みんな豆腐に醤油かけるでしょ? だから「馬から落馬」って別に何も悪くないと思っている。
はじめに
「違和感を感じる」と言ったことがある。
そのときは居酒屋で飲んでいたのだが、その場にいたイキリ野郎が、「違和感を感じるwwwwwwwwww」といきなりイキリはじめ、「違和感を覚えるですよwwwwwwwww」とかイキリ続けた。
そしてそいつは臆面もなく、冷奴に醤油をかけていた。
俺はとにかくあのとき、重言を指摘しながら同時に冷奴に醤油をかけるような、センスのかけらもない行動は絶対に自分では慎まなければならないと硬く誓ったのだ。
重言は話し言葉では許されるのでは?
「馬から落馬」とか「違和感を感じる」は何が悪いのだろうか。
重言は何もおかしくないと思う。
豆腐に醤油をかけ味噌汁に豆腐入れるのがOKで、カニクリームコロッケバーガーがOKならば、なぜ馬から落馬はいけないのか? 大豆や小麦粉で当たり前にやっている事柄が、なぜ馬ではダメなのか。
おそらく、話し言葉である限りは、重言はかなりの場合許される。
書き言葉だと違和感がでるのではないか?
また想像に想像を重ねるのだが、「重言がダメ」というのは書き言葉に淵源があるのではないか。
「馬から落馬」「違和感を感じる」みたいなのは、同じ文字が連続している。ここからこうした表現はよくないという理由が生まれてきたのではないか。
一方話し言葉では、私たちは同時に音を発生できない。「馬から落馬」というときは、「馬から落馬」と言っているのであって、同時に「馬」と「落馬」を発音しているわけではない。
このため、重なりはそんなに悪い印象を持たれず、むしろ一過性の音の中で馬が強調される便利さがある。
文字は戻って読んだりできる。だから重複が気になる。一方で声は遡れない。ここに声で重言をするメリットがある。このメリットを感ぜられず、文字のルールにおいての良し悪しを、話し言葉にも援用してしまっているところに問題がある。
たとえばおそらく小泉進次郎の以下のセリフ、
は、おそらく、現実にこのセリフを音で聴いた場合、そんなに違和感を感じない。ネットで文字になると途端に可笑しくなってしまうのは、文字にしたからだ。
話し言葉と書き言葉の「鏡の世界」
多分、話し言葉と書き言葉とには、どこかに深い断絶がある。
話し言葉を残せるようにしたのが書き言葉の始まりだろう。だから基本的には二つの世界は鏡の世界のようにそっくりではある。ただし、どこかに決定的な違いがある。どこか断絶しているところが、多分ある。
怪談系の物語で、鏡の世界に入ってしまうような話で例えてみよう。鏡の世界では現実と似ているけれどもどこか風景やルールが違う、なんて筋立てになることが多い。話し言葉と書き言葉はそれに近い。似ているけれども、決定的に違うところがある。
おそらく重言を許すかどうかは、鏡の世界との差が出やすいジャンルなのだと思う。
私たちは現実世界を生きている。そこでは、豆腐に醤油をかける。豚骨ラーメンにチャーシューが乗っている。焼きそばパンがある。そして、話し言葉で馬から落馬すると言うことがある。「今のままではいけないと思います。だからこそ、日本は今のままではいけないと思っています」と政治家は主張する。
一方鏡の世界の書き言葉の世界では、馬から落馬するのは奇妙なことで避けられる。「今のままではいけないと思います。だからこそ、日本は今のままではいけないと思っています」は変なのでネタにされる。
というわけで、冒頭のイキリびとは、鏡写しになっている話し言葉と書き言葉との世界の違いに不感応だったのだ。センスがないとはこのことを指すのかも知れない。
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