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「老害」のすべて。「#MeToo」との決定的な差異。

かつてはそれなりに憚りながら発されていたはずの老害という語が昨今はじつに安易に放出されるようになったという印象があります。マスメディアでも散見するようになりましたし、このところソフト老害なる語も出てきているようです。アレンジが出始めると寿命が近いという経験則からすると、この言葉もそろそろ終わりが来ているのかもしれません。

ともかく「老害認定」はじつに頻繁かつ広範囲に行われるようになりました。学校、会社、家庭から政治にいたるまで、あらゆる場面で老害たちが指弾されるようになりました。沈黙を強いられていたひとびとは、インターネットを活用して、さまざまな老害行為に直面したときには、これを打ち崩すべく攻撃をくわえはじめたのです。

しかし、ここで忘れてはならないのは、にも関わらず、老害の実態は何も改善していないし、その気配も全くみえない、ということです。
なぜなら「老害」という語はどのような背景も持たないからです。

老害という語は次のようなプロセスで使用されます。
1 駅前やコンビニなどであきらかな老害行為を行っている人物を発見する。
2 その状況を140字以内で整理して、最後に、老害! と付け加え、SNSに投稿する。
3 終わり。

そう。これで終わりなのです。
ところが、ひとびとはどうやら、ここに架空の4番目のプロセスを夢見ているようなのです。
それは
(4) 志を同じくするものが集まり、老害どもを排除、あるいは抵抗する。
というものです。

いうまでもありませんが、そんな段階は存在しません。
そうしたプロセスを可能にするためには、かなりのコストとリスクを背負ったうえで、ひとびとを組織化しなければならないからです。もちろんひとびとはそんな負担に耐えられません。
したがって「老害!」という叫びはやまびこをすら生まぬまま、かぼそく消えていくのみです。

「老害!」と声を挙げるというのは、抵抗や攻撃の手段では全くなく、現実的なそれが完全に不能であることの、敗残者の諦めの表現にすぎないのです。
これが膨大な「首のスゲカエ」を現在進行形で巻き起こしている「#MeToo」との決定的な差です。

実際、「老害!」と叫んだ後で、ほんとにぶん殴る、ぐらいの怒りはあってもいいはずです。もちろん暴力はすべて悪ですから、肉体的なぶん殴りではないにしても、社会的にぶん殴るための組織作りがあってもいいはずです。
ところが、そうした運動はなかなか一般化しないようです。むしろ皆無に近いのではないでしょうか。またこの言葉は既存の社会運動との接点も持たないようです。
すなわち「老害」という言葉はその社会的認知度にもかかわらず、社会的な広がりを完全に欠いています。

セカイ系作品は、個人の叫びがセカイの問題の解決に直結する、というイメージをとくに若い世代に植え付けてしまいました。もちろん現実にそんなことは起きないので、「老害」という言葉を粘り強く社会にこすりつけていくための「膨大な手間」を「自分自身」が負担しなければなりません。

現代日本に蔓延するニヒリズムはこの負担に耐えうる個や、そうした個を支える社会をほとんど完全に破壊してしまったかのようです。
粗雑で一方的とはいえ、「老害」という言葉には社会認識への萌芽があります。せめて、これが「スッキリ系」の一ジャンルに堕してしまわないようにしなければなりません。

保田與重郎を読みながら、この「老害め!」と叫んだ自分自身をふりかえり、そんなことを考える朝なのでした。

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