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Math Note Ⅰ 第21話

21  三角比の拡張――アップグレード

「リストラ!?」
 地下鉄の中で鈴木と鳥谷さんが同時に声を上げた。近くにいたおじさんたちが驚いて僕たちのほうを見た。あからさまに不機嫌そうな人、中には心臓を射抜かれたような表情の人もいる。公共の場では会話の内容と音量に気を付けないと。
「まだ決まったわけじゃないけど、もしかしたら」
「お父さんがリストラになるとどうなるの?」
「大学に行くのが難しくなるかもしれない」
「じゃあ、どうするんだ?」
「国公立大学ならバイトとか奨学金とかで何とかなるんじゃないかって思ってる」
「そういえば、体育の馬場先生も大学生の時に奨学金もらってたらしいよー」
「なんで鳥谷がそんなこと知ってるんだ?」
「私、馬場先生のこと結構好きだからよくミクといっしょに職員室に行って話するんだー」
「どこがいいんだよ」鈴木が吐き捨てるように言った。
「へへへー。馬場先生、奥さん思いだし優しいんだよねー」鳥谷さんはニヤニヤしながら言った。
 あの馬場が。「UNO」に例えるなら、「ウノ」と言い忘れてカードを二枚取ろうと思ったら「七枚だよ」と言われたぐらい意外だった。
 
 電車は「東大前」駅に着いた。日曜日の昼間なので降りる人は多くなかったが、大学生っぽい人が何人か降りた。
「あ、ちょっと俺トイレに行ってくる」
「じゃあ私もー」
 僕は待っていることにした。手持ち無沙汰になって鞄の中を見てみると、部屋で見たあの白い数学のノートが入っていることに気づいた。何故こんなところに入ってるのか不思議に思ったが、取り出してパラパラめくってみた。あるページを開いたとき、薄暗い通路が少し明るくなったような気がしたので、そこを読んでみた。
 
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〈三角比の拡張〉
 
 下の図において

 $${\sin \theta=\dfrac{y}{r}}$$,$${\cos \theta=\dfrac{x}{r}}$$,$${\tan \theta=\dfrac{y}{x}}$$

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 三角比は直角三角形を使って定義されたものとして学んできたが、ここで座標と円を用いた別の三角比の定義が紹介される。今までせっかく習ってきたことは何だったんだ、と最初は憤りを感じるが、よく考えてみるとこの「座標バージョン」は「直角三角形バージョン」の三角比も含んだ内容になっている。さらに「座標バージョン」なら、$${140^\circ}$$ のような直角を超える角度(鈍角)についても三角比を求めることができるし、$${0^\circ}$$ とか$${180^\circ}$$ などの角度(もっと言えばどんな角度でも)三角比を求められるので、いわば三角比の「アップグレード版」だ。
 
 ……あ、そうか。
 
 鳥谷さんが戻ってきて、三人そろった。
「おまたせー。じゃあいよいよ東大だね。中に入れるのかなー」
「建物の中は知らないけど、敷地の中は誰でも入れると思うよ」
人通りが少ないからか、通路に僕たちの話し声が響くのがよくわかる。
「鳥谷さん、今度僕も馬場先生のところ、連れてってくれないかな」
「やったー!これでまた馬場先生に会えるー」
「おい田中、何でだよ」
「奨学金のこと聞いてみたいんだ。大学生活やバイトのことも」
「馬場のこと嫌いじゃなかったのか?」
「別に。この前はたまたま機嫌が悪かっただけだろ」
 鈴木はその後何かもごもご言っていたようだが聞き取れなかった。
 
 鈴木が鳥谷さんを誘ってくれて、今度は鳥谷さんが僕を馬場のところに連れて行ってくれる。三角比の定義が拡張されて考えられることが一気に増えるみたいに、人間関係が拡張されることで僕たちの世界もアップグレードされて、できることが増えていくんだ。
 
 階段を上って地下を抜け出すと、日差しがとても眩しく感じた。

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