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ザカリヤとエリサベツへの奇蹟     2021年アドベント 第2週

聖書箇所 ルカによる福音書 1章5節-25節 57節-80節

はじめに


今朝は、バプテスマのヨハネの誕生にまつわるメッセージをいたします。バプテスマのヨハネは、救い主イエスの訪れを告げる存在として評価されております。そのヨハネの誕生について見ていきましょう。

ザカリヤとエリサベツの悩み

 ルカ福音書は、その6節にザカリアとエリサベツ夫婦が「ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行っていた。」と記しています。ところが、7節に「エリサベツは不妊の女だったので、彼らには子がなく、ふたりとももう年をとっていた。」とあります。
 子宝に恵まれることは、神からの祝福と信じていたイスラエルの人々にとって、子供がないことは、家系が断絶することを意味します。それは、なぜかといいますと、聖書全体が家系の形式で歴史の描写をしている形跡があります。(創世記5:1‐32,11:10‐32,マタイによる福音書1:1‐17等)また、ユダヤ人にとって、家系を明らかにしておくことは、神に選ばれた民であることの身元確認のために必要でした。(エズラ記2:59)

エズラ記2:59
次の人々は、テル・メラフ、テル・ハルシャ、ケルブ、アダン、イメルから引き揚げて来たが、自分たちの先祖の家系と血統がイスラエル人であったかどうかを、証明することができなかった。

新改訳改訂第3版 いのちのことば社

ユダヤ人にとって、家系というのは、神の啓示の具体的な土台でありました。歴史の中で神の約束にあずかるには、アブラハムの子孫でなければならないのです。(詩篇105:6,イザヤ書41:8)

詩篇105:6
主のしもべアブラハムのすえよ。主に選ばれた者、ヤコブの子らよ。

新改訳改訂第3版 いのちのことば社

イザヤ書41:8
しかし、わたしのしもべ、イスラエルよ。わたしが選んだヤコブ、わたしの友、アブラハムのすえよ。

新改訳改訂第3版 いのちのことば社

つまり、家系が断絶することは、ユダヤ人にとってそのアイデンティティーの喪失を意味することでもあり、祝福を失うことでした。それは寂しさや、望みがかなえられないといった苦しみだけでなく、ユダヤ人として恥ずべきことでした。ですから、ザカリヤとエリサベツにとって、子供がないということは、その信仰が立派であり、信仰深いということがあったとしても、子供がないという事実は、祝福がない夫婦と周囲には思われていたであろうと思われます。子供がいないということは、二人の心に深刻な傷を負わせていたことを想像できるでしょう。

ところで、聖書において、不妊の女性がしばしば登場します。アブラハムとサラ、イサクとリベカ、ヤコブとラケル、エルカナとハンナなどの多くの夫婦が不妊に苦しんでいたことが記されております。
旧約聖書では、女性に子供が与えられないことは祝福されないしるしと考えられていました。(創30:1,Ⅰサム1:5等)

しかし、聖書のどこを見ても不妊は神ののろいとは記されてはおりません。ところが、ユダヤ人たちは、神が伝えたことばを曲解し、子供が与えられないこと、家系の断絶、すなわち『神ののろい』として受け取ってしまっていたようです。ユダヤ人だけでなく、私たちにも人間的に不幸と思えることが『神ののろい』として受け取る傾向が強くあります。聖書はむしろ、不幸に思える出来事の背後にも、神の慈悲に満ちた深いご計画があることを伝えている書物であることです。しかし、聖書の指針が恵みであるのにも関わらず、先入観でもって、聖書を理解しようとするのが私たち、罪人の認識なのです。こうした誤認を私たちは修正しなければいけません。

おそらくは、ザカリヤとエリサベツの二人は、神ののろいを受けているという誤解を覚えたに違いありません。二人は、なんとかして子供を与えていただきたいと何度も神に祈ったことでしょう。しかし、時というのは残酷で、老いは確実に二人に忍び寄ります。長年の願いもかなわず、神の前で正しい行いを続け、誰よりも信心深い二人が祝福されずに老年に達していました。「信心深くても、子供がいなければね。」という周囲の心無い声もあったに違いありません。しかし、そうした陰の言葉に対しても、二人はユダヤ人としてのアイデンティティーの喪失を苦しみをもって受け入れるよりほかありませんでした。はっきり言えば、ザカリヤ夫妻は、ユダヤ人社会において、死亡宣告を受けたに等しいと私は考えます。

 こうして、子供を授かることに絶望し、静かに神の御心として不妊を受け入れるより他のない老境の二人に、神がご介入してくださいます。ここで、奇跡がおこります。老人のエリサベツは神によって身ごもるのです。(ルカ1:24)

ルカ による福音書1:24
その後、妻エリサベツはみごもり、五か月の間引きこもって、こう言った。

新改訳改訂第3版 いのちのことば社

 神の御業によってエリサベツの胎に宿った子が、バプテスマのヨハネです。バプテスマのヨハネは、子を授かることが絶望的であった老人の二人に、与えられた子供でした。その意味でバプテスマのヨハネは、神の祝福を担う者として生まれるとともに、神は恵まれない聖徒たちに眼差しを向け続けていることをザカリヤとエリサベツの奇跡を通してを示しているのです。

 祝福を受けられない、祝福はどこにあるのだろうか、神はいるのだろうかと苦悩している方がいるでしょう。ここで、知っていただきたいことは、苦悩する者たちすべてに、神は、祝福をもたらそうとしている事実です。

 絶望する者にこそ、神は祝福を備えられているという証明としてヨハネの受胎があるということです。たとえ、人間には不可能であるとしても、神はかならず可能にする偉大なお方であることを、ザカリヤとエリサベツに与えられた奇蹟は物語ります。

奇蹟を認められない人々

 話は前後しますが、ザカリヤは、エリサベツに子供が生まれることが御使いから告げられます。彼は、信仰の深い、神の前に正しい人として記されていますが、突如として現れた御使いの受胎告知に対して信じるどころか、すでに二人とも年をとっているので、子供が生まれることなどあろうはずがないし、いくら御使いが告げていたとしても、信じることはできないと思いました。

ルカ1:18
そこで、ザカリヤは御使いに言った。「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。」

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 歳を重ねますと、考えも融通が利かなくなります。若いときのように柔軟でなくなり、固定化していくものです。ザカリヤもそうでした。神の定めを落ち度なく行うということは、決められたことを正しく行うことが常識とするユダヤ教社会において、今まで生きてきた経験や常識というフレームに照らし合わせて物事を考えるのは当然のことであったでしょう。ですから、御使いに妻の超高齢出産を告げられた際、そんなことが起こるはずがないというのは、率直な気持ちであったでしょう。神を信じる中に奇蹟があるということもあると信じているとしても、自分には起こらない、あるはずがないと思うのも当然です。神を信じているとはいっても、奇蹟ということに関しては、いつしか建前になってしまう信仰者の代表としての姿をザカリヤに見ます。
 
 その不信ゆえに、ザカリヤはヨハネの誕生まで言葉を話すことができなくなります。奇蹟よりも常識を優先させることは、ザカリヤだけではありません。1章59節を見ますと、「さて八日目に、人々は幼子に割礼するためにやって来て、幼子を父の名にちなんでザカリヤと名づけようとしたが、」とあります。家系を尊重するイスラエルの人々にとって、父の名を取るのは常識でした。

 しかし、エリサベツはヨハネと名付けると拒否します。しかし、人々は、納得せず、ザカリヤにすべきだと親族は言いました。奇蹟としか言いようのないエリサベツの超高齢出産にあっても、人々は、御使いが示したヨハネという名を付けること以上に、慣習であるとか、常識を優先させるのです。
時として、神は私たち人間の思いや考えを超えて働かれます。しかし、私たちは、この神のはたらきを神のはたらきとして認めることができません。神の具体的な出現というものは、私たちが当たり前と考えていることに反してはたらかれるからです。しばしば、私たちは、常識や私たちの思考の中に神を押し留めてしまう、これが、ザカリヤやわたしたちの姿です。

常識によって神を見失うこと

 ところで、古代パレスチナでは、名前は単なる呼称ではなく、その人の生き方や存在意義、使命を表すものでした。ですから、神から特別な使命を受けた人は名前を変えるという例が聖書に見られます。

 イスラエル人にとっては、十二部族のうちの一部族に属する者として、神との契約にあずかり、祝福を受けることは非常に重要ですので、その部族を特徴づける名前を受け継ぐことがよく行なわれていました。ですから、通常ならば、父親の名をとってヨハネをザカリヤと名付けようとしたことは当時の社会通念上常識的なことでした。しかもヨハネという名が一族の中にいなかったこともあり、拒絶しようとしたことは以上の理由によります。

 しかも、こうした慣習は、契約の民としてとどまることを目的としているわけですから信仰に深く根ざした習慣でありました。そうした理由もあり、親族や周囲の人は、エリサベツから御使いが現れた事のいきさつや、その際に命名されたヨハネという名についても、ヨハネが生まれる前から話していたとは思うのですが、頑として受け入れようとしない人々の存在があったようです。しきたりや伝統・由緒正しい、先祖代々であるとか、社会通念、お国柄…といったことが、たとえそれが信仰上のものであったとしても、未知のものであったり、総意として人々が受け入れられないものに対しては、認めようとしないという暗黙のルールがあります。それが仮に問題をはらむものであったとしても、暗黙のルールという構造はなかなか変えられない――それに縛られている人間社会の限界をザカリヤの親類たちは示したものではないでしょうか。今、こうしてクリスマスを迎えようとしていますが、クリスマスには、サンタクロースがやってくる、25日はイエス・キリストの誕生日だと信じ込んでいる。いや、クリスマスはミッキーマウスの誕生日と思っている子供もいるわけです。そうした思い違いが、正しく神を見ることから逸脱させるものとなっていたとしたらどうでしょうか。私たちにある目の鱗を取り去らなければ、決して神を見ることができないでしょう。暗黙のルールによって、エリサベツの周囲の人は神の御心を知ることができなかったわけです。

 エリサベツの主張が受け入れられたのは、ザカリヤが承認して初めて受け入れたとあります。(63節)

ルカによる福音書1:63
すると、彼は書き板を持って来させて、「彼の名はヨハネ」と書いたので、人々はみな驚いた。

新改訳改訂第3版 いのちのことば社

 その時、御使いによって閉ざされていたザカリヤの舌のもつれが解かれたとあります。クリスチャンを迫害していたさなかに、キリストへの回心を通して、目が開かれたパウロを彷彿とさせる記事ですが、パウロと同じ経験をザカリヤはこの時経験したのです。

 ザカリヤがエリサベツの受胎を信じることができなかったのは、自分たちが信じられるように神を見ているからに他なりません。私たちは神という存在を自分の考え方に型どるのではなく、自分のほうから神に心を開いていくこと、すなわち神を全面的に受け入れることが求められているのです。

喪失の危機にあって

 かつて、ユダヤ人たちは、家系を大事にし、家系がユダヤ人としてのアイデンティティーを確認するものととしてきわめて重要なものであることをザカリヤとエリサベツの記事で知りました。ユダヤ教にとって形式や型、儀式が彼らの人生の基準であり、よりどころでありました。
 日本ではさしずめ〇〇道といったものに置き換えることができるでしょう。その血統を守り、次の世代に継承していくことがユダヤ人の責任でもあったわけです。そうしたアイデンティティーの喪失がザカリヤとエリサベツの記事の主題になると思います。

 ところで、二人のアイデンティティー喪失の経験はもとより、人生において喪失した経験は、どの人にもあてはまることでしょう。         先日、ハワイのパールハーバーを攻撃した元軍人の方の記事が新聞に掲載されていました。戦争中は戦争で功績を収めた人物として称賛されたようですが、戦争に負けるととたんに人々に石をぶつけられたということです。戦後は、そうした戦中の活躍を隠して、ある意味日陰の人生を生きてきたそうです。終戦の日は、日本国民の価値観が正反対になった大事件でした。こうした例をあげるまでもなく、それまで大切にしていたことが、その日を境に逆転してしまう、喪失してしまうということが人生の中で経験するものです。人によっては、両親や、家族の死かもしれません。または、何らかの要因で社会復帰困難になることかもしれない。歳を重ねて、できることが限られてくるなど、失うことをきっかけに自身のアイデンティティーを見失うのです。アイデンティティーを失ったとき、人はどのような態度を示すのかといいますと、落胆と困惑、諦め、受容という連鎖をたどります。その行きつく先は希望の喪失です。つまり、生きる意味を見失うということです。

そこに見られるのは、自分たちをよって立たせていたものが失われてしまうということが浮き彫りになります。神を信じているとはいえ、実際は、神に頼らず、常識に照らし合わせて有益な道を選択しただけではないかということに気が付かされます。現在、コロナの感染の流行によって、私たちが神に頼らず、自分の能力、地位、会社、学校、学歴等々、自分にくっついているオプションに自分の価値をおいていたことが明らかになったのではないかと思うのです。自分たちの生活の基盤や仕事、学業等々が奪われたとき、自分には何もないということ明らかになって、自分の位置を確定できない事態が今の時代ではないでしょうか。こうしてみますと私たちの現実は、まさに高齢になって子孫を残すことができないザカリヤ夫妻の喪失と重なるものです。

アイデンティティーとは、心理学・社会学・人間学などでは、「人が時や場面を越えて一個の人格として存在し、自己を自己として確信する自我の統一を持っていること」とされますが、裏を返せば、自分の見方や考え方が正しいということに縛られた状態ともいえます。ユダヤ人としての縛られた考え方によって、ザカリヤとエリサベツは苦しんでいたのです。そもそも、苦しみの根源とは、そういうものにあるのではないかと思います。そうしたものにとらわれていると、神の恵みはわからなくなります。あらゆることにおいて、恵みをもたらしてくださっていることに神の愛に対して、私たちは不満を持つようになります。また、恵みを恵みとして感じられなくなる。これが、人間の病理ではないかと思います。

本当のアイデンティティー

そうした、あやふやな人間の規定の中に縛られている現実の私たちの世界にしてくれたのが、クリスマスの出来事でした。
キリストという恵みを救いを神からいただいたことによって、まことのアイデンティティーである主イエスキリストを私たちの心のなかに迎えることができます。ユダヤ人としての資格を喪失したザカリヤとエリサベツには、バプテスマのヨハネの懐妊という恵みにあずかることで、神の奇蹟である、まことのアイデンティティーをいただくことになりました。

同様に、私たちもザカリヤとエリサベツが受けたまことのアイデンティーを受けることができます。人生の危機をアイデンティティー・クライシスと言いますが、その危機のためには、本当のアイデンティティーを獲得する以外にありません。本当のアイデンティティーとは、神の救いと言い換えることができます。実は、クリスマスはそのことを記念して祝われている日です。主イエス・キリストを信じるということは、ザカリヤとエリサベツに起こった奇蹟を超える奇蹟です。主イエス・キリストを信じる恵みについてわかりやすく説明しますと、下記の3つに要約することができます。

1.罪の赦しです

使徒の働き10:43
イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。

新改訳改訂第3版 いのちのことば社

人は、生まれてから、数限りなく罪を犯し続ける存在です。人間の犯罪のみならず、嘘、ごまかし、保身等々限りなく神の前に罪を日々刻々と罪を犯し続けるものです。これは、だれも制御できません。罪人である私たちは、罪を犯し続けていることをプログラミングされているような存在です。こうした罪を止められない、やめられない私たち向けて、神は、主イエス・キリストを地上に送ってくれました。そのお方を受け入れる、つまり、自分の救い主として受け入れる以外に、罪の解決はありません。罪の解決をするためには、罪を犯したことがない人を信じる以外にその方法がないのです。どんなに修行をしても、お経を唱えても、たくさんの慈善活動をしたとしても、私たちは、日々刻々と罪を犯し続ける存在です。たとえ主イエス・キリストを信じても罪を相変わらず犯し続ける。そういう存在です。罪を解決できる術は、私たちにはないのです。この解決には、主イエス・キリストという奇蹟が必要なのです。神の前に正しいとされるか否かは、罪を犯したことがなく、偽りがなかった神の御子イエス・キリストを信じることにかかっているのです。もし、この記事を読んでいる方に、イエス・キリストを信じていない方がいましたら、ぜひ、主イエス・キリストを信じてください。あなたの罪は赦されるというクリスマスの奇蹟が起こります。

2.永遠のいのちが与えられる恵みです

ヨハネによる福音書3:15
それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。

新改訳改訂第3版 いのちのことば社

人は、かならず死にます。しかし、私たちの本当のいのちは、死で終わるものではありません。聖書の黙示録によれば、最後の審判というものがあります。そこでは、過去から今に至るまでの全人類が、神の大法廷の前で裁判にあうのです。その法廷で、おかした罪によって最終的には、刑罰として火の池に投げ込まれ永遠に苦しむと聖書は伝えておりますが、これが、聖書のいう本当の死であるということです。この法廷においては、おかした罪がすべて明らかにされるため、抗弁することは不可能です。この罪を無効にするためには、身代わりのいのちが必要です。それが、私たちのためにいけにえとなってくれたイエス・キリストが必要です。そのイエス・キリストが、最後の法廷において、私たちの罪の弁護をしてくれるお方がイエス・キリストであり、イエス・キリストを信じることで、永遠のいのちと天の御国に(天国)が約束されます

3.神の子とされる特権です

ヨハネによる福音書 1:12  しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

新改訳改訂第3版 いのちのことば社

「信者が恩寵により信仰によって霊的な神の家族に入れられる間柄を表している。キリストが神の子でいますということは、彼の本質的な、永遠の性質を語るが、我らが神の子であるということは養子とせられ、生まれ変わらせられる神の賜物であるが、我々の被造物としての性質が変えられるということではない。」

ウエスレアン神学事典 P94

もともとは、罪の子であった私たちですが、イエス・キリストを信じることで、神の子とされる特権があたえられました。この特権は、ユダヤ人が望んでも得られない特権でした。信じる以前は、罪によって神と敵対する存在であったわけですが、イエス・キリストが私たちと神との間の橋渡しを行ってくれたために、神の家族とされる間柄とされるのです。

以上、主イエス・キリストを信じる奇蹟について見てきましたが、3つの恵み、これが神からのクリスマスプレゼントにほかなりません。ぜひ、本当のアイデンティティーを見つけるためにも、それ以上に、救われるためにもイエス・キリストを自分の救い主として、このクリスマスに受け入れていただきたいと心から願うものです。