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刀幻鬼妖シリーズプロット集

題字『刀幻鬼妖(とうげんきよう)』

刀幻鬼妖イメージボード

【1】登場人物

[1]山村鬼喰神正信(やまむらおにばみかみまさのぶ)

恐ろしい執念を持った刀鍛冶によって研がれた妖刀「山村鬼喰神正信」に封じられし怨霊。陰陽師の卵「生神萌」の手によって封印が解かれた。刀には鬼殺しの異名があり、使ったものは最後自らの首を切り落とすまでにその殺人刀の魔性に憑りつかれるという。

[2]生神 萌(いきがみ もえ/ハジメ)

陰陽道の家系である生神一族の嫡子。陰陽師の卵でリリムと呼ばれる鬼の種族。性別は女性だが、亡くなった嫡男で双子の兄の後を継ぐために男として育てられる。

[3]某(それがし)

江戸幕府に身を置く切れ者。開国以降、攘夷志士による討幕運動を取り締まる為に画策する。

【2】あらすじ/プロット集(一幕)

[1]序章

 霊山に屋敷を構え、巫術を嗜み穢れを祓い山を浄めてきた由緒ある陰陽道の家柄、生神家一族。時は幕末、その生神家に子供が生まれたが、それは当時忌み子と呼ばれる双子だった。

 当時のこの国の風習では、双子は凶兆と言われ、災を呼び寄せ、前世の業の写しなどと縁起の悪い、悪しきものであるという迷信があった。その双子の片割れは、人々から鬼(リリム)と呼ばれ畏れられる妖怪の特徴を持っていた。それは、背筋が凍る程に白い肌、淡い髪色に、赤眼。それに加えて、頭に角があるものや、背に黒い羽を持つものもいた。ある地方ではそれを天狗と呼び、山神として祀り畏れられたと言う。

 赤子に鬼の特徴を見た先代当主は、産婆に頼み、その忌み子である双子の片割れの首を絞めて殺そうとしたが、今の家長である父親と母親は必死にそれを止めて、自分たちが産んだ子…嫡子は双子の片割れである男の子一人きりであり、鬼として生まれた片割れの女の子は、存在を黙し、隠れて育てることにした。
 
 妻は子を産んで間も無く死亡した。やはりこれも忌み子を孕み産んだことが災いしたのだと先代当主は父親に警告した。まして鬼の子を産んだのなら尚更の事。千代当主は頑なに女の方を退け虐げたが、父親はそれを静止し必死に庇っていた。
 生神家がもうけた男子の名は萌(はじめ)。父親は萌を次期当主として育て家督を継がせようと訓練してきたが、妻が亡くなって数年もしない内に、その男の子も病気で死んでしまった。
 先代当主はこれに怒り狂い「鬼を生み忌み子を隠れ育てたことによる山神様のお怒りだ!これは祟りだ、神が与えた私達に対する罰なのだ」と、父親が必死に娘を匿い守ろうとする無視して、双子の女の方を絞め殺そうと彼女のいる離れの部屋に押し入った。

 そうして先代が幼い娘に襲い掛かり、父親が悲痛な悲鳴を上げた時、なんの因縁だったのだろうか。先代は娘の首に触れた途端、足元から崩れてその場に倒れ伏し、そのまま事切れてしまった。度重なる身内の不幸に父親も思わず、先代の言う山神様の祟りや災いが脳裏を掠め、一度はそれを信じかけたが、直ぐに考えを振り払い、部屋の隅の方で身を小さくして怯える我が子、「もえ」の命が守られたことに安堵の息を吐き、身内が次々に死んでいったことに対して堪えきれず涙を流していた。そしてこの子だけはどんな厄災からも自分が身を呈して守り、寿命が尽きるまで愛情を注ぎ育てようと誓ったのである。

 果たしてこれは山神の祟りか、忌み子の齎す災いか。それともこれは忌み子や鬼の呪いではなく、先祖代々祀ってきた妖刀、村山鬼喰神正信の怨念の成せる業とでもいうのであろうか。この刀は自分の気に入らない者の首を取って殺し、気に入った女をも殺してその魂と霊を喰らうらしい。生神家に嫁いだ妻が子を産むとすぐに亡くなるのも、この刀が生神家に嫁いだ女の生気を吸い取り嬲り殺して、その霊を娶るからだという話もある程だった。
 
 家長にならない嫡子は分家となり屋敷を出て行き、女は忌子として家で祀られる妖刀の御霊に仕え、その魂を喰われ、間も無く死んでいく。生神家はその人斬り刀である妖刀の怨念や怒りを鎮め、それを封じて村に災が降りかからないようにしておくための檻だった。父親は先祖代々引き継いできたその伝統を守り、その生神家の血統を絶やさぬ為、鬼であり、忌み子として殺される筈だった双子の片割れ…隠れ育てていた故に家系図にも記録されていない「もえ」の存在を黙殺し、その子をそのまま嫡男で家督を継ぐ筈だった「萌」として偽り育てる決意をした。つまり、もえはその日から女であることを捨て、男子である萌として育てられることになったのだ。
 もえの霊力は強く、萌を凌ぐものがあった。先代当主がもえを恐れていたのも、自分が現役だった頃を凌ぐ程の霊力を、幼い頃より持ち合わせていた事も理由にあったかもしれない。生みの親である父と母以外、皆何処かで彼女の存在を恐れていた。彼女が見つめた先のものが、知らず音を立てて動いたり、先代が彼女を痛めつけようとした時は決まって彼に不幸が降りかかったことも、彼女の霊力が災いしたのかもしれない。娘の背後には自分達には見えない何か…怨霊や生霊が憑いている。そう信じずにはいられぬ程に彼女の霊力は強大だったのだ。
 
 まだ幼い頃…、もえの兄であり弟でもあった実の兄弟、自分の分身とも言える存在「萌」を失い、当初はずっと放心としていたが、その傍らで父は心を決めて、最後自分に残された肉親である娘を、生神家の後継者である嫡男として育てる事にした。

 そして数年経ち、「萌」の歳は15。弱く小さく震えていた「娘」は、生神家の跡継ぎで霊能者の「少年」として立派に成長し、長男としての責任を負い、跡目を継ぐために日々修練と勉学に勤しんでいた。
 
 そんな時、生神家に妖刀の噂を聞きつけ、盗んで奪い取ろうとした盗賊が生神家に侵入し、父やその弟子たちと争い、彼らを皆殺しにして、自分達も又その争いの中で死んでしまった。
 偶々外に出ていた萌が家に帰ると、屋敷は人の血と肉片で薄汚れて、家具を乱され、破壊された物とで部屋が散乱していた。惨劇。正に地獄でも絵にかいたような、そんな悲惨な光景だった。殺された父とその弟子たちの死体は盗賊に殴り殺されたような痕が残っていたが、対する盗賊たちの死体は何故か皆首が無かった。

 たった一人の肉親である父を失い、突如訪れた身内の死に、打ち震え硬直し茫然としていたが、次第に事を理解して静々と泣き出し、身を縮める萌。ふと、これもまた妖刀の呪いなのだろうかと不安に思った。
 妖刀には首斬りの逸話がある。その刀は一族を葬られた復讐の為に、ある刀鍛冶によって、仇の武将の首を切り落とさんと作られた怨念の刀で、恐ろしい程の切れ味で骨も断つ程であり、刀の魔力に取り憑かれた多くの武士や侍たちが、次々と人の首を斬り落とし、その使い手は最後、非業の死を遂げるか、気狂いて、己の首をも跳ねてしまったという。そんな逸話のある刀を先祖代々祀ってきた呪いなのか、はたまた自分達家族が刀の怒りに触れてしまったのか。生神家一家は、僅か数刻萌が家を空けていた間に、自分と刀だけ残して滅んでしまった。
 
 一族を葬られ武将の血を根絶やしにしようとした刀鍛冶の怨念は、数百年経った今も刀の中に生きていて、当時の戦と無関係である筈の生神家の血すら抹殺しようとしている。まるで一族を殺した武将への恨み辛みが、生きとしいける全てのものたちへの憎悪に転化していったかのように、妖刀の呪いは、刀に関わった者たちの命を無差別に奪い去り消してしまった。傲慢にも妖刀の力を求め、祭壇から奪おうとした盗賊への報復なのか、そしてその賊の侵入を許した父への制裁なのか。妖刀に纏わる伝説に釣られ、邪心で盗み働こうとしたものたちは、父を巻き込んで、皆一様に死んでいった。
 
 生神家に巣食う妖刀に込められた怨念は、全てを失った萌には計り知れるものではない。萌はただその場にぽつりと残された刀…鞘全体に護符が貼られ固く封じられた妖刀の存在に怯えながら、不本意な形で生神家の家督を継ぎ、今この瞬間、生神家の家長が誕生したのだった。

 萌は寺社奉公に事の顛末を話し伝えた後、空になった屋敷でずっと塞ぎ込んでいたが、これ以上妖刀による災いにより犠牲者を増やし、山神の怒りに触れ霊山を血で穢すことのないように、これ以上自分たちが見守ってきた刀が人を殺すことのないように、家長として生神家の役目を全うし、父が大事にしていた伝統としきたりを守り、妖刀を祀り、幼い頃に亡くなった兄に代わり、次の世代が見つかるまで、自分に課せられた責務を全うすることを決意した。

 そして翌年。萌が16歳になった頃、家族も使用人もおらず相変わらず一人きりの生活だったが、霊力があった萌は、式神を使役して家を切り盛りし、数人の弟子を育てることで生計を成り立たせていた。
 しかしあくる日、政治的理由で霊山と土地を幕府に売り渡すよう御触れがあり、家を手放すことになった。萌が家督を継いでからの生神家は生活は貧しく厳しいものであったので、弟子に惜しまれつつも、由緒のある屋敷と土地を手放し、妖刀一つを携えて流浪の身となった。

 山伏の身なりで旅をして一月。都を目指し山道を進んでいた萌は、歩き疲れ岩陰に座り込み、妖刀を抱き込んでそのまま寝入ってしまったところで、山賊に襲われ、再び意識を取り戻した頃には荷物を取り上げられ刀も奪われた上、手足を縛られ拘束されており、そのすぐ傍で野営をしていた山賊たちは萌を何処かの公家屋敷に高く売り飛ばす話にまで至っていた。
 誰か助けて。神様、仏様。
 目を瞑り必死に祈るが、その声は誰に届くであろう。
 そして、人身売買する前に、萌の身ぐるみを剥がし強姦する流れになった時、山賊の内の一人が突然猪に体当たりされたかのような勢いで首が吹っ飛び、血飛沫を上げた事を皮切りに、次々と山賊の首が斬り落とされ、辺りが血の色に染まっていく。まるで鎌鼬にでも襲われたかのように、山賊たちの体は切り刻まれ、ものの一瞬で男たちは死体に成り下がってしまった。

 悲鳴を上げることすらできずただ事態を傍観し、身を縮めて怯えるしかない萌。すると暗闇の奥から蒼白く反射する鈍い光が見えた。それは細長く、やがて焚き木の灯りに照らされて血で真っ赤に染まる刀身が顕になった。それは刀だった。山賊に襲われる前、自分が抱き抱え眠っていた筈の妖刀鬼喰の本体。地面には封印の護符が剥がれ放られた空の鞘が横たわっている。
 まさか山賊たちが妖刀の封印を解いてしまったのだろうか。しかし山賊は一人残さず首を落として死んでしまっている。では、その山賊を殺したのは…、血塗れた刀を手に、今正に闇から近づいてくるその人は、一体何者なんだろう。不可解なことを理解し、悟り恐怖した萌を余所に、冷たく光る刀身を手にその男はゆっくりと歩み寄ってくる。
 
 闇より姿を現し、妖刀を手に、威風のある歩みで月明かりの下に足を進めてきたその者は、奈落に染まった漆黒の髪色をして、髷を後頭部に結い揺らしながら、額に鉢巻き、まるでこの場に似つかわしくない程に煌びやかな武将羽織をして、生き血をそのまま流し込んだように真っ赤な瞳をした、背の高い男だった。
 男は武将のような姿をしながら、武士に似つかわしくない程に小綺麗で、この世のものと思えぬ程に整った容姿をしていた。その場を凍り付かせる程恐ろしく美しい佇まい。男は顔に不気味な薄笑いを浮かべながら、地べたに座り込み身動きできない萌を高くから見下ろし、生気なく佇むのであった。
 
 男を認めた瞬間、萌はすぐにその男が人ならざる物の怪の類であることを悟る。
 それ以上に萌を緊張させたのは、その男が肝を抜く程に強力な怨念を全身に纏い、恨み辛みが連なった悪霊の塊であり、法外な霊力を持ち合わせていた事だった。風もないのに草木が騒めき実が腐る程にその場に邪気で満ちていた。これは悪意とも言うべき強力な殺気であり、もし自分が修練していなければその場に留まる事できぬ程に恐ろしく冷たい霊気で立ち込め、正気と生気を奪っただろう。
 
 土草は血にまみれて、地面に転がる山賊の死体が沈黙する中で、ただ一人息をしていた萌は、恐怖で震える身体を抑え、弱々しい声でその男の名前を尋ねた。いや、無意識に萌は男の正体を理解していたのだ。萌は恐る恐る口を開いた。
「貴方の名は、山村鬼喰神正信…」

「その妖刀に取り憑いた悪霊…。いいえ、最早鬼神と呼んで畏れ敬うべきなのかもしれない。貴方は、その刀に宿った怨霊その人ですね…」

 萌の呼びかけに男は嘲け笑うように答えた。
 
「左様、俺は山村鬼喰神正信…、この刀に宿る御霊の化身だ」

「長い間屋敷の祭壇で眠っていたが、俺の力を縛り付けていた煩わしい封印が解けて、漸くここに解放された。俺を現に呼び起こしたのはお前か?」
「どうして貴方が…。刀は固く封じられ、霊力を持った人間以外にその封印は解けない筈なのに…。まさかそれが一人でに解けたとでも…」

 萌は男を見上げて警戒しながら、身を捩り後退する。男は口を歪めて低く笑いながら、踵を返し地面に落ちている鞘を拾い上げた。その鞘にあった筈の護符は皆一様に剥がれている。
 
「これを見てわからないか。この護符は人の手によって剥がされたわけではない。この剥がれた札の跡を見てみろ。四隅に燃え尽きたような焦げ跡がある。火で燃やされたとて、まさか鞘だけ残して護符が燃える筈がない…。これは妖術の強力な念力で護符が燃やされた跡だ。俺の力を持ってすればこんな紙切れ、睨んだだけで跡形もなく消し炭にできるが、生憎と俺はまだ目覚めたばかり。もし人ならざる俺以外にこんな芸当ができる人間がいるとすれば、この場に一人限りしかいない」
「まさか…封印を解いたのは……」 
「…そう、俺を起こしたのは違いようもなく貴公だ。見れば手足も縛られ自由も効かぬ身。このならず者たちに襲われ殺されそうになったところで、俺に助け縋ったのか?鬼殺の異名を持ったこの俺に。刀工より鬼と神の名を賜ったこの俺に。首斬り刀と恐れられたこの俺に縋り、また人の生き血を吸わせてくれるとは…」
「そんな…僕が貴方を…、僕のせいで…」

「再びこの世に我が身放たれ、貴公の霊力により人の身体をも賜り刀を振るえる事、心より感謝する。そして貴公の血肉と宿しその力…その魂ごと、この山村鬼喰神正信が頂き仕る…」

「死ね」

 鬼喰は萌の首めがけ勢いよく刀を振り下ろした。しかし、その刀は強力な光に弾かれ白く反射しながら宙を舞い、強力な力により男は意に反してその場に跪いたのだ。

「貴公、それ程までに命が惜しいか。俺に血を、肉を、その首を斬らせろ」
「そんな事絶対にしてはダメだよ。これ以上無為に人を殺しては、尚更貴方の邪念は深まり、人の恨み辛みや怨念が貴方の刀を穢してしまう…。貴方は生神家が代々荒ぶる神として畏れ祀り、その身に宿る邪気を祓い浄めて災いを鎮めてきた。あなたはもうただの人斬りの刀ではないんだ。生神家、お山と村全体で存在を秘匿し、護ってきた僕たちの村の神様でもあるんだよ。喩え貴方が打たれた理由が復讐で、これまで多くの人の命を奪ってきたとしても、それは遠い昔話…。今の貴方はもう由緒のある刀なんだよ。だからこれ以上、人を殺してその名を血で穢してははいけない…」

 萌の霊力は鬼喰を蝕み、鬼神の邪気を抑え込み、そのまま鎮めてしまったのだ。鬼喰はまるで毒気の抜けたようなすまし顔で、大量の霊力を放って全身の力が抜け汗が吹き出し息絶え絶えに地面に伏した萌を遠い目で見下げていた。数刻した後、それでも蹲ったまま動かない萌を認めた鬼喰は刀を鞘に納め、萌の身体を抱き起こし、何が起きたかわからないように困惑の表情で自分を見つめる萌の片手を取り、片膝をついて深々と頭を垂れた。

「…若殿。先代当主…父君にも劣らぬ程の風格とその佇まい。そして先代を遥かに凌駕する霊力。貴方の器、この山村鬼喰神正信がしかと見届けました。俺は生神家今代の当主であられる貴方に仕え、忠節の限りを尽くす事を誓い申し上げます。有事の際は俺に何なりとお申し付けを」

 萌の手を取り敬意を示す鬼喰に、萌はなんだか得体の知らないものでも見たかのように狼狽して、そして突き刺す勢いで見つめてくる鬼喰の鋭い視線に思わず目線を下げて恥ずかしそうに俯き黙っていた。

「貴公を脅かす者あれば、その首を斬り落とし、あなたが命ずれば俺はどんな敵も容赦無く斬り捨てる。あなたの命が尽きるその日まで、俺はあなたの剣となり盾となりましょう。俺とこの刀がこの世にある限り」
「そんな…僕はそんなつもりでは…」
「刀も神も人とこの世があってこそ、俺は家臣として貴方に仕え、従い尽くします」
「家臣だなんて、僕はただの子供だよ…、貴方が仕えるような人間では…」
「いえ、貴方はもう立派な家長であらせられる。生神家は代々から穢れを祓い、禊をしてきた高貴な家柄。古の封印が解かれ邪気を放つこの刀も、貴方の力を持ってすれば、その気を祓えるやもしれません」
「確かに、今のあなたの魂は穢れていて…。もう怨霊や物の怪の類を超えた鬼神そのもの。もし魂を浄められれば、きっと人々や森や土壌に幸福をもたらす守り神にもなれる筈なんだ…。生神家は長い間貴方を祀ってきたけれど未だにその怨念は人智を超える強さで…。多くの時代を渡り人を斬り殺してきた妖刀ともなると、浄化はきっと大変だと思うけど…」
「では契約しましょう」

「若殿は俺の邪気を鎮めて御霊の位を高め、代わりに俺は生涯貴方に仕えお守りする…。聞けば貴方は他にも多くの式神を従えるとか。俺もその一部として働き、これから尽力致します」
「うん…わかったよ。妖刀を祀る生神家の家長として、僕でよければ貴方の力に…」
「山村鬼喰神正信の御魂、生神家当主、生神萌様にお預け致す」

 こうして二人の長い旅路は始まった。

[2]内緒話

「今夜はここで野宿だね。やっぱり山越えは容易じゃないな…」
「若殿、俺にできることは?」
「鬼喰さんは薪を集めてくれるかな…?管狐は大きめの石を集めて焚き木の準備を。僕は念の為結界を張ってみるよ。近くで戦でもあったのかな。嫌な霊気でいっぱいだから…」
「御意に」

「若殿、僭越ながら申し上げたいのですが」
「なんだろう」
「刀を俺に返してはくれませんか。手ぶらでは夜盗に襲われても俺は対処できませんよ」
「ダメだよ…。鬼喰さんが刀持つと誰彼構わず人を斬ろうとするから。それこそ、鬼喰さんが夜盗になっちゃうよ。今の僕の力では抑えるのがやっとだもの」
「しかし俺は刀の御霊で、見た目の通りの侍ですよ。刀がなければ本領を発揮できませんが」
「結界も張ったから大丈夫だよ。もう夜盗に襲われる様な轍は踏まない。もしも必要になったら鬼喰さんに返すようにするから」
「なるほど、それで結界を」
「あの…鬼喰さん」
「なんでしょう」
「もしかして鬼喰さんは僕を試してるのかな…。本当に刀を返してくれるのかとか、どれだけ自分を信頼してくれるのかとか。…僕を、主君として信用できるのかだとか。僕にどれだけ智があって聡いのか、推し量ってるのかな…」
「さぁ、どうでしょう。俺はただ刀が欲しいだけですから。第一、俺は若殿を試そうなんて自惚れた真似は致しませんよ」
「そっか…」
「左様ですよ」
「鬼喰さんは刀がないと不安なのかな」
「不安ではないですが、俺は刀に憑いた霊ですから刀身はもう俺の一部のようなもの。まして人を斬ることを生業にした侍なら尚更です。刀がないと俺は完成しない。俺の魂は欠けたまま満ちることはないんです。ですから何卒、刀をお返し願いたいのですが」
「ダメだよ…」
「そこを何卒」
「今はまだダメだよ…」
「俺が信用できませんか」
「ううん、僕は僕が信じられないんだ…。自信がないよ。もし刀を持った鬼喰さんに邪念が宿り殺意に目覚めた時に鬼喰さんを止められる自信が」
「若殿は俺が人を斬らないかどうかが心配なんですねぇ」
「そうだね…。僕はもうこれ以上、鬼喰さんに人を斬って欲しくない…。鬼喰さんが人斬りになって欲しくないのは本当だよ」
「左様ですか、人の子というのは刀に憑いた御霊に難儀な事を願うものなのですねぇ。いえ、貴方こそ鬼や天狗の類なのかもしれませんがね」
「そしたら僕らおんなじなのかも知れないね」
「貴方が、俺と同じですか」
「うん…。僕は忌み子の片割れで、鬼で…。鬼喰さんは嘗てたくさんの人の首を取り、人斬り刀と呼ばれた刀の怨霊の塊…それはやがて鬼神と呼ばれる程の力を得た。人から忌諱の目で見られてるから、僕も鬼喰さんもきっと同じなんだよ…。畏れ恐れられ忌まれ疎まれる…、世間のはぐれ者…、生きる事すら許されない、嫌われ者だよ…」
「左様でしたか…。なるほど…、人から忌まれる鬼神と鬼…。俺たちが出会い行動を共にするのは、もしかすると天から授けられた宿命なのかもしれませんねぇ…」
「…もう僕は…僕は、誰かが死ぬところを…、血を見るのはもう嫌なんだ。家族も、弟子も、お手伝いさんも…、一家一族、みんな斬り殺されて死んでしまったから」
「若殿、俺は出過ぎた事を言ってしまいましたか」
「ううん、そんな事ないよ。気持ちがすごく嬉しいよ。鬼喰さんの言う事も凄くよくわかる。恐れられるのは鬼や物の怪、怨霊ばかりじゃない…。盗賊、人斬り、海賊…。もしかしたらどんな魑魅魍魎よりも人間の方が恐ろしいのかも…。この世は怖いものばかりだから。だから、刀の恐ろしさを僕は忘れたくないんだ…」
「若殿は俺が怖いですか」
「わからない…、でも神様を祀るのは僕らの約束事なんだよ…」
「祀る…」
「僕にとっては鬼喰さんは、妖刀とか人切とか怨霊とかそういうものじゃなくて、もう神様なんだと思う…。だから鬼喰さんの事が畏れ恐ろしいのか、敬い慄いているのか、僕にはよくわからない…」
「左様で…」
「上手く言えなくてごめんね。でも僕は鬼喰さんのこと…、この刀には思い入れがあって、僕は好きだよ。小さい頃からずっと一緒だったから」
「というと?」
「刀がないと僕、落ち着いて寝れないんだ」
「まるで俺と同じようなことを言いますね」
「うん…。鬼喰さんとはちょっと違うかもしれないけど、僕はずっと、祭壇で鎮座している貴方の姿を見て育ったんだよ。御祖父様に厳しく叱られた時は、いつもこの刀を見て心を落ち着かせていたんだ。あの時はまだ固く封じられていて、鞘は護符だらけだったけど、僕が刀を父上からもらい受けるまでまで、辛いことがあっても弱音を吐かずに頑張ろうって、いつも元気をもらってた…。だから寝る時は代わりに鬼喰さんを模した玩具の刀を抱いて寝ていたんだ。いつかは僕があの刀を護っていくんだって」
「若殿は幼き頃、俺を見てそのような事を思っていたんですね」
「うん、今は夜盗にいつ襲われるかわからないからだけど…。僕にとって鬼喰さんの刀は御守り代りなんだ」
「俺が御守りですか」
「そうだよ、いつでも刀を抜けるように抱いて寝て…、ただ僕は武術はてんでダメでね…。護身用の刀すらまともに扱えないけど…。でもこうしてると安心するんだよ。妖刀の呪いを父上も僕も感じる事はあるけれど、僕にとってはこの刀は御守りなんだ」
「なるほど」
「変な話をしたかな」
「いえ、大変興味深い話でした」
「少し話し過ぎちゃった…。僕そろそろ寝ようかな」
「では俺が寝ずの番をしましょう」
「でもそれだと鬼喰さんが…」
「俺は貴方の気を纏った霊体なので、供物は拝借しても、寝ずとも済む身体なんですよ。なにせ貴方の精気が俺の動力源ですから。ですので野営は俺に任せて若殿はお休みになられてください」
「うん…」
「その式神…管狐はしまわないのですか?」
「管狐はいつも一緒なんだ。僕は父上と別室で寝ていていつも一人だったから…。御祖父上に叱られて隔離部屋に閉じ込められた時も、こうして一緒に寝ていたんだ。鬼喰さんがいない時、いつも夜はこの子が見張りをしてくれた。管狐は僕の大事な友人なんだ」
「左様ですか」
「じゃあ僕は寝るよ。鬼喰さんおやすみなさい」
「ええ、良き夢を」

「僕が先祖代々守ってきた封印を…父上が守ってきた生神家の伝統を破ってしまったんだ。妖刀を護り祀って厄を鎮めてきた由緒ある家柄を僕の代で終わらせるなんてこと絶対にできないよ。だから僕は絶対に貴方を人殺しになんかさせたくないんだよ…」

「もう二度と貴方の刀で惨禍を起こさないんだ」

「僕が山賊に襲われた時、神や仏に願った。誰か僕を助けて欲しいって。その声は確かに神様に届いた。人斬りの神様、妖刀山村鬼喰神正信に。そして鬼喰さんが目覚めてその封印は解けた。生神家が長い時守ってきた古の呪いを僕が解放してしまった…。生神家の当主として僕は生涯かけて妖刀であり鬼神であらせられる鬼喰さんの魔を祓い伝統を守りたい…父上から継いだ刀を殺しの道具にしたくないんだ…」

「家族を失った僕にはもう鬼喰さんを…この刀に仕え守り清めること以外に生きる意味もないから。僕は不浄の鬼だから…」

「鬼喰さんは、どうして人を斬りたいと思うの?」
「俺ですか?戦は刀の本分、殺しは刀の本懐です。これ以上に明瞭な理由はありませんよ」
「そうだね…」
「今は身体もある…自分自身の手で人が斬れること、これ以上の至福はありませんよ」
「そうなんだ…」
「左様です」
「やっぱり刀の神様だね」

「刀の神様なんだ…」

 そして夜は明け、萌える山並みの向こうに日の出が昇る。夜、立ち込めていた悪い霊気も朝にはすっかり引いていて、木々の葉擦れに重なって遠くの川のせせらぎや鳥のさえずりが耳まで届く。ふと、誰に呼ばれた気がして萌が目を覚ますと、すぐ隣に何かの気…微かな息遣いを感じる。
 
 緊張に身を縮め、懐の刀を手に、ゆっくりと顔を横に向ければ、すぐ間近に感嘆する程に造形の整った美しい相貌…山村鬼喰神正信の顔がそこにあった。見れば自分は横たえる鬼喰の懐に寄り添う様にして眠っていたのだ。しかも、鬼喰は昨晩聞いた通り、全く寝ずとも済む身体のようで、その鋭い目を興味深そうに細めたまま、血だまりのような深紅の瞳で、じっと自分の寝顔を見つめている。
 萌は心臓が飛び上がるような思いで、仰け反り跳ねるように身体を起こした。
 
「お、鬼喰さん…?!ごめんなさい、僕いつの間にそんな…あれ…?」
 
 萌に倣うように身体を起こした鬼喰は、普段感情に乏しく、生真面目で冗談も言えないような不愛想な少年が、慌てふためきまるで童女のような素っ頓狂な反応をしだしたのを、肩を震わせて心底おかしそうに低くせせら笑いながら、人の弱みでも握ったかのような勝ち誇った皮肉な表情でこう答えるのである。
 
「若殿、貴方の寝相は本当に酷いものですねぇ…。こちらが何もせずとも、ここまで転がって来ましたよ。毎晩こんな事では、いつどうなるかもわかりませんね。その上寝言まで仰って、譫言のように父君を呼んで、寂しそうにこちらに手を伸ばすので、その手を取り、刀だけでは心許ないと、俺も添い寝して差し上げました。いやぁ、まるで何処ぞの生娘のような愛らしい反応ですねぇ。男の癖、そんなに俺が怖いですか。これは愉快ですね」
「やだな…僕、そんなに寝相が悪かったの…?知らなかった…。確かに僕、朝起きたら変なところで寝ていた事はあったけど…、だって…。え…、その鬼喰さん…、いつからこうしていたの?」
「そうですねぇ…、また貴方が賊に襲われないように一晩中見守っていましたよ。一晩中、ね」
「…ひ、一晩…」
「ええ。時に、若殿。畏れ多くも進言致しますが、世の中には衆道といったものもございますから、同じ男と言えども、警戒心は怠らない方が良いかと存じますよ。このように無防備に寝ていては、今後何が起きるかもわかりませんねぇ…」
 
 詳しく聞きたければそこの管狐に聞いてみてはいかがですか。そうやって口端を上げて不敵に笑った後、踵を返し、自分を地面に放ったまま何事もなかったかのように焚き木の始末や荷物を纏めだしたのを、萌は湧き上がる羞恥心を堪え、醜態を一晩中晒して見られていた事、そして恐らくこれが毎晩続くだろうことを想像して、熱くなった顔を両手で覆って、恥ずかしさの余り全身を震えて悶絶するのだった。

[3]妖刀破魔道中

「若殿、村が見えましたよ。水と食糧を調達しましょう」
「待って鬼喰さん」
「なんです若殿」
「刀を持って武将羽織なんて着て村に入ったら、武将に攻め込まれたんじゃないかって村の人たちに警戒されちゃうよ…!せめてその羽織を脱がないと…」
「ですが、若殿。俺はこれがないと身が引き締まりません。もしこの村で戦が起きた時に、兵の士気に関わ」
「僕ら戦いに行く訳じゃないんだよ…!」
「ですが、若殿。もし若殿が迷子になった時に分かりいいですよ」
「僕は童子じゃないよ。もうこんな歳で迷子にならないよ」
「ですが若殿。率直に言って俺の士気が下がります」
「鬼喰さん…」
「俺はこう見えて装いには拘りがあってですねぇ…」
「鬼喰さん堪えて…!貴方は皆が畏れる神様なんだよ」
「ええ、左様です。ですから貴方は神に奉仕し俺を敬って下さい」
「うん、わかったよ任せて!……って、あれ…?」

「若殿、一体そこで何をやっておられるんですか。俺の羽織の裏地が護符だらけなんですが、まさかいつも俺が若殿の生気を奪うので、気晴らしに俺に呪いでもかける気なんですか」
「違う大丈夫だよ。こうやって予めお札を貼っておけば、いざ鬼喰さんが正気を失ったときも、早く邪気を払えるでしょう。もしもの時の護身用なんだよ」
「なるほど、そうやって俺を再び刀の中に封じようと、それは心強いですねぇ…」
「ち、違うよ…。そんな疑う目で見ないで、僕もし鬼喰さんが暴れたら止められる自信がなくて」
「冗談ですよ若殿。生神家のしきたりに対する貴方の責任感と俺への気遣いを、十分理解していますから」
「ごめんね、心配かけて」
「結構ですよ。戦で警戒心はあって困るものではないですからね」

「若殿、護符で前が見えないのですが」
「鬼喰さん、眼力で人を殺そうとか焼こうとして危ないから…」
「前が見えないのですが」
「鬼喰さんの目、今血走ってるから…」
「若殿、剥がしてくれませんか」
「殺気が鎮まるまではダメだよ…」
「若殿、俺の目が痒いです」
「嘘ついちゃダメだよ、鬼喰さんは神様でしょう…」
「その神たる俺の扱いが些かぞんざいじゃないですかねぇ。貴方にはもっと信心を持って、俺を敬って欲しいですね」
「鬼喰さん、なんだか庶民じみてきたと言うか、人間とあまり変わらなくなってきたね」
「左様ですか」
「うん」
「若殿、俺は人間になれますか。俺にも人の心を得ることができますか」
「きっとできるよ」
「左様で」
「うん、そうだよ…」

「兄上の代わりに僕が死ねばよかったと思う時はあるよ。兄上は優しくてとても素敵な人だったから。僕は兄上の分も…兄上の命も背負って生きるんだ。兄上からもらった命と名前、絶対無くしたくないんだ」
「心中お察しします。…ところで、その妹君の名前は一体なんなんでしょうねぇ…」
「鬼喰さんにはいえないよ…、怨霊に諱を知られたら僕は支配され喰われてしまうもの…」
「そこまで緊張せずとも良いんですよ。俺は若殿に忠実な家臣ですから。まこと貴方は喰えない人ですねぇ」
「だって…鬼喰さん、偶に邪な目で僕を見るんだもの。僕、霊力がないとだたの子供だから、力で鬼喰さんには絶対に勝てないよ…霊力だって危ういのに」
「まして貴女は女人ですからねぇ、霊力なしに俺に勝てる術はないかと」
「…」
「女人であるのを隠して男として生きるとは。若殿、いえ姫君とお呼びすればいいのか、一体どういった御心で過ごしてきたのかは、俺には図りかねますがね…。貴女の父君も何故このようなこと」
「いや、僕の事は若でいいよ。僕は小さい頃から男として育てられたから、今更もう女としての生き方もよくわからないんだ。今の世で女として生きるのは難儀なものだよ。女とわかると突然態度を変える商人も剣客も多いから、きっと女の人は大変だろうな…」
「左様で。しかし何故俺に隠し立てしたんです。教えて頂ければ俺も力添えを致しましたものを」
「その…女と舐めらて侮辱されるのが怖かったから…」
「俺はそんな愚かしい真似は致しませんよ。戦場であっても時に女武将に仕え戦うこともあります故」
「そうなんだ」
「ええ。ですから若殿、俺は無理に性別を偽る必要もないかと思いますが」
「ううん…まだわからないけど、僕はこれからもきっと男として生きると思う。僕は父上の言いつけに従って男として生きていることを誇りに事に思っているし、それに…」
「それに?」
「最初の頃、鬼喰さんの霊に出会ったとき、もし僕が女とわかったら…鬼喰さん、きっと僕のことを殺してるよ…。そうでなくても、もしあの時、少しでも何かが違っていたら、僕らも関係変わっていたと思う…そんな気がするんだ」
「左様ですか」
「そうだよ…」
「それに本当なら僕は生神家の嫡男でもなんでもないんだ。家督を継ぐはずだったのは兄上で、僕は家系図には存在しない忌み子…。だから僕は若でも姫でもなんでもない。喩えるならそう…、それこそ僕は神に仕えるために生まれた忌子みたいなものなのかな…。鬼喰さん、きっと僕、女として生まれたら、鬼喰さんの忌子だったんだと思う」
「…とすると。若殿は、俺にその身を献納し生涯仕えるということで宜しいので?」
「ううん…、あくまで喩えばの話だよ」
「左様ですか」
「そう、まして僕のような人間が若や姫なんて途方もない話だよ…。僕はただの忌み子で、鬼の子でしかないんだもの…」
「左様で」
「うん、そうだよ…」

[4]反逆の日本史

「あれ、鬼喰さん、それって…」
「ああ、これですか。その辺で拾った棒切れですよ。俺は腰に刀の類を差していないと落ち着かない性分でしてね。代わりと言っては難ですし見た目こそ映えませんが、それなりに殺傷能力はありますよ。撲殺程度なら俺にとっては容易い事かと」
「鬼喰さん、何でも殺しに結び付けるのやめよう」
「殺しも俺の性分ですから」
「そんな物騒な事笑顔で言わなくてもいいんだよ…」

「あれ、鬼喰さん、鍬なんて持ってどうしたの?」
「ええ、先ほど村人から謝礼として頂きまして」
「へぇ…!懐かしいな。僕も昔裏庭で土を耕して父上に内緒で芋を育てていたなぁ」
「ええ、勿論土を耕す用途にも使えますが、鍬等の農具は戦で使えば武器や凶器にもなるんですよ。豊臣の頃、年貢米の徴収に苦しむ百姓が起こした百姓一揆では皆一様に農具を手に戦ったとか。喩え刀を奪われたとしても志さえあれば振り上げる拳は鉄にも鋼にもなるというもの。農具と言えどもその殺傷力に違いはないかと」
「鬼喰さん、これからは鍬や農具の所持も禁止だよ…、無断で金物を使用するのもやめようね…」
「若殿、それでは俺が振るえる武器がなくなります。鍬がなければ土すら耕せぬではないですか」
「畑作より先に農具を武器とみなして殺しに結び付ける内は絶対に持ったらダメだよ…」
「それに、俺は謀反など企んではいませんよ」
「だって刀狩りを例に取るものだから、僕に何か不満でもあるのかと…」
「たかが臣下の戯れ事。若殿、俺も冗談の一つや二つ言う時もありますよ」
「そうなの?」
「面白いでしょう」
「面白さより恐ろしさが勝って僕には作り笑いしかできないよ…」
「それに、若殿は一つ勘違いをしていますね。戦も政も何も人の上に立つ必要はないんですよ」
「そうなの?」
「ええ。政や戦に必要なのは、武力に謀、統制力。力関係と人間関係を把握して人心を掌握すれば、陰で暗躍、裏で参謀しつつ、何処の誰とも知られずに戦況を操り、政治を牛耳ることなど刀の俺には容易いこと。わざわざ表に立って目立つ必要などありません。俺は黒子に徹しその主導権を支配していればいいのです」
「…」
「ですので、俺は身の危険を冒してまで主君に謀反を企てる必要などないんですよ。利は常にこちらにありますからね。いかがです、若殿。これで俺のことを信用して頂けましたか」
「鬼喰さん…」
「若殿、どうされましたか。顔が蒼白で心なしか覇気がありませんが…。何処かお体の具合でも悪いのですか」
「いや大丈夫だよ…。多分僕の杞憂だと思うから…」
「左様でしたか。俺も杞憂だったようで安心しました」
「その…、僕にわかるのは、これから一層鬼喰さんに気を配らないといけないということかな…」
「へぇ…。それはありがたいことですが、若殿。俺の事よりもご自分の事を気にかけたほうが良いかと思いますよ」
「え、どうして?」
「神の一柱である俺と違って、人の世も命も短く儚いもの。四季が移ろい、桜の花が紅葉と雪に変わり、一度は天下に届く勢いであられた信長公も、本能寺の変で没し、やがて秀吉公に覇権が移り変わったように、人というのは、いつどうなるかわかりませんからねぇ。平曲で諸行無常を謡ったのは一体何処の誰であったか。若殿。俺は、刀の俺の事よりもご自分の身を案じた方が賢明だと思いますがね」
「へ、へぇ…そうなんだ…」
「左様ですよ。人の一生なんて俺からすれば風前の灯に過ぎませんからねぇ…。神たる俺の手にかかれば一瞬で消し飛ぶ、哀れな火ですよ。謀などは俺に任せて、若殿は無理なさらぬことです」
「肝が冷え…いや肝に銘ずるね…うん…」
「これからも、俺をよろしくお願いいたしますよ、若殿」
「うん、そうだね…よろしくね……これからも仲良くしてね…」
「ええ勿論」
「優しくしてね…」
「御意に」
「勘弁してね…」
「何をです」
「謀反…」
「さて、なんのことやら話がみえませんねぇ」
「謀らないで…」
「さぁ、俺には何の話かよくわかりませんが」
「精進しますから…善処しますから…何卒…」
「若殿は面白い方ですねぇ、俺は愉快です」
「僕は奇怪に見えます…」
「おや、若殿。俺の顔に何か?」
「いいえ…」
「では、そろそろ話を切り上げましょう。ご安心ください若殿。何処ぞの臣下はかの信長公に反旗を翻したという話ですが、俺は忠義を貫き今後ともあなたの期待に沿えるよう尽力します故」
「はい…」
「では、御前失礼致します」
「…」

「僕、あと何歳生きられるのかな…」

「ああ、若殿」
「あ、鬼喰さんどうしたの?」
「これは丁度良いところに。耳寄りな話がありますよ」
「そうなんだ何だろう教えて欲しいな」
「下剋上というのはご存じで」
「…」
「室町の頃、応仁の乱がありましてね。低位の者が将軍に離反し武力をもって制するという…」
「鬼喰さんやめて僕を許して」

[5]鬼喰流奥義

「必殺剣、奥義不知火…!」
「…若殿、俺の刀で一体何をしておられるのですか」
「え…あ、や、やだな。鬼喰さんずっとそこにいたの…?」
「ええ、ずっとそこに控えておりましたが、何か問題でも」
「ちゃんと見てる言って欲しいよ…恥ずかしいよ…」
「それで、何をしておられるのです」
「あの、やっぱり剣術の奥義って華があって大事だなって」
「ほう、剣術や剣技の流派、その他の殺人術のことで?若殿も珍しいことを言いますね」
「別に僕は人を斬りたい訳ではないけれど、でもやっぱり技の名前って大事だと思うんだ。ちゃんと武術の理論を組み立てて技の型を作り、一度でも会得すれば、もしものときに何度でも討つ事ができる…、きっと僕の学んできた巫術や霊能の秘術と同じなんじゃないかって…、やっぱり変かな」
「なるほど、確かに的を得ていますね。名を付ける事は、それに力を付与する事と似ています。型を編み出し、戦いの中で無駄を削ぎ、適した動きを会得ことで、技は精練し、より高みに向かう事ができる。剣術は日々の鍛錬の積み重ねの結果ですからね。剣術に流派があるのも、そういった個々の剣客が会得した思想の反映なのでしょう。名をつける事で霊を宿しますから、若殿の仰ることは、至極真っ当なことですよ」
「あ、ありがとう。普段から剣の稽古をしている鬼喰さんに言われると嬉しいよ」
「なるほど、俗にいう必殺技ですか…」
「うん、鬼喰さんもこれを機会に何か技を発明してみてもいいんじゃないかな。鬼喰さん元々華があるし、刀で戦う時すごくかっこいいもの」
「なるほど…、そんな風に期待されては、俺も何か技の一つや二つ考案せざるを得ませんねぇ…。これを機に少しやってみましょうか」
「本当?楽しみだな…!」
「では早速思いついたので若殿に見せて差し上げましょう」
「え?こんなに早く?一体なんだろう…」
「剣客、山村鬼喰神正信、いざ参る」
「うん…!」
「斬殺」
「え」
「刺殺」
「あの」
「撲殺」
「ちょっと鬼喰さ」
「圧殺」
「それただの殺人の種類…」
「惨殺、絞殺、爆殺、銃殺、毒殺、焼殺、縊殺、轢殺、鏖殺、誤殺」
「しかも、段々刀とは関係なくなってるよ…」
「左様ですか、では趣を変えましょう」
「本当?楽しみだな…!」
「妖刀鬼殺の名に因み、奥義鬼滅のやいb…」
「やめてダメだよ鬼喰さんそれは最後まで言っちゃ駄目…!」
「版剣人剣著作剣」
「最早時代設定も世界観もめちゃくちゃだよ!!」
「お後がよろしいようで」
「これにておしまい、ちゃんちゃん。……って、あれ…?」

[6]秘すれば花、されど、咲かず彼行く枯れ尾花

「おや、若殿、一体そこで何をしておられるのですか」
「刀を綺麗に磨こうかなと思ったんだ。鬼喰さん、何度か使って刀身が汚れてたみたいだから」
「ただ民家の裏手に茂った雑草を斬っただけではないですか。斬れども斬れども吸うのは草の汁ばかり。俺は草薙に使う鎌とは違うんですがねぇ」
「健康的でいいんじゃないかな。鹿や猪を殺してそのお肉を食べてると、身体が悪くなるし魂も汚れて成仏できないって父上も言っていたよ」
「仏門では殺生は罪、ですからねぇ…。しかし好き嫌いはいけませんよ若殿、人肉は柔らかく、血は御神酒にも負けずとも劣らぬ」
「ええと、確かこの刀の名前は…。越後で生まれた山村派…山村鬼喰神正信だったかな」
「左様ですね」
「長い名前だね…。刀の事は僕はよくわからないけど、確か刀工の人の名前が刀に入る事が多いんだよね。山村派も確か山村様が始めたからだったかな」
「ええ。山村派の起こりは越後の山村正信様に始まり、その名を継いだ刀工によって俺も鍛刀され正信の名を賜りました」
「そっか、それで正信なんだ」
「そもそも山村派は信国派と呼ばれる刀派の分派で、その系譜を辿れば五箇伝の一つである相州伝…、かの有名な刀匠相州正宗にまで起源を遡ることができますかね」
「正宗ってあの…伝説の?」
「ええ、左様です。妖刀村正に並ぶ程の名刀と言われていますね」
「そうなんだ。名刀である正宗とも繋がっているなんて、鬼喰さんって本当に由緒のある刀なんだね」
「恐縮です。ですので若殿、俺にもっと首と肉を斬らせて頂き」
「駄目だよ…。でも僕は草薙剣もいいと思うけどな、三種の神器だよ」
「その剣、聞けば今はもうお宮で祀らるだけではないですか。天照大御神から賜ったとは言え、刀は戦に使われてこそ本来の威光を発揮するもの。そもそも俺は、八岐大蛇なるものがこの世に存在したかも訝しく思いますがねぇ」
「鬼神になりかけてる鬼喰さんも十分神話の世界の住民だと僕思うけどどな…」
「かく言う若殿も十分に妖しい方だと俺は思いますがね。翼の生えた人間など、絵巻以外に見聞した者はどれ程いるでしょうね」
「僕らやっぱり似た者同士ってことなのかな」
「そうかもしれませんね。しかし現世に存在する以上、俺も貴方も決してまやかしではありませんよ」
「そっか、そうだね」
「ええ、左様ですよ」
「よし、じゃあ鬼喰さんの刀を磨こうかな」
「若殿、研磨ぐらい俺が代りにやりますよ。刃毀れの危険もありますし、素人ではとても」
「そうかな、ピカピカにしたかったんだけどな…」
「拭いて頂くだけで結構ですよ」
「そうだね、僕が刀身を傷つけても鬼喰さんに悪いものね…」
「お気持ちだけで俺には十分です」
「僕にとって鬼喰さんはお守りなんだ。呪いを込めたどんな護符よりも、魔を祓って僕らを守ってくれる、僕の神様なんだよ…」
「左様ですか」
「うん、だからこうしていつも綺麗にして、ずっと大事にするんだ…」
「左様で」
「僕にはもう家族は鬼喰さんしかいないから。鬼喰さんは何にも代えられない大切な刀なんだ」
「ありがたき幸せにございます、若殿」
「だから、もしこの旅が終わって僕の住むところが決まったら、きっと位の高いお社様に献納して、僕毎日お祈りに行くからね」
「…左様でございますか」
「本当は、僕がずっと刀を持って、生神家の血統で護っていたかったけど、幕府に売ってもう僕のお屋敷はないし…、穢れである鬼の僕には、子供を残せないから…」
「穢れ…」
「そもそも僕は女だから…、女の恋愛の事はよくわからないよ」
「…」
「子供の作り方もよくわからないし、父上は家督を継ぐだとか、子孫とかご先祖様とか、遺産相続とかの難しい話はしてくれたけど…。恋や男女の情の事とか、そういったことは僕には何も教えてくれなくて…。鸛が赤ん坊を運んでくれるって聞いたけど、鸛への頼み方がよくわからないんだ」
「左様で」
「僕の家、あんまり俗っぽい書物…物語を書いた絵巻や和歌の書物をおいてくれなくて…、ずっと修行ばかりだったから、大人の言う色恋の事は僕にはよくわからないんだよ」
「ほう」
「鬼喰さん…、僕も誰かと結婚して、元服したらわかるのかな」
「さぁ、どうでしょうねぇ。俺には人の情はわかりませんから。まして恋慕の情など」
「鬼喰さんは忠義の刀だものね」
「ええ、俺には戦と守るべき主君があるだけで十分です」
「そうだね」
「左様ですよ。ですから、若殿は、これからも俺と共にあるべきです。末永くお仕えしますよ、俺は若殿の御守りなのでしょう。俺の魂が尽きるまでお側でお守り致します」
「そっか…、そうだねずっと一緒に居ようね」
「ええ」
「今、京では攘夷志士と幕府の新選組が戦っていて、皆、世の中が一体何処に向かうのか不安に思ってるみたい…。僕は修練ばかりで学があまりないから、明治維新が何のことかはわからないけど…。でもこの浄化の旅が終わって、いつか新時代が訪れたら、また一緒に、二人でこの国を見て回ろうよ」
「御意に」
「約束だよ」
「…」
「どうしたの鬼喰さん」
「…若殿、畏れながら。もしこの戦が終わり、太平の世が訪れたら、刀の神である俺を一体どうするおつもりで」
「…?」
「刀は殺しこそ本懐、平時になれば人には不要になるものです。俺は武器であって、土を耕し米を育てる農具にはなりえません」
「…」
「その刀の故郷である戦も、力と武器が全て。黒船が来航し訪れた異国の者たちが、新たな思想と摩訶不思議な道具をこの国に伝播した…。それは織田の時代、長篠の合戦にて、信長公が火縄銃を使い武田軍を打ち破ったように、新しい技術は古き道具を過去に葬ってしまうもの。それは戦の理です。俺たち刀もいつかは人々の手から離れ、捨て置かれる時が来るのです」
「…」
「もしも維新が達成され、その時が訪れたならば…。若殿、刀で殺しの道具でしかない俺を、貴女はどうするおつもりですか」
「鬼喰さん…」
「…若殿、俺はやはり…」
「その時は…、鬼喰さんには神様になって欲しいな…」
「はぁ…?」
「さっきも言ったんだけどね。僕にとっては鬼喰さんは御守りで、神様なんだ」
「神…」
「生神家は、先祖代々鬼喰さんを妖刀として祀ってきたけど…。それは災いを鎮めるだけじゃなくて、刀に憑いた御霊を鎮魂することで、その村の守護神として幸福を賜る為でもあるんだ。どんな祟り神でも、人の信仰さえあれば、幸せの神様にだってなれるんだよ。だから、もし鬼喰さんが刀としての役目を終えたその時は…」
「その時は」
「戦乱の世から現世まで、子孫の手を渡り継がれてきた由緒のある刀、それに宿った鬼神…位の高い守護神として、平和になった世を見守って欲しいんだよ。僕が死んで成仏していなくなったその後も、刀の神様としてずっとこの国の行く末を見つめていて欲しいんだ」
「…」
「これは、僕の我儘かもしれないのかな…」
「…」
「だけど、僕はずっと鬼喰さんの刀を見て育って、ずっとお屋敷で一緒に生きてきて、ずっと僕を見守ってくれたから。だから僕が鬼喰さんを信じて祈り続ければ、きっといつか鬼神を超えた徳のある神様にだってなれると思うんだ」
「…」
「だから、僕は色々な人の死や血を見てきて、鬼喰さんも沢山の人の命を奪ってきて…。僕らはいろんな人の命…いろんな人の犠牲と血と汗の上にあって、現世を生きている。親がいて、兄弟がいて、僕がいて…、それは遙か過去にまで血を遡れる。妖刀、山村鬼喰神正信にも起源があるように。それはきっとすごいことなんだよ。歴史は人々の営みの積み重ねで一朝一夕で出来ているものじゃないんだ。歴史は人々の生きた証。父上がいて、僕がいて、将軍様がいて、時には人斬りや盗賊もいる…、そして鬼喰さんのような人ならざる神々とあやかしや草木や動物たち…、鳥、花、雨、風、雪、月、太陽…大いなる自然と過去に生きた全ての霊魂と命があって、ここまで時代は進むことができた…。天地人。きっとそれがこの世の理なんだよ。父上はきっとそれを僕に伝えたかったんだ…」
「…」
「僕は確かに人ならざる者、不浄の血を引く鬼の子だけど、でも僕も祈り禊を続ければ、いつかは、穢れのない綺麗な存在になれるんじゃないかって…。普通の人間みたいに、友も家族もいる、人として当たり前の生活を送れるんじゃないかって…思って…」
「家族…」
「だから鬼喰さんも僕も同じ。神も人も鬼もきっと関係ないよ」
「…」
「だから、僕が鬼喰さんを捨てるなんてこと絶対にしないよ。だって僕らはずっと一緒にいた家族だもの。血も繋がってないし、人…鬼と神は違うけど、きっと一緒にいても大丈夫なんだよ。だってこれまでも人はずっと自然の中で暮らして八百万の神様やご先祖様と一緒に生きてきたんだから」
「左様で」
「だから鬼喰さんは僕とずっと一緒にいて、僕が役目を終えたら、いつか人を守る神様になって、お社様で人の世を見守って欲しい。熱田神宮に祀られるあの草薙剣みたいに…」
「…」
「これじゃあ駄目かな…?」
「…」
「…」
「ふ…」
「鬼喰さん…」
「若殿、貴女は本当にお人が悪い。全く、残酷な方ですねぇ」
「え…」
「いえ、ただの臣下の戯言です」
「鬼喰さん…」
「それに、俺はとうの昔に神になっているのですよ。今はまだ鬼神程度ですが、いつかは俺も、若殿の言う人を護る神に…。いえ、既にもう俺は若殿を御守りする刀、俺は貴方をお守りする守護神そのものですよ」
「そうなのかな…」
「左様ですよ」
「そっか…」
「ええ、左様です」
「…」
「…」
「…」
「若殿、もう夕刻です。あんなに日が赤く燃えて海に沈んでいます。ここは御身体が冷えますよ。そろそろ宿に戻りましょう」
「…」
「若殿」
「…」
「…若…いえ、萌様、人の世では、男は女を抱いて慰めるそうです。悲しみに伏せ涙する女を」
「何を…」
「俺の前で涙を隠す必要はありませんよ。俺はこう見えて一柱の男神です。刀として貴女を主君と仰ぎ忠節を誓う以上に、俺は貴女を敬い、畏れている。もしかすると、俺にとっては貴女こそ神にも等しい生神だったのかもしれませんね」
「…うう」
「萌様、貴女をお慕いしています」
「…ううううう」
「俺は貴女をお慕い申しております…」

「萌様、畏れながら。俺は臣下という身分にありながら、主君である貴女の信頼を反故にする不義不貞を働き、申し訳なく思っております。首を斬り自害する覚悟です。しかしそれでも俺は、貴女をお慕いしながら、想いを遂げることなく、黙し秘する日々は、どうしようもなくもどかしく、苦しいのです。目の前にあって手に入らぬのは、俺には無間地獄にも等しい。萌様…、俺は貴女を愛しています…」

「生きとし生ける誰よりも、貴女をお慕い申しております。怨霊と人、鬼神と鬼の子。喩え死が二人を別つとも、末永く…。いえ、永遠に俺と共にあって下さい」

「俺の御霊は…、俺の魂は、ずっと貴女の傍らに。俺は貴女を、お慕い申しております…」

[7]滅びの美学

「平家物語とはよく言ったものです。四季を巡り人の世に神々が生まれるならば、人々の心から葬られ滅びゆくのも又、俺たち神々の定めや宿命なのでしょう」
「『祇園精舎の鐘の声諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色盛者必衰の理を表す』…きっと人の心に永遠に留まることは、僕らにはできないんだね…」
「ええ、死があるからこそ人は生まれ、巨木もやがて老い廃るからこそ新芽は若く鮮やかに彩るのでしょう。俺たちは時世を見定め、大いなる流れに身を委ね変わり続けなければならないのでしょうね。いつかくる太平の世がより良いものである様」
「一つの場所に留まることなく巡るのはもしかして僕らの宿命なのかな」
「俺たちの還る処…、俺たちの在り処はこの旅路で見てきた世間や村々そのもの。遍路こそ俺と貴女の宿命…。これが人生という奴なのでしょうねぇ…」

【3】あらすじ/プロット集(二幕)

[1]妖刀破魔道中弐

「あの村人、俺たちの事を何か勘違いしてるようですねぇ。俺はこの身なりですから武将と思われるのは自然な道理ですがね。まさか若殿が俺の小姓になってしまうとは…」
「鬼喰さんそんな顔しないで…、喜んでるのが透けちゃうよ…」
「これは失礼を…しかし若殿が俺の小姓…」
「鬼喰さんツボに入ってる」
「思わぬところで下克上を達成してしまうとは…かように人の世というのはわかりませんねぇ」
「あれ…鬼喰さんの中でもう主従逆転しちゃったの…?」
「いっその事、このまま小姓として俺に仕えますか若殿。懇ろに扱いますよ」
「鬼喰さん目が笑ってないよ…」
「冗談ですよ、そこまで身を引かずとも良いではないですか」
「だって僕が鬼喰さんに仕えたらそのまま後ろから刺されそうなんだもの…、いつ死んでもおかしくないなって…」
「それは否定しませんが」
「え」
「ともあれ、この宿にいる間は若殿は俺に仕える体ですから、どうぞ俺を敬い奉仕することですね」
「はい…」

[2]寿司

「お寿司食べてみたいな」
「若殿、遂に御乱心されましたか。火を通さず生魚を食べるなど、亜米利加に対する挑戦ですか。結構なことですがね」
「あれ、もしかして鬼喰さんお寿司のこと知らない…?」
「ええ、なんのことやら」
「あのね、今江戸で流行ってる小粋な食べ物の事だよ。酢飯を握ってその上に新鮮な魚の切り身を乗せるんだって。このぐらいの小さい長方形の形に酢飯を握って…、その酢飯の部分を『シャリ』、魚の事は『ネタ』っていうらしいんだけど、そのネタに醤油をつけて食べると、その塩見が魚の味を引き立てて一層美味しいんだとか」
「ほう…それは食指が動きますねぇ」
「越後から江戸に行くには何月もかかってしまうし、越後は港町の方までいかないとお寿司を食べられないみたいで…。だから自分でも作れるかなと思って魚を釣ってみたのだけど、川魚ってお寿司になるのかな?」
「どうでしょう。俺にはわかりかねますね」
「考えてみたらお酢もないから取り敢えず生で食べようかと…」
「食に対する探究心は結構なことですが、鮮度の悪い魚は身体の毒になりますし、川魚は腹に虫を宿している可能性がございますよ。火を通さずに食べるのはあまりお勧めできませんがね」
「鬼喰さん、詳しい。前の使い手の人や刀工の人が魚好きだったの?」
「いえ、俺の私的な興味ですが」
「そうなんだ」
「魚は庶民にとっても、武士にとってもたいそうな馳走で戦に勝った時や祝い事には欠かせない食物でしたので、その影響ですかねぇ」
「そっか、お魚はすぐ釣って食べないと生では食べられないし、焼いても腐っちゃうから、上様やお宮の人でもきっとお魚は貴重なんだね」
「左様ですよ。俺も一度食してみたいものです。その寿司とやらを」
「そっか、じゃあ今度の神饌(しんせん)にするね」
「ありがたき幸せ」

[3]色男

鬼喰は仮にも祟り神である為か、背筋の凍り付くほどに造形の整った美形であり、妖力が強すぎる余り人並み外れた魔性の気を持ち、全身が満ちている。

 そんな鬼喰は年頃の娘には危うく魅惑の色男に見えるらしく、余所者に排他的な村や華やかな町であっても、初見の女を魅了する謎の「お約束事」があった。
 ただ、眼光からは常に殺気が放たれ、一歩鬼喰の間合いに踏み込めばその人ならざぬ邪悪な気を瞬時に感じ取ってしまうのか、近づくほどに生気を奪われるような悪寒がして、即座に身を引いて避けてしまう。

 鬼喰は殺された者や人斬りの怨念や怨霊の塊であり、悪霊の類に近い鬼神なので。一見すると魅力的な容姿に見えるがやはり、嫌な邪気を感じるのか、修練を積み強力な霊気を持つ萌以外は鬼喰と共に過ごすなどとてもできない。

 しかし、そんな恐るべき殺人刀だが、腐っても美剣士であるせいで、鬼喰の妖気に当てられても懲りずに村の娘が近づいてくる。
「そこのお兄さん、素敵ね。芸能でもやっていらっしゃるの?」
と言って色づいた仕草で鬼喰の腕に絡んで上目に見つめて誘いこもうとするが、傍にいた萌は鬼喰の正体を知っているのと、何とも言えない感情がこみ上げて顔が真っ赤になり、思わず
「だ、だめだよ!この人から離れて…!」
と鬼喰の腰に抱き着いて、鬼喰を女の手から離そうとする。しかし女は諦めない。それどころか突然童子が間に割ってきた事に苛立ったように眉を怒らせる。

 片や右腕に女が絡んで、片や懐に主君は抱き着いて、よくわからない板挟みにあって思わず仏頂面になる鬼喰。そんなことお構いなしに強気に腕を引く娘。
「ちょっと邪魔しないでくれる?あんたまだ子供でしょ、この人はこれから私と一緒に良いところに行くの。大人の恋路を邪魔しちゃ駄目よ坊や。ほら子供はさっさと帰って……いいからその手を離しなさい!」
 半ば怒鳴る様に萌に威嚇して、女が腕を引くごとにみるみる顔を顰め邪悪な顔をする鬼喰。腰に据えた妖刀が独りでに震えだして、鯉口から刀身が抜け出てきそうな勢いで鞘がこちこちと音を鳴らし始める。刀は鬼喰の妖気に敏感に反応して、怒りに震える神のまにまに女に向け刀全身を飛ばし突き刺そうとしていた。しかし女は余程鈍いのか、怖いもの知らずなのか、鬼喰の殺気に全く気付く様子もない。これは本当にまずいと萌はとうとう悲鳴のような悲痛な声をあげて言った。

「この人は僕の父上なんだ!だから絶対にだめぇぇ!」

 まるで駄々でも言うような間抜けな言い訳を公衆の面前で大声でかまし、鬼喰の腕を女から掠め取ってそのまま抱き着いた萌。小姓のような見た目の子供が必死な形相で男に縋りつき女を牽制する様。
 胡乱な目で見つめる村娘に、青虫でも噛んだみたいな呆れた顔をする鬼喰。そして女はみるみる肩を震わせて、堪え切れないというばかりに噴出し、「あははは!」と、人目も忘れて声を立てて笑いだす。村娘の笑い声に比例するように青白くなっていく萌。
 鬼喰と萌、二人の間を茶化す様に笑い声が虚しく響いて、村娘は毒気でも抜けたようなさっぱりした顔をしながら肩を竦め薄笑いを浮かべて言う。
「そう…。まぁ普通そばにいてほっとく訳もないか。そうよねぇ…。にしても、こぉーんな若くて美形な色男が貴方の『お父様』だなんて素敵ねー。そりゃあ、誰にも取られたくないわよねぇ?」
とうっとりとしたように頬を触って、うんうんと頷きながら、いやらしく目を細めて萌を詰ってくる。目線を下げて縮こまり、身を小さくする萌。鬼喰は腕を組んでじっとりした目で萌を睨んでいる。
「じゃ、坊や。貴女の大事な『お父様』を盗ろうとするいやーなじゃじゃ馬娘はちゃーんといなくなりますから、せいぜい君の『お父様』によろしくね、どうぞお幸せに♡じゃね」と含みのある言い方をして、わざとらしく鼻歌を歌って軽い足取りで去っていった。
 果たして一体、女はどんな勘違いをしただろう。我関せずと二人を放置していた鬼喰も又、女の姿が見えなくなると、途端鬼の首をとったような嫌な笑いを浮かべて、
「ほぅ、俺のような若造の見てくれの男が若殿の父君になってしまうとは、とんだ先代に対する侮辱ですねぇ…。そんな苦しい言い訳するならいっそのこと夫婦とでも言えば宜しいのに」
と嫌味ったらしい口調で言った後、手荷物を抱えて「では参りますかね、『愚息』殿」と仏頂面のまま宿屋に向けてさっさと歩き去ってしまったので、萌は肩を下げて縮こまり、見ず知らずの村娘が鬼喰を連れて行こうとしたことを無意識に妬いてしまったことに気が付いて、顔を赤くしながら静かに恥じてしまうのだった。

[4]断髪式

萌と鬼喰の越後での活躍を聞きつけた村上藩の城主である伊藤家は、その実力を認め二人を村上藩直下の陰陽師とその式神として迎え入れ、二人は城入りすることになった。
 しかし彼らの霊力と秘術を妬み恐れて、城内の勢力均衡が崩壊して自分達一派の発言力や立場が弱まるのを危惧した伊藤家の家臣が、彼らに濡れ衣を着せ陥れ、村上藩の陰陽師として生神家を推薦した伊藤家当主の顔に泥を塗る失態を犯したとして、厳しい刑罰を処しそのまま城内から追放しようと企てた。

 その目論見は成功して、彼らは追放処分にこそならなかったものの見せしめとして伊藤家から厳しい処罰を受けることになった。その処分の内容について伊藤家が悩んでいたところ、鬼喰は伊藤家の前に進み出て跪き、頭を垂れて、主君の身代わりを申し出た。
 
「畏れながら申し上げます。この度、私共の失態の原因は萌様にあるのではございません。今回の事は全て、従者である私が独断で行った事、戦況を甘く見た私の不備と不敬の致すところでございます故。処分は生神家の臣下である私が受け、全ての責めを負いましょう」

 そう言うとその場に立ち上がり、髷に短刀を宛がったと思えば、そのまま躊躇なく切り落とした。ぼとり、と足元に落ちる髪束。それを見た萌は血の気を引いて青ざめてその場に蹲り、うなじを見せつけるようにして地面に頭を伏して、しずしずと涙を流しながら土下座をしながら言う。

「今回の事は全て私の責任です。どんな責めも私が負いますので、どうかお許しください。どうか彼だけでも…、伊藤様、どうかお慈悲を…」

 そのように互いを庇い合い堅い信頼関係で結ばれた萌と鬼喰をみた伊藤家当主は、もともと彼らの実力を評価して城に招き入れてたこともあって、二人の処遇に深く同情し、当主とその家臣たちの面前で容赦なく髷を斬り捨て辱めを受けた鬼喰や、己の立場を顧みず土下座したまま動こうとしない萌に免じて、断髪は処罰として充分であるとそのまま解放することになった。

 そして与えられた部屋に戻り、鬼喰が後ろ手に戸を閉めると、萌は無言のまま後ろをついて来ていた鬼喰に振り返り、もう耐え切れないとばかりにぼろぼろと涙を流して、畳に身を落として突っ伏しながら号泣した。
「ごめんね鬼喰さん、お侍様にとって髷は大事なものなのに。なのに…僕が不甲斐ないばかりに…鬼喰さんが…」
と言って泣きながら何度も頭を床に擦りつけて謝るのを、鬼喰は急ぎ静止して萌の身体を抱き起こしながら言う。

「おやめください若殿。こんなもの恥辱のうちにも入りませんよ。俺は武士道を貫いたまでです」
「武士道…?」
「俺は、俺の目の前で主君に不当な責めを負わせ、公衆の面前で恥をかかせるなどと、そんな不敬をみすみす許す男ではありませんよ。俺は武士である前に貴女の従者であり貴方をお守りする盾なのです。主君の名誉を守る為ならば、このこくらい容易いこと。貴女が気に病む必要などありませんよ」
と造作もないような顔で言い切り、当たり前のように謙譲するので、萌はますます罪悪感で顔を曇らせ、喉をしゃくりあげながらいつまでも目を擦っていた。

 鬼喰は、俺は当然のことをしたまでの一点張りで、萌もまた引かずに謝ってばかりで塞ぎこんでしまうので、鬼喰は解せない顔をして、それでいて一向に泣き止まない萌をどう扱っていいのかもわからないように首を捻り「僕を殴って欲しい」だとか「僕にできることならなんでもする」と必死に自分い追い縋る萌を尻目に、思案するように目を伏し首を傾げていた鬼喰はやがて口を開いて「では髪を整えて頂けますか」と真面目な顔で言った。
 髪。髷の取れた鬼喰の頭は、天辺の毛こそ生え揃っているが、他は殆ど落ち武者のようである。萌は上手く飲み込めないような、不安気な顔をしながらも、じっと見つめてくる鬼喰の目に気圧されて、おずおずといったように頷いた。
 
 落ちた髪で畳が汚れぬように畳の上に白い布を敷いた後鬼喰はそこに胡坐をかき、萌は言われるままに鬼喰の背後に足を畳んで座り込み、化粧道具の中から櫛と鋏を取り出して、短くなった鬼喰の髪を丁寧に梳かし始める。鬼喰の髪の毛は丁度、襟足より少し伸びたところで散切りになっていて、髪を梳いた後、腫物でも触る様な臆病な手つきで鋏を入れながらも、傷んだ毛先を丁寧に切り落とし、後ろ髪を襟足の所で整える。すると、これまで羽織の襟や結った髪で隠れていた鬼喰の首元が露わになり、薄皮一枚の上に血管が浮かび上がっていた。

 首元。それは武士にとって鎧でも隠し切れない人体の急所の一つでもあり、それを面前で無防備に晒すのは、いつ命を狙われ奇襲にあって死んでもおかしくないという事。人前で武具を解くことはそれ程に危険な行為であり、ましてその時に他者に刃物を許することは、命をその場に捨て置くに等しい事だった。
 萌は今、鋏という刃物を持って鬼喰を散髪している。もし萌が騙し討ちという形で刃先で鬼喰の首を貫けば、如何に鬼喰が凄腕の剣客で幾つもの修羅場を潜って来た猛者であったとしても、とても対処しきれないであろう。まして自分は彼の主君であり、こうして武器も持たずに気を休めているのだから。それ程に今の状況は鬼喰にとっては危険な状態で、当の鬼喰はそれを気にかけた様子もなく、恐ろしい程に平静を保ったまま、全てを萌に委ねてその命をも預けている。常に警戒を怠らず誰であっても隙を見せない鬼喰にとってはそれは異常な行動であった。
 そう、だからこれは間違いなく人斬りである鬼喰にとっての、最大限の敬意と信頼の示し方だった。これが鬼喰の忠義の形だ。まるで矜持や誉以上に、鬼の首を取れるなら取ってみせろという威圧や脅迫すら感じられるほどに。
 
 萌は思う。鬼喰は何故これほどまでに自分を従い尽くすのだろう。忠誠心と言い切ってしまうのは安いものだが、自分は誰かに奉仕される品格があるわけでも、まして伊藤家のように多くの家臣を従えて藩を統べるような実力のある人物でもない。萌は生神家の当主というにはまだ幼く、先代の父親に並ぶにはあまりに青く、威厳も経験も実力すらも覚束ない。
 だから今回のように伊藤家の面目を潰す様な失態を犯し、内政を裏で牛耳る策士に良いように利用されて侮辱を受ける。伊藤家の従者としての自覚や鬼喰の君主としての覚悟も足らず、その責任も取れぬが故に追い詰められ、仕舞にはたった一人の臣下の立場すら守れずに公衆の面前で恥をかかせてしまう。こんな不甲斐ない自分が、常に君主の立場を思い図り結果を残さんと奮闘する鬼喰の忠節や誠意を受けるのは、不相応で烏滸がましい事に思えてならなかった。髷を失い短髪になった鬼喰の後ろ頭は、自分の至らなさの象徴に見える。床下に散らばる髪は無言で自分を睨め上げる。まるで僕を責めるかのように。
 鬼喰がこうして自分に命を晒し、あくまでも本意である主張するのは、自分への慰めと気遣いだろうか。鬼喰の優しさを受ける度に自分の器の小ささを否応にも感じられて、萌は鋏で髪を切り落としながらも、押し潰されそうな程の自責の念でじっと嗚咽を堪えていた。
 
「如何です。俺の髪はよくなりましたか」

 鬼喰は時折萌に声を掛けながら、ただ無心に髪が整え終わるのを待っている。萌は後ろ髪と天辺の髪を整えた後、今度は鬼喰の正面に座って伸びかけていた前髪も鋏を入れて切り、最は髪を櫛で梳かして顔に付いた髪を落とし、完成したところで畳の上に鋏を置いた。そこにはすっかり髪が短くなり、常識も何も知らずに都にでてきた田舎者のような鬼喰がいた。武士としての矜りと体裁を無くし、結える髪もなく最早落ち武者ですらない散切り頭の短髪、何の変哲もない男がそこにいた。鬼喰はとうとう主君である自分の為に、何も持たないただの男になり下がってしまったのだ。
 判事の審判を待つかのように厳かに、粛然と目を閉じて胡坐する鬼喰。萌は数刻ぼんやり見つめた後、そっと鬼喰の頬に手を添えて、包み込むようにして人撫でしたあと、そのまま鬼喰に頭を垂れて合掌でもするように両手で顔を覆いながら言う。
「鬼喰さん、いつも僕の事を思って良く働いてくれるのに、その忠義に応えられない愚鈍な主人ですみません」
 表情こそ見せない萌だったが、声は所々ひっくり返っており、平静を装いつつも、嗚咽を飲み込んで口元で小さく謝罪を繰り返していた。今の自分が鬼喰を癒すためにしてやれることなど、その心を汲んで労わる程度のことしかできない。萌はただ鬼喰を痛ましく思い、その心中を惟り心を傷めていた。
 
 鬼喰はゆっくりと目を開き、目の前で肩を震わせながら身を縮め俯いている萌を静かな顔で見つめている。手に頭をやれば髪はすっかり短くなっていて、畳に敷いた白い布地の上には切り落とした髪が乱れており、一房摘まんで手に取ってみれば、さらさらと砂のように形を崩して指からすり抜け光に溶けて還っていく。それでも数本の髪は消えず残って未練がましく手に絡んでいた。鬼喰が髷を結うまでに髪が伸びるにはきっと数年はかかるだろう。それも怨霊である自分をこの世に具現させ、肉を与えた宿主である萌の気を養分にして。
 鬼喰は思った。果たしてこの方はあと何年生きられるだろうか。妖刀を纏う邪気を祓い、俺の御魂清める為に常に大量の気を放出し、日頃鬼喰の幽体をも維持している萌は、間違いなく自分の怨念によって蝕まれその寿命を削っている。鬼喰がこのような形でこの世にある限り、萌の生命力は鬼喰に喰われ衰えていき、身体も腐りやがては死に向かうだろう。鬼喰と萌の関係はそう長くは続かない。どんな形であれ、いずれ別れは訪れる。それが自分の肉の喪失であるのか、御魂や神格の喪失であるのか、それとも萌の死であるのか。それは自分達に選べるものではないが、喩え自分が人ならざる鬼神や怨霊、物の怪の類であっても、この世にありつづける保証はない。後何年自分は人の姿であれるというのか。それも又自分達に御せるものではあり得ない。自分達が共にあれる時間は相当に限られている。木が腐り、花がやがて枯れ落ちるように、人も又、老いてただの土塊に帰っていく。この世の理は諸行無常。万物は流転し魂は輪廻を巡る。
 そう、人の世に永遠など存在はしないのだ。

 そんな鬼喰の思念を読み取ったように、布地の上に散っていた髪束も指に絡む髪も、やがては空に消えていった。光の粒となり淡く輝いた生命力は、まるで自分たちの行く末を示すかのように儚く燃えて消えていく。
 萌は頭を下に垂れたまま涙を堪えて、処罰でも請うように鬼喰が口を開くのをじっと待っている。鬼喰はしばらく手元を見つめた後、その手を伸ばし、自分の懐に抱き入れるようにして萌の身体を引き寄せた。突然の事に息を止めて身を強張らせる萌を他所に、鬼喰は口を開く。
「人間というのは本当に理解できませんね。何ゆえそこまで悲しむのですか。俺は殺人刀の怨霊ですよ。そもそも人の世にあってはならぬ存在なのです。まして俺と貴女は契約を交わし貴女の生命を喰ってここにあるのですから、貴女を守り泥を被るのは自然の道理ではないですか」
「怨霊だなんて…僕は、鬼喰さんのこと…」
 やはり萌はぐずりと鼻を鳴らして、鬼喰のした行為を上手く飲み込めないように緊張で固まってしまったので、鬼喰は無言で萌の首根に顔を寄せ、どくどくと脈打つ臓器の音を聞きながら、諦念にも似たような溜息を吐いて言った。
「萌様、俺は決して忠義者ではありませんよ。俺は、決して忠節などの為だけに貴女に仕え従っているのではありません。俺は気位だけでここにあるような、そんな純朴で綺麗な男ではありませんので。…まぁ、半世紀もない若造の貴女には、永遠にわからぬかもしれませんがね」
 そんな風に毒づく鬼喰の声は冷たく、心なしかいつもの威勢と覇気がない。そうして萌が嗚咽を止める頃には、鬼喰はむんずと押し黙り、自分を懐に抱きかか得たまま、寄りかかる様に萌の首筋に顔をおしつけて動かなくなってしまった。萌は自分の居所のないように目をうろうろとしながら、おずおずとした仕草で鬼喰に倣って背に腕を回し、抱き切れないような恰幅の良い男の身体に自分の小ささを感じながら、その首筋をさすり鬼喰の肩口に頬をつけて尋ねた。
「僕、鬼喰さんに何ができるの?」
 鬼喰は皮肉に顔を歪ませて、萌の控えめな抱擁を甘受し強く抱き返しながら薄く笑う。
「俺を武士や従者としてではなく、男神として…、いえ、神でも悪霊でもない、ただの男にしてはくれませんかねぇ…。貴女に仕えていると、時折、俺がまだ数年も生きていない小童なのではないかと、やりきれなくなりましてね。わかりますか。こう見えて俺は貴女より数百年も過去を長く生きていましてね。私的な事であっても、それなりに貴女のお役に立てるとは思うんですがね」
と、嫌味でひねた言い方をしても、萌はやはり口答えせずに「そう…」としんなりとかわしてしまうので、鬼喰は萌の首に頭を埋めて、その襟足の整った首元を見せつけながら拗ねたように、それでいて子供が母親に物をねだる様な幼い仕草で頬を擦りつけ低く笑った。これはなんと可愛げもなく喰えない女だ。

 自分の首筋に手を這わせ慈しむようにして頭部を撫でる萌の手は、決して自分の首を絞めて殺すことなどありえない。喩え自分の存在がその生命力を蝕もうと、この方は決して鬼喰から何かを奪うようなこともせずに、ただ友人として家族として当たり前のように優しく温和に接している。呪い拒むどころか祓いや浄めで己の怨念や邪気を鎮めてひたすらに癒そうと悪態を受け止めてしまう。
 いっそこのまま殺してくれれば、何の躊躇いもなく道連れにできるのに。
 従者として仕えられる事も望まず、忠義者として死ぬことも許さず、武士として人を斬り殺すことも叶わず。己の君主であることも辞さず。男としては相手にされずに、恐ろしき鬼神としては祀られ、眠る時は母のように傍らに寄り添い、俺はただそこにあるだけでよかった。女は何一つ俺に求めずに、俺は女に何もする必要がなかった。女はただ俺がそこにあるだけで満足なさり、渇いた心を置き去りに、一人幸せそうに笑っている。
 人とは、女は、いや…この鬼の子はなんて残酷な生き物だろう。人を斬り殺す為に武人を究め、首を取る為に刀は研がれ、人を呪う為に力も得て、女が封を解いた為に人の肉を得てこの世に生まれたというのに。俺に何一つ許さずに只やみくもに心をかき乱すばかりで、その癖、数十年すれば勝手に儚くなり死んで逝ってしまう。このまま飼い殺しになるならいっそ、身体を組み敷いて無理に抱き潰し、腰を打ちつけて絞め殺し、俺をわからせてやりたい。俺が何者かを。俺が日頃何を考えているかを。
 きっと女はわからない。俺はただそこにあるだけで、ただ女の傍にいるだけで満足するような、そんな綺麗で純朴な男ではない。花を愛でる時の優し気な瞳も、子を撫でる時の柔らかい手も、詩を遊ぶ時の艶やかな口も全て、俺に向けられないのが一層苛立たしい。そこに流れる血も、たわわな肉も、脆き骨も臓器も御霊もその心すらも全部、一片も残さず俺のものにならないと気が済まないというのに。俺は忠節を重んじて畏まり身を引くような物分かりのいい男ではない。人より更に凶悪な毒気を湛えた欲深な男神なのだ。
 
 もし、男女の情が永遠というのならば、何故の人の肉は老いて醜くなりやがて死んでしまうのか。
 愛が常しえに続くというのならば、せめて人の肉をもっと丈夫にしてはくれないか。神の寵愛に耐えうる程の肉を。永き時を共に添い遂ぐ女を。俺を慰むる永遠の命を。

 髷を失い、武士としては死んでしまったのかもしれないが、その代わりに俺は今ただの男として一人生まれた。髪は短く、矜持もなく、もはや女を慕い抱いて寝る以外に生きる術もないのだ。
 だからどうか、俺を男として愛してはくれないだろうか。
 そうして無言で抱き合っていると、余程疲れていたのか、俺の温度に緊張の糸も解れてしまったのか、萌は自分に抱えられたまま全身を預け寝入ってしまった。結いあげられた髪の合間から覗く白いうなじ。首筋を滑る髪の束。色気すら感じられる程の鮮やかな肌。抱き心地の良い柔らかい肉。揉めば乳房は弾力を持って手の中に収まり、腹の薄い膜の下には血が通い、まだ男も知らぬ純潔の胎が眠っている。
 この細い首筋に刀を宛がいそのまま首斬ってしまいたい。鞘には一本の刀を。生きとし生ける人の肉には真っ赤な血染めの死化粧を。そんな邪心を堪えて肉欲にも耐えながら、許しを請い救われたいが如く肉に甘えて、ただじっと、女を抱きすくめて心を慰めていた。

[5]武士道

 今でこそ主従関係を結んでいるが、ただですら肉が強いのに鬼喰の妖力が強まり暗黙に力関係ができあがり、主従すらも逆転して、もえは小姓か内縁の妻扱いになる。

 普段萌は悪意と邪念に囚われた鬼喰の暴走の後始末に関して、人に頭下げて回り鬼喰の知らぬところで地面に頭を付けて土下座してることが多い。

「何ゆえそんな事をなさるのですか。そんなことせずとも、あのような不貞な輩は俺が切り捨てたものを」
「僕は戦う力もなければ、まだ子供でお金も立場もないんだよ。こういうやり方でしか、僕は鬼喰さんのことを守れないんだ。力のない主人でごめんね」
と言って寂しげに笑う萌と土に汚れた装束を見て、鬼喰は今の自分のやり方では敬愛する主君すらも守れないと気がづく。刀を振るうだけでは人の世では生きてはいけない。人には政治が必要なのだ。

 生き血を欲するは畜生が肉を貪るが如く、獣の本能に従い悪戯に人を殺し弄ぶことは、人斬りでもなく下衆の極むるところ、殺しを悦びやがて生殺を嬲るは外道に過ぎず、それは戦に興じ剣技を究むる修羅ではなく、ただの俗悪に堕ちた悪鬼に過ぎないのか。
 だからこそ、殺人剣には魂が必要なのだ。殺しの本能を御する一本の霊光、理性の光。人の為己を仕るは誉れ高く、剣客は殺さむる人にこそ憐れむべきぞ。精練せし御業は矜持を孕み美徳をも欲しいまま刀は威光を発するもの。己を律するはただ一本の人の法。
 そう、侍の魂たる武士道こそ、殺しには必要不可欠なのだ。

[6]源氏物語

 神に御贄を備えるように、人の世には親しい人に贈り物をする習慣があるらしい。
 それを知った鬼喰は、人にしては聡く妙案に思った。想いは秘すれども口では上手く形容できぬもの。とても口にできぬ浮いた言葉の代わり、日頃の感謝と敬愛をこれにて萌様に伝えよう。そうして鬼喰は善は急げとその晩贈り物をしようと考えた。生まれこの方人を斬り血を見る戦ばかりだったので、最初の手土産に相応しいものをと、上物の武将の首を持って帰りそれを献上した。
 それを見た萌様はまず驚き慄いて尻餅をつかれた。動揺した様に瞬き怯えた様子で狼狽しながら、やがてのっそりと立ち上がり、綺麗な布で俺の武将羽織の血を拭って「一体誰を斬ったの?」と覇気のない声で尋ねてきた。てっきり喜ぶものと思っていた鬼喰は肩透かしでもくらったように興醒めて、肝心の生首は斬りたてをそのまま抱えて持ってきたので、顔は白目を向いており、死の恐怖に歪んだまま、断面からすっかり血が流れ落ちて青白く事切れて腐り始めている。
 古来より人は神に際して獣を屠り肉を奉ってきたというに、対する人はなんと気難しい生き物であろうか。萌様は贈り物の首を地面において暫し黙祷し、その男の目を伏せて顎(あぎと)を閉じてさしあげた。そして全身を血で穢した俺を見ては、ただ憂愁に浸り、悲しい目をむけるばかりであった。褒められこそ、泣かれる覚えのない俺は、ただ解せないというばかりに首を捻り、その夜は八つ当たりでもするようにして萌様を手荒に抱いて女の悲鳴と快楽で御魂を慰めていた。
 
 此処は霊山。人気のない清らかな森の中、陽の当たる場所の土を掘り起こし、昨日の首切り頭をそこに埋めて、形の綺麗な石を置きそれを墓として祈り、俺が適当に見繕ってきた野花を丁重に供えては、蹲りめそめそと泣いておられた。
 今は戦乱の世、武士は切捨御免で無罪放免、殺人は罪にこそ問われないが、俺の魂はまた血で穢れてしまったらしい。主君に契約す俺は兎も角、何故この見ず知らずの男までも、萌様の憐れみと慰みを受けようというのか。
 死して尚俺の主君を惑わそうとは、よもや士道武士道もわからぬ下劣にて死にぞこないの姦賊め。そうやって侮蔑の眼差しで墓下の男を覗いていると、萌様は徐に立ち上がり、神妙な顔で俺にこれを殺した理由を尋ねてきた。貴方はもう無差別に人を殺すものではないとして俺の身を案じ不安がる萌様を見て、少し朗らかな想いになるのを感じながら、贈り物をするまで黙っておくつもりであったが、萌様の喜ぶ顔を見たく存ずる旨を伝えた。しかしやはり萌様は喜び俺に笑いかけるでもなく、度肝でも抜かれたような顔をして開いた目をじっと俺に向けていた。
「僕、そんな酷い人に見えてたのかな。この人に申し訳ないな」
 やはり俺を怪異に思ったのか酷く怯えられ、挙句俺やその首に向けて頭を下げ始めるので、どうにも二人の間に何かしらの齟齬があると思い詳しい経緯を話した。聞けば俺の言葉足らずだったようで、萌様は贈り物については喜びなさり、しかし人を私情や私怨などで斬ってはいけない、と厳しく咎められた。なんでも女は武将の首を討ち取った程度では喜べぬらしい。俺の頃は自陣の者が敵将の首を取れば、兵も将も皆一様に舞い上がって喜び、更に血と肉を渇望して士気も勢力も増すというに。少なくとも本丸に控えおろう殿は勝利を喜ぶ。戦利品も得られ武器庫宝物庫は潤い何の憂いもないのに。
 まさか、将軍家を暗殺し徳川公の首でもご所望なのだろうか。思わず口にすれば、萌は少し難しい顔をした後、気分でも害されてしまったのかと伺う俺に「そっか、鬼喰さんはそういうことを誰にも教わってこなかったんだね」とやはり哀愁のある趣で、宿に戻った後人の世で言う所の贈り物がどういったものか、詳しく指導して下さった。

 なんでも贈り物とは神に祀る供物と同じように、その年採れた野菜や米などの作物、季節の旬の食べ物や、茶菓子などのを贈るのが主であり、食物の他に、花や織物など美しい装飾品や召し物などの工芸品を人は普通好むらしいのだ。もともと子を儲けたり、婚姻や祭日などの祝い事に際して人に贈るものだから、人の生き死にに関わる事、まして無為に人を殺してその首を謙譲するなどもっての他である。萌様と俺が正座して向かい合い早一時間、とかく無益な殺生はいけないと、自分の為に殺しをして喜ぶ者はいないと、真面目な顔をして繰り返し俺を説教なさった。
 元々生神家は由緒ある陰陽道の家柄であり、式神を操り魂を鎮める祓い清めを生業とし、血や殺しといった穢れを嫌う祈祷師であるからには無理もないが、特に萌様は賊に一族を皆殺しにされてからというもの、殺生に対して酷く敏感であられるようで、遍路の道中に人が儚くなっていれば、喩えそれがならず者の破落戸(はらくこ)であれ、分け隔てなく祈り、亡くなった者にさえお慈悲をお与えになるのだ。

 どうにも俺たちのような殺生を生業とするものの理屈とはまるで違うようである。俺が戦に出ていた頃は、間違いなく武将首は最高の手土産となり、親兄弟を殺した武家や血と汗を流し育てた穀物を奪う横暴な匪賊への仇討ちは虐げられた貧しい村人たちには大いに喜ばれたものだ。時に地方に伝わる伝承の一つである桃太郎物語などにおいても家来と共に鬼の首を取り財宝を持ち帰って喜ばれたというので、やはり萌様は多少世間知らずの潔癖症であられるように思える。確かに桃太郎物語においては鬼は悪し様に扱われ、璃々夢(りりむ)なる鬼の子として生まれた萌様にとっては、人の世は悪しき鬼として退治される物語の多い事、いつ正体を明かされ打ち首になるかと恐ろしいのやも知れぬ。それ故に戦や殺生における善悪や人の道理に過敏にならざるを得ないのだろう。こんな生活をしていては、何れ萌様に毒され俺の刀も鈍ってしまう。しかし俺は今代の生神家当主の萌様に仕える身、君主がそう命じるならば、快諾するのが萌様に対する俺の忠節であり、従者たる武人にとっての武士道であり、主君の御心を敬い尽くすのは士族の誉である。喩え俺の生業が殺しであり人を呪う鬼神であろうとも、萌様がそう望むのであれば、僧侶であろうが、伴天連であろうが、俺はいかようにも変わる所存である故。物分かりのいい修行僧のように頷き、深々と頭を下げその場は収めたのである。
 
 さて、萌様が口を酸っぱくしてご教授された贈り物の作法であるが、人の世にはまだ書にも記されぬ暗黙の習わしがあるらしく、普通献上品は親族や仕える主人に贈るものでもあるが、どうも男女の間を取り持つ為にも利用され、古来は男が女と懇ろになる為に詩を詠み文などを届けたというが、今では玉や華やかな装飾品や召し物を贈って女を喜ばせるというのだ。なるほど女とは魔性のもの、竹取物語にもあるが女はいつの時代も男の矜持を煽り、金銀財宝を奉納させ富や時世を欲しいままにするのだなぁ。
 しかし萌様は人里を離れた霊山にて修練していたこともあり、どうも世俗的な女と趣が違う様で、贈り物はその人が喜ぶものが一番良いのだとか、懇意にしている者なればいかようなものでも嬉しいのだとか、常々理屈ではないことを良きことのように仰る。ならばあの時俺が贈った首はお気に召さず、俺は端から相手にされていないという事なのだろうか。
 なんだか変な気が沸いてきたので、気晴らしに出歩いて辺りの草を切り刻み、鹿や猪などを一撃にて仕留めその生き血を刀に刷り込んで気を鎮めていると、何やらそこに斬られず無事に咲いた花がありふと目に留まった。あれ程刀で原一面を薙ぎ払ったと言うに、まるでどうという事もない様ににふてぶてしく凛と咲いた花に不思議と神秘的なものを感じ、また畜生の首や肉を持って不興を買うのも俺の本意ではないので、その花を一輪不器用に摘み上げて元の道を戻り、宿に帰ってみれば早々に心配したように困り顔の萌様が俺を出迎えて、取り急ぎ事を確認しようとするので、俺は何を思ったのか、また説教を嫌って乱心でもしていたのか、無言のままにその名も知らぬ野花を萌様に手向けてしまったのだ。
 
 本来俺は萌様に贈り物をするつもりでなく、ただの憂さ晴らしに畜生や草を切り刻みに行ったのだが、どうも萌様はそうとは受け取らなかったらしく、たかが道端に咲いた花一輪を大袈裟に喜んで、部屋に戻れば硝子瓶に入れて見晴らしのよい場所に飾り、後で押し花にして栞として大事にすると言い、部屋でただ立ち呆けているだけの俺の目下まで歩み寄り、何を恥じらっているのか、生娘のようにいじらしく、もじもじとした様子で俯き、耳打ちでもするように小さな蚊の鳴くような声で一言、「ありがとう」と、その月初めて俺に微笑みなさった。
 人と言うのはかようにわからぬものだなぁ。あのかぐや姫もまた、求愛を受けるにあたって男に伝説の秘宝を求め、無理難題を引っ掛けては体よく愚図な男共を振ったわけだが、片や伝承にあるような幻の金銀財宝や綺麗な召し物を喜び、蝶よ花よと愛でられ男の自尊心を悪戯に弄ぶ女に、片やこんな道端の花一輪に莫迦騒ぎして、男の興を削ぐ酸いも甘いも知らぬ世間知らずの貧しい女。果たして一体どちらが雅で、どちらが無粋であるのか。男がありがたがり至高とする女の程は、物の怪の類である俺にはとても見当もつかぬが。しかしまぁ、興もわからぬ垢抜けない貧相な女であっても、喜び己に懐く姿を見るのは、それ程に悪くはないかもしれぬ。
 
 その日を境に萌様はなんだか気がおかしくなった。俺に対して異様に優しくなり、つまらぬことでよく微笑むようになった。今朝方は鳥が鳴いていたとか、この前店で食った菓子が美味であったとか。町を出歩き出店を見る時は、俺が隣にいると一層楽しいと。まるで若い男と逢瀬でもするかのように浮ついた様であった。寝床に入るときは萌様は必ず俺に一線を引いていたのだが、今ではまるで暖を取る犬猫のように俺の懐に入り、寄り添うように眠るようになった。時に狸寝入りをしていることを良いことに、俺が眠らぬ身体とも知りながら、それともお忘れになってしまったのか、夜にふと目を覚ました萌様は、そっと俺の頬に触れて、目に涙を湛え瞳を震わせながらまるで菩薩のごとき柔らかな顔をして控えめに口をつけて接吻なさり、その後ぴったりと身を寄せて子でもあやすように布団を被せ、人形遊びでもするようにして俺を抱いたまま寝入ってしまった。これまでも何かにつけて身体を重ね手酷く抱いていたのに、俺が夜伽や御魂の慰めといって女の服を剥いても、これまでのような畏怖の念はなく、初々しい仕草にて口づけに応じて、俺が乳房を吸えば恥ずかしそうにして、身体を寄せて密にまぐわい俺を慈しみ頬を染めなさる。多少意地の悪い抱き方をしても、涙を滲ませてるだけで、耐え忍ぶようにして弱々しく笑いかけながら、心地よいと悦ぶようになってしまった。
 なるほど贈り物と言うのは確かに男女の仲を懇ろにするらしい。人の女というのは、一度男の毒気に犯され色気づくとこうなってしまうのか。あの聡明そうな顔つきをして日頃自信なさげに俯き、一歩身を引いて遠くに目を馳せ不愛想であらせられた生神家の当主は、今ではただ奥ゆかしく控えめでしおらしい優しいだけのつまらぬ女になりさがってしまった。我が君は、なんとあわれで愚かしい女である事。俺が少し身を傾けただけで顔を真っ赤にしておろおろとする有様。なんと人とは面妖で鈍くさい生き物なのか。
 
 俺も二月もすれば人の風情も多少わかるようになったのか、月の暦に合わせて、その日は町で買い合わせた丸い小粒な白団子を萌様に献上した。宿の障子戸を開けて物憂げに十五夜の月を見上げていた萌様は、それに大層喜んで団子をほおばり、昼間管狐と共にわざわざ摘んできたという芒を小瓶に活けて、足を崩してお月見なさっていた。俺は傍らに控え鎮座していたのだが、鬼喰さんもこっちにきて一緒に見ようと言うので、畏れ入りつつも隣に身を寄せた。
 奇妙な月夜だった。紺青に凍る空は何処までも高く澄み渡っていて、薄い雲が朧に浮かんでは流れていき、星屑は瞬いて天を架ける巨大な河川のように波を作っていて、その一つ一つが神々しく輝き、手を伸ばせば届きそうであった。満月の夜は妖(あやかし)や人の心をかように昂らせるのか、なんとも妖しく婀娜な空気であろうか。俺が隣に座ると萌様はそっと寄りかかる様にして肩口に頭をやってそのまま俺に体重を預けてしまった。月に目をやりつつも、何処か遠い所に想いを馳せているような、そんな物憂げで心あらずの様子である。そういえば、竹取物語によればあのかぐや姫は月に還ったらしい。かように男共を惑わし、翁をも置き去りにして、羽衣を羽織りて一人天に昇る女のなんと身勝手な事よ。
 月は仏門において月天(がってん)様ともいい、古事記によれば月は月読命の化身であり、彼の統べる夜の食国(よるのおすくに)は黄泉の国とも言われ[5]、地方民話においても月は冥府への入口だとか、とかく死者とあの世に所縁があると言われる所であるが、するとかぐや姫はもとより人ではなく、あの御伽草子は女の悲劇でもなければ悲恋の類でもない、女が元の所に還ったに過ぎない話ということであろうか。
 すると一体鬼は何処から来たのであろう。日本の神話や伝承にて鬼は大抵人に悪さをして成敗される忌み嫌われる存在であるが、その起源や出生について記した書物の少ない事。萌様のおはす所では山に住み着く恐ろしき神ともされていたようで、天狗の類とも一緒くたにされていたらしいのだが、璃々夢と言われる鬼はその殆どが山奥や深き森、廃村などに住み着いて人目を避けていたようであった。又能楽では元々鬼は人の死霊であったとか、地獄からの使いともされているようであり、まさかと思うが、萌様もまた黄泉や冥府から現れた妖であり、人に厭われる内に、天や月が恋しくなったのであろうか。
 俺もまた殺し殺された人の怨念より生まれし悪霊、人を呪い祟るうちに祀られて尚妖気は増していき鬼神になってしまっていた。ともすればこんな小娘一人を相手に霊能の秘術や妖力で遅れを取り、今は式神として契約し従い尽くしている。陰陽師の家系でありながら鬼の子として生まれた萌様は、決して裕福で恵まれた暮らしをしていたわけではない。時に鬼の子や奇異な妖術師として疎まれ村を追われたこともあった。世間の逸れ者である俺と萌様は種族や生まれは違えど、立場は大して変わらぬのかも知れぬ。
 なんとなく萌様の幸薄き白い顔、憂うる赤の瞳の意味をわかった気がしたので、ならば俺だけでもこの不幸な女の孤独を埋め合わせ、その隣にいて末永く仕えてやろうなどと思い、俺に身体を傾けて無言に寄り添う女の肩の上に手を這わせて、懐に身を引き寄せてやった。すると萌様は頭を俺の首筋において手を俺の胸に添え懐に入り、目を伏して長い睫毛が瞬くに合わせ一縷の涙が音もなく零れた。そのままぽろぽろと大粒の涙を頬に流してしずしず泣いてしまったので、俺は何を血迷ったのか、それともそれこそ女の持つ魔性の力なのかは定かではないが、なにやら女から強い霊気を感じて、いや、それともこれは俺の中のある種の邪心や欲望か何かの力だったのか、俺は恰も誠実な男であるかのような真面目な顔をして女を見下げながら、涙する艶やかな女の顎を引き、そのまま口づけてしまった。着流しを丁重に脱がして、たわわな胸を揉みつつ再び口を吸って、甘い声で悩ましく喘ぐ女の肉を堪能した。俺は禊や慰み以外の事で女を抱いてしまったのだ。
 これではまるで俺がこの女を好いて何かの下心を持っているかのようではないか。俺は人が畏れ敬う首切り刀の怨霊、この女にとって俺はただの荒ぶる御魂であり従者に過ぎないのだ。

 どうも俺も萌様も十五夜の月の魔力にやられたらしい。女はとうとう旦那様だとかご主人様だとか、俺を亭主のように呼んで、すっかり俺に嫁入りしたかのように振舞っていた。なんと嘆かわしい事だ。生神家の嫡男として育ちその家督を継ぎながら、仕舞には俺が武人で家臣であったことも頭から消え失せてしまったのか。道を歩く時も俺が主君か殿であるかのように道の先を歩いて、萌様は俺の少し後ろに控えながら、俺の奥方面をしてちょこちょこと後をついてくるようになってしまった。俺はあくまで萌様に仕える身、しかしこれは最早立場が逆ではないか。
 俺も気狂いでもしたのか、それとも俺も又この女に惚れこんで一種の執着や愛着を持っていたのか、初めから忠義や敬愛の意はもっていたといっても、それは恋慕の情などではなかった筈。しかしなんだかんだ言いつつも、俺もただの男神に過ぎなかったのか、俺も邪な心や性欲には勝てないのか。そんな萌様の態度を、忠臣として諫める事も、畏まってお相手を辞することもせずに関係を甘受して、女を内縁の妻かなにかのように扱っていた。団子屋の席に座り、団子を食って俺が酌を手にすれば、萌様は何も言わずに徳利を持ってお酌をする。その時のひそやかで優しい顔つき。俺と目が交われば頬を染めて笑いかける。もう萌様はすっかり男を知って女として目覚めてしまっていた。
 もとより完璧主義であった俺は、女が半端であることが許せず、まず目につくのはその装いや髪型である。その山伏のような、修行僧のような恰好が気に入らなかった。ならばたらばと、店にいって女の召し物や紅や化粧品なども買い付けて、萌様に贈り物として献上した。女は小さく驚いた。やはりこんなに事を急いでは不味かったであろうか。俺が多少臆病風に吹かれていると、萌様は素知らぬ顔で柔らかく目を細め、ほんのりと頬を染めた後、うっとりとした仕草をして、召し物を胸に抱き抱え喜んだ。
「僕もやっと旦那様のお嫁になれるのですね…」
 実にこれはよくない事だ。こんな女として半端な紛い物、山村鬼喰神正信の妻に相応しくない。仕草も表情も髪も顔つきも手つきも足つきも、まだ多少色気づいただけの小姓のそれではないか。半端は許さぬ。過去の記憶を呼び起こし、代々名のある武将の奥方を務めた女の生涯を振り返ってはあわれに思い、嫁入りとはなんたるかを萌様に厳しく指導をした。人間風情が神に嫁入りしようとは、なんと身の程知らずで命知らずの愚か者であることか。妻と忌子とは気位が違う、ただ祀り仕えるのとは品格も気位も何もかもが違うのだ。俺の正しい指導と萌様の苦労の甲斐あって、ただの片田舎の山奥に暮らしていた俗世も男の享楽も知らぬ世間知らずの色気の欠片もない小童の芋娘が、一丁前に奥ゆかしく知的な人妻の色っぽい雰囲気を醸すようになった。多少見れるようになったとはいえ、大して別嬪でもない癖、女を腕に町を出歩けば、多少村男の目を引いて、何やら不穏な空気が漂い、無理に手を引き急ぎ宿に連れ帰る始末。女とはいつの世も魔性であり、悪霊、物の怪の類より余程、恐ろしく妖しきものである。女とは、男とは、人とは、なんと浅ましい事か。嘆かわしい。実に、嘆かわしい。

[7]マガツヒ

日が落ちて月が湖面に浮かんで尚、霊山を散策していた鬼喰と萌一行。越後の更に北、「出羽三山」で知られる月山神社に続く道を歩いていた。

霊力が強いあまりにとうとう何かの境界を跨いで異世界にでも迷い込んでしまったのだろうか。腐り落ちた注連縄を尻目に、強い霊気に誘われて、紙垂(しで)の刺さった山道の向こうに足を進めてからというもの、気が付けば現世とも常世とも思えない何処か神秘的な山奥にいた。霞がかった山の斜面に、川の流れに添うようにして桃の木、桜の木、梅の木が一律に並んでいる。木々は両翼の枝いっぱいに花を蓄え狂い咲き、月明りに照らされ淡く萌えあがり、桃色に光る花弁の傍に、風に煽られ花びらが舞うかのごとくに蝶が羽ばたき宙を踊っている。
その並木道を歩いていくと、廃村と思しき開けた場所に出た。その村を守る様に高い木々や草花に囲まれ、倒壊し潰れた廃屋の木くずと荒廃した田畑が無数に立地している。一晩を過ごすための宿を探していた二人は、かつてはきっと豪農で豊かな家柄の屋敷だったのだろう、広い敷地を木の柵で囲まれているものの、すっかり藻や草で覆われ朽ちた空き家を見つけて、鬼喰が頷くのを見届けてから、萌は手を合わせ祈祷した。

「マヨヒガさま。すみません、どうか僕らをここで一晩休ませて下さい」

朧に浮かび上がる淋しい屋敷であったが、家の中は人に廃棄されたとは思えない程に綺麗に整っており、見事な出来栄えの燕鎚起銅器の瓶には桃花が一本活けられて、床板に埃一つ見つからない様であった。
鬼喰は思わずごちた。
「まさか、ここが陶淵明(とうえんめい)が記した桃源郷というやつなのでしょうかねぇ…」
「桃源郷って…確か中国の『桃花源記(とうかげんのき)』に出てくる…」
「ええ、俺も詳しくは存じませんが、本来は桃林に囲まれた川上の終わり、山の洞窟の向こうにある俗世を離れた村々という話。しかしここには世捨てした仙人もいなければ美しい田畑もありませんね。そもそも桃花源記は東晋の頃の中国の武陵(ぶりょう)の話ですので、桃源郷は武陵桃源ともいい、日本の…それも越後と出羽の境の片山にある筈もない。此処はきっと桃源郷とはまた違う場所なのでしょうね」
「僕はてっきり、あのマヨヒガさまと思ったよ」
「マヨヒガですか。して、俺たちが得るのは富か、それとも…」
「祟られるのは怖いな…」
「恐れる事はありませんよ、若殿。俺たちは村荒らしに来たわけでもない通りすがりの旅の人。一晩寒さを凌ぐことぐらい許して下さると思いますがね」
「うん…そうだね。ちゃんと後で穀物をお供えをして、お祈りしたいな。一晩泊めてもらうお礼に…じゃないとこの家の家主に失礼だもの。でも、なんでまたこの村は滅んじゃったのかな。桃や桜、梅…、お山の上に昇る月と梟の声、遠くでは風が泣いていて…。日本の美がここに立ち現れたみたいに綺麗で…。他にも見たこともない草花があって、本当に常世のものみたい…。こんなに良い所なのに…どうして…」
「さぁ、どうでしょう。江戸幕府が政権を持って長いですから、200年もの間、大きな戦もなく人が血を流すことも少なかった。平和が続く余り、ここで暮らす仙人の物差しも変わってしまったのでしょうかねぇ…」
「ものさし?」
「そもそも桃花源記にある桃源郷は、混乱を極めた秦の頃、当時を生きた中国の人々が争いを避け平和な世を願った故の、現世と隔離された別天地の話。道教や神仙思想とも関係するとも言われています。彼らは時代が晋に変わるまでの数百年、ずっとそこで平和に暮らしたとされていますがね。数百年もの長い間何事もなく平和だと、人は争いを懐かしく思うものなのでしょう。平凡な日々の繰り返しは、かえって心を鈍らせ、多少の刺激が欲しくなるというもの。時に邪心が宿り、魔が差すのが人の業。兵同士の戦の代わりに町人同士の苛めが増える。だから代わりに娯楽を求めるのでしょう。いつか江戸では見世物小屋や幽霊屋敷、歌舞伎だけでなく文芸も流行っているという話を聞きました。江戸のような平穏な時世では、ここの暮らしは少々物足りなかったのかもしれませんねぇ」
「でももう平和な時代も終わったね…。浦賀に黒船が来てから、日本の情勢はまた混沌として…尊王攘夷運動…、異国の脅威を打ち払うことを大義にお侍様は刀を持って米国と条約を結んだ幕府に牙を向けた。今はもう幕府と攘夷志士の対立や藩同士の戦で各地が荒れているもの…。争いの中で人は平和を祈り、平和の中で人は戦を希う。人って業な生き物なんだね…」
「いつの世も人と言うのは愚かしい生き物ですよ、若殿」
「いつかはちゃんと学ぶ時が来るのかな」
「どうでしょうねぇ、人は争いを繰り返すのが常ですから。まぁ、俺が言えた義理ではないですがね」
「どうして?」
「俺は刀に宿る鬼神ですから。平和な世程つまらぬものはない。人を斬り、生き血を啜り、首を断つ。それこそが俺の生業なのですから。争いなくして俺の御魂はありません。このまま人を斬らねば忽ち俺の刃先は綻び、身体が鈍ります。故に俺にとって人は愚かであることが好ましい。聡明にも争いなき理想郷など築かれては、俺はもう、この世にある意味を失ってしまいますからね」
「そんなこと…」
『国破れて山河あり、城春にして草青みたりと』
「?」
『夏草や 兵どもが 夢の跡』
「それって確か…芭蕉の『奥の細道』…?」
「ええ。争いの跡ぞかように緑が生い茂る。この廃村も又、人に捨てられたことで桃源と化したのです。争いに病んだ頃人は俗世を捨て山奥に逃げ込み、争いが止んだ頃人は再び山里を捨て華の都に移り住む。栄華を捨て無欲になればこそ、木は根を張り、見事な花をつけたのでしょう。人の滅びた後は草木がそこを喰うのです。詩の中では負け戦が草花を育て、常世の桃が咲くのですよ」
「人が愚かだから…刀は生まれ、今もこうして生きている…鬼喰さんも、僕も、人も、鬼神も、同じ…」
「左様です。ですからこれは共生という奴ですよ。人が浅墓であるからこそ、俺はここにあるのです。きっと伴天連の謳う楽園(パライソ)も似たようなもでしょう。異国の者でさえ、争いと略奪をやめられぬのですから。理想郷を願う人の心は、人に流れる血の色と寸分変わらぬ。肉は朽ち果て塵となり残るは血染めの髑髏と骨の山…、桃源郷とは、まさに死体の上に建つ亡国なのでしょうねぇ…」
「…」
「さて、若殿。そろそろお休みになっては如何です。祈祷と鎮魂に際しては相応の霊力と体力が必要です。夜更かしされては、身体が持ちませんよ。いつかのように倒れられては、俺は何をしでかすかわかりませんから」
「うん…わかったよ…、お休み鬼喰さん…」
「ええ、良き夢を」

その晩萌は夢を見た。
マヨヒガさまの屋敷の客間に萌は布団を敷いて横たえていた。障子戸の隙間から月明かりが差しこんで、その枠の向こうに無数の星が瞬いて夜空に散っている。すぐ横の敷布団は空で鬼喰の姿はない。
月夜に浮かび上がる暗闇の部屋。木目の天上と目の上の間、鼻先の向こうで無数の蝶が音もなく羽ばたいている。その薄闇の中、月以外に灯る灯りがあったので首を向ければ、部屋の隅に篝火を燃やして、机前に座し筆を片手に書を記す鬼喰の広い背中があった。
鬼喰は珍しくいつもの武将羽織を畳んで、着流しを着ていた。じっと机に向かって腰を据え、胡蝶装の綴りを括り、筆を取る姿はまるで勉学に励むただの書生のようであった。
夢か現か。果たして自分がこんな夢を見ているのは、ここが戦と無縁のマヨヒガだからだろうか。それともこれは胡蝶の…。
うつらうつらとしながら、ぼんやりと鬼喰の背中をみていると、まるで自分の心に呼応するようにして鬼喰は自分の顔を見ないままに口を開いた。
「俺にとって一晩は長いものでして。暇を持て余し屋敷を散策したところ、幾つかの歌集や今時の学問書を見つけました。この屋敷の人間は争いなき間、こうして本でも読んでいたのでしょう。趣、俺にはわかりかねますがね」
「こんな遅くに何をしているの…?」
「俺も戦ばかりでなく、学でも嗜もうかと思いましてね。今巷で流行している明治維新に関する思想を学んでいる所存です」
「珍しいね。鬼喰さん。戦以外の事に興味を持つなんて…」
「世情を具に観察し情報を仕入れ、戦況のみならず政治を判断するのも家臣の務めですので」
「そんな…僕には政はわからないけど、でも…」
「…いつか刀を奪われ侍が流浪する時代にも、俺が若殿と共にある為に、若殿を指導せねばならぬ故」
「そっか」
「ええ」
「…そう」
「如何されましたか」
「僕は、鬼喰さんがいれば何もいらないよ…」
「…」
「僕、鬼喰さんがいれば幸せ」
「左様ですか」
「鬼喰さんがただの刀になっても、僕、そこにあるだけで嬉しいな」
「左様で」
「だから戦が終わって平和になっても、鬼喰さんが刀の役目を終えても、僕と一緒にいてね」
「…」
「約束だよ」
「御意に」
「うん…」
「…」
「…」
「春の夜の夢…」
「…?」
「若殿。俺に理想はわかりかねますが、桃源郷は常世や幻とは違うかもしれませんね」
「どういうこと?」
「桃の節句を終えて蕾が花開く頃、日の差すところ畑作を営み、月明りの下学を学ぶ。稲穂が揺れる頃には、食糧を十分に蓄えて、冬至に向けて装いを整え冬越えの支度をする。衣食住がそこにあって、俺がいて、仕えるべき貴女がいる。俺は貴女を娶り、二人農業を営みながら生活する。そんな当たり前な日々こそが、きっと人々が望む幸福そのものなのでしょうね」
「…」
「若殿、学があれば俺は人になれますか」
「鬼喰さん…」
「桃源郷は俺には遠い異国の言葉です。それこそ人の幻想に過ぎない。掴んでも掴みきれない霞のようなもの。いくら学を積めども、人は何も学ばぬ。人は繰り返し争い、攘夷運動が終われば、その意味通り何れは異国とも戦う事になるのでしょう。人は愚かですよ。俺もまた戦いを生業にする鬼神。しかし、人は愚かであっても、殺しを本懐とする俺と違います。それでも俺は、若殿と共にありたいのです」
「…」
「俺は喩え愚かであっても、神ではなく人のようにありたいのです」
「…」
「俺は愚かです。刀の御魂でありながら殺しの本能を捨てようと学び、それでも殺しをやめられません。俺は一体何をしているのでしょうね。荒ぶる神、祟り、首刈刀、悪鬼、悪霊。貴女にとって俺は一体何者ですか」
「…」
「よく、わからない」
「左様で」
「でも鬼喰さんが、もし神さまであっても、人間であっても、きっと僕、鬼喰さんと一緒にいて鬼喰さんのこと好きになると思う」
「…」
「僕、鬼喰さんのことが好き…。だから、鬼喰さんだったら何者でもいい…なんでもいいな…」
「…」
「なんだか瞼が重いな…。変だな。僕、眠い…」
「…」
「あと…、僕がもし普通の女の子だったら、鬼喰さんのお嫁さんになりたい」
「…」
「ダメだ、僕寝るね、おやすみ…」
「…良き夢を」

春の夜の夢。
しゃらん。
山神楽の音に萌が目を覚ました時、そこには木目の天上も屋根もなく、視野一杯に夜空が広がって、星屑と巨大な月が煌々と輝き地面を照らしていた。
目が焼けるように痛かったのでしばしばと瞬きをすれば、パチパチと木が燃える音と墨が焦げる臭いがする。首だけ向ければそこには焚火があって、すぐ傍に鬼喰が胡坐をかいて居座り、何か思案でもするように腕を組んで固く目を閉じている。ここは山の頂きだろうか。空気は冷たく澄んでいて、薄雲が鼻先に見える。地面には芝が薄く生えており、木も緑も何もない山の峰だけが地の果てまで無限に続いているようだった。先ほどまであった筈の屋敷や、それを取り囲む雄大な自然、桜や梅、桃の木や草花はそこになくなっていた。萌は思わず尋ねた。
「鬼喰さん、ここは何処?こんな遅くに何をしているの…?」
萌の声を聞いた鬼喰は、やや目を見開いて口を僅かに開きぽかんとしていた。まるで自分が目覚めたことに驚いたようだった。
萌はまだ意識がはっきりしないのか、目を虚ろにしたまま上を向いてぼんやりとしている。鬼喰は萌が目覚めて早々にすぐ横について、難しい顔で自分の顔を覗き込んでくる。萌は力のない目で瞬き、じっと見つめてくる鬼喰の目の色を眺めていると、鬼喰は強張った顔をしながら緊張した低い声で尋ねてくる。
「漸くお目覚めになられましたか、若殿。今度ばかりは俺も駄目かと思いましたが」
「どういうこと…?」
「覚えていませんか…。まぁ無理もないでしょうね。貴女はここの山神、それも月山神…つまり月読命を相手に戦いを挑んで、そのまま力尽きたんですよ。月山神の怒りに触れ魑魅に憑かれた人の子を助け出す為だけに、俺の静止も無視して破魔の秘術を使い、続けざまに月山神の怒りを鎮め、山を覆う巨大な邪気をも祓おうとした。人の癖、無謀な事をなさったものだ。若殿、流石の俺も今回は興醒め致しましたよ。俺に二度と刀を振らせぬ気ですか。些かおいたが過ぎたようですねぇ」
「…」
「全くもって人と言うのは理解できませんね。そんなに俺が頼りないですか。それとも神に対する愚弄と受け取りましょうか。以前から気にかけておりましたが、そろそろ貴女にご自分の立場をわかって頂く必要がありますかね…」
「鬼喰さん…」
「如何されましたか、若殿。まだ俺の話は済んでいませんが」
『雲の峯 いくつ崩れて 月の山…』
「…松尾芭蕉ですか、かような時に一句とはまた呑気な…」
「……桃源郷は…マヨヒガさまはどうなったの…?」
「は…?」
「お勉強はどうしたの、もう終わったの…?桃の花は…明治維新は…?僕たち、どうやってここに戻ってきたの…?」
「…」
「村はなくなっちゃったの…?」
「…若殿、俺が誰かわかりますか」
「誰って…鬼喰さんは鬼喰さんだよ…、僕の大事な刀、僕の仕える神さまだよ…」
「…」
「…」
「…若殿、今日の暦を言えますか」
「ええと…桃の節句…?」
「…畏れながら、それは三日前になります。若殿、貴女はその間ずっと眠っていたのです」
「…そう、なんだ…」
「記憶にありませんか」
「…」
「若殿、何処まで覚えていますか。最後の記憶は何時頃で?」
「…その…僕たちはずっと山奥を歩いていて…それで桃と桜と梅が咲いて蝶が舞う綺麗な所に来て…それで…そこでみつけたマヨヒガさまの中で…」
「…」
「夜…僕の上に蝶がいて…。鬼喰さんが…。…?僕…、どうして……」
「…若殿、きっと貴女は眠っている間、夢を見ていたのでしょうね」
「夢…」
「春の夜の夢と言いますがね。お山の霊気に当てられて、物の怪の類を引き寄せていたのではないかと」
「…」
「或いは、貴女の魂が此岸と彼岸の間を彷徨っていたかもわかりませんね」
「…そういえば川があった…」
「まさか三途の…」
「でも賽の河原はなかったような…」
「左様ですか」
「…桃の花が咲いていたの…そこにたくさん蝶がいて…きらきらして…綺麗だったな…」
「…」
「…」
「文字通りの黄泉がえりというわけですか、若殿。人と言うのはまこと弱く儚い命なのですから、死に急ぐのはやめた方が良いかと思いますがね」
「…鬼喰さん」
「何用ですか、若殿」
「もし、もしも僕がこのまま死んでたらどうしてたの…?」
「…」
「悲しかった?」
「…その時は、貴女にお仕えする家臣として辞世の句でも読んで切腹して後を追いましょうか」
「そっか…やっぱりお侍さんだね…」
「武士道とはかようなものですよ、若殿。忠義に優る美徳は俺にはありませんからね」
「…」
「…」
「鬼喰さん」
「何ですか若殿」
「あの、僕、寝てるとき何か譫言とか言ってなかった…?」
「いえ、特に何も仰っていませんでしたが、何か気になる事でも」
「…ううん、何でもない…」
「左様ですか」
「…」
「夢…」
「夢…?」
「夢で俺と何かあったんですか」
「…」
「…」
「ううん…、なんでもない、何もなかったよ。」
「左様で」
「鬼喰さん」
「何ですか若殿」
「鬼喰さん…もし季節が巡って時代が変わっても…これからもずっと一緒にいようよ」
「ええ勿論」
「もし…もしね…。もし僕が死んだら…魂も霊も肉体も全部鬼喰さんにあげる」
「…」
「鬼喰さんに僕の事貰って欲しい…」
「…」
「…」
「…ありがたき幸せ」
「…」
『三千世界の鴉を殺し 放つ神籬(ひもろぎ) 花つ月 御魂離つも 君惜しければ 禍津日にこそ 君ぞなりなむ』

理想郷は春の夜の夢の如し、生と死の狭間、彷徨い歩いた桃幻郷。
果たして、夢で巡り逢った男は、鬼喰の思念であったのか、将又月読命の化身であったのか、それとも冥府に巣食う別の「何か」であったのか、今となってはそれは誰にもわからないのだ。

[8]花見

「恋人が欲しい」と鬼喰に心の内を話した萌。一日だけという契約で鬼喰と萌が偽りの恋人同士になった後の事、その契約は一日がすぎても終わることなく、誰にも明かさず秘密裏に逢瀬するというごっこ遊びは今も続いている。そんなある時、二人で桜道を歩いていると、不意に鬼喰が桜の枝を手で折った。

そして手折った桜の小枝をそのまま萌に手向ける。瞬きする萌。
「男女の馴れ初めの事始めには、男が女に花を手向け贈るものだと聞いております。わか…いえ、萌様、どうぞ受け取ってください」
不慣れなのだろう。生真面目な顔でそういう鬼喰の挙動には些かの不器用さが滲んでいる。おずおずとした仕草でそれを受け取る萌。「ありがとう」ほんのりと湧く温かな心。

鬼喰も萌も情事には疎く、男女が一体どのようにして馴れ初めて、親睦を深め合うのか、二人には全く見当もつかない。だから二人の逢瀬は目も当てられぬほどにぎこちないもので、それが逢瀬になっているかどうかも怪しい。しかし普通の女としての道を捨て、男とそういう関係になったことも、同性とまともに遊んだこともない萌にとっては少なくとも、懸命に人の所作を模して、萌が懸想する男のように振舞うその鬼喰の心遣いが嬉しかった。まるで本当の想い人ができたように恋をして、うら若き乙女のようにあれる事、そして戦しか知らぬその家臣の不器用な優しさが、この上なく嬉しかったのだ。

その桜の子枝を鬼喰から受け取り、手元を見れば、その枝についた花の幾つかは潰れていた。きっと枝を手折りにした時、鬼喰の強い力で花ごと駄目になってしまったのだろう。しかしそれでも萌の心は震えて、女としての喜びと男への慈愛に満ちていた。柔らかな気持ちで、しかし何処か寂しそうに笑っていた。

掌の中、小枝の潰れた花は醜く縮まって萌を恨むようにして睨め上げている。萌は呟くようにして言った。
「きっと、鬼喰さんは、これまでずっと人を斬り殺めてきて、花の良し悪しも、花の楽しみ方も、…花を愛で方も、そういう人として当たり前にできることを、誰にも教わってこなかったんだね」

萌がそういうと鬼喰は途端に難しい顔をして、手を胸に畏まった。
「申し訳ありません。俺は萌様の…若殿の気に障ることを…、何か粗相を致しましたでしょうか」
そうやって厳しい顔つきで萌の顔色を伺う鬼喰に萌は優しく首を振って、
「ううん、そういうことではないの。ただ、きっと鬼喰さんの人生は…。これまでずっと、首を斬り血を浴びて、刀を持つ武士の思うままに人を斬り殺すだけの…淋しい人生だったんだなって、そう思って…」
「何を仰るのです。俺は刀の神です。刀は人を斬り殺す為…、戦の為の凶器なのです。若殿、何ゆえ、そのような顔をするのです?俺は一体どんな過ちを…、何か気に病むようなことでも…」

「違うんだ。間違ったのは鬼喰さんじゃないよ。きっと間違っているのは…」
そこまで言って萌は口を閉じ、鬼喰の訝しい視線を浴びながら、手元の小枝に目を落としていた。そしてその小枝を装飾や簪か何かのように耳に挟み、髪を飾った。
「綺麗な桜をありがとう、鬼喰さん、大切にするよ」
「萌様…」
「あの…鬼喰さん。花は何故いつの時代も人から愛されるか知ってる?」
「いえ、俺は刀を振るい、人を殺す侍…。戦や謀はできても、花や風情といった美の作法に関しては…」
「ううん。僕も鬼喰さんと同じだよ。僕もずっと修練ばかりで、ろくに教養もないから、詩の読み方も花の生け方もわからない。だからそんな風に畏まらないで」
「しかし…」

萌は、身体を傾けてこちらを伺う鬼喰に向けて続けた。
「きっと花は、花の持つ美しさもそうだけど、その花が咲いた時みせる美しさは一瞬の事で、花は何れ散り行き、枯れ果てていくもの…。その儚さと言えばいいのかな。芽が出て、蕾が花開き、美しく咲き乱れる一瞬の出来事を、人はあわれに思う。それはまるで…」
「…人の一生のようでございますね」
「そうだね…」

「花が芽吹いて萌えるとき、蕾の頃には見せなかった様々な色を魅せてくれる。桜色、桃色、藤色、浅黄色…。その色はとても鮮やかで綺麗なんだ。花びらのひとひらひとひらは絹より薄く、風に吹かれれば腐ることなく花を散らせ逝く。そしてやがて実を蓄え、その種を土に落とし、それは冬を越えて春になると、やがて土から新芽を出す…」

「だから、花を楽しむときは、その色…この花を傷つけないように大事にするんだよ。花を手にするときは優しく、それは赤子の手を握るときのように、そっと、包み込むように…。桃色を無くした葉桜の緑もまた一興…、色をなくし枯れ木のくすんだ色も愛でる…雪が積もれば再び白い花が咲く。そして色だけでなくその香りをも…。季節を巡り芽吹き彼行く姿、そのすべてが愛おしいんだ。きっと鬼喰さんにもいつかわかるよ」

「鬼喰さん、手を出してみて」
「は…これでよろしいですか」
すると萌は着物の懐からハサミを出した。それは先端に短く小さな刃のついた持ち手の長いハサミだった。
「これは和鋏といって…燕三条の職人が作った業物の握り鋏、母上の形見なんだ」
パキン。萌は桜の枝先にある子枝を手に取り、境を鋏で切った。そしてその枝先を摘まむようにして持ち、そのまま鬼喰の手の上に優しく置いた。その小枝には淡く光る桜の花が咲いている。
「母は僕と違って学のある人で、草木の世話をして、花を活けるのが好きだった。こうして花の茎や小枝を鋏で切って、その切り口を水につければ花は枯れることなく息を続けて、屋敷の中でも花見ができると…。父上が家に籠った時もこうして…」
鬼喰は手の上に置かれた小枝を指先で取って眺めた。その小枝は小さく、そこに咲く花も僅かであったが、その時何故かその桜の小枝が満開の桜の木そのものであるように見えた。そうして萌は小枝を見やり呆けている鬼喰の手に伸ばし、両手で触れて続けた。
「この小さな小枝の桜を見ながら、こうして二人寄り添って、花見をしたと…」
小枝を無言で見つめる鬼喰の手を優しく両手で包み込みこみ、萌は俯いて風に吹かれていた。
桜は鮮やかに萌えて、そして儚く散る。それは人の一生のように短く味気ないもの。

幾千の時を行く刀の鬼神である鬼喰にとって、それは取るに足らない些細なもの。今この手で握り潰してしまえば、小枝は潰れて醜くなり、忽ちその生命力を失う。そんな弱く脆いだけの命に、何故人はかように惹かれて心を惑わせるのか。それは今の鬼喰にはまだわからないが、しかし何故か心をざわざわとかき乱すような、焦燥とも不快ともいえぬ得体のしれぬ何かが腹の底に沸いていた。新芽が萌える。それこそ何かの花だったのか。

「確かに、刃は何かを斬る為に研がれるもの。刀は人の肉や首を斬る為に鍛えられた殺しの刃物。でもその刃の中には、こうやって花や草木の世話をして花を生かす為の刃もある。きっと鬼喰さんの刀も…人を斬り殺す以外の何かができると思う…。形だけを模するのではなくて、きっといつか人の心を理解する時が…」

「鬼神、怨霊、首斬り刀と人に恐れられ血を浴びる人生だった貴方も…そして一柱の男神でもあらせられる貴方にもいつか……人を斬る戦の神でありながらも、人の心を知り、魂が身に宿り、人になれるその時が…、いつしかくると…。僕は信じています…」

そういって柔らかく微笑んだ萌は神々しく光っていた。

桜道に萌える一輪の小さき花。それは名もなき野花のような微かな光であったが、鬼喰にとっては何にも代えがたい、まるで神のごとき美しさであった。

鬼喰は宿に帰った後、眠る萌の傍ら、机の上に小さな灯りを燃やして、一人夜を過ごしていた。萌の言いつけ通り、小さな皿に水を張り、そこに花を活けた。そして一刻一刻とその花をぼんやり眺めていた。花とは不思議なもの。咲くのはたった一度きりでありながら、何故かようにも心を乱すのか。鬼喰は測りかねていた

感情の失せた瞳で、すぐ傍で小枝を抱いて息をする女に目配せをしながら、一人じっと夜を過ごしていた。

[8]桜吹雪

 生神萌(もえ)は顔自体はそこまで良くなかった。しかし童顔であることや、人(日本人)には珍しい淡い髪色であり、赤い目や白い肌と言った神秘性などの鬼(リリム)の補正もあって、多少物好きな人間や普通の女に飽きた好き者の目を惹くところはある。
 そんな垢抜けない中性的で男装をしている童女が世にも恐ろしい首斬り刀でこの世のものと思えぬ程の造形の整った美形の剣客を携えて歩いているのが、複雑怪奇で言い様のない不気味さがある。

萌は垢抜けない子供感が否めず、周囲の大人に舐められ悪口を言われ逸れ者と虐められ侮辱されたりすることが多いのだけども、鬼喰だけは全くそんな事を意に介さぬ様に、何食わぬ顔で常にもえの傍に控え、恰も心からそう思っているかのように真顔で、それも三上ならばきっと歯の浮くような浮ついた口説き文句で萌を褒めそやしたりする。

萌はきっとそれに何処か心救われており、だからこそ友愛や依存心が沸いて鬼喰の事を頼りにしたり側にいることを心強く思っていて、一方で鬼喰の忠誠心を自分の心を埋める為に利用してるのではないかとも怖れている。彼が自分の身を顧みず、萌を守ろうと人斬りすら辞さない事に苦しみ、自分も又生神家の家長として彼の立場やその心を守り支えて行こうと決意する。

そんなある日の事。越後にあるお堀、均一に植えられた柳を眺めその葉擦れに耳を澄ましながら、植えられた桜の下ぼんやりと腰掛に座っていた。風はそよぎ、萌の髪を悪戯に揺らしてその細く柔らかな髪束を乱している。風が止み、萌はお髪を整え髪を結い直した。するとそこに萌が言いつけたお使いを済ませてきた鬼喰が荷物を片手に足早に戻ってきた。

鬼喰は軽々と荷を持ち上げながら答える。
「仰せ使ったものは全て買い揃えて参りました。これでよろしかったでしょうか」

「ありがとう、鬼喰さん。本当は僕が行けばよかったのに、いつもこんな雑用みたいな事…」
「何を仰るのです。主君に雑務を任せるなどと不敬極まりない事。家臣の俺の立場が無くなる上、主君の威厳にも関わります故、貴女はそのような事足らぬ些細な事は俺に命じて堂々とされていれば良いのです」
「そんなものかな…」

「左様ですよ。貴女はもう少しご自分の立場を自覚されて、人を使うことに慣れた方がよろしいかと思いますがね…。仮にも数多の式神を束ねる長なのですから」
「うん…」

鬼喰はそう言うものの、あまり実感のわかない萌は俯いて憂い顔をしながら、くるくると舞い落ちるたくさんの桜の花びらの行方を目で追いかけ、土に落ちては風に扇がれ地の上を舞い再び浮いては散っていくその様子を見つめていた。
鬼喰は無言で萌の様子を見つめていると気が付いたように萌に手を伸ばした。

「若殿、御髪が花で乱れています。ほら桜の花びらが」
そういって、鬼喰は伸ばした手で萌の髪に触れ、人撫でした後、そのまま手にした萌のもみあげの髪束に口を落とし、何事もなかったようにその髪束を萌の耳にかけ、その頬を掌で包み込むようにして優しく触れる。

「貴女はかように桜の花が良く似合う」

そうやって萌を見つめる鬼喰の眼差しは普段の冷たく怜悧で殺気や怒りに満ちた鋭いものではなく、柔らかく優しく弱々しいものだった。それは萌にとっては奇妙な事だった。刀を振るうことを生業として、主君に忠節を誓い、その為に血を浴びる事も辞さないこの男神が、まるで人のような仕草をしている

その小さな違和感をどう言葉で形容すればいいのか、文学とは程遠い生活をしてきた萌にはその感情を言い表す言葉を持たない。まるで自分を気遣う様な、それでいて自分を畏れるような…臆病で優しいその掌にそっと手を重ねれば、鬼喰は柔らかな眼差しにて不器用に笑いかける。

慣れていないのだろう。頬を緩めて尚、表情の固く、ぎこちない鬼喰の笑みは、それでも萌の心を震わせるには十分すぎる程に、鬼喰らしからぬ真心に満ちた優しい仕草だった。それは道端に咲いた野花に触れ優しく愛でるような慈愛の心…、そう、これではまるで鬼喰が僕を慈しみ、好いているかのようではないか。鬼神と畏れられた刀がまるで人のように…。

目を見開いたまま見つめていると、鬼喰は添えられた萌の手を取り、その手の甲に再び口を落とした。
その瞬間、風が通り過ぎて、桜の花が宙を舞う。天から注ぐ温かな日差し。その光の中を桜がきらきらと舞い光を反射しながら、柳はさざめき、萌の髪の上に落ちた花びらを攫い、二人の髪を遊んでいく。

風に髷を揺らしている鬼喰は手に口づけたまま静止して、再び顔を上げて萌を見つめた後も終始真顔だった。彼は本気だったのだ。萌は気が付けば頬が熱く染めあがり、瞳は潤んで、なんだかよくわからない感情が沸いて心を乱されて、病んでいく。目から涙が溢れ膝上にこぼれ落ちた時、再び風が膝上に落ちた花びらを攫う。

涙が頬を伝い両目からぼろぼろと流れ、腰を曲げて嗚咽を漏らす頃に、鬼喰はその手を引いて女を懐に入れて、無言で強く抱き締めている。萌はいがらの絡んだ喉を鳴らしながら、涙声で言う。

「やっぱり僕は主君なんて器じゃないよ。こんなの主君でも、家臣でも、主従関係でもなんでもない…。遊戯…、これだとただの男女のそれだよ…」

そう言って涙する萌に、鬼喰は素っ気なく「左様ですね」とだけ答え、ただ無言で萌を抱きしめている。柳垂は揺れて、桜が舞う。そこに寄り添う二人の男女。まるで傍からすれば運命に引き離された男女が密かに逢瀬をして、愛し合っているかのような光景だが、その二人の心中は誰にも分らない。萌と鬼喰自身でさえもその感情を口にできるほどの言葉を持たない。

互いが互いをどう思っているのか、それすらもわからず、まるで時でも止まったかのように、互いの存在を確かめ合うかのように手を重ね、二人はただじっと寄り添っていた。

[緩急話題]鬼喰必殺技一覧

奥義:血桜
奥義:紅差し
奥義:椿落とし
奥義:桃花狂い咲き
奥義:兜割
奥義:下弦の月
奥義:雪月花
奥義:花鳥風月
奥義:百花繚乱
奥義:紅月(月喰)
秘儀:神降ろし
必殺:鬼殺し
奥義:死なば諸共

奥義:血桜
刀を平らにして服の上から肋骨の間を突き(又はその骨ごと)、心臓を刀で一突きする。その時に胸から噴射する血しぶきを桜の花に喩えている。

奥義:紅差し
刀で敵の喉元や開いた口を一刺しで突く。口や喉元から飛び散る紅色の血を、女の紅差しに喩えている。

奥義:椿落とし
背後から兜と鎧の隙間にある無防備な首に刀をあてがい、そのまま一瞬で首を切り落とす暗殺剣。技を受けた武将は何が起きたか理解することもなく絶命する。あまりに一瞬の事で首が生きて喋ったという逸話もある。
技名は椿がその花ごと枝から落ちる様から。

奥義:桃花狂い咲き
敵衆に囲まれた時、刀を首の高さで横に人薙ぎして敵の首を斬り払いのける。もしくは手元や足元を一太刀して武器を払い落としたり、足元を挫いて動きを封じたり、主に敵から後退する時に使う。
技名は敵衆の切り傷から僅かに血が跳ねる様を桃の狂い咲に喩えている。

奥義:兜割
兜に限らず、兜や鎧などの装甲を逆さにした刀身や刀の柄、鞘で力いっぱい叩き割ることを言う。

奥義:下弦の月
敵の足を刀で突いたり、足の神経を斬ることで身動きを封じ立ち上がれなくすること。
刀を足元に振り降ろしたり、突く姿を月に喩えて

奥義:雪月花
闇夜に鈍く光る刀身を携え、背後から強烈な一太刀を浴びせ斬り捨てる暗殺剣。
月のない冬夜、人目を憚るように忍び歩く暗殺者が刀を抜くとき、まるで月明りを反射したように刀身が青白く輝いて、積もる白い雪の上に血の花を咲かせることから。

奥義:花鳥風月
日本四大風物になぞらえて、敵の急所を次々に斬り払って戦況を打開していくこと。
その適切に敵の弱点を突き戦う姿が、恐怖より美しさの方が勝っていたから。

奥義:百花繚乱
惨殺剣。敵衆の首を一閃で切り落とす。使い手が刀を鞘に納める時、首が一斉に地面にはね落ちて、その場に血の雨が降るという。

奥義:紅月(月喰)
敵を真っ二つに斬り捨てる業。紅差し同様、生き残り拷問で口を割らぬ為に。
血の池に浮かぶ月が血を吸って真っ赤であることから

秘儀:神降ろし
その刀身や使い手に神を降ろし、鬼神のごとき業でその場の敵を殲滅する事。

必殺:鬼殺し
敵の身体ではなく、霊を蝕み、魂を巣食う鬼を斬り殺し、そのものの魔や邪気や戦意そのものを削ぎ祓い浄める。人を殺さずにして戦況を打ち克つ、鬼喰と生神萌の二人が編み出した不殺の必殺剣。

秘伝:死なば諸共。
自分の命や魂と引き換えに相手を必ず死に至らしめ心中する秘儀。

他にも鬼喰には剣技がある。
名前も付けてないような当たり前にできる些細な剣技もある。

鬼喰や生神萌は妖術を仕え、霊気を扱う。又エーテル体(幽体)など西洋でいう魔術などの力の作用もあって、人智を超えた技が使える。

[緩急話題]生神萌の技一覧

破魔
結界
呪詛
祝詞
退魔
厄除け
除霊
神憑き
霊媒
口寄せ
神通力
癒し
瞑想

等々…

基本的に白魔術のヒーラーのようなもの。
ただ「魔を祓い人を癒す妖術を知ることは、人を呪う妖術を知ると同じこと。人を呪う力があるにも関わらず自らの意志で人を祝い守るからこそ力を得る」という父親の教えから、呪いの呪文も覚えている。

鬼喰は様々な使い手が「妖刀鬼殺」を振るい、幾人の武将を斬ってきた経験から、様々な流派の技を見て覚えているが、基本的にはどの型にも当てはまらない我流で、その技の殆どは一瞬一撃一太刀で敵の命を奪う必殺剣になっており、時に暗殺剣すらも担い、戦でその威力を発揮した人殺しの刀である。

その技名には古い歌に詠まれるような日本の風物が織り込まれているが、鬼喰にとってはそれも殺しの喩えにしかならぬ、命を奪う時、失われる時に詠まれる辞世の句のように味気ないものであり、鬼喰にとって日本の風景とは、そういった血染めの風景でしかないのだった。

[おまけ]奥義:梅喰福寿白雪(うめばみふくじゅしらゆき)

「そういえば鬼喰さんの奥義の名前って、桜、桃、椿とかあるのに梅だけないね。やっぱり梅って技名にはあまり使われないのかな
「おや若殿、俺の剣術にはありますよ、梅の名前が。奥義:梅喰福寿白雪」
「え!本当見てみたいな」
「では、お見せしましょうか、丁度昼時ですし」
「本当?楽しみ!」

「鬼喰流奥義、梅喰福寿白雪!」
「…」
「説明しましょうか…(もぐもぐ)奥義…梅喰福寿白雪とは…雪のごとく…白い湯気のたった…炊き立ての…白米の上に…(もぐもぐ)血のように真っ赤な梅干しを載せて…この二刀の刀(箸)で…口一杯に頬張り…目にも留まらぬ早業で…茶碗一杯…食すことです…」
「それってただの梅干しご飯」

「俺は白米には梅派でして」
「今度鬼喰さんに施餓鬼米をお供えする時は梅干しも入れておこうかな…」
「俺は餓鬼じゃないですよ若殿」
「餓鬼食いっていうんだよそういう食べ方」
「腹が減っては戦はできぬと申しますからねぇ」
「武士は食わねど高楊枝ともいったような…」
「物はいいようですよ若殿」

(お米頬張ってもぐもぐ食べる鬼喰さんかわいいなご飯作ったらいっぱい食べてくれそう。でもお米って貴重だからなぁ…今手頃なのお芋しかない…お米殆どないし水っぽいおかゆしか作れないな…お雑炊にもならないや…)
「俺の顔に何か」
「え、いや美味しそうに食べるなって」
「梅干し好きですので」
「ほっぺに米粒ついてるよ」
「左様で」
「もぐもぐ食べるねぇ…」
「米は美味いです」
「そっかぁ…」
「木の根も噛めば中々うまいですね」
「それってごぼう…」
「派生に奥義:梅喰福寿白雪煎というのもありまして、白いお米の上に梅干しを乗せてそこにお茶を注ぐという…」
「それって梅のお茶漬け」
「美味い」
「上手くないよ」
「お後がよろしい様で」
「お粗末」

[9]斡旋

「江戸でね、男余りって言って、結婚できない独身男性が深刻な問題になってるんだって。だから衆道とか男色が流行ってるみたいで」
「ほう、人の世も忌子や御贄などの嫁探しに困窮しているのですか。それは難儀な事で」
「神様に捧げる御贄や忌子とは全然違うけど、概ねそんな感じかな…」
「俺の場合、歴代の生神家の当主が忌子だけでなく妻や娘子を捧げて下さるので嫁に困った事はないですね」
「それ、忌子の人以外は鬼喰さんが怒りに任せて勝手に僕の女のご先祖様の魂を食べてただけだよね…」
「して、江戸の男余りに関して幕府は如何様にするつもりなんですかね」
「どうなんだろう。そもそも田舎の農家の方だと農耕の働き手としてどうしても労働力が必要だったから男の人も妻を求めたり子を産んだりって事も多いらしいんだけどね。江戸はまた風土が違うのと、兎に角女の人の数が男の人に対して少ないみたいで」
「それならば、俺に妙案があるんですがね」
「あれ。鬼喰さん、誰かいい人でも知っているの?」
「ええ、俺の知るところではむしろ、男手が足らず女が有り余ってる様なので、江戸の者にとっては吉報ではないかと」
「そっか!じゃあその人たちを江戸の人に紹介すればいいんだね!一体どんな人たちかな」
「そんなもの俺や萌様の周りにて日頃溢れているではないですか」
「え、そんな人いたかな」
「女の悪霊や女の呪縛霊ですよ」
「 」
「この世に未練があっていつまでも成仏できずに現世を彷徨い歩く女子の霊の多い事多い事。恐らくは戦や病で夫や子を亡くしたり、現世に子や家族を残したまま自分だけ死んでしまい一家散り散りになって、いつまでもこの世で探し回っているのでしょうねぇ。哀れな事です」
「あの、その人たち今何処にいるの?早く未練を絶って成仏させて冥界に帰してあげないと…」
「何を言うのです。ですからこの世を彷徨う悪霊の女どもを江戸の男のつがいにすれば、独身問題も万事解決ではないですか」
「ダメに決まってるよ!霊に取り憑かれた男の人たちが呪いとか祟りか何かで死んじゃうでしょう…!?」
「何を言いますか。悪霊や地縛霊は未練やこの世への邪念が強いからこそずっとそこにあるのです。念や霊力が強いという事は、それだけ執着している土地、ものどもへの想いの強さの現れであり、念や呪いが強ければ強い程、それだけ人を想い祝う力もあると言う事ではないですか。取り憑いた者に寄り添いて片時も離れず背後や傍らにて男の生涯を死するまで見守り、時に男の相手となって夜の営みをも担う…。こんな健気で一途な乙女たちの何が悪いのですかねぇ、俺にはわかりかねますね」
「それ一丁前に霊に支配されて呪われ死ぬまで寿命を吸い取られてるだけだよ…」
「その上、この世の未練を断ち切り浄化された悪霊は守護霊となってその者を守ってくれるのですよ。まして女の霊の、人妻や未亡人の母、幼子の多い事、様々な男の性癖を満たし応うるものであると俺は思いますがねぇ」
「それ、鬼喰さんが人妻や未亡人の女の人が好きなだけでしょう…」
「全く、人の趣は俺には理解できませんね」
「僕も鬼喰さんの好みがよくわからないよ…」
「まぁ、人形(ヒトガタ)を得た今の俺にはそう言った忌子や乙女の死霊の魂はもう必要ありませんがね」
「あ、そうなんだ。よかった…また人の生贄を求められたらどうしようかと…」
「ええ、何故ならもう俺には既に生神家から生涯を賜った捧げ物が傍らにいますからね」
「……え」
「さて、萌様、除霊の時間ですね。そろそろここの怨霊どもを元のつがいや子のもとに返してやらねば、その内俺たちの魂ごと喰われてしまうでしょうね」
「え…え…え…」
「今こそ妖刀鬼殺の出番ですかね、俺は向こうの方をやって参りますので、萌様は彼方の方を頼みますか。では御前失礼致します」
「…」

「僕もそのうち悪霊になって鬼喰さんやこの人たちと一緒に現世を彷徨うのかな…」

[10]終幕

「お慕い申しております」
「鬼喰さん…?」
「貴女が俺に人の心を教えた。貴女が俺をここまで育てたんですよ。もう俺一人では抑えきれません」
「俺ではいけないのですか」
「もえ様。約束したではないですか。俺はもう独り待つのは我慢ならないのです」

「俺は貴女の御心に倣い、その言動を模してきました。そしてようやくこの境地に辿り着いた。俺は貴女と同じ人間になれます。人間と同じように貴女を想うことができるんですよ。貴女から学んだ、人の心、詩の美しさ、花の良し悪し…」

「鬼喰…さん…」

「貴女を思い起こし、人の持つ光を手に入れようと。そして、その度にの胸の奥が打ち震えるのです。」

「もえ様、俺と契りを結びましょう。俺は…俺の魂はずっと貴女の傍らに。もえ様、お慕い申しております…」

---------

「あの方はただの女に成り下がってしまった!陰陽師の役割も忘れ、お前のような怨霊にうつつをぬかしている…!お前の邪気に当てられてあの方は気狂いになったんだ!」

「はっ、舐めるなよ人間。貴様など一瞬で斬り捨てられる。精々気をつけるんだな」

「そうだ。お前は殺人刀の怨霊…、そして萌殿は人間だ。わかるな?」

「それで?……それに何の問題がある?」

「刀と人間は愛し合うことなどできない!」

「いくら人間を模したところでお前は刀に宿る荒魂だ、人間になどなれない!お前はいつか必ず人を殺すぞ。斬り殺せるか、斬り殺せないかでしか人を判断できない…、それが刀の本性だからだ。お前は必ず人を不幸にする。上手くいくはずなどない!」

「俺は刀に宿りし鬼神だ。刀はお前たち人間が作った。聞けば、物には作り手や持ち手の精神が宿るそうだな。そして俺たちのような怨霊は、殺し殺された人間の生前の有り様が容姿や思考として表れる。……そう、俺たち荒魂は人間の業(ごう)が作ったんだ。お前たち人間が祀り呪う所に神がある。最早人と神は切っても切られぬ仲だろうな。そして俺は萌様の霊力によってこの世に肉を得た。この身に滾る血が、宿る魂が俺に教えてくれる。俺は刀だ。人の御業(みわざ)によって作られた刀だ。人が刀を振るって殺しの道具にした様に、人は刀を愛で飾る宝にした。俺は刀の化身…悪霊の塊の鬼神だ。人の怨念が作り、人を模して生まれた。そして俺には意思がある。鬼神としての心がある。人が望めば俺は如何様にも姿を変える。萌様が願うなら、俺は男にも伴天連にも殺人鬼にもなってやろう。俺は萌様に仕うる守り刀だ。だから情もある、理性もある、良心もある、何より誰にも代えられぬ俺だけの意識がある。人間と何一つ変わらない」

「俺はあの方を愛せる」

「刀は人から生まれ人と共にあるだろう。これまでも、これからも」

「人間、神を見縊るなよ」

【4】あらすじ/プロット集(三幕)

[1]江戸、幕府付要人暗殺衆編

 越後を巡る内、人斬り刀の鬼喰の噂が越後の藩主の耳に入り、その評判はそのまま幕府にまで届くこととなった。
幕府の重役は殺人刀である妖刀鬼殺の化身である鬼喰の戦闘力と殺傷力に目をつけ利用しようと目論んだ、黒船来港以降、幕府が朝廷の勅許を受けないまま、米国と不平等条約を結んだ事を契機に幕府への批判は強まり、尊王攘夷運動が勃発し攘夷志士と幕府の間で対立が激化した。そこで首斬り刀と恐れられた山村鬼喰神正信の殺傷力によって攘夷志士を始めとする幕府に不都合な要人の暗殺するなど、体制維持の為に鬼喰を影で暗躍させようとしたのだ。

 また越後にはもう一つ噂があり、複数の式神を使役する優れた霊能力を持った陰陽師がいるという。魔を祓う傍ら、道中で訪れた村や出会った村人たちを助けており、一方で天狗や鬼の子であるとか、恐ろしい鬼神を使役して妖しい妖術も扱うという話もあって、中々底の見えない人物であるとの事。しかしまさか世にも恐ろしい殺人刀の化身、山村鬼喰神正信という狂犬を手懐けているのがその陰陽師、生神萌その人であり、鬼喰と生神の両人は常に行動を共にしており、よもやその二つの噂が同じ一行を示しているとは、幕府の重役にとって驚くべき事であった。

 しかも聞けば、その恐ろしき怨霊を従える陰陽師生神家当主はまだ子供だという話ではないか。
 あの妖刀鬼殺の使い手とされる悪霊はその子供の式神であることは間違いない。これを利用する以上の手はないと、重役はさっそく生神家を江戸幕府に招き入れ、その子供を人質に鬼喰を従えて妖刀の力を手に入れようとした。
 しかし、幕府の重役は鬼喰の実力と妖力を大きく見誤った。その子供の名前は萌というのだが、幕府の勅命を受けて二人が江戸城を訪れ、新門を潜り、本丸の脇に控える小さな櫓近くの庭に通されたところで、闇に忍んでいた御庭番の暗殺衆が鬼喰に奇襲を仕掛け、萌の背後を取って後ろ手に拘束してしまった。
 
「貴様ら、何をする!客人に対してかような無礼を致すとは。それが貴様らの礼儀か。江戸とは日本を統べる中核でありながら、かような狼藉者を許すのか」
 
 鬼喰は既に抜刀の態勢であったが、それ以上の速さで御庭番の黒装束の男衆、俗に言う忍者というものであろうか。その御庭番は相当の手練れで、周囲を警戒していた鬼喰も、不意打ちであったことも災いして、萌が捕らえられるのをいとも簡単に許してしまった。御庭番は背後から萌を拘束し、全身で固めながら片腕で首を絞め「言う事を聞かねばこの小童は殺す」と、更に首を絞めて脅しにかかった。顔が白み苦しみ悶える萌。一瞬顔色を変えた鬼喰だったが、刀に手をかけたまま動かず、こちらの様子を伺うばかりなので、痺れを切らした御庭番は萌をそのまま拷問部屋に向かわせ乱暴しようとした。
 それを見た鬼喰は額の脈が切れる程に憤怒して、とうとう萌との約束を破り、凄まじい妖気を発し睨んだだけで一瞬で辺りを火の海にして周囲を燃やし尽くし、そのまま要人と暗殺衆に瞬速で斬りかかってしまったのだ。
 それに悲鳴を上げた萌は、火傷の痛みに喘ぐ暗殺衆の拘束から逃れ、急ぎ鬼喰の邪気を祓い炎を打ち消して、癒しの力で傷を治療しようと腰をつけて祈りに専念する。
 
 驚くべきは二人の凄まじい剣術と妖術…その破壊力と治癒術だった。鬼喰はあれでも萌の声に我に返り咄嗟に手加減したというが、それにしてもあの場にいた全員を燃やしてそのまま斬り捨ててしまうとは、その妖術も恐るべきことながら、攻撃個所も的確で凡そ急所を斬っており、いくらあの小童の治癒術があったとて、もう刀も取れぬように腕や足の骨が折れているのだから、あの暗殺衆が職務に復帰するには相応の時間がかかるであろう。
 そして対するは萌のその治癒術である。かように火の手が広がり燃え上がった人々を、破魔の術だけで鎮火し、そのまま致命傷を癒してしまった。その後萌は倒れ汗ばみ気絶する有様であったが、誰一人怨霊の手で死なせず、惨事にならずに済んだのはあの小童の力があってこそである。あの小僧の情けによって鬼喰は殺人者にならず、要人を殺害したとして罪状に処し、あの狂犬を自由にこき使うことも叶わなくなった訳だ。こちらの目論見は悉く外れ、計画は何一つ遂げていない。これは稀にみる興。幕府の要人にとっては思わぬ誤算であり、二人の実力がこれ程であるとは、とむしろ感心するほどであった。
 まさにこれは…二人の力は本物というべきであろう。
 それを安全な場所で控え見ていた武人が二人の前に姿を表し、天晴と言わんばかりに扇子を手に前に進み出てきた。
 
「見事であるぞ。まさか幕府御庭番の手練れを相手に上を取るとは、妖刀鬼殺と生神家当主の名は伊達ではないのであるな」

 その武人こそ、幕府の重役であり、表向きは幕府で政をしつつ、裏では要人の暗殺を企て、時に自分も武人として刀を振るい幕府に仇名す不届きものを斬り捨てる影の実力者である。そして鬼喰を利用しようと目論み今回の奇襲を企てた、幕府の裏方で参謀をする重鎮であった。
 これがとんだ食わせ者の狸親父で、新撰組や見回り組とも所縁がある上に、とかく人を操り、派閥同士を争わせ同士討ちを企て、幕府の内政を乱すものを、裏から手を回し秘密裏に処分するのが上手い人間であった。つまり幕府の表に立つ要人…将軍家やそれに近しい家臣や側近達の面子を立てつつ、彼らに代り裏で汚れ役を一身に引き受ける陰の政治屋。
 男は二人に近づき、片手でしゃっと扇子を開き、口元を隠した。
 
「それで、其方は生神萌と申したか。其方らの実力を測り人となりを見る為とは言え、不意打ちにこそ襲い掛かる無礼、お許し願いたい。それに関しては後に拙者が直々に詫びを入れよう。しかし、鬼喰殿の生神家に対する忠義も見事であるが、その方に至っては其方らに嗾けた家来や御庭番の傷まで癒すとは。呵呵呵、とかくにこの世は広く面白い。生神殿、その仏門にも通ずる慈悲と憐れみの心、天晴である」

 扇子を閉じ手元でぱしと叩きながら、呵呵大笑と笑う男は、齢30前後であろうか。如何にも幕府の重役と言った装いをして、髷を結い、顎に髭を蓄えつつも、若々しい生命力を感じさせる顔つき。眉は吊り上がって目力があり、目を当てられただけで威圧を感じる程の堂々とした佇まいとその迫力。先の騒動を傍らで見ていながら二人の前に自ら歩み出て、鬼喰に睨まれ刀に手を掛けられても微動だにせず丸腰である。しかしその一方、手の届く傍らに萌を置くことで鬼喰を常に牽制し、警戒心も感じぬ程の一寸の隙のなさ。その風格は、男が死線を潜ってきた強者であり、ただ者ではないことを暗に示していた。
 
「あの、畏れ入ります…」
「おお、それでいて素直ときた。拙者は正直者が大好きである。昨今の若い衆は、ちと跳ね返り者が多くて躾にうんざりしていたところ。其方の事気に入ったぞ。先程は実に申し訳ないことをした」
「いえ…、しかし僕が至らないばかりにも幕府の方々にお怪我をさせてしまったのは確かなので、どうか彼らの事、お大事になさって下さい」
「ほう、拙者の手のものにまで心遣い頂けるとは、まこと、陰陽道の導師は懐広く慈悲深きことであるな。結構結構」
「畏れながら、それは俺が独断でやった事。萌様、貴方が詫びる必要はありませんよ。ましてこれは彼らの狼藉の致す所、それに関して萌様が譲歩なさる事ではありませんね」
「そうかもしれないけど…。でも、僕がもっと警戒して、こうなる前に相手と話を付けていればこんなことには…。鬼喰さんに普段から頼る余りに、僕が不注意だったよ。だからこれは鬼喰さんの責任ではなく、主人である僕の責任だと思う。だから、貴方の臣下の方についても、僕の方からお詫び申し上げます。しかし、確かに従者である鬼喰さんの言う事も尤もで…できればこのような事はもうやめて頂ければありがたく思いますが…」
「うむうむ、若いながら感心な事であるな。家臣に任を課しその責を一身に負うからこそ主君はもっと思慮深く、慎重で且、、悧巧(りこう)であるべきである。しかし、事実無根の無用な責を負い、無駄に立場を悪くする必要もない。顔に泥を塗り政で遅れを取ってはそれがしの威厳にも関わり、参謀に利用されるだけであるからして、駆け引きも又、戦において大事な事である。人が好いだけでは、己も臣下も何も守ることはできぬ。鬼喰殿もまた、戦と政治を心得ておるな。家臣として、実に良い進言にして真っ当な判断であるぞ」
「…恐縮であります」
「それで、貴方様は一体何者なのですか…?僕は今回幕府の勅命を受けてここに参った次第なのですが…」
「そういえば、まだ名を名乗っていなかったな。すまぬすまぬ、非礼であった。喋り過ぎるのが拙者の悪い癖である故。許せ」
「して、貴公は何用で私共をわざわざ江戸に呼び寄せたと?萌様をあのような危険な目に遭わせながら尚、私共に取り次ぐことがおありで?」
「そう。それもまだであったな。すまぬすまぬ。そう、怒りなさるな。若いの。ちとやりすぎたのは確かであるが、拙者も立場がある故。警備を怠り江戸に賊を入れるわけにはいかぬでの。御目見(おめみえ)相手に推薦する以上は、多少、其方の手の内を知っておかねばな」
「推薦…?」
「そうである。まこと、名誉なことであるぞ。越後と言えば江戸の山向こうにある田畑ばかりの片田舎。上杉公以降特に音沙汰ない国である故。越後の藩主にとっては朗報であろう」
「それで、一体私共に何をさせようと」

「簡単な事。鬼喰殿。其方には幕府の側につき、殺しをしてもらいたい。俗に言う暗殺であるぞ」

「殺し…」
「暗殺…鬼喰さんに…」
 
 殺し。その言葉を聞いて一瞬で空気が変わった。その男の口調は相変わらず飄々とした軽いものであったが、殺し、暗殺の言葉には意味深な凄みがある。萌は不安そうに目を馳せて、鬼喰も眉を潜め、訝しい顔で口を結んでいる。
 
「おや、何か不味い事でも申したかな。聞けば其方は妖刀に憑いた怨霊や荒魂の類との事。しかもその実力とくれば、殺しなど容易い事であろう」
「…」
「確かに、鬼喰さんは、殺しの為に生まれた刀に宿る神さまです。ですが、妖刀山村鬼喰神正信は生神家が先祖代々荒魂として祀ってきて、刀に纏う邪気を祓い清め、魂を鎮めようと努めて参りました。時に賊がその殺人刀を狙って、生神家そのものを襲う事もある、そんな人を惑わす恐ろしい妖刀でもあるんです。だからもう、人を殺めるような、誰かが殺しで亡くなってしまうような…そんな悲しい道具にしたくない。もう鬼喰さんは殺しの刀ではなく、僕らの村を厄災から守る由緒ある神さまなんです。僕は生神家当主として、もう鬼喰さんやこの妖刀鬼殺を殺人や戦には巻き込みたくないと、そう思っています…」
「なるほど、それは良い心掛けである。陰陽道を極むる者ならば、祓い浄めに際しては穢れは最も忌まねばならぬ故、血や争いは避けるべきであるな。流石萌殿、あの恐ろしき霊力のなせる業、日頃の厳しい修練と慈愛の精神の賜物であると見たぞ。まこと、天晴な心意気である。ますます気に入った」
「その、恐縮です…」
「うむうむ、よいよい。では拙者の頼みは聞けないと申すな?」
「はい、わざわざここに呼んで頂いて、本当に申し訳ないのですが…。」

「あいわかった。では、まこと申し訳ないが、其方らには消えてもらうとするか」

「えっ…」

 男が閉じた扇子を振り上げたその瞬間、何処からともなく数本の苦無が萌の顔面目掛け飛んできた。
 
 ぐさぐさぐさ。目にも留まらぬ速さで次々に突き刺さる鋭利な苦無。そして、同時に宙を飛んで後退した鬼喰と、彼に抱き抱えられた萌。地面に突き刺さった何本にも及ぶ苦無は、もし鬼喰が萌を抱えて後ろに避けなければ、間違いなく萌の顔と首、心臓部に突き刺さっていた。みれば男の背後には先程よりも多勢の軍勢…黒装束の男衆がいつの間に横並びに列を作り後ろに控えている。萌を庇うように前に出て、腰を低くして刀を構える鬼喰。男は扇子を開き、口元を隠すように扇いだ。

「ふむ。やはり一筋縄ではいかぬ。見事見事」
「貴公、初めから萌様を殺すつもりであったか」
「それは誤解である、若いの。先も言ったが拙者は萌殿をいたく気に入っている。無論、鬼喰殿の力もそうであるぞ。しかし、その力、貴殿らにはちと手に余るようであるな。それ故、少し躾が必要であると判断したまで。しかし、尚拙者の頼みを聞き入れぬと申すならば、危険な芽は若いうちに摘んでおかねばならぬ。拙者が守るのはこの国である故。其方のように一人の小童を守るのとは訳が違うでの。許せとは言わぬが。貴殿らが、いつ攘夷思想に染まり攘夷志士に組して幕府に敵対するともわからぬ。故に、試した。それだけの事」
「それ故に、萌様を二度も殺そうと試したと仰るか。もしここで萌様が死ねば幕府の危険分子は消えて尚良し、そして生き残ったとて俺たちを脅し従えて力を得、断れば反逆したと適当に罪を被せ、罪人として江戸中にお触れを出し、警察に見つかれば捕まり、牢獄されいずれ死ぬことになる。初めから俺たちには選択肢がなかったと伺えるが」
「すまぬの。拙者、少し喋り過ぎて敵わぬ。誤解されやすいと自負しておる。全く、最近の若い衆は血の気が多くて敵わぬ。己の立場もわからぬでの。怖いもの知らずとは、とかく恐ろしいものよ」
「貴公…」
「鬼喰さん、待って…。あの、お願いです。僕らは攘夷側にも幕府側にも付きません。僕はただ、鬼喰さんの刀を浄化して、その契約を果たしたいだけです。その傍らで迷える人々に手を少し貸して、生活の手助けをしているだけなんです。僕は代々陰陽師を務めた生神家当主として、自然におはす神々や祖霊を祀り、生きとし生きる人に向けて祈りたいだけなのです。僕らは江戸を去ります。なので、どうか僕らの命をお助け下さい。どうか鬼喰さんを殺しの刀にしないで下さい…」
「よいよい。良い心掛けである。若いのに大した傲慢さであることよ。萌殿。それは無理な相談である。江戸城に入ったからには選択は二つしかない故。ここに仕えるか、職務上、又秘密裏に殺されるかのどちらか。故に拙者はここに仕える方が良いと申したまでであるぞ。御庭番の実力もそうであるが江戸城の構造や内政事情を外に漏らされては敵わぬからの」
「これは一杯食わされましたね、萌様」
「そんな…」
「うむうむ。田舎者は正直者で良い。江戸の者より余程可愛げがある。だから拙者、正直者は大好きである。越後などの田舎で暮らしておるから、江戸の広さもさることながら、世の中の広大さ、その恐ろしさすらも知らず、勅令一つでまんまと敵地に訪れる。いずれにせよ勅令を断れば、其方らは数日後人斬りに出くわして死体になっておろうが。全く正直者とは、まこと、愛しくあわれなものよのう」
「…僕たち、一体どうすれば」
「そうであったな。萌殿。其方にも任せたいことがあるのだ」
「僕に…ですか…」
「…」
「萌殿、其方は朝廷の中務省陰陽寮(なかつかさしょう-おんようのつかさ)に対抗する江戸幕府直下の陰陽師として密かに働いてもらう…、つもりであったが、ちと気が変わった」
「…どういうことですか?」
「先も申したが、拙者、其方のことをいたく気に入ったのでな。幕府の陰陽師にするのは勿体ないと思うての」
「して、それは?」

「其方を、拙者の小姓にしたいと申しておる。それとも側室の方であろうか?」

「は?」
「えっ…」
「は…?」

「呵呵呵、よいよい。正直者はこれだから面白い。ちと女にも飽きたところでな。試しに男でも食って見るかと思った矢先に少年姿の萌殿が来たもので、これは小姓に丁度良いと思っていた所であった故。如何にも田舎者の垢抜けない風であるが、花魁はどうも媚び上手で敵わぬ。多少相貌が悪くとも、少々恥じらいだとか、初々しき仕草が恋しいのだ。しかし、まさか其方、本当に女子(おなご)であったとは。女というのは、まこと恐ろしいこと、女狐より余程化け上手とみえる」
「…」
「恥じらわずともよい。実は拙者もよく狸と言われるのでな、丁度良いではないか」
「あの…僕は…」
「萌様、どうかご辞退ください。これでは、最早体の良い人質ではないですか」
「やや、そのように聞こえたか?先も申したが、拙者、よく誤解されるので困る。其方ら、そう邪険にせずとも、これから同じ江戸に仕える者同士、仲良くしようではないか。そうであろう?」
「…」
「もしや、貴殿らはそういう仲であったのか?怨霊と陰陽師が?呵呵呵、まこと世の中は広く興であることよ。よもや首斬り刀の鬼神と穢れを嫌う筈の導師が恋に戯れ人の子でも作ると申すか。これは祝いの席を設けねばいかぬのう。其方らが子を設けた暁には、親子共々江戸一番の見世物小屋にでも出してやろう。神と人の子なれば、江戸中が騒ぎであることよ」
「…貴様、それ以上萌様を愚弄しようものなら……」
「拙者を斬ると申すか。なれば、その前に拙者が萌殿を斬り捨て、その後ゆっくり其方の刀を手折り燃やすとするか」
「戯言(ざれごと)を、ならば俺は貴様が悲鳴を上げる間もなくその首を討ち取ってくれる」
「鬼喰さんやめて…!」
「…」
「ふむ、その意気や良し。侍とは古来はよりある言葉であるが、さぶらふ(侍ふ)者と書いて侍と読む故、その本質は主君の側に仕えることにあるのだ。主君を敬い尽くすこそ武士の華であり、忠義の為振るう刀こそ士族最大の誉や美徳である事。狂犬と言わゆる其方の刀も又、一つの士道があるとみた。其方らの主従の関係たるや、まこと天晴であることよ」
「…」
「しかし、なればこそここで殺すのは些か口惜しいものであるな。これだけは申すが、萌殿の命は其方の手にかかっておる。其方が殺すのは拙者ではなく、幕府に仇名す攘夷志士と要人。従わねば代わりに萌殿が死ぬだけの事。喩え拙者が其方に殺されたとて、拙者の手のものが、必ず、其方らを血祭りにあげるであろう。幕府に仕えるか、女を失うか、一体どちらが賢明であるか、わかるな?」
「鬼喰さん…」
「…俺が仕えるのは、幕府ではない。俺がお仕えするのは、生神家当主であられる萌様ただ一人。俺の意志は萌様の意志である事、俺の御魂は生涯萌様のお側にある故」
「では問題あるまい、萌殿、そうであろう?言うまでもなく、鬼喰殿の命運も又、其方の返事一つにかかっておることは重々承知の筈、其方はみすみす家臣を犬死にさせる程愚かではないと思うが。さて、拙者の独り言はこれにて終わるが、其方の返事は如何様であるか?」
「……わかりました。僕は幕府に…貴方に仕え申し上げます…」
「うむ。よいよい、それが賢き選択である。では共に参ろう。江戸とこの国の安寧の為に。では拙者は、御目見様に話を付けるでな。使いの者を寄越すので、そこの縁側にでも座って待っておれ」
「…」
「ごめんね…鬼喰さん…僕…」
「萌様…」

「それと、萌殿」
「…?」
「先の話は本当である。拙者、萌殿を気に入っておるでな。側室にて、拙者に仕えてもらうぞ。無論、夜伽の相手することもあろう。今までに見ない類の女子である故、其方と過ごす夜を楽しみにしておる」
「…貴様ァ!」
「そんな…僕…あの…」
「呵呵呵、生娘のごとき女が恥ずかしみ、怯え震える姿を見るも粋よのう。これに仕うる男、実に(げに)酔狂である事。正直者を揶揄うはまこと楽しい、では邪魔者は退散するか。まこと、男女の仲とは愉快、痛快であるぞ。呵呵呵」

「鬼喰さん…僕は、どうすれば…」
「萌様、喩え今後貴女が誰に仕えようとも、俺は貴女の御心に従い、何があろうと貴女を御守り致す事を誓い申し上げる所存。萌様、どうか俺を、山村鬼喰神正信を信じて下さい」
「鬼喰さん…」

「して、名前を言うのを忘れたであるな。徳川と言うと皆一様に恐れ畏まりて、面白くない。なればこそ、権力に媚びぬ女はまこと興であることよ。ははは」

[2]袖の下

側室として召し抱えられた萌の姿

「あの旦那様、越後にて買い付けました茶菓子にございます。お口に合うかどうかはわかりませんが、よろしければどうぞ召し上がって下さい」
「ほほう、茶菓子であるか。良い良い。丁度茶請けの菓子を切らしていた所。気が利くではないか。越後屋、お主も悪よのう」
「は、はい…?」
「なぬ、其方は越後屋を知らぬのか」
「ええと…」
(畏れながら、越後屋は屋号の事。三井一族により興され江戸や松阪にて呉服や両替などの商いを営む大商人の店の内、三井越後屋の事を指すかと)
「三井越後…」
(上様の洒落か何かと存じます。もえ様の返しを待っておるのです)
「え、あ、その…ありがたき、幸せ…?」
「可可、そうきたか。お主、悪(わる)と言われて嬉しいか。これは愉快、愉快である。越後の者は学ならず、戯れ言も通じぬと申すか。かかか、誠、田舎の風土は奇妙であるな」
「申し訳ありません、気分を害されましたでしょうか」
「良い良い。ただの『悪代官』による戯れ言であるぞ。そうか、田舎者は越後屋を知らぬか。それは難儀な事を申した」
「いえ、不甲斐のうございます…」
「三井一族の興した商店と言えば、呉服店の三井越後屋と両替店の三井両替店の二つであるが、特に両替店は御為替御用も務め幕府とも所縁のある店。(年貢米を金銀に替えて江戸に運ぶを提案したのも三井である)決して拙者が言うような悪徳商人ではなく、三井は元々武家であったが後に優れた商いの才覚を開花した一族にして、日本有数の豪商である。知っておいて損はない故、覚えておくと良いぞ」
「ありがたき幸せにございます、お代官様」
「そこで代官と来たか!可可、これは良い。もえ殿。其方は実に愉快であるな。これはおもしろき事。常識外れもここまで来ると一芸にして稀有なるものよ、はははは」
「良くわかりませんが、旦那様に喜んで頂けたのでしょうか…」
「畏れながら。もえ様、貴女は一人前に小莫迦にされておるのですよ」
「はははは越後の女とは傑作にして、愉快、痛快であるははは」
「う…ふふ…嬉しゅうございます…」
「もえ様、目に涙が滲んでおります故、全く顔が笑えておりませぬ」
「う、うう…」
「もえ様、ここで取り乱しては側室の恥というもの。多少誤謬があろうと毅然として臨むのが好ましいかと。今は耐え忍ぶ時です。さればこそ、どうか俺を止める事のなきよう…」(チャキ)
「鬼喰さん抜刀は絶対駄目…!殿中にございます、殿中にござりまする〜…」
「ははははは」

[3]帯回し

「まあまあ、良いではないか、良いではないか」
「?」
「…もえ様、『あはれえ』と情け無い悲鳴を上げながらその場にて回って下さい」
「…?あーれー…」
「はははははははははは」
「きゃあ!だめえ」
「惜しい、もえ殿、其処はもっと回りて『お助けえ』と叫ぶのが様式である故、もう一度」
「ひい!これ以上は脱げまする…!おやめください、おやめ下さいませ」
「おいこの狸」
「やや、これは鬼喰殿、目が吊り上がっておるが如何されたか。目に塵でも入り申したか。まこと、武人とは怖や、怖や」
「もえ様、こんな戯れ事に付き合う必要はありませんよ。俺と共に参りましょう」
「悪霊如きが徳川の側室に手をつけるか、鬼喰殿。其方も不成者にして相当の『悪』であるなぁ」
「畏れながら申し上げますが、色は無理強いせぬのが武士の嗜みかと」
「はて、そんな教訓、武士道にござったか」
「田舎者故、殿中の事は存じませぬ」
「しかし、其方も男であるなら、好いた女子の帯を引きて剥きたいであろう、服から溢れる乳房は裸より余程艶であるぞ」
「は…?」
「なぁ、もえ殿!」
「はい、旦那様。まだ着物が乱れて…」
「鬼喰殿も帯回しを致すというので、もう一度任されたぞ!」
「は?」
「え…」
「ほれ、やってみよ」
「…」
「あの、しかし私は旦那様の側室にございます。これでは鬼喰さんに処分が…」
「良い良い。拙者、色事は見る分にも楽しめる趣である故、苦しゅうない。さぁ始めてみよ」
「…」
「…」
「何をぐずぐずしておるか。拙者、こう見えて暇ではない故、これ以上は待ちきれぬぞ。なれば、もえ殿も鬼喰殿も謀叛と見做して門前にて打首ぞ、かかか」
「…もえ様、今夜はお稲荷ならぬ狸鍋でも召し上がっては如何で。狩りならば幾らでも協力致します故。俺の刀も少々血が足りぬようで、今宵は見事な血の雨が降るでしょうねぇ」
「鬼喰さん殿中、殿中…」
「もえ殿。拙者の首が飛ぶ前に早うやってしまえ。何を初々しく恥じらっておるのか。照れる事などない。慣れらば次第に病み付きになる故苦しゅうないぞ!かかか」
「旦那様、少々意地が悪うございますよ…」
「して、もえ様。どうか鬼喰の不貞をお許し下さいませ。失敬」
「きゃあああああ!!」
「おおお!ついぞやりおった!鬼喰殿、見事な騙し討ちである。この恥じらいある生娘の絹を割く悲鳴、堪らぬ!まこと、天晴れであるぞ!お主、相当に悪よのう!かかか」
「まさか、お代官様程ではございませぬ」
「酷いよ鬼喰さん」
「もえ殿、其方本当にたわわである!そこらの遊女より余程大きいと見た!豊かな実りである、まこと官能的であるぞ!手で隠し申すな、眼福故勿体なき事を致してはならぬぞ、見事な乳であるはははは」
「申し訳ございませんもえ様。武士とは時に恥忍んでも守らねばならぬものがあります故。どんな辱めを受けようとも、俺は貴女の一番の忠臣にして唯一の刀であると誓い申し上げる所存」
「鬼喰さん恥忍んでるの僕だよ恥ずかしいよ…。お願い見ないで。そういうのすけべっていうんだよ」
「ありがたき幸せ」
「何で今お礼言ったの…?」
「男児たるもの、時に恥より情け(※ここでは情愛の意)が大事な事もあります故」
「うう…」
「どうであるか、ここまま皆でもえ殿と最後まで致してしまうか!はははは」
「は?」
「…お、お二人を、相手に……ですか…そんな…その…」
「初心(うぶ)な娘を男で囲みて嬲るのも一興であるぞ、鬼喰殿も意中の女子は処女で抱きたいであろう。それとも既に喰っておったか。しかし江戸城の夜伽はやたら格式に煩い故、そう言った性癖の類は一切できぬのでな。されば三人で試しにやってはみぬか」
「とんだ戯れ言を。悪趣味にも程がございますな。本意を言えば、上様にもえ様に関して見せる色など何一もありはしませぬ。もえ様、俺の羽織です。あちらにて新しき衣に着替えましょう」
「うん…」
「大奥は男子禁制であるが」
「田舎者故何も存じませぬ。手向かうなら斬り捨てる迄、失礼致す」
「鬼喰さん殿中だよ」

「まこと、田舎者どもは純にしてまだ青いのであるなぁ、結構、結構」
「しかし危うき事。さて、どう躾けたものか、実に悩ましい」

[4]月役

「月役」の訪れた萌。人前では女である事を隠していた萌は、鬼喰の計らいで七日の間民宿を借りて巣篭もりして鬼喰の看病を受ける事となった。月経の訪れた女は、血の穢れを忌む為に、部屋を隔離されるのも普通である時代。萌は陰陽道を嗜んではいたが陰陽師は穢れを嫌い、本来は男性の道。何故巫女は主に神への神饌や口寄せや祭祀に利用されつつも女の陰陽師がいないかについて、日本書紀や古事記を中心に天皇が男系で起源が天照大神にあるもそれが男神であった説に触れつつ月経と陰陽道の歴史を鬼喰と振り返る七夜譚
「ごめんね、お侍様に小間使いみたいな事をさせてしまって…」(白い着物を着て布団に寝ている)
「俺はこれで貴女の臣下ですよ、仕えるべき主君の身が危ぶまれるならば、看病など容易い事です」
「でも側にいると鬼喰さんも穢れちゃうよ」
「お忘れですか俺は怨霊で鬼神ですよ。俺の刀は元より血で穢れております故、余計な気を使わぬ事ですね」
「そう…」
「元来名だたる武将の影にはそれを懸命に支える奥方の姿があってこそ、女の陰あって男は大義を成せたもの。まぁ、女武将も確かにおりましたが、戦場には女は連れて行けぬので、衆道にて情を発散する者も多くいましたがね」
「そうなんだ」
「武士道とは忠義と情の世界でありますから、主従関係は女人が思う程厳格で小綺麗なものではなく、血生臭い泥仕事が大半という事ですよ。貴女も陰陽道の導師ならば俺のような人斬りの世界に無闇に立ち入りはせぬ事ですね」
「お侍様って大変なんだね」
「まぁ、肝心の俺と言えば何処ぞの世間知らずの箱入り娘のお陰で、刀も振るえぬただの鈍(なまくら)にこそ成り下がってございますがね」
「それって誰の事だろうね…」
「さぁ、何処ぞの生娘でしょうねぇ」
「鬼喰さんは意地悪だ」
「悪態をつける程なれば、大変結構な事で」
「うん…」

「でも僕、ちゃんとした男の人が羨ましいな」
「ほう、それはまた何故に」
「鬼喰さんの言うように、陰陽道はケガレやツミを忌み嫌うから、月役の不浄は本当は陰陽師としては良くなくて。だから僕、本当は陰陽師に向いてなかったのかな」
「なるほど、月の穢れですか…」
「うん…だから生神家の屋敷にいた頃も、月の日がくると僕は離れの小さな小屋(月経小屋)に入れられて一人過ごしていて…。御祖父様が一番そういう事に厳しかったけど、父上もその時ばかりは、僕の穢れが引くまでは小屋には絶対に来なかった。でもそれは穢れを浄めて邪気を祓う陰陽師としては当然の事なんだよね。まして僕は忌み子の片割れで鬼の子なんだもの。生きてるだけでも御の字なんだよ。それに僕も初潮が来た時、突然股から黒い血が出て気持ち悪かった…。その時の御祖父様の悍ましいものでもみたような怯えたお顔と言ったら…。だからきっと男の人にとってはそんな感じなんだろうなって、勝手に思ってた」
「左様でしたか」
「だから穢れある月役の女の人にこんな親身になる男の人、きっと鬼喰さんぐらいだよ」
「左様で」
「へんなの…」

「まぁ、そんな事を申しましたら、俺のような武人など戦の頃は日毎血を浴びる事もございますから、今更女子の血ぐらいで騒ぎ立てるものなのですかねぇ。俺に至っては首を斬る事を目的に鍛えられましたが、首を跳ねた時の首無し死体から噴き出す血柱と申しましたら、まるで谷底に落ちる滝の如き勢い故、女人の股座のそれなど微々たるものと思いますがね」
「そうだ…確かによく考えてみたら、お侍様の方がよっぽど血塗れで危ない感じだった…なんで気づかなかったんだろ…」
「しかしそう考える程に奇妙とは思いませんか。俺は刀の御霊なので戦や謀に関してそれなりに存じ上げておりますが、何故俺のような武人や人斬りは穢れとして忌まれぬのか、そう言った神道に関する詳細な知識を持ち合わせておりませんので。刀の俺にとっては女人の血も人斬りの血も大差ないかと、その様に思うんですがね」
「そう言えばそうだね…何でだろう。鬼喰さんは何か知らないの?」
「俺が存じておりますのは、罪人を処する死刑執行人…一太刀で首を跳ねるは、相応の技術が求めらるる故に、腹を切った罪人が痛みを感ぜずに一瞬にて往生する為、大抵処刑人は腕利きの武士が担うとしていますがね。しかし一方、神道において死と血は穢れとして忌むべきもの。故に死罪の罪人を処するは、穢多・非人と呼ばれる階級のものが下す事も多いようで。喩えば畜生の肉を割くのもそう言った地位のものであったと、聞いた事がありますかね」
「穢多・非人…って不治の病や障害を患ったり罪を犯してしまった人たちや、政で初めからそういう地位に定められた人たちの事…?」
「ええ、士農工商と申しますが、そこに更に穢多非人と呼ばれる階級がございまして。彼らの多くは人が穢れとして忌み嫌う仕事に携わる事が多いと俺は聞いておりますが」
「そっか…。僕もそれ程詳しいわけじゃないんだけど、僕も父上も陰陽道を嗜む上で穢れや罪と咎に関する事は一通り調べるんだ。その中でもハンセン病って言ってね。伝染病や皮膚病、後は生まれ持って手や足がない五体不満足のかたわの症状とか、気狂いとか身体や心の障害だとか、そういう穢れとされている病気や障害をご本人や親族の方が患うと、家族ごと町から隔離されたり、村を出て行かなくてはならなくてね…。各地を流浪する物乞いになったり、(穢多や)非人という地位になって、僕らみたいな穢れを厭う役職の代わりにご遺体を処理したりする汚れ仕事をするようになるんだって…」(おくりびととも関連)
「なるほど、人の世にはそう言った習わしがあるのですね、なんとも奇妙な事です」
「それに本当は僕自身が鬼や忌み子で穢れそのものだったから、そういう穢多非人の人たちの事が他人事には思えないんだ」
「左様でしたか、若殿にはそう言った趣があって、どんな不成者や流浪の者であっても、分け隔て無く祓い浄めの技を施しているのですね」
「本当は、死を看取ったりお経や念仏を唱えるのは神社とかじゃなくて仏門に通じる檀家やお寺のお坊さんがやるんだけどね。生神家のあった村は小さな山里だったから、あんまりそういうのに煩くなくて。お寺もないからお遍路や修行僧のお坊さんが来る時以外は冠婚葬祭を全部うちのお社でやってた事もあったよ」
「まこと、興味深いですねぇ」
「本当、僕そんなんだから友達もいないし、家族もみんないなくなっちゃったから、僕は式神や鬼喰さん以外誰もいないんだ」
「霊や物の怪の類というのは、高貴な神々と違って取り憑く人を選びませんからねぇ」
「えへへ…、だから僕、鬼なのもあって幽霊や妖怪、神様が家族で友達なんだ」
「鬼の子でありながら妖や神々が友人とは、それはまた奇天烈、愉快な事で」
「だから鬼喰さんも僕の家族で友達だよ」
「ありがたき幸せにございます」
「本当は、武家や公家の人の主従関係っていいなって憧れで…。血や契約は人の友情や愛情、絆や縁と違って簡単には切れないでしょう。忠義とか義理とか人情とか僕にはよく分からないけど、勝手に絆以上のものって思っていたのかな。だから参勤交代の行列が来る度にね、お侍様を連れたお殿様とか従者を連れたお姫様の事、ずっと羨ましく思ってたんだ…。僕にもそういう人がお側についてくれれば良いのになって」
「ほう、確かに忠義と契りは血の如く重いものですからねぇ」
「だから今夢が叶って嬉しい」
「…」
「僕はこれからずっとこのお方と一緒にいて僕もこの人にお仕えするんだって思って、嬉しいな」
「左様でございますか」
「だから僕らずっと一緒にいようね」
「…何か他に入用は」
「じゃあ鬼喰さんも一緒に寝ようよ。洗い物、僕が後でするから」
「しかし」
「鬼喰さんはお侍様だから洗濯とか炊事とかあまり得意じゃないでしょう。それは僕がするから大丈夫だよ。ね、だから僕に添い寝してほしいな」
「御意に」
「あと手繋ごうよ」
「どうぞ存分に」
「月の日はずっと小屋に一人きりだったから誰かが側にいると嬉しいね」(ひそひそ声)
「左様で」
「…」(にこにこしている)
「先程から顔が醜く歪んでおりますよ」
「嬉しいからいいの」
「左様でございますか」

[5]犬

「わん!ヘッヘッヘ!」
「何ですか若殿。この愛くるしく、厚かましく太々しい上に憎々しき犬畜生めは」
「柴犬だよ!あのね、人間の罠にかかって怪我をしていたから、霊力で治癒したらすっかり懐いちゃった。動物ってやっぱりかわいいね」
「ほう、これはいいですねぇ」
「でしょう。僕らみたいな旅人には飼えないかもしれないけど、でも1匹ぐらいなら暫くは面倒見れるんじゃないかって」
「今夜は犬鍋ですか、赤犬ではないようですが喰えなくはないので問題ないですかね」
「何言ってるの鬼喰さん!食べるわけないでしょう!?」
「しかし中国では赤犬は食用とされてますし、この小麦色の犬も炒めれば食えるのではないですか」
「絶対駄目だよ!どう見たってこの子、捨て犬とか迷い犬でしょう!?こんなに人に懐く野生の柴犬なんて見た事ないよ…!?多分人からちゃんと躾とか訓練を受けてたんじゃないかな…、きっと村の田畑を荒らす鹿や猪の狩猟をする人の飼い犬で、何かがあってその人と逸れちゃったんだ…」
「なるほど、ではその飼い主を見つけるのが早道ではないですか。流石に俺たちのような流浪者に犬一匹は飼えんでしょう」
「そうだね、じゃあ鬼喰さんの言う通り飼い主を探してみようよ。もしかしたらまだ近くにいるかも…」
「ですかね。恐らくはここ周辺の村の者の飼い犬か何かでしょう。この犬畜生の体力や子綺麗な毛並みを見ても、罠にかかって一日二日も経っていない筈、そう遠くはないと思いますね」
「よし早速探してみよう」
「全く、若殿のお人好し加減には、ほとほと呆れ果てますね」
「じゃあ一太郎!一緒にご主人を探しに行こうね!」
「わん!!」
「一太郎とは何奴ですか」
「この子の名前だよ」
「人の犬に名前をつけて如何されるつもりで」
「いつまでも犬だと可哀想だから、飼い主が見つかるまでこの子は一太郎だよ。よし行こう鬼喰さん、いざ飼い主探しの旅へ!」
「わうん!」
「若殿、まさかこのまま飼い主が見つからなんだ場合に、この犬畜生を飼うおつもりではないですかねぇ」
「一太郎だよ」
「俺には関係のない事です。この様に若殿に対して息巻いて顔を舌で舐め回すような馴れ馴れしい糞犬は犬畜生で充分ですよ。そうだな、畜生丸」
「わん!」
「という訳で、こいつの名は畜生丸に決まりですね。隙あらば殺す」
「やめてよ、鬼喰さんが言うと冗談に聞こえないよ…。可愛いでしょう、鬼喰さんにも懐いてるんだよ、頭を撫でてあげて、ね?」
「犬の分際で、若殿の寵愛を受けようとは烏滸がましい、俺が抱えてそのまま抱き潰して差し上げましょうかね」
「僕が一太郎を持つね、ほら頭を撫でてみて、優しくだよ」
「…この畜生は先程から執拗に俺の手を舐めてくるんですが、こいつは誰であっても媚び諂う武士の風上にもおけぬ謀反者なのではないですか。主人以外の者に懐くとはなんと不忠で不躾な。俺の靴底でも舐めさせますか」
「鬼喰さん、一太郎に嫉妬しないで…、相手は犬だよ…。それに僕にとっては鬼喰さんが一番だから大丈夫だよ。そうだよね一太郎、この人は鬼喰さんといって一太郎の兄貴分だから仲良くしようね」
「わおおん!」
「フン、わかればいい。いいか、畜生丸。俺こそがこのお方に仕える一番の忠臣にして唯一の忠犬、山村鬼喰神正信であるからして。もし畜生のお前が正体を表してこのお方に仇なす様であれば真っ先に貴様を斬り殺す、いいな糞犬」
「わん!!」
「鬼喰さんはこう見えて義理堅い優しい人で少し気難しいけど寂しがり屋で不器用なだけだから、嫌いにならないであげてね」
「わんわん!!」
「死ね畜生丸」
「わん!!」
「鬼喰さん、少し意地悪だよ」
「真面目に撫でてやってるではないですか」
「よしよし鬼喰さんは何も怖くないからね」
「俺を撫でても何も出ませんが」
「わん!」
「よしよし二人ともいい子だね」
「わん!!」
「死ね糞犬」
「もう、ダメだよ鬼喰さんはしばらく一太郎とお喋り禁止だよ…」
「わんわん!!」
「解せぬ、何故に俺がこんな犬畜に」
「鬼喰さんも可愛いしかっこいいから大丈夫だよ安心してね」
「わん!」
「…」
「くぅ〜ん…」
「鬼喰さん、わかったよちゃんと鬼喰さんの相手するから、一太郎の事睨まないで…。一太郎が鬼喰さんを怖がってるよ」
「俺は狂犬とも呼ばれた男ですよ。俺一人いればこんな犬畜生必要ないと思いますがね。わかるな、畜生丸」
「わおん!」
「はいはい…」

「ヘッヘッヘ、わん!」
「なんだかさっきから僕らの足元をくるくるしたり、服の裾を噛んで引っ張ったり、道の先を歩いたりしてるね。もしかして、飼い主のいる場所がわかるのかな」
「犬は人の嗅覚より遥かに敏感とされていて、人にはわからぬ匂いを辿り、聞けば微かな足音や気配で主人かどうかも判断もできるそうですよ」
「へぇ、一太郎は優秀なんだね」
「その上、犬というのは人以上に霊気や妖気に敏感とされていますね」
「僕らみたいに幽霊が見えるって事?」
「ええ、例えば日本の古くからこんな伝承が伝わっています。
(逸話を調べる)
この様に犬の優れた嗅覚や聴覚に並んでその人には見えぬ何かを感じ取る霊感がある。一説によれば狛犬は拒魔犬とも言い魔除けの力があるとされているそうです。神社にあるあの一対の狛犬の像、片方は獅子を象った者ですが、口を閉じた像は犬であるとされており、阿吽の姿勢は宇宙の始まりと終わりを示していてをとる二匹の狛犬は福を招き、魔を祓うと。いずれも邪気を祓うものであると言われていますね。そのように犬は古来より人の生活に携わり、他の獣と同じように人にはない力があると信じられていたようです」
「そうなんだ。じゃあ一太郎も何かの力を感じ取って僕らに教えようとしているのかな?」
「それはわかりかねますが、花咲か爺さんの話もありますし、俺たちを何処かに連れて行行って何かを伝えようとしているやもしれませんね。流石に財宝や金銀の類ではないとは思いますがね」
「そっか。よし、一太郎!僕らをそこまで導いておくれ」
「わん!」
「果たしてこの犬騒動の事の顛末は如何様になる事か」

「わん!!ヘッヘッヘ」
「若殿、大丈夫ですか。まだ走れますか。息が上がるようなら少し休みますが」
「はっは…や、やっと追いついた…、みんな足速いね…。僕、体力ないから、こんな山道…走ると…もう、ダメ…はっ…は…ふー…」
「呼吸が乱れてそこの犬畜と変わりないじゃないですか」
「ヘッヘッヘ」
「はぁ…はぁ…、さすが一太郎と鬼喰さん…普段から…鍛えてるだけあって…山道を走っただけじゃ…疲れないんだね…僕もう走れそうにないや…」
「…やむを得ないですね。少々ここは気が悪いですが、少し休憩しますか。おいいいな、畜生丸………」
「わん!ヘッヘッヘ」(ザクザクザク土を掘る音)
「…これは……」
「どうしたの…鬼喰さん…何か…あっ…た…」
「わん、くぅ〜ん」

「人の死体だ…いつ亡くなったんだろう…惨い死に方だよ。頭がめちゃくちゃで…それに…まるで胴体ごと引きちぎられたみたいな…」
「若殿はお下がり下さい、俺が死体の検死(死体見分)を致します故」
「うん…、お願いね」
「…見るにこの死体の男が、この犬畜の飼い主で間違いなさそうですね。恐らく主人の微かな匂いや血と腐敗臭を辿ってここまで俺たちを連れてきたのでしょう」
「そっか…」
「よもやこんな形で主人と再会するとは…。畜生丸。貴様の心中を察してやらんでもない。主人を失った飼い犬は、縋る当てもなく浪士として辺りを彷徨い歩くしかないのだからな。俺もお前も、さして立場は変わらぬという事か」
「わん!」
「…それにしてもここは禍々しい邪気で一杯だね…この仏様のお身体にも触ってしまうから、できればご遺体を移動してあげたいけど…」
「わん!」
「お前は、この事を僕らに知らせる為に、罠に掛かるまでずっとこの道を一匹で走ってきたのかい?」
「わん!」
「そっか。一太郎は捨て犬でも迷い犬でもなく、最後まで主人に従い主人を思い遣った利口な忠犬だったんだね。一太郎は鬼喰さんとおんなじ立派なお侍様だよ」
「くぅ〜ん」
「鬼喰さんの検死が終わったら、お身体の穢れを祓って供養して上げないと。もしかしたらまだ霊魂が彷徨ってるかもしれないし。それに一太郎の新しい飼い主も見つけないと…」
「わん」
「お前は決して一人きりではないよ一太郎。ちゃんと新しい人が見つかるまで僕らが面倒を見るからね。だから一人じゃないよ。勿論鬼喰さんも、僕も…」

「若殿、検死が終わりましたよ。無論正確なことは医者に聞かねばわかりませぬが」
「どうだった?この人はどうしてこんな…」
「見ての通り、この胴体の傷が致命傷になったかと思われますね。恐らくは即死だったかと。出血量とその具合からして頭の中はその後抉られたようです。他数カ所引き摺られたような傷跡や引っ掻き傷がございますが、いずれも致命傷ではなく、もしかすると死後つけられたものやも知れませぬ。胃の中身に食べかすも残っていないので、この男の胃の中身はほぼ消化されたと見て間違い無いかと。又遺体の腐敗の進行度や硬直具合などを見ても死んでから6刻(1日を12刻にわけた場合、12時間のつもり後で調べる)以上は経っているかと思いますがね」
「そう…。じゃあもう一太郎が僕らを呼ぶ前からこの男の人はもう亡くなっていたんだ…」
「心中お察しします、この者も犬畜も難儀な事で」
「そうだね」
「またこの死体には奇妙な事がございましてね」
「奇妙な事…?」
「あまり女子にお見せするものでもありませんが、どうやら男の脳や心の臓が抉り取られたようで、他にも幾つかの臓物が抜き取られていますねぇ。俺は医学の知識は専門ではないので、具体的にどの部位かはわかりかねますがね」
「そんな…脳と心臓がないの…?その人」
「ええ、胴体を引きちぎった目的はどうも外見ではなく『中身』だったようですね。というのも、男の持ち物や身なりを調べたのですが、見ての通り、近くの山里で暮らしていた風の農村の手の者。装いは衣を羽織り着物をを着込んで厚着のようでしたが、風呂敷の中身は食料と水、櫛や鏡などの日用品の類で、金目の物を所持していたとは思えません。しかしこれを」
「これは…鉄砲?」
「左様。これは恐らく害獣を狩るための猟銃の類かと。先程から鼻につくこの獣の匂いは、男の着ている衣のもので、獣の皮を縫いこんで獣の血や体液などに浸し、人間本来の匂いを掻き消すための物の様で。これは狩人が獣を狩る際に人と悟られぬ為によく使う手法。この犬は飼い犬故にその微妙な違いやこの者の特有の匂いを嗅ぎ分けられたのでしょう。つまり犬畜はこの男の飼っていた猟犬であった事になりますかね。どうやら若殿の見立ては正しかった、という事です」
「でも武士でもない人が猟銃なんて持てるの?農民の人に簡単に手に入るものだと思わなかったよ」
「鉄砲といえば、かの信長公が長篠の合戦にて火縄銃を用いた戦略により勝利した事はまだ俺の記憶に新しいですが、元は種子島に漂着した倭寇の船に偶然乗り合わせた異国の者により伝来したという話。
(うんちく)
その猟銃を放置するのは金品目的の物取りや賊の類の殺しとは思えませんね」
「じゃあなんでこんな酷い殺し方を…」
「時に若殿。人の脳や臓物は薬になる事はご存知で」
「薬…?じゃあこの人が殺されたのは人間の身体にある脳や臓器が目的だったって事?」
「その可能性もあります。人の脳や臓物は時に金目のものより余程高価な値にてやり取りされる事もございます故。もし手近なところに薬売りや闇医者がいれば高く売れる事もありえない話ではない。まして医者などと言えばその知識もさる事ながら専門の技術を要し器具と広い家屋も必要になる筈。それ故身分が高く富める者である事が大半ですからね」
「確かに単に金品を盗みたいだけなら、こんなに酷い殺し方なんてしなくていいもんね…。それに人の臓物の薬としての価値を知っていたとなると、単純な盗賊や物取りの類ではなくて、医学や薬の知識がある者、それか身近にその職の知り合いがいる者でもなければ、こんな惨い殺しの発想なんてしないもの…。まして心臓を抉り取って脳を取り出すなんて…」
「しかし、もう一つ可能性がございます」
「もう一つ…?」
「この胴体の傷。刀や槍の類で斬られたものではない。仮にこの地域の村人なら近場にある凶器は桑や鎌などの農具になるかと思いますが、何れのものであってもかような傷はつきませんね。まして鉄砲の傷ではない。例えるならば、巨大な猛獣か何かによって噛みちぎられたと言った方が近いかと。明らかに人の手によるものではありませぬ」
「それじゃあ、これは…」
「左様ですよ。これは明らかに物の怪や神々の類による殺しかと存じます」
「そんな事が…だとしたら、まだその妖がこの近くにいるかもしれない。さっきから感じる霊気や妖気は、このご遺体のものかと思っていたけど…」
「その物の怪が近くにいるかどうかは、この場の妖気に掻き消され、まだ判断できかねます。しかし、人の臓物や脳には薬以外の別の用途もございましてね」
「別の用途…?」
「ええ、それは勿論、神々に仕える貴女もよくご存知の筈です」
「…そっか、つまり神饌…神々や妖怪への捧げ物…生贄の類という事…?」
「そうとも考えられます。確かに闇商人や人身売買などを目論む人買いの類が山里に訪れた事もあり得ますし、数日山道を歩いて町に出る事も可能ではありますがね。人の中身は兎角腐りやすい。日干しするか特殊な薬がなければ状態を保存する事も難しく、この近場に医学や薬学に詳しい富豪がいるとも思えません。もし物の怪の類以外に考えられるとすれば、鬼や獣の霊などの妖を操る妖術師…つまり貴女と同じように式神を操る陰陽道の手による者かと」
「陰陽道…確かに陰陽道に伝わる術には人を呪う術もあるけど…。でもこれはもう鬼喰さんの言う通り、怪しい秘術を使う妖術師や呪術師の領分だよ。そして人の臓物や脳が恐ろしい神々や物の怪への御贄だとしたら…、その妖術師は更に上位の神々や妖を呼び出してその力を手に入れようとしている…」
「つまりこれは、妖術師による降霊術の儀式…悪魔召喚の儀に必要な殺しである可能性もあると、そう言うことになりますね」
「…」
「…」
「くぅ〜ん…」
「取り敢えず今はこの人を供養してあげたいな…このまま野晒しだと、この人も浮かばれないし、この子も可哀想だよ…」
「左様ですね。何処か見晴らしの良い場所にでも死体を運んで、お経の一つでもあげてやった方がこの男も安らかに成仏できますかね」
「うーん、問題は宗派なんだよね…。仏教といっても色々あるから、僕あんまりお経の種類を知らないから、珍しい宗派だったらどうしよう…」
「手荷物に男の宗派が分かるものなどありましたかね。もう一度広げてみますか」
「お握りとか沢庵とか…軽めのものが多いね。本当にすぐ村に戻るつもりだったのかな…」
「少し失敬」
「鬼喰さんどうしたの?」
「先程は気になりませんでしたが、この手鏡…。もしや」
「…化粧道具か何かかな?でも男の人って能楽師以外にも化粧するのかな」
「いえ、若殿。あの土壁の影を見ていて下さい」
「うん…」
「手鏡に光を翳せば、恐らくは」
「光が鏡に反射して…あの光…十字架?」
「左様ですよ。これは間違いなく魔鏡と呼ばれる類のもの。嘗て切支丹が江戸幕府の切支丹狩から逃れた後、密かに信仰を続ける為、仏像や鏡に聖母や十字架を隠したと、過去に聞いた事があります」
「じゃあこの人は、幕府に追われて尚信仰を捨てずに山里に隠れ住んだ隠れ切支丹の末裔…」
「この者は出牛(でうす)なる異国の神を信ずる伴天連という事になりますね」

「よしなんとか、穴を掘れたね。一太郎お前も頑張ったね。鬼喰さんもありがとう。やっぱり男の人がいると助かるよ」
「わうん!」
「何かと死体処理には慣れてますからね。墓でも作ってやりましょうか」
「じゃあ十字架がいいよね。後ご遺体は燃やさずにそのまま土に埋めよう」
「燃やして骨にするのでは?」
「仏教は基本的に二度と魂が輪廻を巡り穢土に転生しないようにする為の教えなんだけど、切支丹の教えでは肉体の復活が信じられてて、基督様という仏教でいう弥勒様みたいな救い主が後で死んだ信徒の肉体を復活する教えだから、火葬じゃなくて土葬が決まりなんだって」
「ほう、まるで中国の儒教における死体処理のようですね。同じ死を追悼するにも信仰一つでここまで違うとは、通りで人の世で戦が終わらぬ筈で」

「十字架はこれでいいんですかね」
「とにかく十の漢字になってれば大丈夫じゃないかな…確かこれが基督様の象徴で切支丹の大事な徴だった気がするから」
「仏門でいう仏像の類という事ですかね」
「きっとそうだね。あとね。越後の何処かに隠れ切支丹が隠れて拝んでいたまりあ観音というのがあってね。実際日本にいる切支丹の人たちは出牛様やまりあ様の代わりに仏像を拝んでるらしいよ」(※本来キリスト教は偶像崇拝禁止、特に東方教会では偶像崇拝禁止)
「左様でしたか。先程の鏡もそうですが、信仰一つを貫くのも難儀な時代ですね」
「うん…後はお祈りだけど、切支丹のお経ってなんだろう」
「南無阿弥陀仏と同様に出牛なる神の名を唱えれば良いのでは」
「そうだね、とりあえず十字を切ってお祈りしよう」
「祈りの作法は合掌で良いので?」
「合掌だと仏様との一体を意味するから少し違うのかな、でも伴天連の人も確か胸元で手を合わせて十字架に祈祷してたみたいなんだよね。信仰は違うけどこの人の魂を慰めて死後楽園(パライソ)へ向かうように願うのは同じだと思うし、多めにみてくれないかな」
「楽園(パライソ)も極楽浄土も恐らくは苦悩の無い理想郷やあの世の類の事、それで間違いはないかと」
「じゃあ、お祈りしよっか」
「承知」
「ええと、確か父と子と聖霊の御名によりてあんめん」
「南無阿弥出牛(なむあんめんりうす)」
「黙祷」
「…」
「…」
「…」
「そういえば南無阿弥陀仏ってどう言う意味なの?(仏はお釈迦様とか如来の意味だと思うけど南無阿弥陀って何の事?)」
「わん!」
「俺は人斬りの侍故、経の意味までは存じませぬ。阿弥出牛は洒落です」
「わん!」
「だよね、後生の為に今度お坊さんに聞こうかな…」
「わおん!」

「異国の伴天連がもたらしたのは信教だけでなく、医術や西洋独自の技術をもたらしたと言われていますね。そこには錬金術…東洋の言葉で言えば練丹術なる金属や薬の加工技術を持っていたとされています。そして丹という字は中国において『金』…即ち『金丹』と呼ばれる『不老不死の霊薬』を示すもの。切支丹の丹はただの当て字と思われますが、果たしてこれは偶然と言えるものなのか」
「というのも切支丹財宝伝説がございましてね。彼らは金を精製する技術を持ち幕府の切支丹狩に際して金銀財宝の類とその技術と共に表から姿を消したと言われていますね」
「もしかして一太郎のご主人が殺されたのは偶然じゃ無いのかな」

「まさか本当に、『ここ掘れわんわん』なんてことあるのかな」

[6]犬弐

「…」
「若殿、その男の首巻きをどうするおつもりで?」
「うん…、一太郎のご主人の身の上の事、僕らは何も知らないままになるかもしれないから、せめて何かご主人の物を一つだけでも一太郎に残しておきたくて。この首巻きなら一太郎の首元に身につけることができるかなって」
「しかし、それではいつまでもこの犬畜は前の主人の影に縛られ、次の飼い主に懐けぬのではないですか」
「そう…。僕は犬飼って育てた事ないから、よくわからないけど。でもこんなにご主人の事を慕っているのに…。もうご主人は土に埋められたのに、そこにずっとああして座り込んでいて…。まさかまだご主人が亡くなった事に気付いていないのかな」
「犬は人の五感より遥かに優れ、その呼吸や気配を読み取ることは容易い筈。それに流石に『あれ』を見れば既に男に息がないのは分かるとは思うのですが、犬畜の事故俺にはわかりませぬ。まさかとは思いますが、主人はまだそこにいるのでしょうかね」
「僕には見えないけど…、一太郎にはご主人の霊か何かが見えるのかな」
「いずれにしても、あの犬畜には新たな主人が必要かと。ですから、前の主人にばかり拘っていてはあの犬畜にかえって迷いを生ませてしまうのではないですか。まして前の主人の形見のようなものを身につけていては」
「でも…このままご主人の事を忘れるなんて、一太郎からご主人をのは可哀想な気がして」
「しかし…」
「そうだ!」
「どうしましたか」
「そっか簡単な事だったんだ、難しく考える必要なんてなかった」
「ほう…、して、その心は」
「この首巻、新しい飼い主がみつかるまで僕が取っておいて、新しい飼い主が見つかったらその人にこの首巻を渡せばいいんだよ。ご主人の想いをその人が継いでくれれば良いんだ」
「つまり継承する、ということですか」
「そうだよ。そうすれば前のご主人の事も、新しいご主人の事も一太郎は同じように慕う事ができるでしょう?だから忘れる必要はないんだよ」
「左様ですか」
「うん、そうだよ」
「若殿は傲慢な方ですねぇ」
「え」
「いえ失敬。人というのはつくづく解せないものだと思いましてね」
「そうかな」
「左様ですよ」

[7]月齢

 満月に近づくにつれ鬼喰の妖気は増してゆき、内なる怨念、一族を皆殺しにした者共への復讐の怒りと執念に身を焼かれ、恐るべき人斬りとしての鬼神鬼喰が目覚めそうになる。
 ふとした瞬間に、人の首を切る幻を見るようになり、それは例えば萌が頸を見せてしゃがみ込んだ瞬間だとか、俯いて食事をしている瞬間だとか、そういった一瞬一瞬、気を抜くと、萌の首が己の振るう刀一閃で血潮を吹いて跳ね飛ぶ幻が瞼を瞬く間に見える事がある。
 それは間違いなく幻であり白昼夢の類の何かであるのは確かだが、己の右手はしっかりと刀の柄を握っており、一歩間違えればそれを抜刀しその惨劇は確実に現実のものとなっていた。
 それは新月を終えて月が満ちる毎に強まり、鬼喰の理性を貪って、刀としての本能に目覚めて、仇の武将首を取らんと怨念が強まり、自身の顔を人から般若へと歪めていき、獣の如き力と物の怪としての妖気を高め鬼神として覚醒しそうになる。
 一瞬気を緩めれば、主君である萌の首を飛ばして斬り殺しかねない。それを避ける為、鬼喰は満月の夜が近づくにつれて、萌が寝静まった頃、夜な夜な外を出歩き、一瞬とも言える恐るべき太刀筋で獣や野鳥を斬り殺し、畜生の血を刀に吸わせる事で、昂る気を鎮めようとしていた。
 そうして鬼喰はなんとか萌を斬り殺さずにいたが、ある満月の夜、借りている民宿の戸をギィと押し開き、獣を斬り殺した時のような悍ましい鋭い眼光を目に湛えたまま、ぎぃ、ぎぃと木板を鳴らして、ゆっくりと萌の眠る布団へ歩み寄り、床まで届く妖刀を右手に持って、刀身に月明かりを鈍く反射しながら、その枕元に影を落としつつ真っ黒な顔の上に赤い月のような目を鋭く光らせ、音もなく忍び立っていた。
 息は整っているが、武将羽織も装いもその刀も怨念以外の表情の全てを削ぎ落とした顔にもべっとりと返り血がついて真っ赤に汚れており、その刀の先は、静かに寝息をたてる萌の喉笛へと向けられている。
 そうしていると、刀の切っ先が細かく震え出し、鬼喰の右手が殺しの本能と萌への忠誠心の間に揺れて、萌を貫く事なく首から寸刻間を開けたところで留まり刃先はずっと怯え震えて、鬼喰は堪えるようにしながら右腕がこれ以上動かぬようにそこになんとか押し留めている。
 ふとべっとりと刀身についた獣の血が刀の刃先まで流れ落ち、先端からぽた、と血の滴が落ちて、それがそのまま萌の頬に落ちた。
萌は薄らと目を覚ました。
 鬼喰は一瞬それに気を取られ、こんな悍ましい怪物のような殺気に満ちた自分の姿を見た萌が怯えた顔で悲鳴をあげそのまま自分に首を刎ねられる幻が見えたが、萌はそんな血みどろに染まった自分の姿を見ても、うんともすんとも言わず、ただぼんやりとした眼差しで自分を見上げていた。
 萌は呟くように言った。
「どうしたの?鬼喰さん。何処か怪我をしてるの…?血で真っ赤だよ。大丈夫?何処か痛いの?それとも身体の具合が悪いの?」
 そんな風に真抜けた事を言ってくる。女には自分が手負いに見えるらしい。この血は自分の血ではなく、自分が斬り殺した獣どもの血であるのに。自分の業によるものなのに。女はただ俺の心配をしている。今一番危険なのは刀をあてがわれる女自身であるのに。
「鬼喰さん、魂の穢れが増えてるみたい。邪気を祓うからこっちにおいで」
 そう言って布団に横たわったまま手をこちらに伸ばすので、鬼喰は震える刀先をなんとか床に下ろして、そのままガクガクとした歪な仕草で正座をして座り込み、背を丸めてぐったりとしていた。無言で俯いていると女は鈍い仕草で布団から上体を起こし目を擦った後、眠気のある眼差しを鬼喰の顔に向けて、鬼喰の頭を女の懐にそのまま身体ごと抱き寄せる。鬼喰の顔はちょうど豊かな胸の膨らみの上に埋まった。
 まるで幼子でも抱いて寝かせるような仕草で背中をぽんぽんと叩きつ、片方の手で鬼喰の頭を撫で抱えて、唇で小さく祝詞を呟きつつじっと鬼喰の気を清めていた。なんだか温かいものが霊の内側に流れ込み、自分の邪気が何かに吸い込まれるかのように薄まって体から出て行く。そして萌の清らかな気と自身の気が一つになったような、そんな不思議な感覚。鬼喰は眠らずの身体であったが、何故かその時は突然睡魔にでも襲われたように瞼が重くなりふっと全身の力が抜けて、誘われるままにゆっくりと目を閉じた。
 夜空の向こう、山の端に淡く朝焼けが滲み出した頃。気がつけば鬼喰は眠る萌の懐に抱えられたまま布団の中で寝ている。
 鬼喰の目の下に隈のようなものがあり目元はやつれて顔もやさぐれて疲労していたが、どうやら魂は鎮まったようで、昂っていた邪気も今はもう引いて身体も自由が効くようになっていた。しかし起き上がる気力もなく、なんとなくこのまま女に抱き抱えられたい心持ちだったので、朝が来て遠くで鶏が鳴いているのも知らぬふりをして、再び静かに目を閉じてじっと女に抱き抱えられている。
 その時感じた郷愁のような何かは、萌の母性や優しさに対するものであったのか、それとも別の何かであったのかは鬼喰の知る由では無い。

[8]終幕

 鬼喰は幕府の重役『徳川それがし』に「もしも幕府側の要人を殺したり、逃げたり、反体制側の攘夷志士に助けを求めるなど、不審な行動をすればこの女を殺す」と脅され、鬼喰は新選組と共に過激派の攘夷志士の殲滅に向かったり、密偵をして敵情を視察して体制に都合の悪い人間を秘密裏に抹殺する「暗殺衆」に所属することになる。

 萌は名目上は徳川それがしの側室として扱われ、徳川の命に従い秘密裏に陰陽師として働き卜占や呪いをしつつ徳川と共に行動し江戸を偵察するなど、鬼喰を脅す為の人質として自由を奪われることになる。

 首斬り刀として数々の名だたる武将の命を奪ってきた妖刀の存在は幕府要人さえも惑わし、多くの武士や武将がその妖力と破壊力を狙い、鬼喰の失脚や神殺しを目論み、その殆どが幕府に対する反逆者として鬼喰によって秘密裏に「処分」を受ける事になる。
 又一方萌の霊力が噂以上だったことに徳川は驚き、大いに重宝することになる。要人に隠れ陰陽道の秘儀を使い、戦の行方を占ったり、反体制側を呪い、験担ぎの為に魔を祓うなど、鬼喰と共に江戸で暗躍するようになった。


 引き裂かれた二人であったが、二人の姿に何か思う所でもあったのであろうか、徳川の計らいもあり、任務のない時は「側室のもえ」ではなく「陰陽師の生神萌」として鬼喰と共に行動することを許し、皆が寝静まり、誰も見ていない時間を見計らっては鬼喰は夜な夜なと萌の寝室を訪れこっそりと逢瀬を繰り返していた。徳川は配下の御庭番の監視でそれを知りつつも黙認し、素知らぬ顔で見逃していた。
 月の出る夜は江戸城の檻の中、縁側に二人並んで座り、城壁で閉じた狭い庭園の草木を眺め、月のない夜や雨の降る頃は身体を重ねまぐわい、何度も密会を繰り返し二人一緒になろうとして、あくる夜、遂に江戸城からの逃亡を企てるが、御庭番によって常に行動と密会を見張られていた為に追跡され、あっけなく二人は捕まってしまう。
 もえは今や徳川それがしの側室の扱いであり、鬼喰は江戸城の秘密組織である暗殺衆の一員なので、今回の二人の企てに対し御目見は大いに憤慨して、徳川それがしは二人の処罰を思案して、御目見は半ば処刑に持ち込もうとしていた。
 
 鬼喰が不審なことをする度、萌にそのしわ寄せが行って、何度も徳川に夜伽に呼ばれて犯されそうになった所を鬼喰は怒り牽制してきたが、今回のように鬼喰と夜逃げするなど側室としてあるまじき行為であり、側室と徳川家に対する侮辱であり恥をかかせたとして、萌を打ち首に処し晒し首にして、鬼喰はその神霊を祟り神として江戸城の地下に永久に封じ、又は神格を消滅させる為、憑代の刀ごと破壊し、その断片を土に埋めるような流れになった。
 しかしそれを聞いた萌は全身から汗を噴いてみるみる痩せた形相となり、必死に土下座をして御目見と徳川に嘆願し、自分の身はどうなっても構わないので、今宵こそ、徳川家の側室として夜伽の相手を務め、生涯徳川家と幕府に従い尽くすことを誓い申し上げるので、鬼喰の消滅と生神家が継いで守ってきた山村鬼喰神正信の刀壊処分だけはやめて欲しい、と徳川家に追い縋った。御目見は側室とはいえ往生際をわきまえず命乞いをするのは士道に反し見苦しい、潔く刑に服し、さもなければここで自害せよと萌を厳しく糾弾したが、徳川それがしは我関せずと言った様に表情を削いで、あれこれと思索しているようであった。
 そこに徳川家の当主であり、江戸幕府を統べる14代征夷大将軍である徳川家茂が現れ前に進み出て、側近から話を聞いて二人の事情を知り、側室や暗殺衆として刑に処するのではなく、むしろ二人の仲を認め彼らの立場を保障して夫婦として二人一緒になれば、今回のような逃亡を企てず今後も幕府に仕えるだろう、と御目見と生神家の間を仲裁した。御目見は納得の行かぬ面持ちであったが、将軍の威光の前には誰も反対の声を上げず、それならば鬼喰も文句を言わず、大人しくなるだろうと、渋々と受け入れることとなった。
   鬼喰は表向き江戸城内部において秘匿の存在であり、仮にも生神萌は徳川それがしの小姓であり幕府付陰陽師である男としての萌と徳川の側室である女としてのもえの二つの顔を持っていた為、周囲が騒ぎ立てぬように婚礼の儀は密かに行われ、二人は江戸城の隅の方にあった一つの部屋を与えられ、晴れて夫婦として二人一緒になった。
 
 (その後、徳川家や徳川それがしとひと悶着あるのだが…。)
 
 鬼喰はその一件で暇を渡され暫くは穏やかな日々を過ごせた二人であったが、前々から二人の存在をよく思っておらず、怪しみ二人の失脚を目論んでいた御目見の一人が、徳川それがしの御庭番を通じて怨霊である鬼喰のみならず、萌も又人間ではなく鬼や天狗の類であるらしいとの情報を掴み、その者の企みで萌が天狗の特徴である羽を露わにして御目見や江戸城の家臣の前に鬼の子である証拠を晒してしまった。
 天狗は山神の一種ともされているが間違いなく物の怪の類であり、まして鬼の血は穢れがあり祓い清めをする上でそれは当然忌み嫌われる筈の存在、その祓いを務める筈の陰陽師その人が穢れそのものであったとは本末転倒であり、滑稽そのものである。御目見や徳川だけでなく公衆の面前で鬼の子であることが露見しそれが知れ渡った今、最早言い逃れもできず、処刑は免れない。穢れである鬼が人間であると謀り江戸城に侵入したとして、今度こそ徳川の名とその威光を穢し江戸城を混乱させたとして二人を打ち首に処し晒し首になる事が決定した。
 
 萌は自身が鬼であることは事実であり、謀ったことには違いないとして、打ち首の刑を潔く受けようとしていた。生神家の伝統も血筋も自分の代で終わりであると、萌は自分の死期を悟り、運命の全てを受け入れたような静かな顔をしながら鬼喰に向けて辞世の句を詠んだ。
 
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君が為 流す涙も 惜しからば
このみたまわるは 君ぞなりなむ
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 身を浄めた後白装束で一室に座し、一刻一刻と迫る処刑の時を待っていたが、鬼喰は無言でその手を引き、半ば強引に江戸城から連れ出して、処刑から逃れようとした。
 
 忽ち二人は罪人として江戸中にお触れが渡り手配され、幕府に追われ、御庭播衆だけでなく、警察にも命を狙われる羽目になった。
 
 逃亡生活で越後に向けて逃げ伏せ走る仲、残酷な程美しい日本の風景はまるで走馬灯のように鮮やかに鬼喰たちの目の前を過ぎ去っていく。まるでそれはいつか萌の見た、幻の桃源郷のように。
 追手の忍び寄る手は早く、越後に向かって何月にも渡り歩き、走り、逃げども逃げども次々に新しい追手が現れて、鬼喰たちに立ち塞がり行く手を阻んでくる。
 越後の魚沼の地まで辿る間、鬼喰はずっと萌の言いつけを守り殺人を避けてきたが、逃げていた最中、鬼喰も負傷し、萌は足を挫いて歩けなくなってしまった。徳川それがしの育てた御庭番は何処までも何処までも二人の後をついてきて、とうとう二人は崖下に追い詰められ、最早逃げ場もなく、四面楚歌の状態であった。
 徳川家の名に傷をつけた萌を嬲り殺し血祭りにしようとする御庭番に対し、鬼喰は憤慨して殺気と邪気を露わにして、再び恐ろしい殺人鬼として、今ある追手だけでなく、生神家をここまで追いつめた江戸幕府と徳川家の関係者全員を殺し、その末裔に至っても祟って呪い殺す、などと宣い、その憎悪の念は禍々しい程にどす黒く鬼喰の妖気を強めていき、怨念が怨念を纏い、最早鬼神でも怨霊でもない、人の悪意そのもののに変貌しようとしていた。
 そして鬼喰は音もなく一瞬で抜刀し、御庭番の内の一人に飛び掛かり首切りしようと勢い良く刀を振るう。しかしそこで、ふと、視界の隅に何かが動いて自分の身体を押し抱くようにして飛び出してきた。すぐ傍らに人の気配を感じつつも、本当に一瞬の事であったので、怒りに囚われ我を失っていた鬼喰は、御庭番の首と共に「それ」をそのまま一緒に切り捨ててしまった。

 地面に勢いよく倒れる二つの人の影。一つの人間は首から勢いよく血を噴きだしてふらふらとした足取りで数歩歩いた後糸の切れた傀儡人形のように足元から崩れて地面に伏して死体と化し、その死体の周りには血の池が広がり、勢いよく吹っ飛んだ首は遠くの地面の方で、ぼとり、と鈍い音を立てて跳ね落ちた。鬼喰の邪気は他の御庭番衆の戦意を削いでその生命力すらも吸い取り、恐怖に慄かせる有体であったが、もう一つの方の人間は、腹から左肩まで一太刀を受けて深く肉が抉れており血が腹から零れて、呼吸も薄くなり、その命を失おうとしていた。
 そしてその腹を血まみれにして、顔を真っ白にして地面に横たえる女は萌の顔をしていた。それは間違いなく萌の身体で、薄く口を開いて鬼喰の名を呼ぶその女は、間違いなく生神萌、その人であった。
 鬼喰は目を見開いて絶句し、力の抜けた右手から妖刀が滑り落ちた。その刀は、鬼喰の仕える主君であり鬼喰が愛した筈の女の血を啜り赤く汚れて、ますますその妖気と穢れを強めている。萌は鬼喰の強力な一太刀を受けて大量に出血しており、最早助かる見込みもない。鬼喰の凄まじい殺気と悪意に精神をやられて追手の殆どがその場に倒れて意識を手放し、中にはあまりの恐ろしさに絶命し、斬り捨てられたかのように斬首している者もあり、息のある者は既にその場から逃げ去ってしまった。鬼喰のすぐ背面には邪気に当てられて気絶している御庭番の姿があったが、その手元には幾つもの毒針や苦無が落ちて、それは元暗殺衆の一員であったと分かる。鬼喰は不意に攻撃を受けようとしていて、萌はそれを庇い、また鬼の殺人をも止めるような形で鬼喰を抱き留めてようとして鬼喰の一撃を受けて倒れ、そのまま死んでしまおうとしていた。
 鬼喰は瞳に理性を取り戻し、死体になりかかっている萌の瀕死の姿を見て、初めて動揺した。

「もえ様!何故こんなことをしたんです?!」
「あなた…もう人殺しに…させたく…」
「何故です!?俺は殺しなどこれまでにたくさんやって…これも貴方の為に…なのになぜ、何故俺を庇ったのです?!何故俺を止めるのです?!」
「あな…た…も…殺人…刀じゃない…ぼ…神さ、ま…幸せ…神…あ…し…」
と薄い息で唇をぼそぼそと動かしながら、遂に首はがくんと横を向いて、口元からつっと血を流し、事切れてしまった。みるみる温度を失っていく亡骸。鬼喰はそれを拒むようにして、萌だった肉塊を抱え抱いて、喚き叫んだ。

「なぜ!こんなことをわからない!なぜ俺を庇い敵を庇いご自分が死ぬ必要があるのです?!俺は貴方が生きてればよかったのに!従者である俺こそが死ぬべきであったのに!人間は何ゆえにこんなことを…?!こんなの知らない!俺はしらない人が理解できないわからない貴方の心人の心…わから…」

そこまで言いかけたところで、鬼喰は不気味な程静まり返り、やがて全ての感情が削げ落ちたような顔をして口を開いた。

「俺は知らない…人の心わからない…?」

「俺は…人間じゃなかった…?」

「俺は…人間じゃない…そうか…俺は人間じゃなかった…」
「俺は刀だ…刀の怨霊だ…」
「首切り血を浴ぶ殺人刀…鬼殺す妖刀…殺ししか知らぬ山村鬼喰神正信…」
「あはっはははははは」

そう言って男は女の死体を抱いて狂い笑い、やがてそれは獣にも似た咆哮になり幼子のような悲しき泣き声に変わる。

そして数刻、男は息を潜めて押し黙り、妖刀を自分の首に当てがった。

びちゃ

鬼神の首が地を跳ねた。


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くにやぶれ もものせわたるや もののふの
はかなくなるやも もののけたらずや
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妖刀山村鬼喰神正信は鬼殺しの異名を持つ首切り刀
その刀を使ったものは皆不幸になり挙句最後自らの首をも切り落とすという。
しかしある女の死を持ってその刀に宿った鬼神は跡形もなく消え、殺人刀の伝説はそこで潰えた

その刀の逸話は今尚語り継がれ、1999年現代、ある警官の腰に差されている

また1999年現代、新潟のある地方で、鬼と神の子供…神童が産み落とされたという伝説が残っているがそれはまた別の話である。


鬼喰の扱う剣術を「鬼喰流」と言い、1999年現在は鬼守がその後継者となり鬼喰流の名を継いでいるらしい。

鬼喰流最終奥義鬼殺しの真の意味を知るものは少ない。
1999年現在首斬り刀妖刀と呼ばれ恐れられた殺人刀「山村鬼喰神正信」は魔を祓い浄める破魔の力を持つといわれている。
妖刀鬼殺しに伝わる「鬼を斬る」「鬼を殺す」という正しい意味を知るものは少ない。

【5】小説

[1]冬越し後


 越後の冬は寒い。北西を向けば日本海が臨んで水平線に浮かび上がるは島流にあった罪人どもの流刑地である佐渡島である。罪人と言ってもその中には親鸞や日蓮と言った仏僧もいて伴天連や切支丹などの異国の教えを信ずる者の処刑地でもあり、他力本願と悪人正機の教えを唱えるに対し南無法蓮華経をお題目にするなど教義や経典は違えど仮にも仏門を説いた聖人や、出牛(でうす)なる異教の神を信じ敬い死後楽園(パライソ)に向かうを願う者どもを罪人と呼ぶにはやや語弊があるような、引目があるような、そんな様であるが、兎角越後は冬が近づくとこの佐渡島の方角から風が吹く。海風は冷気を帯びて冷たく、それに雪が乗れば忽ち吹雪となり一層空気を凍らせて、外も出歩けぬ程に大地は白き雪雲に埋まり、草花を霜で凍らせるだけでなく、人の体の温度をも奪い去り挙句に生命を吸い上げてただの死骸にしてしまう。
 兎角越後が辺鄙な田舎であり藩主や幕府がこの地に手を持て余すのはこの日本海から吹く風と鼠色の雲から落ちる雪の多い事、冬越しは日本海に臨む国や越後に暮らすものにとっては備えや蓄えが必要である程に命がけなのである。
 海からくる北風があるから越後に屋敷を構える際に庭には北や日本海に向けて松や杉などの針葉樹を植えて北風を防ごうとしているのだが、その防風林にすらも雪が積もり、時に枝葉の上にこんもり積もった雪がどさりと地面に落ちて、偶々そこで雪掻きをしていた老人や女子供を巻き込んで殺してしまう。他にも屋根に垂れ下がる氷柱や地滑り、氷の張った水溜まり、飢え、風邪、病、凍死など人の命を脅かす手段は幾らでもあり、冬とはげに恐ろしき季節である。
 萌様は何年にも渡り霊山におわす生神家のお屋敷にて暮らしていたと言うが、冬山の峰や頂きには白き雪の笠が積もりてとかく凍りつくように寒い。冬越しに際しその時ばかりは山を降りて麓の村にある空き家を借り受けて火鉢にて暖をとり、先代と身を寄せるようにして火を囲み寒々として冬を過ごしたと言う。
 神棚にて神米を供え、無事春を迎えられるよう祈りはすれども、とても外に出て山里の神社を参拝し、民家を訪ね回るようなことなどはできない。畜生どもが洞窟や土くれにて冬眠するように、人もまた冬はじっと家に籠もりて寒さを耐え忍んでいるようだ。雪は分厚く田畑や道に積もりて、村々の交流や連絡は絶たれて、忽ち村は孤立してしまう。特に山を背後にする山里や山に囲まれた盆地などは、絶海の孤島にも等しく、喩え豪雪が村を襲いて、山に雪崩が起きようと最早助けを呼ぶ事もできない。
 山の雪は春になれば溶けて河川に流れ川下にある土地に豊かな潤いを齎す農業に際しても必要不可欠ではあるが、その恩恵以上に齎される害の方が勝るのではないかと、一応は一柱の神たる俺ですらそう感じる有様なので、きっと人である萌様に至っては俺以上に疲労してひもじい思いをしているに違いない。
 比較的気候の温かい江戸に比べれば、越後の冬の寒い事、湿り気のある雪は水気があて、地面を踏めばべちゃべちゃと形が潰れ、水に浸された足は喩え雪草鞋を履いていても足先の指がつんと冷えて、萌様と家屋に戻る頃には手足共々悴んで、手を温めるに白い息を吐いて、すげ傘と蓑を取り壁にかけて、二人並んで火鉢の前に居座り、煎餅布団を床に敷き木綿の詰まった夜着を一枚被ってじっと身体が解れるのを待っているのである。
 萌様の冬の装いは余り布でご自身が縫い合わせた胴服で、普段の山伏の如き装束よりも分厚いものの、豪農などの裕福な家柄の者が着ている綿の詰まった胴服と違い絹でできており、服を着込んで更に上着に夜着を纏わなければとても外を出歩くなどできなかったであろう。それは屋内であっても同様で幾ら炭火を焚いていても絹の胴服と夜着一枚だけでは心許ない。喩え恐ろしい人斬りの怨霊とその主君である陰陽師と言えども、この小さい身なりと貧相な肉では自然の脅威には敵わぬのであろう。萌様は囲炉裏に火をつけてお湯を沸かす間、火鉢の前に縮こまり手を広げて火に当てたまま細く息をしていた。その僅かな吐息すらも薄いもやのように白くなっているので、部屋が暖まるにはもう少し待つ必要があるのであろう。俺は萌様の生気と周囲の気息と言った生命力(エーテル)でできた身体である故、精神を研ぎ澄まして幽体の気孔と五感を閉じればそれ程寒さは感じないのであるが、萌様の身体は俺のような幽体霊体を宿すだけでなく神経の通った肉そのものがそこにある為に、肉の温度の変化に敏感であるようで、ただただ小さく震えて、部屋が暖まるのを静かに待っているようだった。無論喋る余力などない。雪風を受けて顔面も痛みを伴う程に冷え切って、口を開けるのも凍えて鈍くある故。俺が幾ら体調を尋ねようともうんともすんとも言えぬようであった。
 俺はそれを見て、いそいそと萌様の隣へにじり寄り身体をぴたとつけて居座って、その小さい身体を夜着ごと懐に入れて強く抱き締めた。これは秀吉公が信長公の草鞋を胸に抱いて温めたという逸話を思い出したからであるが、一説によれば草鞋を尻に敷いたとある話、それらが嘘か真かは脇に置いても、囲炉裏の火は大事を取って細く燃やして、鎚起銅器(ついきどうき)の薬缶の水もいまだ沸かず、膝を抱えて寒々とした様子だったので、とても火鉢の炭火と夜着だけでは萌様のお体にも悪いと思い、臣下の俺には見るに耐えない痛ましい様であったが故のことで、特に何かの下心があったわけでも、媚を売るわけでもない。ただ単に暖を取って差し上げたい一心であって、萌様に忠実である俺にはいかに懐に萌様の柔らかな肉を感じようともそこには微塵の邪心もないのである。
 俺が萌様を懐に抱き入れると、萌様は身体を捩り俺の腕を解こうとしたので、よもや不興でも買ったのかと、珍しく俺に抗おうとなされる萌様らしからぬ行動に眉を潜めつつ、やや気圧されてしまったのだが、ともすれば萌様は夜着を俺の肩に被せて、そこにご自分も一緒に包まるように身を寄せて被り込み、無言で俺に抱きついて懐で小さくなった。
 こんな時であっても俺への労りを忘れない萌様にいつもながら人の心の奇怪さを感じながらも、その抱擁をありがたく甘受して、夜着を纏いつつ密に身体を合わせ暖を取り抱き合っていた。
 ことことと蒸気が鍋蓋を叩いて、薬缶が白い湯気を噴いてお湯の沸いた頃、部屋は先程より幾分か暖かくなり、萌様はすっかりお顔の色を取り戻し、二つある湯たんぽに湯気だったお湯をたっぷり注いで、その内の一つを俺に与えて下さり、布に包み懐に抱き入れてその上に夜着を被せると身体の芯まで温まると、わざわざ側についてそのまま俺にそうして下さった。ご自分も又、同じように湯たんぽを懐に抱いて、半ば炬燵にかける敷布団のように膝の上に夜着を被せて、身を縮めて、寒さに頬を赤くしてぼんやりしておられた。
 その日の夕餉は萌様が鍋一杯にほかほかの粥を作り、梅干しと共に茶碗に盛り付け少々の根菜と里芋の味噌汁とを一緒に平らげた後、萌様が茶碗をぬるま湯に浸し洗うのを余所に、俺は文机にて書を記した後、寝室に予め点けておいた火鉢の炭火をさらに焚きつけて、煎餅布団を引いて俺と萌様の寝支度を始めたのだが、俺が腰を下ろして布団を敷いていると、ふと背に影が落ちたので、首だけ向ければ夜着を肩にかけた萌様が後ろに忍び立っている。懐に湯たんぽを抱いて「あの…」と控えめに呼びかけなさる。
 「おや若殿、何用ですか」と尋ねれば、やや後ろめたいような、煮え切らないような、それでいて恥ずかしがるような、ぐずぐずして落ち着かない様子で俺を上目に見つめてくる。そして無言にてじっと見つめ返す俺の態度に耐えかねたように「あの」ともう一度声がけして、湯たんぽで口元を隠すように胸に押し抱えて、躊躇いがちにこう言うのだ。
「あの、鬼喰さんと一緒のお布団で寝ていいかな…」
 間。俺は一度首を背けて一枚だけ敷いた布団を数刻凝視した後、再び萌様に目線を戻して、潜むような低い声色で尋ね返した。
「それは…俺と床を共にすると言うことで宜しいので?」
「世間ではそう言うの?さっき鬼喰さんが暖を取ってくれて思ったんだけど、一人で寝るよりも二人で寝た方がきっと暖かくて、冬夜には一緒のお布団で並んで寝るのがいいのかなと思って…」
「…」
「やっぱりこれって変なのかな」
「…いえ、大変結構な事と思いますが」
「そっか、じゃあ一緒に寝ようよ。僕雪を見るのは好きだけど寒いのは少し苦手で、よかったら一緒に布団被って暖め合いっこしようよ」
 そう言って柔らかな顔で控えめながらも俺に小さく笑いかける我が君は、普段旅路における真面目さや明哲さとは裏腹に、こう言った私的な事においては慎重さにかける上に酷く子供っぽいお方で、男神の頭を抱え悩ませる程に大変に貞操感の狂った越後きっての天然物である。今時の子供ですらもっと異性に警戒心を持ちつ先に進んで事に及んでいるのではと疑う程に、このお方の情操観念はまことぼろぼろに壊れている。それはもしや陰陽道を極むる中で死者や祖霊、神々を奉り、道中の人々に分け隔てなくお慈悲を与える内に、情愛と友愛や敬愛すらも混ざって区別がなくなってしまわれたのか。とかく、この危うい童女が仮にも男である俺と共に寝ようだなどと、まさか俺の忠誠心を試しておられるのかと問い質したい程に、このお方にはまるで他意はなく、本当にただ単に一緒に並んで寝たいと仰っただけである故。俺はなんでもないようなすまし顔をかましつつ、敷布団の上に湯たんぽを放ちその上に更に布団を被せ夜着を重ね寝床を整えるのである。
 寝床の上に正座して、枕元に武将羽織を畳み込み、掻巻に着替え、部屋の隅にて菜種油を敷いたたんころの火を燃やし、行灯の火を消せば、か細い火が小刻みに揺れて、闇で黒ずんだ部屋の中、木目の天井や棚と襖戸が橙色に薄く浮かび上がった。棚上に飾られた人形などの黒き物陰が部屋中で揺らめき、俺が身体を傾ければそれに合わせ障子の上の巨大な人影が動いて、影の至る所、部屋の四隅の方から何やら物の怪でも化けて出そうな程に怪しく物淋しい趣にて、冬に向け木の板で補強し密封された真暗闇の寝室が、豆のような小さき火により薄暗く照らされたのである。
 耳を澄ませば雪風の戸を叩く音。外の吹雪を受けるにつけて家屋の木板はがたがたと軋み、北風が通ればまるで獣や巨大な男の遠吠えや低い溜息の如き風の声が遠くで鳴り響き、おどろおどろしげな空気にて、人の世の夏の盆には山から降りた祖霊を迎え、墓参りの余興にて怪談が付き物であると言うが、物寂しさや不気味さで言えば冬の方が余程恐ろし気な有体であるような気もしないではないが、人の興というのは兎角分からぬものであるから、夏の如き暑さと明るさのある時ほど、物の怪や妖に目を向けて怖がり、その癖肝試しやら怪談やらで不謹慎にも妖怪や死者を辱めて楽しむゆとりがあるのやも知れぬ。
 よもや、冬の頃の身の寒気と雪風の寒さたるや、海に浮かび上がる佐渡島から吹くこの冷たき北風こそ、島にて流刑され処刑された罪人どもの恨み辛み嘆き呻きなどが一重にも二重にも折り重なり怨念の束になりて、豪雪にて災いする祟りや呪いの類になったのではあるまいかと思うのだが、それを聞いた萌様は冗談と薄く笑いつつ、何やら思う所があったようで、隠れ切支丹や日蓮、親鸞の書を集め読みつつ、北西に向けてぶつぶつと祝詞やら経やらを唱え祈り始める始末。
 とは言え、ここにおける一番恐ろしき怪奇といえば妖刀の怨霊たる俺自身なのであるが。

 悪霊の俺自身はこういう薄暗く物寂しく幽霊でも化けて出そうな恐ろし気な所はむしろ好ましいのであるが、さて我が君は一体どうした事なのであろう。
 ふと、布団の上に胡座して揺れるたんころの火を眺め物思いに耽っていると、ようやく寝支度が済んだのか隣室の気配が動いて、引き戸が擦れて閉まる音。振り返れば萌様は髷を解き長いお髪を肩と背中に流した掻巻の姿をして、布に包まれた妖刀と湯たんぽを胸に抱いて薄暗い部屋の隅に頼りなく立っている。揺れる火影の中、足袖から覗く生の足首、妖しげな面持ちにて不安気にこちらを見つめてくるので、若殿、と俺が声がけすれば、おずおずと言った仕草でこちらまでやってきて、俺の隣にちまりと座して懐に妖刀と湯たんぽを抱いたまま身を小さくし、俺に向かいじっと俯いていた。いつも見える白い頸は今は下ろした髪の下に隠れている。灯りに照らされる萌様の髪は桜色を帯びた薄金色に光って、押し黙り口を結んではいるが、目は寂し気な色をして心なしか虚ろである。真紅の瞳は血の色にも似ているがそれが水に揺れると忽ち日本海に沈んでいく夕日のような侘しさが見えて、言いようもない奇妙な気持ちになるのである。眉を下げて擡げる萌様の顔を見つめていると、こちらも見ないまま萌様の口元が動いたようであった。
「一緒に寝よう」
 ようやく口にした萌様の言葉は、雪風の中に溶けてしまいそうであった。

 普段ならば妖刀を抱いて眠る萌様であったが此度は枕元にて丁重に横たえて、湯たんぽを足元の方に置きつ布団を被せた後、それを敷布団の上で眺めていた俺を抱き寄せるように布団に横たえ枕を頭に敷いた後、重ねた布団ごと俺に夜着を被せ、ご自分もまた布団に潜り、俺の身体に抱きついて、まるでお人形遊びでもなさるようにして愛しげに、切なげにじっと俺を懐に抱え込み、そのまま眠りにつく態度になった。
 はて、俺はどうしたものだろう。萌様は頬と頬を合わせ、赤子にするそれと同じようにして優しく頬擦りなさり、やはり心あらずのような、何処か遠くに想いを馳せるが如くに目を伏せて、俺の事などお構いないかのように寂しげな憂い表情にて俺の首筋で息を潜めている。俺の右腕も左腕も空いてはいるがなんとなく抱き返すのは憚られて、俺はただじっとりと天井を見上げ、ぎゅうと身体にくっついている萌様の肉の温度や服下からの感触を僅かに感じながら夜着を全身に被せているだけである。なんとまぁ色気のない事であるか。
 萌様は仮にも生神家の嫡男にして当主であられるから、間違いなど起こしてはならぬ故に、神を祀りて鎮魂と祓い清めに携わる以上は貞操観念をしっかりして頂かなければならぬのではあるが、これはまた妙な感覚をお持ちの方で、恋慕の情には全く関心も持たぬ上に、異性や同性の色恋沙汰に鈍くあるので、萌様ご自身が異性に変な気を起こす事はないものの、それが祟りに祟って元服した見た目の男の俺と無邪気に同衾するような危うい事態になってしまっている。これは俺が萌様の異性交友に関する態度を甘く見積もっており、萌様の一番の重鎮にして唯一の家臣である俺の情操教育への意識の足らなさ故の事なのだろうか。
 俺は戦や謀はできるが、人の世における女子供の扱いなどは心得ておらず、この人生で忌子を除いて女とかように身体を引っ付けて関わることなどこの女以外に今後もずっとあるまいよ。だからこそこれはどうしたものかと思っていた。まことにどうしてこうなってしまったのであろうか。
 俺はそれ程に従者として篤く信頼され、それ程に男としてつまらぬものでしかないのだろうか。俺は表立って萌様に邪な心を向けていた訳ではないが、たといそんな下心が一切なかったとしても、ここまで女に無碍に無視されるというのは神であろうと人であろうと、男ならばこれ以上にない恥と哀愁であろう事よ。俺は萌様がこうしてあやすようないい子よい子な幼子でも、娘子にされるがままの愛らしいお人形でも、すぐに諦めのつく物分かりのいい男でもない故に、俺はただただなんとも言えない心持ちで天井の木目を見つめるだけであった。

 俺は萌様に忠実な家臣であり霊気を賜る代わりに生涯お守り致すことを契約した恐ろしき怨霊にして式神ある。それ故、俺の致す奉仕の程に何の下心も邪心もありはしない。ましてかように裏表もなくご自分の為に生きることもできず、人を傷つけられぬ程に人が好く優しく弱く哀れで腑抜けで俗世や男も知らぬ程度には危うく兎角に緊張感のないお人で、俺の腹の一物も毒気も思わず引っ込み萎えてしまうような呑気で純粋無垢なお人柄である故に、鬼神と忌まれ恐られた筈の俺ですら何となく無理強いするのを引目に感じて手を拱いてしまう程である。俺は決して萌様に対して何の下心も持ってはいないが、しかし仮にもこのお方は人の女であるからして、俺は日毎このお方に命を預け尽くしており、そのお方は俺以外の男をまともに知らぬ箱入り娘の生娘にして他に寄る辺も頼る宛もなく、二人ぼっちの旅路の上更にこうして同じ屋根の下二人きりともくれば、俺のような義理堅い忠義者であっても色に関して多少の淡い期待をして女に褒美や誉を求めるは男の性であり最早避けられぬ業ではなかろうか。
 つまるところ、俺は表向き真面目で誠実な忠臣を装いつつも、心の内は手持ち無沙汰であり一向に心を開かず俺に一線を引いている萌様の態度に不満が募る一方であった。
 確かに妖刀の浄化を条件に契約し、常日頃畏れられ敬うにつけて祀られることは大変にありがたいことであるが、元来俺は刀に宿る霊であり、穢れと言って人もまともに斬らせてもらえないものだから、時折無性に血が欲しくなり、人斬りや殺しに駆り立てる何かが内に湧いて溢れ刀を振るえぬのがもどかしくて仕方がないのである。故に萌様は俺が祟り神や荒御魂として暴れ出さぬように、俺を大事にして労り癒し尽くすのであるが、なればこそ物の怪や神に対する一番の慰み事と言えば、やはり生贄と色であることは古事記、日本書紀に記され古来より日本の神々が人にしてきた通りであり、要するに俺は萌様が一向に俺に靡かない事がとかく気に入らなかったのである。
 一応今の俺の見てくれは人の世でいうところの若造の男であり、それ程に悪い容貌でもなければ、武道を極めたる侍にして萌様の唯一の従者の忠臣である。年頃の娘を相手をするのに、決して悪くはないと俺は思うのだが。何せこの頓痴気娘はそういう事に疎くいらっしゃるので、常に姿を眺め当たり前に側にあるからして、俺のありがたみが人程わからぬのだろう。これ迄どれ程の賊や武人が俺の刀を狙って萌様に斬りかかってきた事か。我が君の世間知らずにして非常識たるや、なんとまぁ、純にして清く嘆かわしきことであろうか。あどけなさやいとしさもここまで来ると可愛げがない所かいっそ腹立たしい。一寸の曇りなき純心よ。小綺麗に笑う貴女が今はただ憎らしい。乙女の汚れなき威光こそ誉れ高く俺の誇りにして苛立ちであり忌々しい事この上ない。
 ごとごとと木板が震えて外では相変わらず雪風が低く息をして唸っている。突風が通り過ぎると家は打ち震えて、僅かに障子戸や棚上の人形が揺れて、天井から伸びる紐が揺れる。寒々とした越後の冬越し。まさか俺の腹いせや妖気のなす所ではあるまい。
 萌様は俺の身体に引っ付き胸元に手を添えて、俺の肩口と首の間を埋めるようにして首元にて小さく息をしているが、一向に寝息を立ててお休みになる気配もなく、口を結びただじっと目を伏せて時たま瞬きしている。長いお髪は枕元に乱れ広がり、俺が毛先を梳いて遊べば、絡む事なく指間を滑り一本一本が陶器のように艶やかで灯火を湛えて鈍く光っている。これも俺の萌様への施しの致す所。武将や武家の奥方の髪の手入れの作法を密かに萌様のお髪にそのままして差し上げた。肌の手入れもさる事ながら、化粧道具も密かに取り揃えて萌様の習慣に仕込んでおいた。食事の作法や日頃の所作については流石に由緒ある家柄である為か既に生神家の先代が厳しく躾をなされていて、俺が調べ指導するでもなく料理も裁縫もいつの間に覚えていた。残るは萌様の御心だけである。嫡男として育ち生神家の伝統と血筋を一身に背負ったが故一度は閉ざされた女としての人生であるが、すぐ傍に俺が控えている以上は生きようと思えばいつでも女として生まれることができる。萌様はこれでも年頃である。普通の娘であれば恋の一つや二つもした後であろう。俺から見ても萌様は既に立派な乙女であられるのに。
 このお方は本当に人生の全てを生神家に捧げ、陰陽道を極めんとし、俺の御魂を癒す為だけに没するまで祓い清めの人生を生きるつもりなのだろうか。
 
 枕に頭を沈めてそんなことを思索していると、不意に傍の萌様が身体を捩りしがみつくように俺の掻巻をぎゅうと握りつ、首を丸めて物憂げに目を伏せたままお声がけなされた。
「鬼喰さん、起きてる?」
「お忘れですか。俺は眠れぬ身体ですので、いつでも萌様のお言葉に応えらるよう、日夜こうしてお側にて控えておりますが」
「そっか、そうだよね」
「何か気になることでもございますか」
「ううん、なんだかうまく眠れなくて」
「俺と一緒に寝ようだなどと、柄にもないことを仰ったからではないですか」
「そんなことはないよ。僕、誰かとこうして一緒のお布団で寝るの、夢だったの。二人並んで川の字になって…。普通の子供なら母上や父上や兄上とそうやって過ごすのかなって思うけど、僕はずっと家族と離れて寝ていたから。僕は鬼喰さんの模造刀を抱いてずっと一人で寝ていたから。冬の頃、父上と山を降りた時も、嫡男として兄上の代わりに家督を継いで、次期当主としての責を負う為に、もうそんな甘えた事を父上にせがむ訳にもいかなくて、こんな吹雪の夜も、布団は離れて一人で寝ていたの。雪はしんしんと積もって、部屋の四隅に影が漂って、外はびゅうびゅう風が鳴って、それが男の人の悲鳴や呻きに聞こえてきて、戸はがたがたと音を立てて棚は揺れて、いつ家が壊れて家族が散り散りになってしまうんだろうって。今にも物の怪が、幽霊でも化けて出そうで…。父上の布団に潜り込む訳にもいかなくて一人でずっと耐えて、夜が、冬が明けるのを父上と二人じっと待っていて、本当は一人がずっと怖かった」
 そう辿々しく言葉を選びながら話す萌様の声は、耳元で囁くような、譫言でもいうようなそんな儚さとたどたどしさを持って、唇の数寸先で雪風の音に掻き消されてしまう。本当に俺の顔にくっつくように萌様の顔がお側にあるから、その震える声は俺の耳元に僅かに届いた。風が鳴り響き家全体を揺らして、まるで俺たちに襲いかかりそのまま家ごと攫ってしまうような、そんな外界と俗世からは隔離された二人きりの空間。そんな中で俺と萌様はこうして一つの布団を被さり寄り添い合って共に横たわっているが、もしこれがたった一人きりで合ったならば、人の子ならば寒さよりも前に孤独に打ち震えるやも知れぬ。なるほど人の子というのは、冬越しに際して心までも弱々しいものであるか。そんなことを吟味しつつ左様でしたか、と俺が答えると萌様は傍で首を傾げ上目に尋ねた。
「鬼喰さんも寂しいって思うの?」
「俺が、ですか」
「鬼喰さんは夢を見ないし、眠れないんでしょう。僕だけ眠ってずっと夜を一人きりにしてしまって…、やっぱり一人で夜を過ごすのは鬼喰さんにとっても寂しいの…?」
夢。不思議なことを言う娘である。俺は人の姿を取ってはいるが、歴とした妖であり、刀に宿りし荒神である。

 俺にとって一月と一年(ひととせ)に大した差はない。一朝一夕など一瞬にて過ぎ去る川や風の如くであり、悠久の時を超えてここにある刀に宿しり怨霊である俺にとって、一晩を思索にて過ごすことなど造作もない事、まして一刻など瞬きする間には終わっていることであろう。そうやって俺は長い歴史の中を人の傍にて生きてきた。時に無名の侍の手によりて悪虐の限りを尽くす守護大名の首を狩りて、時に戦国武将の腰に据えられ戦場(いくさば)にて幾千の歩兵を斬り捨て、時に忍者や浪士の手により隠密にて武家武将の暗殺稼業をも担いて、最終的に俺は恐るべき妖刀鬼殺として陰陽道を営む生神家の手に納められ、荒御魂の穢れを祓い鎮魂する為に祭壇にて祀られる事となった。多くの首を斬りて人の生き血を啜ってきた為に、俺はその時既に殺し殺された人々の怨念と憎悪の塊を纏て悍ましき邪気を放ち、刀工の願う一族に対する報復をも忘れただ人を呪いて首を斬り忌子の魂を貪るだけの悪霊や祟り神の類になっていた。
 生神家にいた頃の時はあっという間であった。生神家の当主は代々一日の決まった刻になると俺の前に現れて、俺に向かいて頭を垂れて挨拶した後、榊や紙垂(しで)を振りて祓い浄めの儀式を行い祝詞を上げてその日の祈祷を行う。季節に合わせ米などの供物や神饌を捧げて、時に暦に応じて大祓(おおはらい)の儀などの大規模な祓い清めや祭祀を行い、時に当主の娘や妻の魂を娶り貪って俺の中の恨み辛みを慰める事もあった。日が昇れば生神家の人々が目を覚まし屋敷に物音や声が響いて、月が昇れば人々は床について屋敷は静まり、やがて羽虫や梟の声が遠くの山から聴こえる。皐月の頃は雨乞いをして梅雨には恵の雨が土を潤して、月の末には夏越の為にヒトガタ(人形)に穢れを移してそれを燃やし尽くし、盆になれば山の先祖霊は村の田畑に降りて行き、神無月になれば古来の神々は出雲へ帰って行きやがて冬を迎える。大晦日にて一年の終わりを祝いて最後行く年の穢れをうち払い、新年を迎えて来る年の安寧と安息を祈りてまた一年が始まるのである。そうして一年を繰り返し繰り返し巡りて俺は今、今代の生神家当主の萌様から人の姿を賜りて契約の下この人にお仕えする事となった。
 ここに至るまで時は疾風の如くにただ俺の目の前を過ぎて行くだけであった。外の景色の色は木々の羽衣と共に移り変わり落葉して枯れた暁には霜が降りて白銀の大地が広がっている。俺にとって時の流れはそれの繰り返しであった。四角に切り取られた窓枠の向こうにある花びらが風に流さるるば葉の木漏れ日が地に差し込みてやがて紅葉色に染まりてて雪に埋まる。そうして時は色を伴いて過ぎて行き、時の流れは窓枠に切り取られた向こう側にあってここに留まることなくただ目の前を過ぎて行くだけ。あの頃、俺の現世とは四角の窓枠にこそ全てであった。それは本当に一瞬のこと。蝶が舞えば何処ぞの玉菜畑の葉にて幼虫が生まれているであろう。しかし羽ばたく蝶はいつの間にさざめく秋茜に姿を変えて山向こうの鴉に誘われ夕暮れの中に帰って行く。
 鞘に封じられ戦場に出ることもなく、刃にて人を斬り殺すこともなく、気まぐれに女子供を娶りて、気に入らぬ者を見つけては呪いにて首を飛ばすだけの味気ない日々であった。物思いに耽る頃には四季は巡りて生神当主の顔が若返り別人になっている。儀刀として継承の儀に立ち会うこともあれば、その当主の趣向や信心によってはただ祭壇の上に鎮座するだけで時が過ぎまともに顔合わせすることもなく代替りした頃もあった。人の寿命は兎角短い。40近く生きる時もあれば、僅か齢8して第一子が病に伏せて亡くなり、次男が跡目を継ぐこともあった。戦乱の世から離れ100年200年と過ぎた頃に現れた先々代当主はその厳格さ故に余所者や血縁の不出来な者どもに対し兎角当たりが強く、穢れや罪を人一倍忌み嫌う神道に忠実且つ保守的なお方であった為、世に憚れやすく歴代当主の中で稀に見る長命な方であった。霊力の強さとその頑固で不遜な姿勢が魔や邪に隙を与えず、娘息子だけでなく妻すらも寄せ付けぬ程に気難しく御し難いお方で、生神家を欲しいままに支配したもの。あの代の修練の厳しさと言えば俺ですら跡目弟子達に憐憫の情を感じざるを得ない程。出来が悪ければ手を上げることも飯抜きにて小屋に幽閉する事も普通であったし、冬の頃霊山の山々の間にある深き渓谷の滝に打たれ身を清めつ祝詞を100回読み上げる修行は、死人を出す程であった。その厳しい修行を耐え抜き生神家の家督を先々代から受け継いだ嫡男こそ、萌様の父君であらせられる先代当主であり、優れた霊力と人格を持ち合わせた優しいお方であった。その父君の才覚や人柄を一身に受け継ぎ、母君の容姿と知性を色濃く現したのが今代当主の萌様である。
 そうして俺は肉を賜りて今やこのお女(ひと)に仕えているが、人の肉を得てからと言うもの、時の流れは酷く淀んで滞るようになったのは俺の気のなす所なのか、それとも人の肉を得た由縁なのか。瞬きする間もなく過ぎて行った筈の一晩が今は妙に長く、次第に手持ち無沙汰する事も多くなった。確かに萌様にお仕えしてからというもの、俺の時は鈍り流れが歪見始めたやも知れぬ。一夜の間にある虚ろ。眠る我が君の隣に横たわり生気を巡らせ辺りを警戒しながら、何をするでもなく暇を持て余し、やがて月夜に瞬く星を無為に数えて物思いに耽る頃を物寂しいと言うのならば、きっとそうなのであろう。
 気がつけば宵から明けにかけての時の頃を、冥界でも訪れたような闇の刻として俺の心に横たわるようになっていた。まるでこの世の生命の全てが失われて、野鳥の代わり魑魅魍魎たちが空を飛び交っているような、不気味な程に静かで、人灯りもなく、ただ眼前には夜空と闇が無限に広がって、そこにぽつんと月が朧に浮んで、俺を冷たく照らし闇に妖しく光っている。その侘しさや虚しさを人は孤独というのやも知れぬ。まるでこの世にただ一人取り残されたような、そんな感覚であろうか。生命を感じさせぬ無機質な月明かり。代わりに霊力や妖力が昂りて、己の内にある怨霊どもがざわざわと震え出し、姿なき物の怪の霊や人魂が辺りに湧いて嘆き喚いて幽玄と踊るのである。
 俺は刀に宿る悪霊であり恐ろしき鬼神である。であるからして、やたら夜を怖がりて枯れ尾花に幽霊を見つけては吃驚と大袈裟に震える何処ぞの娘と違って、夜のこの薄気味悪さや物寂しさこそ澄んだ気が満ちて妖力は高まりむしろ俺には好ましいのであるが、しかし人の肉が現れてからはどうにも無為に過ごしているような、他に何かやることでも無いのかと、そんな焦燥に駆られて、また一人夜を過ごすのもなんだか情けないような、話す事も話す相手も無く口寂しいような、何故歴代の名だたる刀の使い手や豪腕で勇ましい男どもが、やれか弱いだけの女や小姓を相手に夜伽を頼んで、閨にて二人一晩を明かすのかとあの頃は理解できずにいたが、もしかするとあれはこんな夜の為にあったのかも知れぬと今ぞ思う。
 要するに俺はこの女の言うように、夜が寂しいのか。
 俺は萌様の髪を撫でつ口を開いた。

「俺はこう見えて悪霊や祟り神の類ですので、一晩過ごす事など容易い事。俺は人とは違います。刀とその御霊としてずっとそこにあって、夢を見ずともこの世というのは兎角奇妙で喩え数百年の時を侍りそこにあったとて飽きるものではないですから」
「そうなんだ」
「ええ、左様ですよ。ですから、若殿の言う人の寂しさなど、俺にはわからぬ事です」
「そう…」
 俺の胸元に手を添えて身体をぴたりとつけて横たえる萌様は首元でなんだか心許ないような情けない声を出して寂しげな目で此方を見つめるので、俺は不意に笑い出しそうな妙な感覚に襲われた。
 我が君は俺が夜、一人平気でいられるのが寂しくておられる。
 なんであろうか、この生娘の俺を想っているように見えて、ただ自分の寂しさを埋めたいだけの甘ったれであどけなく無防備な様。俺をそこまで信頼しておられるのか、それとも付け入る隙を見せる程に間抜けで頓馬であられるのか。これではまるでこの女、俺に気があるかのように錯覚してしまう。しかしこのお女(ひと)は俺を男としてではなく、ただの荒御魂の重臣として見ておられる。ただ単に陰陽師として俺の魂を慰めて、またご自身の寂しさを誤魔化す為に過ぎぬ事。そもそも契りも交わさぬ男女が同じ布団にて同衾する事自体おかしいのだ。だからこれは一夜の瞞しに過ぎぬ。萌様に忠実な従者として、その期待と信頼を裏切る事のなき様、決して一度たりとも見誤ってはならぬのだ。
 萌様を傍らに首を上に向けて天井を見やりながら、俺はあくまでも何の気もないかの様に、努めて鉄面皮に冷淡さを装い鋭利に目を細めて口を開いた。
「俺は、貴女がこの世に生まれ落ちる以前より生神家の祭壇にて祀られ世の流れを見て参りましたが、俺はその間誰を相手にするでもなくただ御贄(みにえ)と人の魂を貪り過ごして来た次第で、今更独り夜を過ごす事など大して苦悩ではありませぬ故」
「うん…」
「……しかし」
 そこで一度口を止めた。萌様は小首を傾げて俺を見つめているが、俺は居た堪れないような趣で天井を睨んでいた。なんだか俺はこれから余計な事を言わんとしている。本来ならそこで終えるつもりであったのに、何故か舌は止(とど)まる事をせずに、恰も言葉の続きがあるかの様に口を滑らせてしまった。期待しているのかそれとも不安を露わにしているのか萌様の臆病な視線がぼんやりと俺の頬に留まっている。
 さて、これはどうしたものであろうか。どうも俺の内にある魑魅魍魎どもが忙しなく騒めきて胸の内で暴れだし全身を掻き乱しているような、言いようのない不快感にて御霊騒めいて、添い寝する女の瞳の妖しき事、奇妙なものである。しかし所詮相手はただの小童。何でもないように恍けて無かった事にするのは造作もない事である。だがまぁ、一度口から出かかってしまったもの。今更仕舞うのも些か口惜しいような、酷く勿体無いような。まして某(それがし)は武士の端くれ、たかが世迷言一つ、小娘に言うを躊躇うなどと恥晒しもいい事、情けない事この上無い。某氏曰く、据え膳食わぬは男の恥と言う。ならば一度ぐらい主君の期待を裏切っても良いであろう。
 俺は何故か諦念にも似た気持ちを胸に秘して、萌様の髪を指先で遊んだ後、無言にて目を伏せつ眉を下げる女の肩をそのまま抱き寄せて密に身を寄せ抱いて差し上げる。すると萌様は幽霊でも見たかの様な滑稽にて素っ頓狂な声を出した。俺は女を懐に抱きながらも複雑な面持ちにて、だが構わずと言葉を続けた。
「ーーしかし、この身を得て貴女にお仕えしてからと言うもの、夜毎佗しい気持ちが募りて、息の詰まるような、胸の痛むような、よくわからぬ情念に駆られて、時折無性に貴女の首を斬り捨てたく存ずる程に苦しくなります。人斬りですら無い貴女と共にある内に、俺も毒されてしまったのか、それともこの人形(ひとがた)がそうさせてしまうのか、貴女が眠りについた後、一人の夜は少々、俺には手持ち無沙汰でして」
 そこまで息も付かぬ程に捲し立て、口早に伝え申したが、萌様はやはりなんだか落ち着きのない様子にて、身体をちんまりとして怯え打ち震え堪え耐え忍んでいるが如くじっとして動かぬ。心なしか顔が少し青いような。
 俺にとっては最大の賛辞のつもりで申したのだが、流石に首斬りの件は少々、いや思切り不味かったであろうか。人というのは誠わからぬ。まして生娘の心の内、人の色の作法など俺のような首斬り妖怪風情にわかるものか。否、俺はこれでも男神、幾人の乙女の魂を喰ってきた手練である。しかし考えてみれば、その全てが人身御供、俺の怒りを鎮めんが為の御饌(みけ)の如き体、悪戯に当主の妻娘を揶揄いて魂毎奪い取り人を呪う事はあっても、女の心を自らで射止むる事など嘗てあったであろうか。肝心な頃に口説き文句の一つや二つ捻り出せぬのは、誠これまでの俺の所業にて不義が祟ったに過ぎないのか。
 人の恋慕たるはなんと忌々しい事。色の事初めさえも口で愛を語らんばならぬのか。実に面妖にて煩わしき事、大の男に恥忍べと申すか。莫迦な。
「あの、あの…」
 いよいよ女はおどおどとして上目に真意を請うてくる。我が君や、そんな目で見たまうな。俺まで、無性に哀しくなってしまう。
 俺はしかと女を懐にて抱き締めてはいるが、して、この後の事は如何なものであるか。寧ろこのまま黙って口吸い致しても許されぬであろうか。乙女の穢れなき純潔は、陰陽道によらず、嫁入り前の娘の事、一度喪われた操、お手つきなるに後生などあろう事か。武士道とは死ぬ事と見つけたりと言うが、近松門左衛門が謂うには恋愛道の極むる所、無理心中と申すではないか。そう、いざなれば切腹。これを殺し従者も後追いす、俺も死んで女も道連れにすれば万事上手くいくでは無いか。さらば畏れながら一度貞操を戴き仕り彼岸にて二人仲睦まじき一つの夫婦(めおと)となりて契りを結べば良い。実に、昔の人は良き事を言う。さばれ、後は野となれ山となるがいい。
 その間僅か寸刻の事である。
 心なしか息でも詰まったように部屋の空気が重いので俺は一度咳をついた。女は静まりて身を寄せつ振り解く事なく健気にも俺の言葉を待っている。外は唸る様にびゅうと風が吹きて木板は震え寒々とした様相。外界から隔絶し吹雪にて切り取られたこの家はまるで神域の如き閉じた世界。趣だけならばこれ以上にない程に奇き事。しかしこのままでは俺の邪念に誘われて何か化けて出そうである。だから俺は低く声を作り、務めて真面目な顔をして申し上げた。
「俺は貴女の近くに侍りが、まるで遠く、君心在らずにて、夜、屍が如き黙す貴女を置いて、一人朝を待ち続けるは少々心許なく思い候…」
「そうろう…」
「俺の言う事がわかりませんか。夜、独り暦を数えるのは、人の世で言う所では兎角寂しいものであると」
 女は瞬きして唇を結び黙している。
「俺は人恋しいと申しております」
 家を打ち壊さんばかりに風鳴りが遠く吼えている。男の唸るような低き凄風(せいふう)はまるで俺の心の行く宛を示すかの様である。
 迎えるは沈黙。曙の頃、外の雪は如何程に積もっているであろう。風は収まる様子もなく、ただ只管家を叩きつけて冷え冷えと雪を壁に張り付ける様であろうから、この事は萌様の仰る様に暖を取り合う旨である事にして、全て忘れて女を懐に狸寝入りしようと思っていた。幸い、女は抗う事なく俺の腕の内に収まっている事で、何の問題もない。
 そうして、せめて目を閉じて夢見の真似事をしていたところ、ふと頬に柔らかな感触と熱を感じたので、瞼を開いてそこを見れば、視野一杯に女の顔があって、目を伏せて口をそこにつけていた。瑞々しい唇に柔らかき前髪と細やかな睫毛。女は何故(なにゆえ)この小さき所も艶やかであろうか。
 これがなんであるか、理解が及ぶ前に女は俺の顎(あぎと)に頭をつけて、俺に応えるように細き腕を背に絡めて、負けじと言わんばかりにぎゅうと抱き返し、首を伸ばして頬を擦り付ける。
 耳元で掠れた囁き声が聞こえた。
「今の事、明日には忘れてね」
 そうして、萌様は恥ずかしげに再び懐に収まろうとした。一瞬、風がやみ時が止まったような、それ程に鮮明に女の声が聞こえた。その唇の動きすら脳裏に浮かび上がる程、喉笛の音が歯と舌によりて言霊になった様な、そんな背筋が凍りつく程に艶かしき響き。その女の口が、先まで俺の。
「…これは如何様な」
 尋ねると、萌様は俺の懐に顔を埋めて、ぼそぼそとした口振りで仰る。
「鬼喰さんも人恋しいんだと思って。僕もずっと寂しくて誰かが傍にいて欲しくて。でも僕は、人のもてなし方が分からなくて。神様を慰める時は女が良いって父上が言ってて、でも僕は女を知ら無くて。だから僕」
 吃りがちでなんと辿々しい言葉選びであるか。俺より余程緊張している様。肝心な事に女は布団に素潜りして懐にあって顔の色が見えない。睨む様にして押し黙っていると、女はいそいそと懐から顔を出した。
「あの、やっぱりこれっておかしいのかな」
 
 パキ、と炭火の割れる音がした。
 見上げる女の瞳は赤色に澄み渡り奥の方まで透き通っている。純粋無垢とはこれ程に恐ろしいものであるか。
 俺は、そっと女の頬をなぞりて、真摯な眼差しを向け恰も誠実そうな男の顔をして、女が生娘であるとか、俺はこのお方に仕える唯一の忠臣であるとか、その他一切の事に目を瞑り、女はきっとご自分のされている事も、俺の言葉の意味も一切合切分かっていないのであろうが、俺はその事すらも全て無視して、これは女の本意であると、女の方から閨に誘ってこれに同意したものであると白を切る事にした。喩え後から顰蹙を買おうとも、男に対してあの様なことをした以上勘違いするのは男の性であり、何より俺を煽ったのは女自身であって、俺はそれに応えて相手をしただけの事。当然俺に責めがあるものではない。女のしたあれは、間違いなく接吻であり契りなき男女にあるまじき事なのだから。
 故にこれは我が君が俺に望んだ事。全ては我が君が為にあるのだ。
「萌様」
 俺の声は心なしか低く邪心を湛えている。
 萌様は何の気無しに俺を見たが、据えた目をしている俺に何かを感じ取ったのであろうか、先程と空気が違っている事を機敏に悟って、視線が交わると直ぐに逸らして、あたふたとした様子で俯いて、静かになってしまった。俺は知らぬ顔で言葉を続けた。
「『これ』の続きを知っておいでですか」
「続き…?」
「ええ、俺は是非、貴女の御心にお応えしたく存じます故。初夜の相手に俺を選んで頂き、これ以上ない至福にございます。萌様。貴女の操、この鬼喰神正信がありがたく頂戴致します」
 女は恐る恐るといった風に俺の頬に触れて懐にて俺を見上げている。俺は女の手を取り、睨む様にして見やって、地でも這う様な低い声を出して答えた。
「貴女をお慕い申しております」
 一瞬、紅月の如き女の瞳が丸くなったのが見えた。

【6】絵巻集


妖狸
管狐


羽を毟る
神に嫁入り
鬼喰と生神萌
なまくら
生神旗
眠れぬ夜

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