指導の仕方がわからない研究者って、詰まるところ研究したことないんでしょ

自分のいる研究室には一般的に見れば優秀なヒトがたくさんいる。だけれど、みんな結果が振るわない。無駄な1年、2年を過ごしてる。

大学院での留年は当たり前という考えも多いとは思うが、ここで重要なのは延びた期間で、ほとんど変化も成長もないということなのだ。博論発表などを繰り返すことになるわけだが、1年前・2年前の状態を再現するのである。

博士としての水準を満たすのは容易ではないから、元々習得するのに4年、5年かかるとしても、それは4年間ゆっくり進捗を生んでいるということだ。だから4年目には4年目なりの進捗があるのが基本である。

じゃあその人はその1年をどのように過ごしているのだろう。端的には、何もやってない。進捗を生めない時というのは、目標設定が曖昧で、何をやったらいいか具体的に想像できておらず、期日が遠い時である(←SMARTのS・R・T)。特に最後の期日については、明確に半年後、一年後になるため、中間目標を別の方法で誰かに設けてもらわないといけないのだが、それをしてもらってないのよね。

ともかく、一番重いのは目標設定と何をするかである。
目標設定は、一言で言えば博論審査で指摘されたことを解消し、合格水準に到達することである。これは最終的な目標なのだが、ここに一足飛びでたどり着くことができるなら、そもそも失敗していない。根本的に問題点を理解できていない。最初にやるべきは、「何かわからない基準に到達すること」ではなく、「クリアすべき要素を一つずつ潰していくこと」なのである。クリアすべき要素は、周りの先輩や教員に細かく噛み砕いてもらわないことにはどうしようもない。噛み砕くことができているなら、やはりとっくに一人で進めることができる。

例えば「概念を正しく整理する」「論理構造をはっきりとさせる」とかを想定した場合、いくら考えてもどうしようもない領域だったりする。この時にはどう解決したらいいのか、何を参考にしたらいいのか、どんな知識があれば改善するのか、全くもって検討がつかなかったりする。その時に、その人の状態を踏まえた上で、適切なアドバイスができるかどうかが指導の上では重要になる。


とはいえ、多くの問題は結局3つの問題に行き着くことが多いような気がする。①論文を読んでいる数がそもそも少ない、②論文を読んでいてもきちんと理解できていない、③議論が足りていない。この3つである。

①論文を読んでいる数がそもそも少ない

この原因は割と明確で、特に読んで発表する機会が設定されていない環境においては、論文を読むタイミングは何かしらの原稿を書いているタイミングになる。結局ヒトは書くためにしか読めない。「ルーティンとして読むことができる」ヒトは、その時点でかなりの素質があると思った方がいい。しかし残念なことにこれができる人というのはほとんど存在しない。だから、みんなで読むタイミングや、論文紹介などの機会がそれなりの量必要になる。こういった「機会」を用意し、環境を整えるのは研究室運営の基本だと思う。環境づくりがうまくいった時に一番コスパが良くて、驚くほど成長する。

②論文を読んでいてもきちんと理解できていない

これもとても深刻な問題。論文を真の意味で理解するのはとてつもなく難しい。まず主張を理解できて、論理を理解できて、なぜその方法や主張を取っているのか書かれていないくても理解できて、さらに全く触れられていない著者の裏の壮大な構想や経緯、実験開始のタイミングの仮説だったり、最初にしたであろう分析や、論文化までに辿った失敗を理解できるところまである。

いやもう神がかっているのだけど、「読む」という行為はとてつもなく奥が深い。もっと奥があるのかもしれない。こればかりは自力で習得するのは無理である。可能なのだけれど時間がかかりすぎて寿命が先に来てしまう。だから先人から知恵として引き継ぐ必要があって、これはコミュニケーションによって伝達可能なのである。しかし、研究者というのは職人気質でやって身に付けろ、自分で考えろ、みたいな思想の人があまりに多い。そんな人に限って自分が運よくマメに面倒を見てくれる先輩・先生と巡り合っていたことに気づけていない。

個人的には、ごくたまに(年1回くらい)先生と論文の話をした時に、あ、そんな裏があるのか、と垣間見る程度なので、もっとどうするのがより良い方法なのか正直わからない。。つい最近、レビュー論文を書くようなイメージで複数の論文をある文脈に位置付けてまとめようとしたら、個々の研究を以下理解できていないか、という事実を突きつけられた。まあこんな調子で理解の水準を複数回に跨いで上げていくことはできるのかもしれない。でもやっぱりいい方法はよくわからない。うまくいっている研究室に学ぶしかないだろう。

③議論が足りていない

これもよくあるんだよな。結局、先輩や先生からのコメントが足りていないのに等しい。それ以上に「議論」なので、学生や若手の考えに対して、適切にフィードバックが返っていない状態と位置付けられる。

身の回りの経験では、「こういう説明・主張はどうでしょう?」→うーんこの辺が微妙なんだよな→「じゃあこれは?」→やっぱりちょっとね→「新しくこういう要素を取り入れてみたんですが!」→そういうことじゃないんだよな。という流れ。基本的に戻ってしまうが、さっきの論文が足りていなくて研究テーマについて掘り下げられていない問題や、先行研究の理解が間違っていたり足りていない、ことが多いのはさておき、論理構造が整理できていないのである。どこに無理があるのか、どこに穴があるのか、何がずれているのか。本人にはわからないことを見えるようにする必要がある。だって自分は、うまく筋が通っているように思い込んでいるのだから。

最初、「議論」と書いてみて、少し掘り下げてみたら、議論というよりは、先輩・先生(や仲間)による思考の整理なのかもしれない。話しているうちに自分で思考を整理できることもあるから「議論」でいいとは思うけれど、自分でやるにしても人に教えてもらうにしても本質は「思考の整理」らしい。


という訳で、この辺りを何もしないのに、指導したつもりになっているのは言語道断で、学生がうまくいっていないことの原因帰属を本人にだけ帰せてやり過ごしているのを見ているとやるせない気持ちになる。後悔もする。学生や若手だけではどうにもならないことというのは常に存在している。再現性のある失敗は、本人の責任ではない。でも人生の大切な時間を失い、自信を失い、経歴も損なうのは、指導する側でなく学生なのを心しておいてもらいたい限りである。学生側は研究室選びがいかに重要か知らないと痛い目を見る。

ま、研究に限らず、環境づくりが何事にも基本ですよ。

ではでは。


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