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論文めいたもの投稿してみた

中途半端になってしまったので、胸にしこりがある。

先生に「やる?」って言ってもらえたので論文めいたものを書いた。
査読はないし、学会のシンポジウムにふわっと出した程度なのだけど。

「論文」である。
これまでは「レポート」しか書いてこなかったのに。

今感じている初めて故の感覚が掠れないうちに残しておきたい。
これが失われることが一番怖い。

論文を書くのは難しい

難しかったし、これからも難しいままだろう。

この前レビューをチラッと見せてもらった。分厚かった。あれほどのコメントを返されたら溜まったものではないなと。自分でコメントしたって耐えうるような内容ではないのに、詳しい人から詳細に批判のコメントをされたら残る部分があるのだろうか。

何が難しいか。難しかったか。

「厳密」にならない。正直これ。

人間のデータを取って、数式をこねくり回す研究をしているので、結果に人の手が介在しやすい。いかに「正しく」処理して、「正しい」分析方法を使ったところで、自分の心の声が「詭弁じゃないのか?」と囁いてくる。

結果が出やすくすることも、結果を出にくくすることも、キーボードを少し叩けば簡単だ。どうしたものか。

論文を読む視点が変わった

論文を書く人の気持ちに近づいた気がする。これまで先生たちと論文の読み方が違うことが気になっていて、それは知識量の差だろうと思っていた。いざ一回書いてみて分かった。書く側の立場になれていないだけだった。視野が狭いというのはこのことだ。

これまで、論文は書く側の視点でもなければ、一体どの視点から読んでいたのか不思議だ。「読む側の視点」と呼んだら「同じ研究をしている人」を指すだろう。「読む側」になるにも不釣り合いだった。

つまるところ、読めもしない難しい本を開いている、子供に過ぎなかったと思う。

さて、今思う理想は「レビューする側の視点」だ。そのうち考え方が変わっているかもしれないけれど、今はそう。

何を読み、
何を気にして、
何を許容して、
なぜ許可したのか。

この考え方を知りたい。それもかなり優秀なレビュワーの。エディターの視点もいいよね。

端的に言うと、信じられなくなった

自分の提出した論文が信用ならない。正直言って、胡散臭い。納得なんて毛頭できない。

いやいやいや、ちゃんとした研究者の、査読付き論文がちゃんとしてないわけないだろ。そう思ってたんだけど。

・有意なデータは、錬金術で生み出せる。もともと20回やれば0.05の精度で有意になるのだから。
・説明も後知恵で生み出せる。仮説と違っていても、あたかも最初から結果に合うものが仮説だったかのように書ける。むしろ、論文のストーリー性がないと評価されないから、予定調和が推奨されるだろう。

信じられないから、「方法」を疑う。耳にしていたけど、その通りだった。正直他の部分はおまけだ。疑って、どうやって結果を導いたのか推測する。本当に導かれるのか不審がる。

「批判的な読み方」はこれのことだったのだ。
今はそう信じている。

何が問題か考えてみた

せっかく、不信になるなら、原因を考えてみたい。
考えられる原因を羅列してみる。
(ただし、全ての分野で、という訳ではない。共通している部分はあるだろうが)

・研究分野が細分化され過ぎて、きちんと批判できる人が少ない、足りてない
・厳密さにこだわる習慣が(日本では?)弱い
・「投稿すること」が目的になっている
・「受理すること」が目的になっている
・統計的に正しく判断できるほど、被験者を集められることがまずない
・研究ノウハウが隠されているため、裏側の分析手法に自浄作用が生まれない

実験データの大半が再現性がないことは有名な話。
これは不信と同じ話だ。

研究のオープンリソース化をしたい。
大半の人が嫌がるんだろうな。
浄化される側の人間がほとんどだろうから。

だからこそ、やったもん勝ちじゃないかと思う。
実用系の分野は実際アウトプットしているから、自浄作用も相乗効果も生まれやすいんじゃないかと思う。

日本の研究業界、世界的にはイマイチだし。一部を除いて停滞感すごいあるように感じる。この「イマイチな感じ」が具体的には何なのか深掘りしていきたい。

2017年10月15日

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