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ごりまる母さんメラピークへ⑥(全10話)


辛く苦しい決断

幸運なことに、私たちが滞在するロッジにはアラブ首長国連邦からの登山隊の帯同医師の方がおり、ケンの診察をしてくれ「これ以上登山を続けるのは難しいでしょう」と告げられたと知りました。

しばらくして、パサンから「ケンの部屋へ全員集まるように」と声がかかりました。

チームの中でも一番身のこなしが軽やかで、登りでも息が乱れることなく、ヨーロッパアルプスの経験も豊富なケン。
そんな彼が酸素吸入を受けながらベッドでぐったりしている姿をみるのはとても辛く、俄かには信じがたい光景でした。

ケンの部屋にはパサン・ロブ・アンディ・私の5名が入り、話し合いが始まりました。

パサンが「ケンは明日の救助ヘリでカトマンズの病院へいくことになります」と言いました。
ケンは酸素マスクをしており、声を発することなく静かに頷きます。

そして、ケンの次はここ数日間、体調が万全ではないアンディがこのまま登山を継続するか、しないかの話し合いとなりました。

アンディは1年前、チームに参加するまで1000m以上の高さを経験したことがなく、登山という登山の経験もありませんでした。
チームへの参加を決めてからは、アンディはロブとジョンの3人でロンドンにある高所登山センターで低酸素トレーニングを行ったり、今回の登山に参加する為にものすごく努力をした人でした。
それでも、Koteまでの道のりは彼にとって体力的に厳しく、彼自身それは十分すぎるほど理解していたと思います。

なんとも重苦しい空気が部屋の中に漂い、これから先の行程をパサンが説明していきます。
「ここからは標高も上がっていくぶん酸素も薄くなっていきます。
道のりは徐々に厳しくなっていきこそすれ、楽になっていくということはありません。」

皆が下をうつむき、それぞれが様々な気持ちを抱え、部屋は沈黙に包まれました。

しばらくしてから、アンディが

「明日の救助ヘリでケンと一緒に下山します。」

その言葉を聞いてもなお、私はなにか時間が止まったかのように床の木目をジッと見つめていました。
彼の言葉と、状況を消化するのに時間がかかり、今チームに起こっている状況がやっと把握できた途端、涙がぽろぽろ溢れてきました。

F.A.I.L= First Attempt In Learning 


アンディがチームを離れる決断をし、ロブが最初に発した言葉が上の言葉でした。
アンディにとって登山、そしてテクニカルではないメラピークとはいえ標高6,476mの山にチャレンジすることは、彼にとってそれ自体ものすごく勇気がいったことだろうと思います。

ロブは「‘’Fail 失敗‘’っていう言葉があるやろ。あれな1字ずつ頭文字をとってみるとな First Attempt In Learning  になるんや。
初めての試みで計画通り、予定通りにいかん事があって目標が達成できんかったとしても、そこで諦める事になったとしても、それが最初の1歩となって、次に生かせる。そっからまた挑戦したらええという意味や。ようここまで頑張ったな。。。」
と言い、彼はアンディをそっと抱きしめました。

4人揃って最後の日
左下からKen,私,Rob, Andy 

モモに元気づけられて

悲しい話し合いの後、辛さの中にありながらも皆が納得し、それぞれの立場を尊重し合い、胸襟を開いて話し合いができたことでジョンとの別れの時にはなかった清々しい空気がチームに流れたことがはっきりと感じられました。
それでも私は、ここまで一緒にやってきた彼ら2人がチームを離れる寂しさとやるせなさで口数も減り、心が沈んでしまっていたのが正直な気持ちです。
ちょっと何かを食べて落ち着こうと、食堂で大好きなモモを注文し、全部食べ終わる頃にはこれからの道のりへ、少しばかりの勇気と元気が湧いてきました。

ツヤツヤ光る大好きなモモ
食べごたえがあり、腹持ちが良く4-5個食べればまんぷくになるのですが、
この夜は悲しさで満腹中枢がやられたかのように1人で全部食べていました

ロッジの食堂で思い出す山本周五郎の小説

お腹も満腹になり、食堂中央の薪ストーブに前かがみになって手をかざし、暖をとっている時でした。

年の頃は18歳から20歳ぐらいでしょうか、ヒジャブを身に着けた若く溌剌とした女性たちが続々と食堂に入って来ました。

彫りが深く、彫刻のような美しい顔に目の覚めるような赤い口紅。
大きい瞳にくっきりと描かれたアイライナー。

彼女たちが食堂に入ってきたとたん、寒く薄暗かった食堂にパッと灯りがともったかのように、まるで花園の中にいるような、一瞬でまったく別世界の空間になりました。

その時、昔読んだ山本周五郎の『寒橋』の中にある1節がふっと頭に蘇ってきました。

― 女の髪化粧というものは世の中の飾りといってもいいくらいで、うす汚い饐(す)えたような裏店でも、きれいに髪化粧した女がとおれば眼のたしなみになる、いっときの饐えたような裏店が華やいでみえる、つまり春になって花が咲くように、世の中の飾りの一つになるんだ...―『寒橋』より


普段から洗顔後はパパッと日焼け止めを塗るだけ。
化粧品という化粧品も持っていない。
はっきり言って化粧の仕方もイマイチわかっていない私は彼女たちを見て、「あぁ。これがあの小説の中でおとっつあんが娘に云っていた言葉なんやな」「眼のたしなみかぁ…そうか、そうか。なるほどなぁ」と頷きながら妙に納得し、重くなるからと携帯サイズのシャンプーさえ持ってこなかった自分を少しばかり恥ずかしく思いました。

彼女たちはアラブ首長国連邦からメラピーク登山にきており、15人ほどのグループだったでしょうか。
メラピーク中腹あたりで寒さと強風のため、彼女たちのほとんどが途中で引き返してたのですが、1名が見事登頂に成功して下山している隊でした。(ケンを診察してくれた医師が帯同していた登山隊です)
祖国では女性初のヒマラヤ登頂。
歴史的なニュースになるということで、新聞にも大きく掲載されることになると聞きました。
ただグループの中で2名、足指の凍傷により歩くことが困難になったため、明日の救助ヘリで下山するという旨を聞きました。

凍傷が軽いものでありますように...と願いながら自室に帰り、明日からの登山にそなえるべく少しでも眠ることにしました。

何かしらパサンの話しを真剣な面持ちで聞いている
ロブと私


まとめ

アンディとケンもチームを離れることになり、5人いたチームはロブと私。
とうとう2人っきりになってしまいました。
このような事態になるとは想像もしておらず、自分の周りで起こる事象に対して心が追い付かず苦しい日となりました。
ですが、私よりも下山しなくてはならないアンディとケンのほうが余程、辛く苦しかったと思います。

これから、ジョン・アンディ・ケン。
3人の思いを胸にメラピークへと歩いて行くことになります。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

もしよろしければ、あと少しの間お付き合いくださいませ。