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ペテロ第一の手紙 2章17節     すべての人を敬うこととは

すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。
Ⅰペテ2:17

聖書本文

πάντας τιμήσατε, τὴν ἀδελφότητα ἀγαπᾶτε, τὸν θεὸν φοβεῖσθε, τὸν βασιλέα τιμᾶτε. (パンタス ティメーサテ、 テーン アデルフォテータ アガパテ、 トーン セオーン フォベイセッセ、 トーン バシレア ティマーテ)

聖書対訳

Honor all people. Love the brotherhood. Fear God. Honor the king.(NKJV)すべての人を称えます。 兄弟たちを愛しなさい。 神を恐れなさい。 王を称えなさい。
Respect everyone, love other believers, honor God, and respect the Emperor. (TEV)すべての人を尊重し、他の信者を愛し、神を尊重し、皇帝を尊重します。

本文レキシコン

πάντας パンタス 
πᾶς、a \ {pas} Case A Number P Gender M
1)個別に
1a)それぞれ、すべて、すべて、すべて、全体、すべての人、すべてのもの、すべて
2)集合的に
2a)すべての型の一部
τιμήσατε ティメーサテ
τιμάω、v \ {tim-ah'-o} Person 2 Tense A Voice A Mood D Number P
1)推定し、値を固定する
1a)自分自身に属する何かの価値のために
2)名誉を与える、名誉を与える、崇拝する、崇拝する
ἀδελφότητα アデルフォテータ
ἀδελφός adelphós Case A Number S Gender F
兄弟愛
NASBの註解:兄弟(1)、兄弟(1)
ἀγαπᾶτε アガパテ
ἀγαπάω、v \ {ag-ap-ah'-o} 
Person 2 Tense P Voice A Mood D Number P
1)人の1a)歓迎する、楽しませる、好きになる、愛する
2)物事の
2a)満足する、物事に満足する、または物事に満足する
φοβεῖσθε フォベイセッセ
Person 2 Tense P Voice M Mood D Number P
同族:5399phobéō–恐れる、撤退する(逃げる)、避ける。 

5399 /phobeō(「撤退する、恐れる」)は、圧倒された(状況に対応するには不十分)と感じることから「逃げたい」を生み出します。

[古典ギリシャ語の5399 /phobeō(「恐怖」)は、(逃げる、逃げる)から縮む、つまり避けること。]

このNTギリシャ語の語源は通常、人間に対する否定的な恐れや神に対する不合理な恐怖に焦点を当てています。 むしろ、これは前向きである必要があります。つまり、神の不承認を恐れる必要があります(使徒10:22,35を参照)。 

βασιλεύς、n \ {bas-il-yooce '}
1)人々のリーダー、王子、司令官、土地の領主、王

すべての人を敬うこと  パンタス ティメーサテ

 ペテロはすべての人(パンタス)を敬う(ティメーサテ)ことを私たちに命じています。そもそも道徳の基本であり、クリスチャンでなくともそのとおりと答えるでしょう。建前ではどの人もそう思われるに違いありません。ところが、道徳の基本中の基本であっても、自分を害する人、迷惑をかける人が近くにいたとしたらどうでしょうか。とても敬うことはできませんし、遠ざけたいと思うことでしょう。さらに、あなたが被害者であったとしたらどうでしょうか。敬うどころか、とても許すことなんてできないことでしょう。毎日、ニュースを見ますと、すべての人を敬うことなんて到底無理という情報ばかりです。毎日、目を背けたくなるような記事や出来事がスマホが告げています。このような現実があるなかで、ペテロはそれでもすべての人を愛するように命じています。

 ところで、ペテロが手紙を宛てた人々はどういう人々であったのかとあらためて見てみますと、本書簡の1:1「ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに散って寄留している」となっています。宛先は、小アジアの五州の異邦人クリスチャンに向けて書かれた手紙になります。これらの地域の人々はとくに迫害のひどかった地域であり、受信者たちは、この手紙を前にしてペテロの言葉に励まされたかどうかと言えば、そうとも言えなかったと推察されます。こうした迫害に代表されるような災いのときに励まされる言葉とすれば、災難から免れることへの術や希望、災難からの痛手からの同情やお悔やみの気持ちが述べられることを普通は期待するものですが、ペテロが語った言葉は、それとは全く異なるものでした。

ペテロは、自分に災いをもたらす人々を敬いなさいということでした。受信者たちは、自分の家族や、教会の兄弟姉妹が殺された方々もいたでしょう。あるいは、迫害の当事者も当然ながら存在したはずです。迫害にあって、さぞや敬いなさい、許しなさいということは難しかったことであったかと思います。

日本語での「敬う」という意味には、『すぐれたものとして大切にし、高い敬意を払う。』という意味があります。

ところで、「敬う」と訳されたティメーサテ τιμήσατε 原型はティモー τιμάω には、対象に個人的な尊敬(価値、尊さ)を反映するように、適切な価値を割り当てること(名誉を与える)。という意味があります。ですから、日本語の『敬う』とティメーサテはニュアンスが異なるのです。ティメーサテを一言で言いますと、アサイン assignという英語が適切です。アサインには、割り当てるという意味がありますが、ギリシャ語で言うところの尊敬は、負の感情に対して、肯定的な意味を割り当てるということになります。

つまり、敬う、尊敬するというように訳されている言葉は、相手が、尊敬される対象として高い敬意を払うということではなく、相手が尊敬すらされないような対象であっても、肯定的な価値を与えるということになります。そう考えれば、ペテロの受信者たちは、置かれている状況の中でも、相手を敬うという意味が伝わったと思うのです。ここを読みましても、素直に訳された聖書の言葉が、原典にあたってみないと思い違いをしてしまう箇所ではないでしょうか。

日本語の聖書で、すべての人を敬いなさいと言われているから、鰯の頭も信心からとの如く、書かれている御言葉をそのまま鵜呑みにしてしまうと、誤解が生じてしまいます。「すべての人」だからといって、「犯罪者も敬いましょう。」というとらえ方は危険だと思います。ここで言われていることは、対象が犯罪者であったとしても、価値ある存在としてアサインすることだということです。相手が価値がない、価値を見いだせない相手だと思ったにせよ、クリスチャンである私たちは、相手を価値ある存在として、自分の脳内にある「価値ある人フォルダ」に加えるという意識的な操作を行うことです。これが、ペテロの言うところの、「敬う」という意味です。自分にとって価値がない存在と思っても、自分の脳内にあるゴミ箱に投げ入れる、削除することではないということです。

日本語での「敬う」という言葉には、『すぐれたものとして大切にし、高い敬意を払う。』という意味があると紹介しました。感情面で見ていきますと、好意的な側面しかありません。好意的でなければ、「敬う」ことはできません。ところが、ティメーサテではどうでしょうか。身分の低い者、地位の低い人に対する肯定とともに、価値ある人として認めること、また、好意的であることの対義語である反感、敵意、悪意といった対象であっても肯定的、価値ある人として受け止めるという意味があります。そういう意味がティメーサテにはありますから、ティメーサテは全人類(パンタス)を受けることができるわけです。パンタス ティメーサテという二つの単語は、それぞれが、切り離せない相互に補完した意味を持っていることが理解できるでしょう。

兄弟たちを愛し 
テーン アデルフォテータ アガパテ

ところで、汝の敵を愛せよ、あなたの隣人を愛せよ。という御言葉があります。そこには、本節にもある原型アガパオーが用いられています。

しかし、いま聞いているあなたがたに、わたしはこう言います。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。ルカ 6:27
すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。ルカ 10:27

イエス・キリストの時代、あなたの敵を愛しなさい。という言葉は革命的でした。当時は、『目には目を歯には歯を』という法律がありました。ラテン語で lex talionis (レクス・タリオニス) と表わされる同害復讐法で、報復の仕方やその程度は、受けた被害と同じくらいでなければならない。という法律です。そのもとにあるのは、ハムラビ法典や旧約聖書に見られるものですが、「目には目を~」という同害報復の考え方は、私たちの考えからすると、ずいぶんと野蛮な考え方かと思いますが、「倍返しや虐殺のような過剰な報復を禁じ、同等の懲罰にとどめて報復合戦の拡大を防ぐ」という近代刑法につながる重要な規定であったということがWilkipedeaにありました。こうした考えに基づくならば、目には目をという考えからすれば、迫害された者たちは、迫害した者への報復は合法と考えても差し支えないものですが、イエス・キリストは、報復するべき相手に対しても愛すること(アガパオー)を述べております。これは、本当に画期的なことです。罪を憎んで人を憎まずという言葉がありますが、イエス・キリストは、このようなお方でした。イエス・キリスト自身に罪を認めることはできなかったのですが、人々の告訴に対して彼は何も言わず、人々の要求をすべて受け入れました。不当な裁判であっても、自分自身の正当性も訴えることなく、人々のイエスを殺せという要求のままに、十字架にかかられました。つまり、こうして、イエスは、すべての人の欲求を受け止め、欲求からくる負の報酬をすべて受け取られたのです。その受け止めた行動や思考の原理がアガパオーであったのです。アガパオーは好意的な人を愛するというものではありません。

聖書の「愛すること」(agapáō)は、唯一主によって明らかにされた人の最高の善のために行動です。その性質が、ルカ 6:27、ルカ 10:27の戒めの中に示されています。こうした、愛の原理が、すべての人を敬う(パンタス ティメーサテ)という思考にあらわれています。

神を恐れ トーン セオーン フォベイセッセ

ここで、ペテロは、神を恐れと語ります。直訳しますと、神から逃げるなと言うことです。上記のペテロの言葉を見ますと、神は、私たちを受け止め、私たちのすべての要求をのみ、肯定していてくださると要約できます。つまり、どんな人であっても、神は救いをもたらしてくださっていると聖書は言っておりますが、私たちがどんなに神から離れ、罪深いとしても、人の善行や悪行にもか関わらず、神は受け止め愛し続けているということです。その愛は、好意と呼ぶような単純なものではありません。神が悪意、敵意、反感を持った人物(すべての人・・・パンタス)であっても受け止めてくださるということです。神を恐れとありますが、人間が罪を犯したときの感情を思い出してみてください。人から見られたくない、隠れていたいと本能的に思うのではないでしょうか。神を恐れというのは、恐れかしこむというよりは、本能的に神から隠れたくなる自分の罪が見透かされている恐怖に対して言われていることです。ちょうど、アダムとエバが神に「アダムどこにいるのか。」と問われた際に身を隠した、あるいは、カインが弟アベルを殺害したときに見られるようなものです。

 主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と問われた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」  創世記4:9

神を恐れるということは、神から身を隠したいという本能的な恐怖について示しています。新約聖書では、神の不承認を恐れることをフォボイセッセの意味に込められているとしています。

 罪についてどう考えているでしょうか。神の前に恥ずかしくない、隠す必要がないと考えているでしょうか。だとすれば、私たちの罪理解は片手落ちかも知れません。神は、わたしたちの知らない罪すらご存知です。私たちが知らない罪の中に、実は恥ずべき、隠しておきたい本当の罪があるものです。そうした罪の真実を私たちが知ったとすれば、それは神を恐れるしかありません。私たちは、神を前にして、私の負の部分をすべて知っておられるお方に恐れを抱かなければなりません。実は、迫害する者も、迫害されたクリスチャンも神の前では同等の罪深さを持っております。だからこそ、私たちは、神を恐れなければならないし、知ったとしたら神から逃げ出さなければならないほどのものを抱えているのです。

神から赦されたパンタス(自分) 

 神はアガパオーのお方です。神から逃げ出さなければならないほどの様々な罪を抱えた私たちに限りない愛を与え続けているお方です。その愛の頂点が、イエス・キリストの十字架と復活です。本当は赦されるべきはずでない私たちの罪は、イエス・キリストの犠牲によって、赦されています。しかも、決して与えられるはずもない、神の子としての特権、罪の赦し、永遠のいのちの保証まで与えてくださっている。この事実を知ったならば、恥ずべき恥辱にまみれた罪深い人間が、赦されるという神の絶大なあわれみと愛を知ったとき、感謝するのではないでしょうか。パンタスである自分の存在を知り、パンタスのためにいのちを投げ出したイエス・キリストの愛を知っているからこそ、私たちは、すべての人を敬える、兄弟たちを愛せるのです。それは、気持ちの問題では有りません。主イエス・キリストにたいする信仰の問題です。信仰があるから、私たちは不可能である人を敬うこと、愛するを可能とすることができるわけです。

 バシレイア ティマーテ(王を尊びなさい)と最後に伝えられておりますが、クリスチャンにとって、恐るべき敵であったローマ皇帝、それは皇帝礼拝の本尊でもありましたが、ペテロは、神から見た人間観をもとに、この記事を書いています。神からすれば、神とされた皇帝も下賤の奴隷であっても、どの人も罪人であり、それはクリスチャンも例外ではありません。自分の愛するひとり子を、敵同然の人間のために人身御供しなければならないほど、人間の罪は重いのにも関わらず、惜しむことをせずに差し出したわけです。ですから、神にとっては、全人類はパンタス ティメーサテであるのです。人間が、このように神から通告されているにもかかわらず、私たちは、神から逃げてはいないでしょうか。罪の奴隷となって、負の感情の奴隷となって、神から遠ざかっていないでしょうか。私たちは、負の感情の奴隷になってはいけないということです。自由の身とされた私たちは、負の感情に自分をアサインするではなく、正の感情に身を置くことです。それは私たちに主が委ねたことです。それが、信仰です。神が私たちをアサインしてくれた以上、私たちも、罪を主の救いにアサインすること、それが奴隷から自由に移されたことです。

自由人とされたと先週語りましたが、なんの自由であるのか、それは罪からの自由です。また、敵を敵とみなし続ける、被害を被ったから恨み続けるといった負の感情に生きるべきではないということです。私たちは、この負の感情を十字架につけることができる者です。また、負の感情を正の信仰に昇華できる特権を頂いたものです。そこにこそ私たちの贖い、十字架と復活が明らかにされていることです。