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ペテロ第一の手紙 2章15節     神のみこころとはなにか



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頽廃が普遍の価値


神は、この箇所で、クリスチャンが善を行うことで、当時のローマ人たちの無知からくる誤解や批判を封じなさいという意味になります。

ローマ世界の習慣に染まろうとしない、与しないクリスチャンたちに対してローマ人たちは誤解し、あげくは批判を加えていきました。批判するならまだしも、死刑にまで発展していったのは、先のノートに述べたとおりです。クリスチャンに対する誤解は、当時のローマ世界の習慣からはるかに逸脱したものだったからです。ところで、当時のローマ世界の常識とはどういうものであったのかといいますと、下記に示したガラテヤ書の節が参考になります。

ガラテヤ5:19 -20 肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

肉の行いとパウロは記述しておりますが、これは、当時のローマ世界ではごく普通に行われていた社会生活の基準でした。淫行がごく日常で普通に行われていました。

私たちの基準からすると、下品な情欲に満ちた世界であると思うような基準が普通であり、普遍的な地中海世界の生き方でした。

文献やポンペイ遺跡の発掘調査からわかることは、私たちが生きている時代の倫理観とは全くことなる文化のもとで生きていたことがわかります。なぜ、こうした考えで行動していたのかといいますと、人々の平均寿命が30歳前後のこの時代、飲んで楽しんで、人生を満喫しようということが目的でありました。

人生を謳歌し、快楽を追求することが善であったわけです。人々は、快楽追求・自己中心の人生にたいして疑問をもつことなく、これが人生で受ける分であると考えておりましたから、淫行の何がおかしい、遊興の何がおかしい、当然の権利ではないかと思っていたようです。

パウロが快楽中心・自己中心的な人生を善とする考えを伝道活動において批判するまでは、人々は問題すら感じていなかったわけです。こうしたローマ世界において一石を投じたのが、パウロであり、ペテロ、キリスト教であったわけです。先のみことばに続く節を見ていきますと、

ガラテヤ5:22-24 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。

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とありますが、ローマ世界の基準が、自己の欲望の追求を善とした場合、クリスチャンは、そうした価値観とは全く逆の価値観をローマ世界にもたらしたわけです。その価値観の転換をもたらしたのが、イエス・キリストの十字架でした。イエス・キリストは、自分の快楽や栄誉といった自分が良くなることを追い求めることではなく、むしろ、そうした自分の価値になるものすべてを十字架上につけて、自分を人々の救いのために提供したのです。彼の生き方は、聖書の使徒の働きに示されておりますが、

使徒の働き 20:35  このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」

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私たちのためにすべてをなげうったイエス


主イエスは、自分がこの世で受ける人間としての当然の幸福や快楽、権利といったものすべてをなげうち、『受けるよりも与えるほうが幸いである』とのみことばを実践してきたお方でした。そうした、主の犠牲により、私たちの救いがもたらされ、永遠のいのち、神の子とされる権利、罪の赦しといった神の約束を手に入れているのです。

一方、当時のローマ世界はと言いますと、『与えるよりも受けるほうが幸いである』という生き方が規範でした。それは、パウロがガラテヤ5:19 -20の『肉の行い』そのものであったわけです。

ですから、イエス・キリストのことばは、ローマ世界の常識をひっくり返すものであり、快楽や自己追求を生きがいとするローマ人にとって自制や遊興を否定するキリスト教に対して反発を引き起こすのは必至でした。

反発を引きおこすだけ、当時のクリスチャンのキリストに倣う生き方はある意味強烈でもあり、ローマの慣習に入らないという、分離の姿勢は当然強いものだった思えます。逆に言えば、それだけ、クリスチャンはこの世との分離というものを進め、この世と妥協しないという姿勢が鮮明であったわけです。

第一ペテロ 2:15
 というのは、善を行って、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。  

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神のみこころ


さて、もう一度今第一ペテロ2:15節を見ていきますと、『神のみこころ』を(ト・セレマ・トゥー・セオー)とギリシャ語では発音します。

日本語や英語では伝わってこない音の響きが伴っていることを感じると思います。私自身、「みこころ」というと、掴みどころのない言葉だと、信仰を持ってしばらくしてまで感じていました。先輩のクリスチャンに聞いても、みこころとは何でしょうか。と尋ねてみても、具体的な返答がなかったことを思い出します。

また「みこころ」とは何かと論ずる著作を読んでみたが、逆にわからなくなってしまったものでした。簡単に思えて、説明しにくいものがこの世にはたくさんありますが、その最たるものが、「みこころ」ではないかと思います。ここで、ペテロは、クリスチャンに対して、善を行うことが『みこころ』であると示しているのであります。

先に述べたとおり、当時のローマ世界の善と、クリスチャンの善はどう違うのかを説明しましたが、本質において全く異なるものであることが理解されたかと思います。

● 異邦人の善
 肉にある生き方 ⇒ 自己追求
● クリスチャンの善
 御霊にある生き方 ⇒ 神のみこころの追求

みこころとは何か?


では、聖書が示す「みこころ」は具体的に何であるのかというと、

ガラテヤ2:22 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

ということになります。その行いの根本にあるものは、『キリストの十字架』です。キリストの十字架を追い求めること、これが、「みこころ」の本質であり、中心であるわけです。

キリストの十字架を担ったクリスチャンたちは、今までの肉にある生き方が変えられ、新しい御霊の生き方に変革されました。こうした救いによる変革は、品行においても、倫理においても一般のローマ帝国の人々以上の高い水準を示したわけです。こうしてローマ市民の退廃ぶりや、堕落しているということが明瞭に示されたわけです。

ここで、重要なことは何であるのかと言いますと、それは、分離です。世の基準と、神が求める基準の違いは何であるのかということを常に考えるということです。世が許容していることであっても、神はそうした基準を望んでいるのかどうかを見極めなければなりません。分離とは、神の基準を意志によって選ぶことです。世の基準を選ぶことは堕落ということになります。

私たちは、様々な選択において、神の意志がどこにあるのかを吟味せずに自分の趣味趣向や弱さによって選択を間違えることが多いのではないでしょうか。選択を間違えると大きな問題につながります。その問題とは、『善』の問題です。

ἀγαθοποιοῦντας  (アガソポイウーンタス)                    ἀγαθοποιέω、v \ {ag-ath-op-oy-eh'-o}
1)善を行う、b)誰かに恩恵を与える1c)利益を得る2)善を行う、正しく行う
agathopoiéō(18 /agathós、「本質的に良い」および4160 /poiéō、「する、作る」から)–正しく、神に触発され、力を与えられているので、本質的に良いことをする(マルコ3:4;ルカ6: 9,35; 1ペテ2:15,20,36,17; 3ヨハネ11)

『善』とありますが、そのギリシャ語の意味には、「善を行う」のほかに「誰かに恩恵を与える、助けになる」という意味を持ちます。

私たちがその選択を間違えてしまえば、人の助けにもなりませんし、恩恵を与え損なうということにつながるのです。本来ならば、人々の恩恵を与える存在であるはずであったのにも関わらず、逆に人の不利益や害悪をもたらすものになってはならないはずです。

当時のクリスチャンたちは、キリストにならうことで、一面的には、享楽主義的なローマ人たちの反発を受け、迫害を生みました。

他方、彼らは自分たちの十字架を鮮明にすることで、自己中心的・享楽的な人生の問題を明らかにし、解決はイエス・キリストにあることを示したことで、人々に救いと社会の変革をもたらしたわけです。そこには、世との徹底的な分離がありました。

分離というと世捨て人のように思われますが、そうではありません。人と関わり、世の人々を救いの道を示す生き方です。マタイの福音書にこうあります。

マタイの福音書5:13-14 あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。
あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

わたしたちは、こうしたマタイの福音書にしるされているように、「地の塩、世の光」としての生き方を目指さなければなりません。

この世と調子をあわせて、この世のあり方に染まるべきではありません。神のみこころはなんであるのか、神はどう思っているのかということを選択し、そこでたたかうことがあるのあらば、たたかわなければならないのです。

この世と戦うことはつらく、悲しいことも生じることがあるでしょう。また、友と別れることもあるかも知れません。しかし、私たちは、こうしたつらいことにあったとしても、神は、かならず良きことに向かわせてくださると信じて歩みだしましょう。ἀγαθοποιοῦντας(アガソポイウーンタス)『善』のことばの意味のなかにこうしたことが書かれていました。

クリスチャンは、聖霊によって触発され、力を与えられているので、本質的に良いことをするように変えられている。(マルコ3:4;ルカ6: 9,35; 1ペテ2:15,20,36,17; 3ヨハネ11)という意味がある。

 クリスチャンとしての矜持を保つというように自分の意志を強く持つことが言われているだけではないということです。

意志の強いクリスチャンだったらできるが、意志の弱いクリスチャンは、妥協してしまうのかということです。そうではないことが、アガソポイウーンタス『善』と訳されることばのなかにあります。自分の意志だけではない、神の御霊によって私たちは歩むようにされているということです。

 私たちは、自我というものを抑え込めれば、神の御霊に従って歩むことはたやすいのです。自分は意志が弱いと思っている方がいるかもしれません。

実は、意志が弱いのではなく、自分の自我が強いのかもしれません。自分を振り返れば、そうだったと思い返すことが多々あります。御霊に自分の主導権を委ねる。このことが、私たちの歩むべき道です。そのことが、私たちの『善』であることを覚えて歩んでまいりましょう。

適 用


  1. 自己追求から神の追求へ:
    当時のローマ帝国の倫理観は自己の欲望の追求を善としましたが、クリスチャンは神のみこころの追求を善としました。これは、自分自身の欲望や快楽を追求するのではなく、神の意志や目的を追求する生き方を意味します。日常生活においても、自分の欲望や快楽を追求するのではなく、神の意志を追求する行動をとることを心がけましょう。

  2. 世の基準から神の基準へ
    世の基準と神の基準はしばしば異なります。世が許容していることであっても、それが神の望むことであるとは限りません。日常生活においても、行動をとる前には、その行動が神の望むことであるかどうかを考え、神の基準に従うことを選びましょう。

  3. 自我の抑制と御霊の導きを求めましょう
    自我が強いと、神の御霊に従って歩むことは難しくなります。自我を抑制し、神の御霊に自分の主導権を委ねることが重要です。日常生活においても、自分の欲望や意志を抑制し、神の御霊の導きに従うことを心がけましょう。

今回は、ローマ帝国の倫理観とキリスト教の倫理観の違いを理解し、それを日常生活に適用するためのものです。神のみこころを追求し、神の基準に従い、神の御霊の導きに従うことで、真の「善」を行うことができるでしょう。これが、私たちが歩むべき道です。神のみこころを追求し続けることを心がけてください。神の恵みがあなたと共にありますように。


ギリシャ語本文

ὅτι οὕτως ἐστὶν τὸ θέλημα τοῦ θεοῦ, ἀγαθοποιοῦντας φιμοῦν τὴν τῶν ἀφρόνων ἀνθρώπων ἀγνωσίαν:                   ホティ フートス エスティン ト セレマ トゥー セオー、アガソポイウーンタス フィムーン テーン トーン アフロノーン アンスローポーン アグノーシアン 

聖書対訳

 というのは、善を行って、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです 新改訳改訂第3版 第一ペテロ 2:15                                   

それは、正しいことをすることによって、愚かな人の無知を沈黙させることができるという神の意志です。(NASB)

ギリシャ語単語

θέλημα                             {thel'-ay-mah}1)人が望むまたは決定したことは1a)キリストを通して人類を祝福するという神の目的の1b)神が私たちによってなされることを望んでいることの1b1)命令、戒律2)意志、選択、傾向、欲望、喜び    thélēma(2309 /thélōから、「欲望、願い」)–正しくは、欲望(願い)、通常は神の「優先意志」を指す–受け入れたり拒否したりできる人々への神の「最高の申し出」。[-ma接尾辞は、特定の欲求(願い)で期待される結果を指す。 (セレマ)は時々人間の欲望(願い)に使われるが(ルカ23:25;ヨハネ1:13を参照)、ほとんどの場合、神の好ましい意志を指す。

ἀγαθοποιοῦντας                      ἀγαθοποιέω、v \ {ag-ath-op-oy-eh'-o}
1)善を行う、b)誰かに恩恵を与える1c)利益を得る2)善を行う、正しく行う
agathopoiéō(18 /agathós、「本質的に良い」および4160 /poiéō、「する、作る」から)–正しく、神に触発され、力を与えられているので、本質的に良いことをする(マルコ3:4;ルカ6: 9,35; 1ペテ2:15,20,36,17; 3ヨハネ11)

φιμοῦν                             φιμόω、v \ {fee-mo'-o}
1)銃口で口を閉じる、銃口に2) 2a)口を止め、無言にし、沈黙させる2b)無言になる3)抑制する

ἀφρόνων                            ἄφρων,a \{af'-rone}
1)理由なし2)無意味、愚か、愚か3)反省や知性なし、無謀に行動する (aphrōn)は、しっかりした(内向きの)視点の欠如から生じる無責任な行動を説明しています。
ルカ12:20:「しかし、神は彼に言われた、 『あなたはばかだ!今夜、あなたの魂はあなたに求められている。そして今、あなたが用意したものを誰が所有するのか』(NASB)                      エペソ5:17:「それなら、愚かなことはしないでください。しかし、主の意志(セレマ)が何であるかを理解してください」(NASB)。
G. K.チェスタートン(1874-1936:「信仰を持っている人は、殉教者であるだけでなく、愚か者と見なされる準備をしなければなりません。」

ἀγνωσίαν               
ἀγνωσία,n \{ag-no-see'-ah}
1)知らない、無知