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向日葵の海

お題:鯨と向日葵
引き籠り表現あり


 じめじめとした暑さの中、かすかな風に風鈴が音を立てる。畳に横になって、風鈴を眺めていた。日が傾いているようだから少し寝ていたんだろうか。
 おばあちゃんとおじいちゃんの家に来たのはいつぶりだろう。外の方を見ていた顔を反対側に傾けて台所に立つおばあちゃんの姿を見る。ごぼうの土を洗った後に皮と包丁の背で削り落とすんだと、お昼の時に話していたから今やっている最中なんだろうか。
「彰平、目ぇ覚めたんならお茶飲んどき。具合悪くしたら良くないからなぁ」
 僕が起きたことに気付いたのかおじいちゃんが、よっこらしょと、と言って台所にお茶を取りに行ってくれた。
 その姿を目で追いながら、ゆっくりと体を起こす。今日は日曜日、明日から一週間僕は学校に行かない。
 きっかけが特にあったわけではない。元々クラスに馴染めなくて、話す友達も出来なかっただけ。たまにからかわれたり、ノートを隠されたりするけど、特別酷いイジメを受けていることもない。
 ただ、毎日学校に行くのが難しくなっただけ。人と同じようにすることが上手くできなくなっただけ。
 僕だって努力はしたんだ。興味はないけどクラスで人気のアニメを見てみたり、動画を見てみたり。でも、少しも楽しいと思えなかった。
 毎日の習い事と塾、それに話を合わせようと動画を見ていた結果、体を壊した。
 寝不足が重なったからだって病院の先生が言っていた。お母さんが遅くまで動画ばかり見るからだって怒ってるのを見て、同じ病院の別の先生が一度環境を変えた方が良いかもしれないとも言っていた。
 今の環境のまま、一度休んでも同じことを繰り返すことになるだろうって言っていた。
 それからお母さんとお父さんの間でどういう話し合いがされたのかは分からないけど、僕は一週間、おじいちゃんとおばあちゃんの家に預けられることになった。
 お母さんは、おじいちゃんおばあちゃんの家にいる間もバイオリンの練習は欠かしてはいないと言っていたし、お父さんは勉強についていけなくなるから毎日勉強をしっかりしなさいと言っていた。けど、病院の先生はこの一週間は勉強も習い事の事も何もせずにゆっくり過ごしなさいって言っていた。学校の先生からは、授業に出られない代わりと言って沢山の宿題を渡された。
 僕は誰の言うことを聞けばいいんだろう。良く分からないまま、お父さんの車に乗って海の見えるこの家に着いた。
 いつもおばあちゃんとおじいちゃんの家に電話するお母さんはイライラしていて、いつも怒鳴りあいの喧嘩みたいだから、正直あまり来たくなかった。
 でも、実際会ってみればおばあちゃんもおじいちゃんものんびりした人で、どうしてあんなに電話口で喧嘩しているのかよく分からなかった。
 車道と歩道が分かれていない道を歩く。日がだいぶん傾いて。風が涼しい位だった。
 お茶とお菓子で一休みしてから、おじいちゃんが海でも見に行こうかって、連れてってくれた。
 夕日が海に沈んで行く姿は初めて見たような気がする。いつも塾とかバイオリン教室が終わった時には外は真っ暗で、どこに寄り道することもなく家に帰るだけだから、こんな時間に外を歩くのが新鮮だ。
 何かの虫の鳴き声と風の音、色々な音があるはずなのに全体的に静かだなと思った。寝る前の部屋の中よりは騒がしいかもしれないけど、外を歩いている時にこんなに静かなことはない気がする。
「この階段下りたら、浜まですぐ行ける。けど、海は危ないから浜行きたいならばっちゃかじっちゃに声かけぇよ、間違っても一人で行くんでねぇよ」
 舗装された道を歩いていたら少し長い階段についた。階段の向こうは夕日に照らされた海が見える。
 階段はコンクリートで出来ていて、転んだりしたら痛そうだなと思う。おじいちゃんはゆっくり歩けぇと言ってカニ見たいにして階段を下りていく。
 手すりなんてない、テレビでしか見た事のない階段に少しわくわくした。
 風に乗ってくる潮の匂いは生臭くっていつもならすぐに帰ると言い出すだろうに、なぜかここに居たいなと思ってしまった。
 始めて踏んだ砂浜は踏むたびに足が埋まっていった。蹴るように足を上げて歩くと、砂が飛び散って靴の中に入ってくる。
 おじいちゃんがサンダルの方が良いって言っていたけど、スニーカーの方が良かった気がする。少し歩く度に足に砂がまとわりつく。
 その感触が気持ち悪くて嫌な顔をしていると、おじいちゃんが笑っていた。
 おじいちゃんの足も砂だらけ。慣れなのかな、僕にはまだ慣れそうにもないけれど。
 そこらへんでおじいちゃんが拾ってきた枝を使って砂浜に絵を描いたり、字を書いたりして遊んだら波が来て全部綺麗にしてくれる。わっと走って線を引いても直ぐに波が来る。
 黒板だと書いた後、消さなきゃいけないから落書きなんてしなかったけど、ここでならすに勝手に書いて良いかもしれない。
 波が引いた時にわざと近付いて、波が来た時に逃げる。そんな事を繰り返している内に楽しくなってきた。
 何が楽しいとかじゃないのに、無性に面白くなって笑ってた。
 走り回って疲れたころには、日も大分落ちていた。心もとない街灯が点々と道路を照らしている。
 帰り道、砂だらけのサンダルと汗をかいた服が気持ち悪い。でも不快感だけではなくて、楽しかった。
 おじいちゃんは、夕食はなんだろうなぁと言って、僕の手を引いている。
 子どもじゃないから手を引かれなくても歩けるのに、自分で電車に乗って学校に行けることも、塾に行けることも知っているのに、不思議だなぁと思った。
 勉強道具もバイオリンも持ってきたけれど、何にもしたくなくてずっと畳に横になっていた。
 おじいちゃんは洗濯物をしたり、掃除をしたりしているし、おばあちゃんは台所でご飯を作ったり、郵便物の確認をしたりしている。
「彰ちゃん、お腹冷やしたらあれだからこれ掛けときなさいな」
 ぼーとしていたら、おばあちゃんが毛布を掛けてくれた。
「怒んないの? 」
「なんに怒るの? 」
 不思議そうに聞かれた。
「だって、なんにもしてないし」
 勉強もバイオリンもないにもしていない。しなきゃいけない事は分かっているけれど何にもしたくない。こんな事を言っていたら怒られるんだろうな。
 おばあちゃんの顔を伺うと、なぜか笑っていた。
「彰ちゃんはね、今『何もしていない』をしてるんよ」
 「『何もしていない』をしている」ってどういう状態なんだろう。結局、何もしていないんじゃないのかな。
 なぞかけみたいな言葉に首を傾げた。
「彰ちゃんはいつも忙しくしているんだから、休まなきゃいけないのよ。『何もしていない』っていうのは体を休めるためにとっても大事な事なの。それにね、ちゃんと休まないと何をしなきゃいけない時に何にも頑張れなくなっちゃうものなのよ」
 そういって頭を撫でられる。
「だから、この一週間位はしっかりお休みな。別にバイオリンが出来なくても死ぬことはないし、少し勉強が遅れたからって今後の人生全てがダメになるわけではないのよ」
 そう言われている内にどんどん眠くなってきた。朝起きてから2時間も経ってないはずなのに変だなぁ。
 風鈴の音で目が醒めた。少し風が強くなってきたんだろうか。でも、天気は良いみたい。空が青くって白い雲が悠々と流れていく。
 寝返りを打つ、勉強もバイオリンもしなければ案外、暇なんだな。
 暇だと思って先から、焦ってくる。
 この時間、皆は学校にいて勉強している。僕だけが取り残されるだろう。なにか行事の役割分担をやっているかもしれない。バイオリン教室も発表会の練習をしていると思う。
 ゆっくりしていたらダメな気がする。ちゃんと頑張らなきゃいけない気がする。
 飛び起きるようにして、持ってきた勉強道具を取り出す。
 今すぐ勉強しなきゃいけない。勉強に遅れたらいけない、皆が出来ることが出来ないのはいけない、ちゃんとしてなきゃいけない。宿題は全部やって、先生に褒められるように、一番を取れるようにやっていなきゃいけない。全部やんなきゃいけない。完璧にしなきゃいけない。それから、それから……
 やらなきゃいけない事を整理しようとすると、手が止まってしまう。鞄の中の荷物を出さなきゃいけないのに、手が上手く動かない。
「彰ちゃん、お勉強は後でも出来るから、先にお昼ご飯食べようか」
 急に声をかけられてびっくりした。振り返ると、お鍋を持ったおばあちゃんが障子を開けて立っている。
「ばっちゃ、鍋持って歩かんでもいいやろに。落としたらことだから先に置きぃ」
 間延びしたおじいちゃんの声も聞こえてきた。
 どっ、どっ、と心臓が嫌な音を立てる。流れている時間が違うような気がした。
 ここに流れている時間はこんなにも穏やかで優しいのに、どうして僕の時間は忙しなくて痛いんだろう。
「彰ちゃん、まずはご飯食べよ。それからばっちゃのお散歩に付きおうてな」
 曖昧な返事をして、立ち上がる。おばあちゃんは笑っていた。
 おばあちゃんに連れられて散歩に出た。昨日よりも少し早い時間に家から出て、のんびり歩く。
 道端に咲いている花や山の話、海産物とか、お祭りの話を聞かせてくれた。
 大分歩いた所で、小さなお店がある。そのお店の中に向かっておばあちゃんが声をかけると、腰の曲がったおばあさんが出てきた。
 おばあちゃんと二、三言話すと、お店の奥の方に帰っていく。
「今日は開いてて良かったわぁ、気が向いた時にしか開けないんだもの」
 そういっておばあちゃんはお店の中にあるテーブルにバッグを置いた。
 どうしたら良いのか悩んでいたら、あのおばあちゃんが好きな所座っていいって言ってたよとおばあちゃんが言う。
 おばあちゃんの向かいの椅子に座ると、奥からおばあさんがお盆を持って帰ってきた。
 お盆の上には麦茶が二つ。それをおばあちゃんと僕の前にそれぞれおいて、メニュー表を僕に渡して、元々座っていた場所に戻っていく。
「アイスとかかき氷ならあると思うんだけど、彰ちゃん好きなの選んでね。私はいつもクリームソーダを頼んでるのよ」
 幾らまでの物を頼んでも大丈夫なのか分からなかったから、「あいす」とか「ちょこれーと」とかが平仮名で書かれているメニューを見ながら一番安いあいすを選んだ。
 おばあちゃんにこれで良いのか確認されたから頷いて返事をする。
 おばあちゃんが席を立って、おばあさんに注文する。おばあさんがテーブルに来るわけじゃないんだなぁと思って眺めている。
「注文を取りに行けない程、足腰だめになってるわけじゃないわよ」
「そうねぇ、でも私の方がまだしっかりした足してるもの」
 おばあちゃんが注文しにいっただけで、本当がおばあさんの方から来てくれるみたいだ。お母さんといった事のあるカフェとは空気感が全然違うな。
 席に戻ってきたおばあちゃんとおしゃべりをしている内におばあさんが飲み物を届けてくれた。
 おばあちゃんのメロンクリームソーダに、あいす3種の盛り合わせ、さくらんぼとクッキーも一緒についてきた。
 おばあちゃんは美味しそうにクリームソーダを飲んでいる。溶けたら申し訳ないからそのまま食べた。
 冷たくて美味しい。アイスとかは栄養がないからダメだってお家だと食べられないけど、凄く美味しかった。
 薄暗くなった帰り道、行きとは違う道を通って帰る。
 黄色い塊が奥の方に見えた。近寄ると向日葵の群生だった。
「毎年ここに向日葵が咲くのよ、きれいねぇ」
 おばあちゃんがゆっくりと話す。皆、点でバラバラな方向を向いている。大体同じ方向を向いてはいるけれど、完全に同じ方向を向いていることはない。
 バラバラな方向を見ているのに、「同じ方向」を見ているって言われるなんてずいぶんと乱暴なんだな。
 夢を見た。海の中を泳ぐ夢。校外学習の時に行った水族館でみた鯨に乗って海の中を泳いでいた。
 海は紫色から青に変わっていく。鯨がグルグルと同じ場所を回るから、振り落とされないように必死で捕まる。少しスピードが落ちたと思って、周りを見れば、キラキラした海の中で色とりどりのサンゴ礁。
 お皿みたいにくぼんでいるサンゴにはチョコとかイチゴとかのアイスが乗っている。魚がそのアイスをついばんでは移動していく。
 鯨は移動することにしたようだ。アイスのサンゴ礁から遠ざかっていく。海の表面に近いのか青色がどんどん水色になって、水温が高くなる。
 ふと下の方を見ると黄色い場所が目についた。近寄りたいと思ったら、鯨が体を傾けて近寄ってくれる。
 水色はまた青へ、青よりも濃い紺色へ。でも不思議と暗いとは思わなかった。
 たどり着いてみれば、向日葵の群生地だった。海の中、向日葵が波に揺られて花を傾けている。
 黄色の群生地で皆同じように振る舞っているかと思えば、次の波で全然違う方向を向く。
 なんだ、元から同じ向日葵なんてないじゃんか。
 向日葵の中でことさら、上に伸びている花がある。一生懸命、太陽を集めたいのだろう。葉を大きくして、茎をのばして、大きな花を付けた。波に揺られる花は大きくてとても目立っていたけれど、他の花よりも不安定で今にも落ちてしまいそう。
 鯨が動く度に、大きな水流が生まれる。向日葵がその流れに遊ぶように花や葉を動かしているのに、一番大きな向日葵は、その水流に負けないようにするのがやっとの様だった。
 しばらく見ていると、鯨も息が苦しくなったのか上へ向かおうと体を動かした。
 その水流に大きな向日葵は負けて、花を折って下の方へ落ちていった。
 息を乱して飛び起きた。外はまだ薄暗い。時計を見れば4時になったばかりだった。
 全力で走った後のような呼吸を落ち着かせようと深呼吸を繰り返す。暑さだけが原因ではない嫌な汗が額を、背中を伝って落ちる。
 あの向日葵の事を思い出す。他の向日葵よりも頑張った結果があんな最後なんだろうか。他の子が楽しんでいる所で折れてしまうんだろうか。
 嫌だなぁ、と思って布団にもぐり込んだ。あの向日葵は頑張っただけなのに、周りから笑われるんだろうか。この程度のことで折れるなんてと笑われたり、怒られたりするんだろうか。それとも何とも思われないまま、忘れ去られていくんだろうか。
 枕に顔をうずめて、再度深呼吸をした。昨日、おじいちゃんが枕を外に干していたから太陽の匂いがした。
 もう一度寝て、目が覚めたらあの向日葵を見に行こう。あの場所からは海もたぶん見えるだろうし、向日葵越しで見た海はきっともっときれいだろうから。
 トントントンと包丁で何かを切る音で目が醒めた。時計を見ると朝の10時、随分と寝てしまったようだった。
 伸びをして、ゆっくり起き上がる。机の上に出された宿題を見る。結構な量だけれど、頑張れば終わらない量でもない。最終日に一気にやっても良いし、体調が悪くて出来なかったと言えば良いや。
 この一週間位、ゆっくりしよう。ちゃんと休むためにここに来たんだから。
 お昼を食べてから向日葵を見にいく。おばあちゃんが一緒に行こうか? と訊いてくれたけれど一人でも大丈夫だと言って家を出た。
 車道の端を歩く。車が多く通るわけではないけれど、たまに大きなトラックが通ることがあるから気を付けなさいとおばあちゃんが言っていた。
 照り返しの強い道を歩く。ガードレールの白が眩しかった。
 向日葵が生えている所に着くと。茎を踏まないように気を付けながら中に入る。
 どの向日葵も僕より大きくて、簡単に姿が隠れてしまう。ここで外に出られなくなったら見つけてもらえないかもしれない。あまり奥には入らずに、すぐ出られる場所に立つ。
 見上げれば緑と黄色、それから茶色。
 この色の中にいる僕はあまりに変だった。明らかに他と違う。けれど、向日葵は向日葵で、僕は僕だから互いに何も言えない。
 自分より背の高い向日葵の中で、誰かに見下ろされているような居心地の悪さを感じる。異質なものとして、見下ろされ排除されてしまう、そんな妄想に取り付かれてしまいそう。
 向日葵が風にそぞめいた。ゆらゆらと風に揺れて茎がしなっている。重たい花が付いているのに折れないのは茎が柔らかいからだろう。
 音を立てながら向日葵の中を風が通り抜けていく。潮の匂いを乗せた風が吹く。
 こんな風に風を浴びた事がなかった。こんな風に向日葵を見上げたことはなかった。
 初めてばかり、知らない事ばかり。外を歩きまわるのがこんなに楽しいなんて感じたこともなかった。
 暗くなる前に家に戻ろうと思って向日葵の中から出た。持たせてもらった水筒の中身を飲んで道路に出ると、声をかけられる。
 振り返ると昨日のおばあさん。曲がった腰でゆっくりと歩いてくる。
「これから帰るのけぇ? 」
 はい、と返事をすると途中まで送ると言われた。大丈夫ですと断っても、ダメだと返される。僕は困ってしまった。
 よく知らない人と一緒に歩いてはいけません、というのが学校のルールだったし、お母さんにも言われていたから。
「こんな時間に子ども一人で歩かせたてなんかあったら困るわ」
 そういって、僕の手を引いて歩き出す。家の場所なんて言っていないけど、小さい町だから大体の人の家が把握できているっておじいちゃんが言っていたような気がする。
「小さい子が、外が暗くなるまで出歩くんでない。特にこの道なんて明かりがほとんどないんだから危なくてしゃぁないしょ」
 そんなものなんだろうか、いつも家に着く頃には外は暗いから気にしたこともなかった。確かに塾とかバイオリン教室とかに近くに比べたら街灯は少ないけど、駅から家までも同じくらい街灯が少ないから気にも留めなかった。
「子どもは外で遊ぶのが良いけど、時間だけは先に確認しておきなさいね。ばっちゃもじっちゃも心配してるだろうから」
 そう言われて、家の前まで送ってもらった。なんだか申し訳なくなって、すいません、と頭を下げると妙な顔をされる。
「わたしは謝って欲しいなんて思ってないよ。面倒だったなんても思ってない。子どもになんかあったら目覚めが悪いだけさ」
 なんていえば良いのか分からなかった。「すいません」以外になんていえば良いのか、考えても言葉が出てこない。だって人の手を煩わせるのは悪いことだから。
 おばあさんは困ったような顔をしてから、にこりと笑った。
「しいて言うなら、感謝して欲しいかね。感謝されると、良いことをしたなって嬉しくなってしまうから」
 そう言われて、「ありがとうございます」というと、次から気を付けるんだよとだけ言ってそのまま帰っていってしまった。
 そのことをおばあちゃんやおじいちゃんにも伝えたけれど、怒られたりすることはなく、ちゃんと感謝出来て偉かったねと褒められて終わった。
 不思議だな、僕の知っている普通をあまりにも違う。でも、気持ちが悪いとか嫌な感じとかはなくて、あったかいなと思った。
 また、夢を見た。今日は鯨に乗っていないみたいだ。目の前に向日葵畑が広がっている。ゆっくり向日葵の中に入っていくと、色々な向日葵があった。
 ある向日葵はサッカーボールを中心に黄色い花びらが付いている。隣の向日葵は本、見渡せば色々な物が葉っぱになっていたり、花になっていたりする。
 その中で、バイオリンが葉っぱで、学校の教科書が花になっている向日葵があった。
 その向日葵の花は重く下を向いていて、茎は今にも折れそうだった。
 この向日葵は他の向日葵よりも大きく育ったみたいだけれど、栄養が足りないのか、自分の体も維持できていない。
 背を伸ばして、そっと花になっている教科書を一冊取ってみた。少し軽くなったのか、花が上を向いた気がする。別の教科書も取る。また上を向いた。
 全部取ってしまった方が良いのかな、少し考えて他の向日葵も見た。
 色々な向日葵が、色々なものを持っている。逆に何も持っていない向日葵は目に入る所には何もなかった。
 全部取ってしまうのはだめな気がした。取って地面においた教科書を持ち上げてみると変に重たかった。ぱらぱらとめくってみると、教科書の間に色々な紙が挟まっている。
 紙には、クレヨンで書いたような文字が並んでいるけど、上手く読めない。
 勉強した時のメモとか、楽な解き方とか、そういうものではない様だった。ページをめくっていくと少しずつ紙に書いてある文字が読めてくる。
「ちゃんとしなきゃいけない」、「完璧にしなきゃいけない」、「間違っちゃいけない」、「一番じゃなきゃいけない」、「いい子じゃなきゃいけない」
 そんな言葉ばっかりだった。でも、別にこの紙が必要なわけではないよね。
 教科書から少しメモ抜いて捨てる。これも全部取らない方が良いかもしれないからある程度は残す。それを花びらになっている教科書分繰り返す。
 気が付けば足元には、かなりの量のメモが落ちている。
 向日葵の方を見れば、メモがない分、軽くなった花は上を向いて、光を浴びていた。
 全ての葉がバイオリンになっていたけど、それだと重いだろうから、小さいバイオリンを落としてあげた。
 果物だとかを育てる時は栄養が持っていかれないように葉を減らすんだって何かの本に書いてあった気がする。
 花も葉も軽くなった向日葵は、日の光を浴びて水の流れにゆらゆらと揺れている。茎も少し柔らかくなったような気がする。
 久々にバイオリンを弾きたくなった。コンクールのためだとか、お母さんやお父さんの自慢話のためにバイオリンをやらされていたけれど、今、僕はバイオリンを弾きたいと思った。自分のために弾いてみたい。きっと下手になっていると思う。けど、それは僕のためのものだから下手でもいいや。楽しければいいや。
 ふと、頭上が陰った。大きな鯨が旋回して上へ昇っていく。
 目の前の向日葵は危なげなくその水流に乗っていた。色々な花を付けた向日葵がそれぞれの方向を向いて揺れていた。
 朝起きた。トーストが焼けるいい匂いがする。
 部屋の中でバイオリンを箱から出した。
 久々に持ったら、少し重たい様な気がした。そっと、蔓を引くと慣れ親しんだ音がする。
 思い付くままに音を重ねる。バイオリンをここまで楽しいと思ったのは初めてかもしれない。
 お母さんもお父さんも忙しくて僕に構ってる暇なんてないと思うから、動画にしてみるのも良いかもしれないな。
 そんな事を考えながら、指を動かす。
 僕も、他の子と同じようにやりたいことも、好きなことも選んで良いはずなんだ。
お父さんとお母さんが納得するかは別問題なんだろうけど、きっとよっぽどのことがなければおばあちゃんもおじいちゃんも僕の話を否定しないで聞いてくれるような気がする。
 教室に馴染めなくたっていいんだ。どうせ本当は皆バラバラなんだから。
 完璧じゃなくていいんだ。完璧を目指したってキリがないし、自分が納得できればいいから。
 僕は僕のやりたい事を目指して良いんだ。焦ってしまうこともあるだろうけど、僕は僕のペースでしか生きられないんだから。
 きっと僕には、この海がある町のペース位が丁度良い。

(2021.8.15)


7月に〆切があったのに上手く書けずに8月にずれ込んでいました。
人それぞれに合う場所があって、テンポがあってと考えると中心部の忙しなさについていけない人も、ついていくことも止めた人もいるんじゃないかと思います。

 


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