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ウクライナの友人を思う
いつものようにインスタを開いて、ウクライナの友人の悲惨な投稿を目にして以来、私の目の前の景色も一変してしまった。
バルセロナで出会ったウクライナ人の友人は、現在も家族とキエフに住む。
「今朝、爆撃の音で目が覚めた。人生で一番恐ろしい出来事」
いつもはカラフルな旅の写真や、日常の幸せな瞬間を切り取ってアップしている彼女のインスタに、真っ黒な背景のストーリーが続く。
「NATO、お願いだから私たちの空を守って」
「息ができない。涙が止まらない。私の町が、もうすっかり変わってしまった」
悲痛な叫び声が聞こえてきた。
海外に出るまで、ウクライナ人と直接的な接点はなかった。
ファーストコンタクトは確か2012年、ポーランドへ旅行した際のドミトリーで、同じく一人ドミトリーに泊まっていたウクライナ人の女の子と出会ったとき。
クリスマスで多くの店が休業中で、ポーランドの町は閑散としていた。ドミトリーの中もガランとしており、共用キッチンには彼女と私しかおらず(おまけになぜか明かりも付いていなくて暗かった)たまらずどちらからか声をかけたのだった。
静かな子だったけれど、ポーランドで就職が決まったと嬉しそうで、私におやつのパンを分け与えながらウクライナ人が国外へ出るのがいかに難しいかを教えてくれた。
日本のパスポートは世界最強と言われている通り、ほぼ全ての国にパスポートだけで旅行が可能だ。
一方ウクライナのパスポートでは、たった3日間の国外旅行でも事前にビザ(滞在許可)の申請が必要で、それが大変だという話だった。
その後、年月を経てスペインに移住してからは、ウクライナ人がもっと身近な存在になった。
スペイン語のクラスにもウクライナ人が何人もいて、人当たりがソフトでフレンドリーな人が多かったので、自然と一緒に過ごすようになった。
日本人と通じる部分も多くあり、お互いに「日本に行ってみたい」「ウクライナに行ってみたい」などの話に発展することも多かった。
同じ空間で学び、同じように職探しに苦労し、同じコーヒーを飲んで、同じ空を見上げていた。
本当に勝手な感覚だと思うけれど、シリアで戦争が起こっていることを事実として知ってはいても、シリアに知り合いもおらずシリア人の友人もいないので、なんとなく実感として感じられずにいた。
しかし、ともに日常を送っていた仲間が、昨日まで根拠なく「この先もずっと元気で大丈夫」だと信じていた仲間が、まさか戦争に巻き込まれることになるなんて、全然心の準備ができていなかった。
数分ごとにスマホでニュースをチェックしては、ざわざわと落ち着かない心に押しつぶされそうで、ここに「友人」と書きながら、なんて言葉をかけていいか分からずまだ連絡さえできずにいる。本当に情けない。
自分が生きている間に友人が戦争に巻き込まれるなんて想定外で、悪夢のようだ。
「戦争だけは絶対にいけない」と折に触れて話していた祖母が、もう天国にいてよかったと心から思った。
なにもできず、祈ることにも無力感を感じはじめた私は昨日森へ行った。
森の中でうずくまって、自然はこんなに美しいのにどうして人間はこうなんだろうとか、考えても仕方がないことを考えていた。
二元論の世界では善があり悪がある... そう言われても、とても腹落ちできるものじゃない。
情けない私はちょっと勇気のいる金額をウクライナ大使館へ寄付して、こうしていても仕方がないからできるだけ普段通り過ごそう、とやっと顔を上げたのだった。
できないことが多すぎて、部屋の中で座っている状態が虚しい。無力感もすごいし、正直この週末はメンタルがボロボロだった。
それでも前を向いて、できることを一つずつ、淡々とこなす。
それが生きていくということなのかもしれない。そう思う。
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