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善が意味をなさないときに Ⅰペテロ3章14-15節

Ⅰペテロ3:14  いや、たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません。
Ⅰペテロ3:15a  むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。

3:14 ἀλλ' εἰ καὶ πάσχοιτε διὰ δικαιοσύνην, μακάριοι. τὸν δὲ φόβον αὐτῶν μὴ φοβηθῆτε μηδὲ ταραχθῆτε,
3:15a κύριον δὲ τὸν Χριστὸν ἁγιάσατε ἐν ταῖς καρδίαις ὑμῶν,

■ はじめに

前回は、『善に熱心になるということ』というテーマから、Ⅰペテロ3章13節を見ていきました。人間の良心に訴えかける行動が、主人の横暴から回避させるというペテロのメッセージであったわけです。ところが、14節では害を加えられた場合にどのように対応すればいいのかということをペテロは語ります。害を回避するためのハウツウではなく、どんな場合においても適用できる霊的な勧めを伝えています。

■ 例外的なケース

前回は、Ⅰペテロ3:13のなかで、ペテロは、善に熱心であることの重要性について語りました。そのなかで、人々の良心との関係性についてみてきたわけですが、信仰に基づく善は人の心を変える力があるということ、善を行う良心は、他者の良心を良い方向に導くということでした。

アダムの堕落以降、人々のなかに罪が入り込んだということをキリスト教では教えますが、

ローマ 5:12 そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、──それというのも全人類が罪を犯したからです。

いのちのことば社 新改訳聖書第三版

ところが、良心というものは、神の御心の残像として人々の心のなかに残されたものです。良心それ自身は堕落によっても失われなかった人間の善き本性の一部分と考えられます。聖書学者たちのうち、ある人々は、良心は神のかたちに従って造られた人間の不可欠の構成要素であると論じていますが、いずれにしましても、良心というのは、いかなる人においても与えれれている神の恵みといえましょう。

Ⅰペテ3:13 もし、あなたがたが善に熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。

いのちのことば社 新改訳聖書第三版

ですから、神が喜ばれることを行うなら、人々の心を潤し、豊かにし、共感を与えるものであるのです。ですから、善を行う人に対してだれも害を与えないのは当然なのです。

ところが、今回の御言葉を見ていきますと『いや』とあります。ギリシャ語ではἀλλά(アンラ)という接続詞です。英語ではButということですが、

Ⅰペテロ3:14 いや、たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません。

いのちのことば社 新改訳聖書第三版

このἀλλά(アンラ)ですが、「さもなければ」「他方で」という意味です。 180度逆転する、完全に反対であるもの、完全にそれ以外のものを伝える最も強い方法(逆接)を意味する言葉になります。つまり、ここでは、善に熱心であれば、害を与える人はいないが、例外的に善に熱心であっても、害を加えられるということがあると示唆する言葉です。

■ 反社会的な人物の存在

一般人の比べて著しく偏った考え方や行動を取る、他者への愛情や思いやりが欠如していることや、自己中心的である、道徳観念・倫理観・恐怖を感じないといった人が存在します。

こうした人は、あまり見られないものですが、ペテロは、パーソナリティに問題がある人がいるという前提でἀλλά(アンラ)という言葉を使用しています。人の中には、『善』を行ったからといって、その共感できない、逆に憎悪すら抱く人物が存在するということを認めた上でこの節を記しているということです。

古代ローマの奴隷制を見ていきますと、貴族や資産家たちの中にこうした人格的に問題のある人物も含まれていました。社会的に奴隷が容認されている社会にあっては、奴隷を人間とみなさないということもあって、主人が自由に使役して当然という空気が支配していましたから、より一層、想像を絶するような酷い虐待が行われていたと思われます。

■ 古代ローマのハラスメント

 何度も語っているようにこの手紙の読者たちはクリスチャンである妻、同じく奴隷たちであるということです。どちらも、経済的な自立ができないクリスチャンたちに宛てて手紙を記しました。特に奴隷がどういう存在であったのかといいますと、ローマの戦利品でありました。ローマが地中海の各地で繰り広げた戦争に勝利したときの戦利品としてローマに連れてこられた人たちが大半でした。また、奴隷商人たちが、拉致し連れてこられた人たちもいたそうです。

 ところで、奴隷を購入した人は、同じ人間として奴隷を扱ったようです。それは、購入した人の良心からそうしたのではなく、人間として扱わないと、奴隷たちの仕事の効率が落ちる、やる気をなくすといった、費用対効果の面が大きかったようです。主人たちは、奴隷たちのモチベーションが上がるように心砕いていたようですが、それは、高額な商品である奴隷が生み出す収益を考えてのことであったわけです。

 聖書では、奴隷と一括はしてますが、その仕事の範囲は広く、農園で働く者、主人の家に仕える者、主人の御用をする者に分けられたようです。とくに、主人に御用をする者のうち、少年奴隷を性的快楽に採用する、女奴隷を性交渉のために購入するということが普通でありました。

皇帝でもあると同時に哲学者でもあったマルクス・アウレリウス[在位161-180]は、二人の美しい奴隷を所有していながら寝所に侍らせないことを自慢にしていた。だがそのような自制心を一般の奴隷所有者にまで期待するとしたら、それはあまりにも厳しすぎる。主人が若い奴隷たちから性的快楽を得るのはごく普通のことで、わたしにも今かわいがっている少年奴隷が一人いる。

ジェリー トナー 奴隷のしつけ方 太田出版 P87 L1-4

こうした状況のなかで、奴隷であった人々の心はどうであったのかいいますと、

今日に残る文献は、奴隷の多くが正義や不正、そして自分の価値を強く意識していたことを示しています。アルテミドロスの記述を見ると、どれほど多くの奴隷が解放を切望し、そのためにどれほどの犠牲を払ったかがわかりますし、デルフォイのアポロン神殿の壁に残された奴隷解放の碑文からも、多くの奴隷が自由を得るために大金を払ったことがわかります。

ジェリー トナー 奴隷のしつけ方 太田出版 P96 L6-10

 このように、当時の奴隷は、自分の自由のために人生を生きることが不可能な人が普通にいる社会でした。しかも、性的な虐待を受け続ける、あるいは、反社会的な主人による虐待によって苦しめられていたことは事実でした。こうした状況から解放されたい、自由人として生きたいという希求は、私たちが想像するよりも強いものであったと思われます。そうした奴隷たちのストレスは相当なものであったわけで、

これも主人と同じ家に住み、しかも”臆病”だったと考えれば納得がいきます。自殺未遂も多かったため、とうとう法律で奴隷の売り主は顧客に対し自殺未遂歴の有無を明らかにしなければならないと定められたほどでした。自殺ないし自殺未遂自体は精神疾患を意味するものではありませんが、個々の奴隷が強いストレスにさらされていたことを示す材料であることは確かです。

ジェリー トナー 奴隷のしつけ方 太田出版 P95 L15-19 P96 L1

 自殺を遂げる奴隷が数多く存在することが明らかになっています。国としても何とか自殺を防ぎたいということで、対応に迫られるほどでした。自殺未遂者は、瑕疵として明示しなければならないと規定されるほどであったわけです。本来ならば、奴隷制の廃止を進めるべきでしょうが、当時は奴隷制によって支えられた社会であったため、制度の廃止ということは視野になかったようですが、そうした奴隷にとって絶望的な社会にあって、こうした明示規定を盛り込まざるをえないほど、奴隷たちのストレスによる深刻な自殺問題というものがあったということです。

■ 逆境の中の幸福

 こうした絶えずハラスメントの恐怖に怯える日々を過ごす人々は、14節にあるように『彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたり』するものでした。善を行えば、逆境が好転すると信じて善を行っていたのにも関わらず、苦しみにあうとなると動揺するのは理解できます。善を憎む人間も少なからずいるからです。

 現実として、運悪くも質の悪い主人に仕えざるを得ない人にとっては、想像を絶するような苦しみが続いていました。『恐れるな』と14節にありますが、φοβηθῆτε(フォベーセーテ)という言葉が用いられています。原型フォべ―オーですが、恐れという意味の他に、撤退するという意味をもちます。詳しくは圧倒された感じから「逃げたい」という意味です。多くの奴隷たちは、なぜ自殺へと駆り立てられたのかといいますと、まさに虐待にある現実から逃げたいという思いからそうせざるを得なかったわけです。

 そうした追い詰められた人々に対して、ペテロは、『幸い』であると14節で語るのです。どこが幸いなのかと自問せざるを得ないほど、つらい状況とに置かれた、あるいは追い詰められた逆境の中に置かれたとしても、それは幸いであると言い切っています。

主をあがめること

 なぜ、幸いなのでしょうか。それは、15節にあるように、『心の中でキリストを主としてあがめなさい。』とあります。
クリスチャンは、絶望の淵の中にあろうとも、自分の生を断ち切るような苦しみの中にあろうとうも、クリスチャンにはキリストを主としてあがめられる幸いがあります。

 これは、恵みです。死が間近に迫ろうとしても、それで終わらない希望を見出すことができるからです。
私たちは、死で終わるのではありません。復活というからだのよみがえりという、言葉では言い尽くせない祝福をいただくことを知るからです。
何という幸いなことではないでしょうか。
 奴隷という未来が見えない、酷使されて終わり、人生は常に虐待され続け、恐怖に支配された生涯──────人生と呼ぶにはあまりにも悲惨な生活を強いられ続けなければならない奴隷たちにとって、それは光でした。

 ところで、あがめるという言葉は、ἁγιάσατε(ハギアサテ)ということばです。原型はハギアゾーです。ハギアゾーとは「聖なるものとする、聖別する、神聖化する、捧げる、分離する」(アボット-スミス)とありますので、例としてⅠペテロ3:15を取り上げますが、

Ⅰペテロ3:15a  むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。

いのちのことば社 新改訳聖書第三版

と新改訳聖書にはあります。同じ部分を直訳しますと、『心のなかで、キリストを主として聖なるものとしなさい。』という意味になるでしょう。

 他方、このハギアゾーという言葉は、ジョン・ウェスレーによれば、

「私たちが新しく生まれたときから、徐々に聖化の業が行われるのです。. . . 私たちは恵から恵へと進み、自分の十字架を負い、私たちを神のもとへ導かないあらゆる快楽を否定する。 このようにして、私たちは完全な聖化(ある時点)を待つのです」

The Scripture Way of Salvation [1765], as found in Creeds of the Churches, ed. John Leith, 363-64

 つまり、ハギアゾーは単にあがめるという意味ではなく、クリスチャンの聖化に関わる意味を持つということです。逆境は苦しみをもたらしますが、その苦しみは人を滅ぼすのではなく、イエス・キリストによって、聖化されるということです。

死を選ぶよりほかない、『心の滅び』にあって、イエス・キリストを心の中に受け入れるということは、『心の滅び』というものを私たちから分離させることがハギアゾーの真の意味なのです。

あがめることは人間性の回復であること

ハギアゾーとは、あがめるという言葉以上に、人間が本来あるべき状態に戻ること、回復することを意味します。

ですから、イエス・キリストを信じる価値があるのです。
奴隷のような生き地獄の沙汰にあろうとも、イエス・キリストが私たちの心の中に主としてあるなら、私たちは、この地獄のような現実の中にあったとしても、天国が心のなかにあるようなものです。

 ペテロが私たちに勧めるポイントはここです。当時の虐げらていた奴隷であったクリスチャンたちは、イエス・キリストに心の憩いとオアシスを見出していました。社会構造を変えることもできない、置かれた立場も変えられない牢獄のような奴隷制度のなかで、彼らは、福音を知り、イエス・キリストを救い主として信じることで心の解放を知ったのです。

 あなたは、心のなかにイエス・キリストを主としているでしょうか。
もし、人生に疲れた、環境を変えたい、職場、学校の中で孤立している、
イジメられているということがあるのなら、まずは、イエス・キリストを自分の主として、救い主として受けいれてください。主イエス・キリストは、私たちに問題の解決を与えます。
具体的な解決の手段と道筋を整えてくださいます。
それにともなって、心の中に平安と支えを与えてくれるのです。
ぜひ、イエス・キリストの救いを体験していただきたい切に願うものです。