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ペテロ第一の手紙 2章25節      帰る場所がある

Ⅰペテ 2:25 あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。

ἦτε γὰρ ὡς πρόβατα πλανώμενοι, ἀλλὰ ἐπεστράφητε νῦν ἐπὶ τὸν ποιμένα καὶ ἐπίσκοπον τῶν ψυχῶν ὑμῶν.

https://youtu.be/r3Yvf7U65DI


はじめに

なぜ、クリスチャンになったのに、苦難は続くのだろうか。問題は際限なくつきまとうのだろうか。という疑問は常にあります。クリスチャンになったからといってすべての問題解決につながるかといえばそうでないことが多々あります。いや、問題そのものが自分への信仰の成長のための実際的な修養のためであったりするわけです。ところで、この書が書かれた時代のクリスチャンたちの状況といえば、激しい迫害に脅かされる人、また、奴隷といった、いわば人権を剥奪された中に生きる人々に向けて書かれたものでした。ある意味、きわめて抑圧された、虐げられたなかに生きざるを得ない人々に宛てて書かれたものです。そうした人々に向けて、ペテロはこの2章の中で、苦しみの問いについて読者に示したのです。その答えとは、苦しみから逃れるための秘訣であるとか、『心頭滅却すれば火もまた涼し』というような、無我の境地に入って、何も考えないことで苦しみというものを転換するというものでもありませんでした。

問題や苦しみに対する正しい姿勢というのは、どういうことかを示したのがペテロの手紙第一2章のテーマですが、その中でもとりわけ、キリストの受難と信徒の苦難が重ね合わされていることが、この2章の重要な鍵となります。

羊のようなもの

今日取り上げる25節は、この2章を総括する部分として見ていくことができます。苦しみをどう理解すればいいのかということの答えです。

 一般的にクリスチャンが信仰に入ったきっかけというのは、その多くが悩みを抱え、問題や苦しみに直面した時かと思います。そうした課題を抱え、主イエスを信じたというのが、多くのクリスチャンが信仰に入ったきっかけではないかと思います。こうした人間の悩み戸惑う姿を聖書では、しばしば『羊のようにさまよっていました』と形容しますが、まさに人間とは、羊のようなものです。

 ところで、羊とは一体どういう動物なのでしょうか。羊毛が取れ、重要な家畜というように知られていますが、日本においてはほとんど目にすることがない家畜ですから、その様子は文献や動画に頼らざるを得ないのですが、調べますと、羊とは、警戒心が強く臆病な動物だということです。危険を察知するとすぐにパニックになって逃げ出してしまうそうです。そのため、群れの中の羊が1匹でもパニックになると、他の羊たちも連鎖的にパニックになってしまうということです。こうした性質もあって、ヒツジは群れになりたがり、群れから引き離されると強いストレスを受けるそうです。また、先に行くものについて行く傾向がとても強いそうです。羊の群れを動かすのは、リーダーになる羊かと思いきや、単に最初に動いたヒツジであったりもするそうです。どうして、彼らは群れるのかといえば、身を守るためです。ところが、大勢でいることで敵に立ち向かえるから群れを作るわけではないということです。群れになることで、仲間が犠牲になって自分がライオンや狼に食べられることから守られるのが理由のようです。それから、群れからはぐれたら戻って来られないということもあるようです。羊はきわめて方向音痴ということもあって、一度群れからはぐれたらもう自力で戻っては来れないそうです。こうした群れるという弱点を見抜いた人類は、この性質を利用して家畜化するのに好都合と考えたようです。柵のない草原に放牧するという面において非常に管理しやすいわけですね。

自分勝手な道を歩む

 今回取り上げたⅠペテロの記事は、イザヤ書53章が元にあると言われています。そこには人間の姿を羊の姿として詩的に表現しています。

イザヤ53:6 
私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

 このイザヤの記事において、人間とは、羊のように先のことを見通せず、群れに拠り所を見出し、往くあてを知らずに進んでいく生き物であることを示しています。以前に、罪とはハマルティアというギリシャ語から示しました。その意味は、単に悪いことをするというものではないということです。ハマルティアの意味は、矢を的から外すという意味だということです。イザヤ書では、その罪というもの実体を『自分かってな道に向かって行った』と表現することで、的外れな歩みをする人間の姿を的確に表現していますが、まさに人間は、自分勝手な道(罪の道)を進むことでさまよっているということです。ペテロは、このイザヤ書の記事を念頭において、この節をしたためたと思われますが、人間は、生まれながらにして、的外れな(罪の)人生を生きているというのが聖書の主張です。

同調圧力に弱い

 次に、イザヤ書の53章6節には『おのおの』とあります。つまり、個々人ということになります。一人ひとりが、罪の道を往く宛も知らずに歩んでいるということです。ところが、我々が羊と同じと考えるならば、個々人という以上に、群れとして、国民として、全人類としてといった大きな枠でもって的外れな道を進んでいるのではないでしょうか。贖われた人々の集まりである教会ですら、もしかすると、的外れな歩みを群れで進んでいるのかもしれません。

 孤立して自分勝手な道を進んでいるのではない、家族の方針、仲間の方針といった自分の周囲の小さな道を進む際にも、あるいは、会社の方針、国家の方針、世界の方針というような巨大な枠組みの中であっても、人間は、往く宛も知らずに神から離れた自分勝手な道を歩んでいるということです。知らず識らずのうちに私たちは、自分で考えているように思えて、動かされている。まさに、羊のようなものです。

 ここで思い出していただきたいのは、イエス・キリストがなぜ、十字架にかけられたのかということです。受難週の初日において、イエス・キリストがエルサレム入城を果たすのですが、入城を迎える群衆は、イスラエルの王としてホサナと叫びながら、メシアを拍手喝采をもって迎えたのです。ところが、その4日後の木曜日には、イエス・キリストは容疑者として捕らえられ、自分を神の子としたという罪状によって犯罪者であるとされました。するとどうでしょう。群衆の態度は一変し、ホサナと賛美した声は、『十字架につけろ』という怒号に変わったのです。こうした傾向はユダヤ人だけではありません。日本のことわざに「長いものには巻かれろ」という言葉があります。自分より力の強いものや上位の者には、とりあえず従っておくのが無難で得策であるというたとえですが、同調圧力に屈しやすい人間の性質をよく示したことばですが、まさに、羊のような性質をここにも見ることができるのではないでしょうか。この聖書の記事を見ますと、世界のすべての人は同調圧力に弱いといえましょう。

人の上に立つリスク

 ところで、リーダーになりたがる人が多くいますが、そこには落とし穴が潜んでいることを考えたほうが良いかもしれません。羊のようなものとして人間を見た場合、自分が人々を正しい道を導くという考えを持たないほうが賢明でしょう。多くの人は、自分のやり方にこだわり、それを人に行わせようとするものです。聖書は、人の性質そのものが、正しい道を進むことができないものとしています。ですから、正しい道を進めない者が、人を誤った道に進ませてしまうのではないかという自己理解がなければ、リーダーとしては失格でしょう。それは、牧師、伝道者も同じです。25節にποιμένα(ポイメーナ)という単語が出てきます。牧者とか牧師と訳されることばです。ここでは、イエス・キリストを示す言葉ですが、本当の牧者・牧師はイエス・キリストなのです。

帰る場所がある

 自分勝手な道を歩んでいた私たちは、問題に富み、かつ、悩みの中にあるものでした。しかし、イエス・キリストが私たちの牧者となってくれたことで、正しい道を示し、私たちを神に向かわせてくれました。往く宛を知らない私たちに、永遠のいのちとそのいのちの源である天の御国というゴールを私たちの心に伝えてくれるのです。『今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。』と25節にあります。ここで、『帰った』という言葉を見ていきますと、ἐπεστράφητε(エペストラフェーテ)原型はエピステレフォーです。この言葉は、ἐπῐ(権威のために、に対して)+στρέφω (~を転回すること)が組み合わさってできた言葉で神に戻るという意味です。つまり、帰るということは、悔い改めるという意味につながります。的はずれな人生を止めてイエス・キリストに立ち返ることです。それが信仰であり、私たちの帰る場所であるのです。

 イエス・キリストに立ち返ることが、すべての問題解決の決め手です。悩みや問題は信じたあとも続くかもしれません。状況も変わらずかもしれません。しかし、イエス・キリストに立ち返ることが、私たちの本当の意味での安住の地であるのです。ローマ時代のような、クリスチャンにとっては、生き地獄のような状況に置かれることも決して無いとは言いきれません。しかし、私たちは、この立ち返る場所があるから、困難や苦しみにある今を魂において平安を生きることができるのです。立ち返る場所(キリスト)があるから、私たちは正しい道へと進めるのです。

 古代ローマ時代のクリスチャンたちは、迫害の中にあっても、奴隷として虐げられていたとしても、彼らは、その打たれた傷を、イエス・キリストの十字架と同じとみなすことができました。単なる被害者として自分をみなしてはいなかったのです。イエス・キリストと同じ苦しみを受けているという認識が彼らを生かし、彼らを強めたのです。人は、安楽があるから強くなれるのではありません。クリスチャンを強めるのは、苦しみや悩みの中に、自分とイエス・キリストの十字架を重ね合わせることによって、自分とキリストとの連帯が強く意識されるからです。それは内なる御霊が、与えてくれる意識と実感によって自己が強められるのです。この御霊との一体感は、群れることによって安住を維持することよりも、空気によって支配される同調圧力よりも力があります。世界を変えた偉人の多くにクリスチャンが数多く輩出されているのにはわけがあります。それは、キリストとともに歩んでいたから、同調圧力からに対抗でき、空気の支配に屈しなかったということです。私たちは今やそうした、彷徨う滅びの道から贖われているということを再認識していただければ幸いです。

適 用

  1. 苦難の意味を知りましょう
    キリスト教において、苦難は成長と自分を深く知るため、イエス・キリストの愛を知るための訓練の場と考えます。クリスチャンとしての人生において、苦難を避けるのではなく、その意味を再評価し、自己の信仰の深化に役立てることが重要です。

    苦しい時期に、自分の信仰を見つめ直し、祈りや聖書の読解を通じて、神が何を教えようとしているのかを探る機会としましょう。苦しみの中で得た教訓や気づきを日記に記録し、後から振り返ることでどのように成長を確認することも信仰の成長の大事なポイントです。

  2. 教会の重要性を覚えましょう
    今回の中で、羊が群れをなす理由や、それを人間の同調圧力に対する弱さとして形容されています。教会や信仰の仲間は、信仰生活を支える重要な役割を果たします。

    教会の活動に積極的に参加し、信仰の仲間と共に時間を過ごすことで、信仰の絆を深められます。教会の一人ひとりは苦しみや悩みを分かち合い、励まし合う環境を作るように意識することが大事です。また、他の信徒が困難を乗り越えるのをサポートすることで、互いに支え合う文化を醸成していく教会を目指していきましょう。

  3. 主イエス・キリストに立ち返ろう 
    今回、イエス・キリストに立ち返ることがすべての問題解決の鍵であると述べました。信仰生活の中で、内に住まわれる聖霊の声を聞き、常にキリストの教えに立ち返り、指針とすることが大切です。

    日々の生活の中で、決断や行動をする際に、キリストの教えに照らして考える習慣を持ちましょう。祈りや聖書の言葉を通じて、イエス・キリストの導きを求めていきましょう。教会の礼拝に参加し、自分の行動や考えを振り返り、キリストに立ち返る時間を設けていくことは私たちの信仰生活にとってとても大事なことです。

Translation 聖書対訳

【NASB】For you were continually straying like sheep, but nowI you have returned to the Shepherd and Guardian of your souls.
あなたは羊のように絶えず迷っていたのですが、今、あなたはあなたの魂の羊飼いであり監督に戻ってきました。

【KJV】For ye were as sheep going astray; but are nowI returned unto the Shepherd and Bishop of your souls.
あなたがたは羊が迷うようだったからです。 しかし今、私はあなたの魂の羊飼いと司教に戻りました。

Lexicon レキシコン

ἦτε, εἰμί,v \{i-mee'} Person 2 Tense I Voice A Mood I Number P
1)あるべき、存在する、発生する、存在する

γάρ, c \{gar}
1) for

 ὡς, c \{hoce}
1)として、~のように、としても、

πρόβατα πρόβατον,n \{prob'-at-on} Case N Number P Gender N
1) 家畜、小さな牛(大きな牛、馬などとは区別される)、般的には羊または山羊1a)新約では常に、羊

πλανώμενοι πλανάω、v \ {plan-ah'-o}
Tense P Voice P Mood P Case N Number P Gender M
1)迷わせたり、迷わせたり、正しい道から離れて導いたりする1a)迷わせたり、さまよったり、歩き回ったりする2)比喩的 2a)真実から離れる、誤りにつながる、欺く2b)誤りに導かれる2c)美徳の道から離れて導かれる、道に迷う、罪2d)真実から切り離す、または離れる 2d1)異端者の2e)誤りと罪に導かれる

ἐπεστράφητε ἐπιστρέφω,v \{ep-ee-stref'-o} 
Person 2 Tense A Voice P Mood I Number P
ἐπῐ(権威のために、に対して)+στρέφω (~を転回すること)
1)他動詞 1a)に向ける 1a1)真の神の崇拝へ 1b)戻す、戻す
1b1)神の愛と従順に 1b2)子供たちへの愛に 1b3)知恵と義を愛する
2)自動詞 2a)自分に向きを変える 2b)自分を振り返るには、引き返す
2c)戻るには、引き返す、戻って

ποιμένα ποιμέν,n  \{poimēn}  Case A Number S Gender 
羊飼い(ラテン語で「牧師」)。 (比喩的に)主の群れ(主の民)の完全な幸福を気遣う主が育てる人。

ἐπίσκοπον ἐπίσκοπος,n \{ep-is'-kop-os} Case A Number S Gender M
1)監督者1a)他の人が行うべきことが正しく行われていることを確認する義務を負っている男性、学芸員、保護者、または監督者1b)キリスト教会の監督者、長老、または監督者

ψυχῶν ψυχή,n \{psoo-khay'} Case G Number P Gender F
1)呼吸1a)生命の呼吸1a1)身体を活気づけて呼吸に現れる生命力1a1a)動物の1a12)男性の1b)生命1c)生命のあるもの1c1)生き物、生き物 魂2)魂2a)感情、欲望、愛情、嫌悪の座(私たちの心、魂など)2b)(人間の)魂は、それが提供する援助の正しい使用によって構成されている限りにおいて 神によってそれは最高の目的を達成し、永遠の祝福を確保することができます、魂は永遠の生命のために設計された道徳と見なされます2c)魂は体とは異なり、死によって溶解されない(体の他の部分と区別される)本質として )

画像:John IoannidisによるPixabayからの引用