上京と、一人暮らしと、現実と-第3話「人のオススメは、聞くに堪えない」
第3話 中窪祥枝の場合
中窪祥絵は、生まれてから学生時代、次いで新卒で入った会社に至るまでを秋田で過ごしていた。だからと言って別に寒さに強いわけでもない。スキーだけは都会の人間より出来ると思っているが、冬はどちらかというと嫌いだった。毎年の恒例行事である雪かきも、嫌な気分にさせるポリタンクの灯油の匂いも、雪に反射して目を細めながら歩く朝も、何もかもが自分を閉じ込めているようで嫌いだった。
大学4年の就活では、東京への就職を希望していたものの、結果として住み慣れた秋田で慣れないスーツに袖を通すこととなった。高校からの親友の泉も優花も東京のコンクリートで、可愛くパンプスを鳴らしている。少しくたびれてきたこのブーツは、いつまで私を縛り続けるのだろう。
転職はいい機会だった。
住み慣れた秋田の雪を思い出しながら、私は東京で家を探しに来ている。
聞けば泉は中目黒に、優花は池袋に住んでいるらしい。どちらもテレビで聞いたことあるところだ。芸能人にも会えるのかな。
相談にきた彼女は以下のような条件で探しているという。
・エリアは自由が丘
・家賃は7万くらい
・バストイレ別
・築浅
・駅からは遠くても良い
・治安のよいところが良い
自由が丘、そこは昭和と平成が入り混じる街。
目黒区に位置するこの駅は、東急電鉄東横線が入線し、渋谷にも横浜にも直通で、池袋にもアクセス可能なこともあり、屈指の人気エリア。特に女性にはおしゃれなカフェやアパレルショップが点在していることも、その人気を支えている。
過去には、住みたい街ランキングにもノミネートされたこともあり、今もなお単身者・ファミリー層双方から関心を集めている。
また、ケーキの「モンブラン」は、自由が丘にある「モンブラン」という店で初めて日本に紹介され、以降国民に親しまれるお菓子となっている。他にもフランス菓子として絶大な人気を誇る「モンサンクレール」も、ここ自由が丘で味わうことができる。
自由が丘は今も昔も、スイーツの街として名を馳せている。
1Kの家賃相場はおよそ8〜10万円。家賃の希望は7万円ということだが、探せばないこともないだろう。
しかし、自由が丘か・・・。
確かによい街ではある。だが、誰にでも良い街かはわからない。
「どうして自由が丘なんですか?」
「治安が良くて、東京っぽくて、お洒落でいい街だと聞いて」
「自由が丘で、あなたはどう暮らしたいんですか?」
「・・・・・・。」
「自由が丘じゃなきゃダメなんですか?」
雑談を交えながら他にもいろいろと尋ねてみた。彼女は初めての上京で、友人から話を聞いたり、会社の人事の人にも相談したようだ。
その結果、オススメに上がってきたのが「自由が丘」だったらしい。職場は麹町だが、通勤ラッシュはあんまり想像できていないようだが、幸いフレックス制が敷かれているため、そんなに心配ないらしい。
知り合いのオススメほど、聞くに堪えないものはない。
何故なら、それは得てして曖昧な根拠に基づく主観的な情報だからだ。
暮らすのは人じゃなく、あくまで自分自身なのだ。
日本人はその生活サイクルや経済状況からいって、頻繁に住居地を変えたりはしない。よっぽどのことがない限り同じ家に1〜2年は住むことになる。一人暮らしの人間でも、多くとも3〜4箇所のエリアに住むことがせいぜいで、東京においては遊びに行くことや友人が住んでいたという経験はあっても、住んだことがあるエリアの方が圧倒的に少ない。実際に住んでいたとしても、どのくらいの年齢の時に、どういう生活スタイルで住んでいたかによって印象はかなり異なる。
自由が丘に「遊びにいっていた人」がおすすめしたことと、自由が丘に「住んでいた人」がおすすめしたこととでは、絶対的に異なるのはもちろんだが、それ以前に、どちらも噂話ほどの価値しかない。
自由が丘じゃなければならない理由がなければ、自由が丘にこだわる理由はないが。
「質問を変えましょう、あなたが東京で一番大事にしたいことは何ですか」
「友達と遊びに行ったり、泊まりあいしたり、でしょうか」
「仕事や家族とかよりも」
「仕事や家族とかよりも、です。特に、若い今は。あとは、都会、そうですね、都会に住んでみたいんです。」
そういうことなら、と2箇所の物件を紹介した。どちらも自由が丘徒歩10分圏内の築浅物件だった。
まるで自分が責められているような気がした。
泉の家に近いし、優花もいい街と言ってくれた自由が丘が、彼の話を聞くにつれて、本当は悪い街なんだと言われている気がして、いい気はしなかった。
それなのに、自由が丘。やっぱり自由が丘を紹介してくれるんじゃない。なんだったんだろう、初めから自由が丘と言っていたわ、私は。
東京は本当に人が多い。
私がこれまでに経験した中で最も人混みだった護国神社の初詣でさえ霞んで見える。それでも気分は晴れやかだった。足元を締め付けるブーツもなければ、下から照りつける真っ白な陽射しもない。
ただあるのは、近くのカフェから薫るコーヒー豆の香りと、車の排気ガスの匂いだけだった。
今日から、新しい生活が始まる。
無印で買った春色のカーディガンがかかるクローゼットを閉じ、ベージュのパンプスに指を引っ掛けて、扉を開いた。
閉じかけのドアの隙間から、泉が手を振っていた。
*本noteは投げ銭形式にしています。
ここから先は
¥ 100
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?