能「鉢木」が伝えたいこと(2)


前世と後生
 「鉢木」では、あまり注目されていないセリフがある。たとえば旅の僧が宿を求めた時である。常世はいったん断った。しかし僧が立ち去ると、妻はやはり泊めてあげるべきだと言うが、そのセリフはこうだ。

「われらかやうに衰ふるも、前世の戒行つたなきゆゑなり、せめてはかやうの人に値遇申してこそ、後の世のたよりともなるべけれ」

(私たちがこのように零落したのは、前世で仏の教えを守っていなかったからです。ならば、先ほどのお坊さんを助けることで、後生に助かるよすがになるはずです)

 この言葉に対し、常世は「そう思うのであれば、なぜ先ほど言わなかったのか」と言った。常世も心では同じことを考えていたのだ。そして、追い返してしまった旅の僧を追いかけた。
 この言葉は、今の私たちには容易に理解できない。常世が零落したのは、一族に騙されて土地を奪われたからだ。しかし常世の妻は、前世で仏の教えに従わなかったからだと言う。そして常世はこれに頷いたのだ。
 そういえば、常世は自分の不遇を嘆いてはいるが、決して自分を騙した人物を恨んだり憎んだりしていない。恨むべきは、他人ではなく自分の前世だからである。そして常世と妻が旅の僧を招き入れたのは、旅の僧に一夜の宿を提供することで「功徳」を積もうとしたからだ。功徳を積むことは「後生」、つまり次の人生の準備となる。

与えることで感謝する「布施」
 夜が更け、一段と寒さが厳しくなった時、常世は自分が大切にしていた鉢の木を切って薪とし、僧のために家を暖めた。この時の常世の言葉にも注意したい。彼は「これぞまことに難行の、法の薪と思い召せ」と言う。お釈迦様が仙人に仕えて雪山で薪を取った故事になぞらえたのだった。
 大切にしていた鉢の木を切って燃やすのは辛い。しかし常世は、お釈迦様と同様の行為を行える喜びを感じていた。
 常世の行為は布施そのものである。布施とは、相手に与えることで自分が感謝することである。喜捨ともいう。相手の感謝を求めたり見返りを期待することは布施ではない。
 では、なぜ与えることで自分が感謝するのか。それは、相手に与えることで仏に尽くすからである。 
 物語の結末は、常世は大きな見返りを得る。しかし、常世は鉢木を切る時、目の前の僧が鎌倉幕府の最高権力者であるなど思いもよらなかった。僧が誰であってもよかった。見返りなど求めていなかったからである。ただ後生のために布施を行いたかった。
 この点に気づくと、「鉢木」の理解が一気に変わる。幕府の最高権力者に気に入られて領地をたっぷり与えられたことを喜ぶサクセスストーリーが「鉢木」の主題ではない。旅の僧が時頼であったことは単なる偶然である。単なる偶然をわざわざ能は主題にしない。。

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