手紙 10:1 )。このように、旧約聖書の型(タイプ)は、新約聖書のそれらの対型(アンチタイプ)という栄光の影でしかないものです。
聖書には多くの型(タイプ)と対型(アンチタイプ)を見つけることができます。
例として、ヨナが魚に飲み込まれて、三日三晩魚の腹で過ごした時間は、イエスが墓で過ごした時間を表しています。魚の腹で過ごした時間がタイプ、墓の中に葬られた時間がアンチタイプとなります。
さらに、タイプとアンチタイプは、人、出来事、儀式、神殿、祭司 、さらには山や革などの場所である場合もあります。いけにえの子羊はイエスのいけにえの予表であり、エジプトでの奴隷は罪への奴隷を予表しており、ノアの洪水はペテロによってバプテスマの水の比喩として使われています (1 ペテロ 3:20–21 )。
旧約聖書のすべてのものを型(タイプ)として解釈できるわけではありませんが、旧約聖書の多くの記事が、来るべき対型(アンチタイプ)の予言として意図されていたことを聖書は明らかにしています。
群れの型として
こうして、「模範」と訳されたトゥポスを見てきましたが、単に長老は信徒の模範になるだけの存在ではないようです。
新約聖書と旧約聖書との関係、子羊と表現されるイエス・キリストとの関係を見ていきますと、そこには、「型と対型」の関係を想定しなければならないということです。
型とは何か。それは「長老」を指します。では、対型とは一体何であるのかそれは、「群れ」ということになります。
つまり、長老というのは、群れの型(タイプ)であるということです。
群れの型(タイプ)であるということを考えていきますと、責任は重いです。長老は群れを予表していると考えていきますと本当に重大な責任を負っていると考えてもおかしくないでしょう。
長老が教会を私物化してしまうとすれば、教会員も長老の私物化に加担してしまうということに繋がりかねない意味を持ってくるのです。ですから、長老ならびに教会の指導者として立たされている者たちの責任は非常に重大だということです。
型はイエス・キリストであること
先に、「くじを引く」クレーロスという言葉を見てきましたが、単に軽い気持ちでくじを引いたのではなかったようです。神がお決めになるという厳粛さをもって行われたようです。つまり、『割り当てられた人たち』という言葉に訳されていますが、クリスチャンという存在は、神の気まぐれによって呼ばれたものではなく、神の厳粛な選びによって委ねられた人々というように訳すべきかと思います。こうした人々を委ねられた長老は、彼らの型となるわけですから、当然、そのあり方については注意をしなければならないということです。
ここでは、 τύποι γινόμενοι τοῦ ποιμνίου:(トゥーポイ ギノメノイ トゥー ポイムニウー)とありますから、『群れの型になる』という直訳になろうかと思います。
直接的には、対型(アンチタイプ)は『群れ』になるところですが、先ほど挙げた『タイプ』と『アンチタイプ』の法則をもとに考えていきますと、型は『長老』、対型は『イエス・キリスト』にならないといけないものです。
つまり、長老は、『イエス・キリスト』の型であって、来るべき再臨のイエス・キリストを体現したものでなければならないことです。
そのイエス・キリストを体現するためには、決して信徒を支配する、教会を私物化していいということは決して無いはずです。
長老(教会のリーダー)は、まさに、バプテスマのヨハネを目指す存在であるべきかと思います。バプテスマのヨハネは、自分の弟子たちがイエスのもとに向かった時に、自分の弟子たちに向かって、イエスのもとに行ってはいけないと制止したことは決してありませんでした。
むしろ、『 あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。』とヨハネの福音書3:30で述べました。バプテスマのヨハネは、イエス・キリストの型でありました。同様に、長老、牧師、教会のリーダーもイエス・キリストの型(タイプ)であることをわきまえて、支配する者でないように心新たにしていきたいものです。
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