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パトリシア・ハイスミス『変身の恐怖』(1969) 吉田健一:訳

 ちょうど今、『パトリシア・ハイスミスに恋して』というドキュメンタリー映画が公開されているけれど、わたしはパトリシア・ハイスミスのファンの一人。彼女の邦訳はすべて持っていて、いちおう全部読んだのだけれども、病気のせいでそのほとんどの記憶は失せてしまった。今はぼちぼちと再読しているところ。そのドキュメンタリーもいずれ観に行くつもりだけれども、その前に最近になってハイスミスの作品を読んだ感想を。
(これはしばらく前に書いていた文章だけど、この「note」のしょっぱなに掲載するのもいいだろうと思ったわけ。)

 まずはこの作品が、日本でパトリシア・ハイスミスが受容される初期の段階で、よりによって吉田健一によって翻訳されて出版されたということを考えてみたくなる(ちょっと長くなるけれども)。

 この翻訳が筑摩書房の「世界ロマン文庫」の一冊として刊行されたのは1970年のことで、これは原書「Tremor of Forgery」があちらで出版された翌年のことであり、そこまでに日本で翻訳刊行されたハイスミスの作品というのは、1966年に出た『慈悲の猶予』(のちに『殺人者の烙印』のタイトルで1986年に再刊される)だけなのだった。
 すでに映画『見知らぬ乗客』(1953)も『太陽がいっぱい』(1960)も公開されてヒットし、特に『太陽がいっぱい』は大ヒットしたあとなのだけれども、なぜか原作者のパトリシア・ハイスミスは「知る人ぞ知る」という段階ですらなく、「誰も知らない」というレベルだったと思う。『慈悲の猶予』はようやく、やっと翻訳されたという感じだったろうけれども、これは早川のミステリー文庫での刊行で、「ミステリー好きの好事者向け」のもので、こう言ってはアレだけれども、「ある程度売れればいい」ぐらいのものだったろうし、特に作者のパトリシア・ハイスミスにクロースアップされるような刊行ではなかっただろうと思う。
 それがなぜか唐突に、「世界ロマン文庫」でこの『変身の恐怖』が刊行される。「これはいったいどのような経緯でのことだろう?」などと思うのはわたしぐらいのものかも知れないけれども、わたしはこういうことを考えてしまうのだ。

 つまり、「いったいなぜ、吉田健一氏はこの『変身の恐怖』を翻訳したのだろう?」ということなのだが、これはどう考えても当時パトリシア・ハイスミスという著者の人気ゆえとは考えられない。だって先に書いたように、パトリシア・ハイスミスは日本では「無名」に等しい存在だったのだから。
 普通に考えられることとして、筑摩書房の編集の誰かがこの原作を面白いと思い、よりによって吉田健一氏に翻訳を勧めたという可能性だが、ちょっと考えれば、それは「ありえない」と想像がつく。つまり、仮にも筑摩書房の編集ともあろう人物がアメリカのパトリシア・ハイスミスという作家を面白いと思ったとして、それは当然海外での評価としてハイスミスが「ミステリー作家」としてカテゴライズされていることを知っていただろうし、もちろん『見知らぬ乗客』、『太陽がいっぱい』の原作者だということを知らないですませられるわけがない。それが(もういちど書くが)「よりによって」吉田健一に翻訳を依頼するなんて、クビ、降格を覚悟でなくてはできないことだろう(そこまでのことではない。ちょっと大げさ)。
 つまり、残る可能性はもう、吉田健一が偶然にこの原書を手に入れ、まあ非常に興味を持った結果かどうかは知らないが、「自分で翻訳してみよう」と思った、ということでしかないと思う。このことはこの文庫本収録の「訳者あとがき」にも「この小説の作者については原書の表紙に書いてある以外に何も知らない」と書いてある通りなのだろう。
 それで、この「世界ロマン文庫」とはどのようなものであったか、ということまでちょっと知りたくなって調べたのだけれども、これは1970年前後に刊行された全20巻のシリーズ本なのだが、その内容は『紅はこべ』だとか『ソロモン王の宝窟』みたいな通俗小説から、『ザルツブルグ・コネクション』のスパイ小説、そして『マルタの鷹』まで入っていたらしい。けっこう雑多な内容で、いわゆる「文学全集」からははじかれてしまうような「娯楽モノ」を集めたものなのだろうか。この20冊の中で吉田健一氏はもう1冊、マイクル・イネスという作家の『海から来た男』という作品を訳している(この本も何か面白そうだ)。この『海から来た男』もまた吉田健一氏のセレクションだとしたら、吉田氏はここで「作者の知名度は低いけれども、自分で読んで面白かったものを紹介しよう」という気もちだったのではないかと想像する。その一方が、この『変身の恐怖』だったわけだ。

 つまり、わたしが言いたいのは、この本の翻訳はその「世界ロマン文庫」という企画に合わせたらしい吉田健一氏の意志によるものであり、日本でのパトリシア・ハイスミス受容の歴史の中に組み入れられるものではないだろう、ということである。
 「そんなことはどうでもいいことではないか」という意見もいっぱい出てきそうだけれども、いやいや、そのおかげでこの『変身の恐怖』という作品が救われたところが大きいのではないか、というのがわたしの考えでもある(今はこの本、「ちくま文庫」の一冊として再刊されている)。

 吉田健一という人物は、自分の興味の向くままに実に多彩な翻訳を行った方で、それは一種「趣味人」と言ってもいいのではないかと思うのだけれども(この件はWikipediaの「吉田健一(英文学者)」の、#翻訳の項を見ていただけるとわかると思う)、その中で、この『変身の恐怖』を翻訳する3年前の1967年に、イーヴリン・ウォーの『ピンフォールドの試練』を翻訳していることが、わたしには気になる。そろそろ本題(『変身の恐怖』の感想)に入ろうか。

 ちょうどわたしは去年、その吉田健一訳の『ピンフォールドの試練』を読んでいたのだが、この本は一種ドラスティックなコメディーで、ある客船に乗り込んだ作家のピンフォールドという人物が、その船内でパラノイア的な妄想に悩まされるという作品なのだった。自分の部屋に配管されている伝送管から船員たちの異様な会話が聞こえてくるし、デッキに出ると船客たちが皆ピンフォールドのことを噂しているのである。
 ここで言いたいのは、そういう自分の生活拠点から離れた人物が、そんな環境の中で「自分」を見失いそうになるという小説の構造が、その『ピンフォールドの試練』とこの『変身の恐怖』では似通ったところがあるのではないかということである。もちろん『ピンフォールドの試練』はどう読んでもコメディーだし、『変身の恐怖』はシリアスなドラマではあるだろう。しかし『変身の恐怖』でも、主人公の作家であるインガムは、ある理由から生活するニューヨークを離れてチュニジアでしばらく暮らすことになり、そこで知りあうアメリカ人、デンマーク人、そして現地の人々の中で生活しながら、そもそもチュニジアに来ることになった原因のところに大きな問題が起き、アメリカの恋人(婚約者)の手紙にちょっとした疑惑を抱くことになる。しかもそのチュニジアのホテルの離れ屋で、奇妙な事件に巻き込まれる(いや、「事件」のはずなのに「事件」にならないのだ)ことになる。つまり、ここでも『ピンフォールドの試練』のように、主人公のインガムは一種「自己喪失」の危機に見舞われるということができそうだ。わたしは、そういうところで訳者の吉田健一氏はこの作品に興味を持ったのではないかという想像をしてみたい。

 ここで、吉田健一氏がこの『変身の恐怖』を翻訳したことで、この作品が救われたということを書いてみたい。

 パトリシア・ハイスミスは周知のように(一風変わった)「ミステリー作家」として知られているわけで、そのような了解の上からは、この『変身の恐怖』という作品はひねった「ミステリー」と言うこともでき、主人公が「自分は人を殺してしまったのではないか?」と思ったのにかかわらず、その物的証拠は何一つ残っていなくて、周囲の現地人は「そんなことは知らない」という。しかし、近くのホテルの離れ屋に長期宿泊しているアメリカ人は「その夜、大きな物音と叫び声を聞いた」というのである。
 この文庫本の帯にも「人を殺してしまったはずだ」と大きく書いてあり、つまりハイスミスのファンのためにも、これも「ミステリー小説」として了解されることを求めているわけで、一般にもこの作品はそのような屈折した「ミステリー」として紹介されているのだと思う。
 しかし、虚心にこの作品を読めば、そんなミステリー的な要素は「副次的」なことにすぎず、それは主人公の内面をゆるがす大きな要素ではあるものの、この小説はそんな「事件」の真相をあらわにしようとするものではないと了解されることと思う(登場人物のひとりのデンマーク人は、このことを「どうでもいいこと」とまで言っているし)。この小説であらわにされるものがあるとすれば、それはその「事件」をひとつの契機としての、主人公と「世界」との関係性なのだろう。じっさい、主人公はこの「事件」のあともなにごともなかったように、執筆をつづけていた新しい小説を書きつづける。

 そういう言い方をすればこの作品は「文学」であり、いわゆるハイスミスの愛読者が期待するような屈折した「ミステリー」ではない。そのことは(この作品を先入観なく読み、決して「ミステリー」として了解していない)吉田健一氏の卓越した「あとがき」で述べられている解読こそが最上の「道しるべ」ではあるだろうか。

 この物語の大きなプロットを書けば、小説家としていくつかの作品を発表しているインガムという主人公は、友人でもある映像作家のジョンの要請でチュニジアを舞台に映画を撮る計画を立て、まずは「チュニジア」という「地」を知るためにひとりでチュニジアに赴く。あとから遅れてインガムの恋人(婚約もしている)のアイナも映画のプロデューサーとしてやってくるはずである。チュニジアのホテルの離れの独立した一軒家を借りたインガムは、すぐ近くに住むアダムスというアメリカ人、それとデンマークからきて絵を描いているイエンセンと知り合い、交流を深める。イエンセンはゲイであり、アダムスはといえばなんと、どこかから資金を得て、チュニジアからソヴィエト・ロシアに向けて「アメリカの良さを伝える」反ソヴィエトの海賊放送を毎週やっている。この時代はヴェトナム戦争の時代であり、同時に世界的にヒッピーなどの新しい世代が生まれてきた時代で、アダムスはアメリカの進路を肯定する反共主義者であり、イエンセンはヒッピー的生き方を実践しているようである。インガムはアダムスのやっていることを「滑稽」だと思っているが、彼との交際を断ち切ることはないし、イエンセンもインガムを介してアダムスと会ったりする。
 一方でインガムはアメリカに手紙を出しつづけるのだが、しばらくは「なしのつぶて」でまるで返答がない。ようやくアイナからの手紙が届いてみると、そこにはジョンが自殺したことが書かれていた。
 映画の話は立ち消えになるが、インガムはこの地で書き始めた小説を仕上げようと、しばらくはチュニジアに滞在する。そんな中で先に書いた「事件」が起こる。インガムは夜中に彼の部屋に忍び込もうとする人物が部屋に入ったところでタイプライターを彼の頭に投げつけ、男は叫び声をあげてドアの外側に倒れる。インガムはとっさにドアを閉めるのだが、ドアの外で複数の人間の入り乱れる気配を感じ、倒れた男を引きずっていく音を聴く。投げたタイプライターの損傷具合から、それは男に致命傷を与えたのではないかと思うのだ。
 夜中にその叫び声と物音を聞いたアダムスは、インガムがやったことを想像し、「正しいこととしてあなたがやったことを認めろ」と執拗にインガムに迫る。そんな中、アイナがチュニジアにやってくるのだが、アイナは実は自殺したジョンと関係を持っていて、最終的に彼を拒んだことがジョンの自殺の原因だろうという。
 アイナはアダムスに「事件」のことを聞き、インガムに「事実はどうだったのか」と問いただす。イエンセンも「事件」のことを知っているが、チュニジアという国の中ではそんなことはどうでもいいことだと思っている(インガム自身もその前に、道ばたに転がるチュニジア人ののどを切られた死体を見ている)。
 インガムは、アイナとの婚約を解消するべきかと考えることになるのだが‥‥。

 インガムはアダムスの論議を内心では「Our Way of Life」(OWL)と呼んでこっけいだと思っていて、彼と話をしていて怒りを覚えることもあるのだが自制している。インガムはイエンセンとの交流こそを楽しんでいるようだが、彼の同性愛的な要求は拒絶はしている。
 あとからやってきたアイナはどうもアダムスとちょくちょく会って話をしているようだし、イエンセンのことは「あれはビートニクでしょう」と語るし、ゲイであるイエンセンとインガムが親しいことに疑念の言葉も投げかける。
 ここで、アメリカから離れたインガムの住む世界は、チュニジア的なそこの住民の世界観と、「OWL」であるアダムスの世界観の中で生きる。イエンセンは自分のことはまるで語らないが、インガムは彼の描く絵に共感もする。アダムスの世界観は、「事件」によってさらにインガムにはうっとうしいものになるし、インガムはけっきょくアイナに自分の知っている真実を語るべきか悩む(イエンセンには「何が起こったか」をすべて語っている)。

 けっきょくインガムは作品も書き終わり、ある決定をしてチュニジアの地を離れる。アイナもイエンセンチュニジアから去る。おそらくインガムはそのうちにデンマークにイエンセンを訪ねていくことであろう。

 この作品の主題はもちろん、「何が起こったか」を解明することではなく、チュニジアという「地」で生活し、「ある不可解な事件」を契機のひとつとして起こる、主人公のインガムの「心の揺らぎ」ではあるだろう。これはそういう意味では異邦人の物語ではあり、「心の安静」を取り戻すまでの物語でもある。そういうところで、のちの「ミステリー作家」としての日本でのパトリシア・ハイスミスの評価からひとつ距離を置いた、この吉田健一氏による翻訳が「有意義」になる、というのがわたしの考えである。あと、やはり吉田健一氏のどこかくねくねとした訳文の魅力というものがもちろんあるのだが。
 まあ読み終えてみて、インガムが「心の平静」を得そこねて狂ってしまうという展開でも面白かった気もするけれども、そうなるとまさにパトリシア・ハイスミスの作品らしくなるかもしれない。
 このような、ミステリーから距離を置いたようなハイスミスの作品について考えてみれば、先日読んだ『生者たちのゲーム』という作品もまた、「ミステリーらしからぬ」作品ではあったように思う。『生者たちのゲーム』では、恋人を残虐に殺害された男が自暴自棄になって自分が犯人であるかのようなふるまいをするのだが、その男の友人(この男も殺された女性の恋人であったのだが)が彼を救おうと、二人で延々と「生きる意味」とかを語り合うという、一種「実存主義」的な小説で、その殺人の犯人は終盤にまるで「やっつけ仕事」のように解明されて逮捕される。この作品でも、ぜったいに作品の主題は「殺人事件の犯人を解き明かす」などというところにはなかった。他にもそういうハイスミスの作品があるものか今はちょっと思い出せないけれども、ハイスミスの作品はどれもこれも、ある事件を契機としてのある人物の「実存的」な揺らぎをこそ主題にしているのだ、ということもできるだろうか。

 わたしがひとつ興味を持ったのは、やはりこの「OWL」、アダムスという男の「正義感」で、インガムはけっきょく彼の海賊放送はソヴィエト・ロシアに利するだけの反面教師で、アダムスの資金を出しているのは実はソヴィエト・ロシアではないかと想像する。
 アダムスの考えは一歩距離を置いて大局的にみれば「ばかばかしい」ものでしかないが、その「距離」がなくなって、じっさいに対面して論議すると「こまったこと」になる。わたしはそういうことで、いま現在のネットのSNSのことを思い浮かべたりする。
 SNSで信じられないようなバカげた発言をする人は多いが、「あなたの発言は間違っているよ」と伝えて、その人物を納得させることはできない。
 このことで思い出すことがあって、しばらく前の「ウイークエンド サンシャイン」で、ピーター・バラカン氏が「自分の友だちが<レイシスト(人種差別主義者)>だとわかったら、その友だちとの関係を絶つべきだ」という(誰かミュージシャンの)発言を紹介して、バラカン氏は「その意見に同意します」と語ったのだけれども、その翌週だかに番組中でバラカン氏が「先日のわたしの発言への反論が届きました」としてある意見を紹介したのだけれども、それは「<レイシスト>だからといって関係を絶つのではなく、その人物がなぜ<レイシスト>であるのか話を聞き、対話の中でその人物の考えを改めさせるべきだ」というもので、バラカン氏は「自分も考えてみます」とその話題をしめくくったのだけれども、これがまさに「OWL」との対話であり、たいていの場合(中には説得に成功することもあるかもしれないが)「なんてこった!」ということになってしまうのであろう。「無益」なこと(このことを書くとさらに長くなりそうなので、このあたりで切り上げるけれども)。
 そういうことを、(ある意味先駆的に)この『変身の恐怖』の中で語っているパトリシア・ハイスミス、やはり時代を抜けて人の精神を見つめていた作家だったわけだなと、ちょっと感銘を受けたし、わたしの今後の「世界との対し方」にも大きな参考になった本だった。

 あと、おそらくは吉田健一氏がつけたにちがいない『変身の恐怖』というミスマッチな邦題についても書きたかったけれども、まあこの本で起きた事件のように「どうでもいいこと」ではあるだろうから、それは敢えて考えなくてもいいことなのだろう。
 すっごい長文になってしまいましたが、まあたまにはこのくらいじっくりと(ほんとうはもっと書きたいけれども)書いてみるのもいいだろうと、時間を取って書いてみました。さいごまで読んでいただいてありがとうございます。

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