現代でお腹が痛くなった場合、うんこする場所がほぼトイレに決まってしまっていることについて
私たちは犬猫と変わらないのだ。
お腹が痛くなる絶望
皆さんはお腹が痛くなることはあるだろうか。私はある。大抵の場合、このケースだとトイレに駆け込むことになる。
間に合わなければ、いろいろな社会的な問題になってしまう。何よりテンションがだだ下がりするだろう。お腹も痛いし、トイレに間に合うか不安だし、とても精神的に追い詰められる。
ヤバかったケース
お腹が痛くなって面倒だったケースを2つ紹介する。
車の運転中
ある日私は朝から講演を頼まれていて、乗用車を運転しながら職場から40キロほど離れた会場に向かっていた。
急転直下の惑星の磁気嵐のようなものが、私の腹の中で、突如として蠢き始めた。要するに、うんこがしたくなってしまったのである。
ところが乗用車にはトイレがない。コナンくんばりの密室殺人(魂の密室殺人)が私の乗用車の中で行われようとしていた。
たまたまローソンがありことなきを得た。
以降私はそのローソンを神のローソンと呼び、年に一回は必ずアホみたいに買い物をして恩義を返している。
地下鉄の中
ある時私は高校の非常勤講師をしていたのだが、出勤は札幌の地下鉄東西線を使っていた。
バスセンター前で、苛政に耐えかねた民衆が蜂起するかのような痛みを腹部に感じた。要するに、うんこがしたくなってしまったのである。
すぐに耐えられるか判断する。南郷7丁目で不可と判断。遅刻もやむなしと考え、南郷13丁目で降りてトイレに行きことなきを得た。職場へはタクシーで移動。
これ以降南郷13丁目界隈に用もなく降り立ち、周辺を散策することが習慣になっていた時期がある。
なぜこれらのケースはやばかったのか?
それでは、なぜ如上のケースは危険性があったのか。
トイレという限定性
まず、近くにトイレがないのがいけない。・・・と考えたのだが、そもそもこの考え方こそが陥穽(かんせい。落とし穴)につながっている。
我々は、考え方を変えてみる必要がある。
そもそも、トイレでしかうんこができなくなっている現代が問題なのではないか。
現代では私たちは犬や猫並みに躾けられていて、ほぼトイレで用を足すようになっている。
旧石器時代とか縄文時代だったら、多分ほぼどこでも大丈夫だったはずだ。いや住んでる洞窟の中とかは竪穴式住居の中とかは流石にダメだけど、森の中や草原の中だったら大抵オッケーだったのではないか。
現代では、防疫や掃除などの社会的負荷を低減するために、特定の場所すなわちトイレでうんこするよう私たちは厳しく躾けられている。
ということで、私がお腹が痛くなってピンチだったのは、近くにトイレがなかったからではない。あるいは、なんとかトイレを見つけられてことなきを得たことも、物事の本質的な解決ではない。
つまり、どこでもうんこしちゃいけない時代になったから、私はピンチになったのである。
ではどうすれば良いか?
何も私は旧石器時代とか縄文時代に戻せと言いたいわけではない。現代でどこでもうんこをして良くなったら、掃除は面倒だし感染症の問題もある。
一方で、特定の場所でしかうんこできないのも、それはそれで述べてきた通り苦しむことになる。
ではどうすれば良いか?
私が提言したいのは、道路という道路に100mごとにトイレを設置するという方法だ。あらゆる場所をトイレに置く。掃除やトイレットペーパーの補充は自動化し負担を減らす。
これは、自由にうんこができた旧石器時代とか縄文時代のメリットと、現代社会での排泄を特定の場所で行うメリットとをアウフヘーベンすることが可能になるということだ。
これでお腹が痛くなっても、旧石器時代や縄文時代の遥かなる先祖を思いながら用を足すことができる。
私が衆議院議員選挙に出馬した暁にはこれを公約としたい。もちろん少子化対策や税制改革などにも取り組む!