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かつてインディペンデントなアートイヴェントを主宰していました。10年ほど前にある病気を…

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かつてインディペンデントなアートイヴェントを主宰していました。10年ほど前にある病気を発症し、過去の多くの記憶を失ってしまいました。今はそんな失われた記憶をre-writeしようと、古い映画を観たり本を読んだりしています。主にその感想を書いて行こうかと思っています。

最近の記事

ヴィクトル・エリセ:監督『エル・スール』(1983)

 ヴィクトル・エリセの新作『瞳をとじて』が公開されたもので、彼の旧作『ミツバチのささやき』、『エル・スール』とが劇場で再公開された(『マルメロの陽光』の上映はなかった)。わたしは両作品とも観ていたが、『ミツバチのささやき』の方はなんとなく記憶しているけれども、この『エル・スール』はまるで記憶に残っていない。それでこの日、映画館に観に来たのだった。  映画は、スペイン北部の「かもめの家」と呼ばれる家に住む少女エストレリャとその父親アウグスティンを中心としたストーリーで、エス

    • ニール・ジョーダン:脚本・監督『オンディーヌ 海辺の恋人』(2009) クリストファー・ドイル:撮影

       わたしも情報収集能力が低いので、こ~んな映画をニール・ジョーダンが撮っていたことはまるで知らなかった。  ニール・ジョーダンらしくも、思いっきりアイルランドを舞台にした映画だけれども、わたしはニール・ジョーダン監督でアイルランド舞台という作品、実はまるで記憶がない。それでとりわけ海辺の小さな漁港が舞台ということでも惹かれるのだけれども、わたしがびっくりしたのは、この映画、ケルトの「セルキー(Selkie)」伝説が大きなストーリーのバックボーンになっていたことだった。  実は

      • ドミニク・モル監督『12日の殺人』

         先月観たフランス映画『落下の解剖学』が、「真実を明らかにする」というのとは異なる視点からとっても面白い作品だったので、同じフランス映画、「犯人は捕まらない」と聞いていた『12日の殺人』を観た。デヴィッド・フィンチャーの『ゾディアック』を思い出すところもあった(じっさい、監督のドミニク・モルは『ゾディアック』を高く評価しているらしい)。  ある年の10月12日の深夜3時、ある家でオールナイトで開かれていたパーティーから、女子大生のクララは「ウチへ帰る」と会場をあとにする。帰

        • ジュスティーヌ・トリエ『落下の解剖学』

           わたしはまず、この作品のポスターのイメージに惹かれた。「雪の上に血を流して倒れている人物を見つめる人物」というイメージは、『ウィンド・リバー』という作品でも用いられていたし、古くは『ファーゴ』にもそういうイメージがあったと思う。どちらの作品ともわたしの好きな作品だ。だから、この作品の監督も出演者もまるで知らないということも、気にはならなかった。  フランスの雪山のロッジ。犬のスヌープを散歩させて帰って来た視覚障がいを持つ11歳の少年ダニエルは、そのロッジの前で父親のサミュ

        ヴィクトル・エリセ:監督『エル・スール』(1983)

          パトリシア・ハイスミス『プードルの身代金』(1972) 岡田葉子:訳

          (すでに今は絶版で、入手困難な本のレビューを書いてもしょうがないとも思うのだけれども、まあパトリシア・ハイスミスのファンではありますし、この『プードルの身代金』は、再評価されてもいいハイスミスの傑作だと思うので、誰も読まなくってもアップさせていただきます。)  パトリシア・ハイスミスの作品には、読後感のよろしくないものがあれこれとあるけれども、この『プードルの身代金』からは、読み終わってもただ「やりきれない」という気もちから今も抜けられない。  端的にいえば、主人公のクラ

          パトリシア・ハイスミス『プードルの身代金』(1972) 岡田葉子:訳

          ヨルゴス・ランティモス監督『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』~「アリウスのイピゲネイア」から~

           この作品、「The Killing of a Sacred Deer」という原題で、だから「鹿殺し」が聖なるものなのではなく、「聖なる鹿」を殺す、という意味ではある。これはこの映画が下敷きにしているエウリピデスによる悲劇「アリウスのイピゲネイア」の中で、アルテミスへの生贄にされるところだったイピゲネイアが、直前にそのアルテミスによって牝鹿に置き換えられて救われた、ということによるようだ。  主人公のスティーヴン(コリン・ファレル)は心臓外科医で、妻のアナ(ニコール・キッド

          ヨルゴス・ランティモス監督『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』~「アリウスのイピゲネイア」から~

          ウラジーミル・ナボコフ『キング、クィーンそしてジャック』(1928) 出淵博:訳

           (わたしが今回読んだのは、今手軽に入手できる新潮社刊の「ナボコフ・コレクション」によるものではなく、もっと古い、1977年に刊行された「集英社版 世界の文学」の第8巻「ナボコフ」の巻である。)  邦題は『キング、クィーンそしてジャック』だけれども、原題(英語タイトル)は「King,Queen,Knave」である。「Knave」とは召使い(男)のことで、邦題のようにダイレクトにトランプの札のことを示しているわけではない(もうちょっと、チェスゲームへの含みも持たせてもいる)。

          ウラジーミル・ナボコフ『キング、クィーンそしてジャック』(1928) 出淵博:訳

          溝口健二『雨月物語』(1953)

           能の謡いをバックにオープニングのクレジットが流れ、本編の舞台になる琵琶湖畔の集落にカメラが移動して行くときも、まだ少し能の謡いの音がかぶっている。この、オープニングから本編へとかぶっていく感じが絶妙で、この「引きずる」感覚がそのまま一気にラストまで引っぱっていってくれる思いがした。  しかしこの100分弱の作品で、物語にまったく澱みもなく、起伏に富んだ展開を一気にみせてくれるのは「まさに映画とはこういうもの」という思いにもとらわれてしまう。素晴らしいのだ。たしかにここには

          溝口健二『雨月物語』(1953)

          ヴィム・ヴェンダース『PERFECT DAYS』 音楽とパトリシア・ハイスミス

           わたしは1970年代の頃のヴェンダース監督の作品を愛おしく思い出すことができるが(このあたりの、ロビー・ミューラー撮影になる作品群は去年の3月にまとめて観たもので、まだ記憶が消えずにけっこう憶えている)、実はそれ以降のヴェンダース作品はそれほどに印象に残っていない。そんな中では『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』(1999)とか『Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』(2011)とかのドキュメンタリー映画は好きだが。  今回、この映画を観ようと思ったのは、特に役所広

          ヴィム・ヴェンダース『PERFECT DAYS』 音楽とパトリシア・ハイスミス

          ウラジーミル・ナボコフ『賜物』沼野充義:訳

           ナボコフは1940年にアメリカへ渡るのだけれども、その前のドイツ~フランス亡命時代の、そのさいごにロシア語で書かれた作品がこの『賜物』(これが亡命時代さいごの作品というわけではなく、さいしょに英語で書かれた『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』が1939年にフランスで書かれている)。  おそらく、ナボコフの中にもこれが「ロシア語で書くさいごの作品」という意識があったのではないだろうか。全体がナボコフの中での「ロシア文学」の総括、というような内容でもあるだろうし、作品ラストの「

          ウラジーミル・ナボコフ『賜物』沼野充義:訳

          ベルナルド・ベルトリッチ『暗殺の森』(1970)

           イタリアのファシズムの興隆期、そしてその終末という時代を背景に、ファシズムに協力したひとりの男を描いた作品。原作はアルベルト・モラヴィアで、今は『同調者』のタイトルで文庫版邦訳も出ている。主演はジャン=ルイ・トランティニャンで、ドミニク・サンダ、ステファニア・サンドレッリ共演。ベルナルド・ベルトリッチ29歳のときの監督作品で、撮影監督は、以後1993年の『リトル・ブッダ』まで、たいていのベルトリッチ監督の作品で撮影を担当したヴィットリオ・ストラーロ。音楽はほとんどのトリュフ

          ベルナルド・ベルトリッチ『暗殺の森』(1970)

          トマス・ピンチョン『メイスン&ディクスン』(1997) 柴田元幸:訳

           見出しの画像はスペイン版のこの『メイスン&ディクスン』の表紙で、読み終わったあとにこの絵を見ると「ああ、まさにメイスンもディクスンもこ~んな感じだったな」とは思うのだ(左のメイスンは白髪なのではなく、愛用の鬘をかぶっているのだ。いっしょにいる犬は、もちろん「博学英国犬」)。先にこの絵を見ておいて、こういう二人のイメージを引きずりながらこの本を読んでもよかったな、とは思ったりする。国内版の表紙絵もいいけれども、ちょっと可愛らしすぎるか。  トマス・ピンチョンの本の中でアメリカ

          トマス・ピンチョン『メイスン&ディクスン』(1997) 柴田元幸:訳

          ケネス・ブラナー:脚本・監督『ベルファスト』(2021)

          Amazonのサブスク配信が終了するというので、ギリギリ観た作品。  じっさいに9歳までベルファストで暮らした監督のケネス・ブラナーの、ベルファストでの思い出を描いた自伝的映画だけれども、ケネス・ブラナーの現実の家族は弟と妹がいるわけで、すべて「自伝的」というわけではない。  モノクロ映画(カラーになる場面もあるが)で、ベルファストという街への郷土愛と、そして家族愛とを子供の視点から描いた映画とみるならば、ウェールズの炭鉱町を舞台としたジョン・フォード監督の『わが谷は緑なり

          ケネス・ブラナー:脚本・監督『ベルファスト』(2021)

          Michael Haneke (ミヒャエル・ハネケ):脚本・監督『The Seventh Continent (セブンス・コンチネント)』(1989)

           わたしはその昔、それまで日本ではすべて未公開だったミヒャエル・ハネケ監督の全作品を一気に上映するという「特集上映」を観に行った。そのとき『コード・アンノウン』までの6本の映画作品はすべて上映されていた記憶があり、そのあとにカンヌ映画祭でグランプリを受賞した『ピアニスト』が一般公開されているので、そのハネケ作品の特集上映は2001年ぐらいのことだったのではないかと思う。  それでわたしは「なんか面白そう」と、あまり内容も知らずにまずはこの『セブンス・コンチネント』を観たのだっ

          Michael Haneke (ミヒャエル・ハネケ):脚本・監督『The Seventh Continent (セブンス・コンチネント)』(1989)

          『怪猫有馬御殿』(1953) 荒井良平:監督

           「化け猫映画」を観た。この作品、一本の映画としては49分とずいぶんと短い尺だけれども、これは公開当時の「二本立て興行」の一本として観られたことにもよるという。それだけにコンパクトにまとめられ、いい印象ではあったが。  日本の妖怪としての「化け猫」伝説にはさまざまなものがあり、このあたりを調べてみても実に興味深いのだけれども、その中でも「鍋島藩の化け猫話」は有名で江戸時代から何度も芝居として上演されていた。しかし映画に登場する「化け猫」は1937年の『有馬猫』から始まる。

          『怪猫有馬御殿』(1953) 荒井良平:監督

          黒沢清『CURE』(1997):<現実>と<非現実>のはざまで

           今までに何度も観ている映画だけれども、最近になってまた観返した。  この映画を観ていると、「これは<現実>ではあり得ない」というシーンに出くわす。さらに、「<現実>なのか<非現実>なのか非常にあいまいだ」というシーンもいくつかあり、そのシーンを<非現実>だと考えると、それまで「これは<現実>だ」と思ってみていたシーンも、<現実>とは言い切れない思いにとらわれてしまう。  今回は、そういう「<現実>~<非現実>」ということから、黒沢清監督の演出術をみてみたいと思った。  

          黒沢清『CURE』(1997):<現実>と<非現実>のはざまで