「働くひとの芸術祭」はじめます②(妄想と当事者研究)

   今から8年前の2022年は歴史に残る年となった。2020年に発生した新型コロナウィルス感染症が収束する気配を見せない中、2月24日にロシアによるウクライナ侵攻が発生し、7月8日には安倍晋三元首相が参議院選挙での演説中に銃撃を受け命を落とすという事件が起こった。こうした出来事によって、これまで覆い隠されて来た分断や格差が露わになった。2022年は、さらにその亀裂が広がるのか、あるいは融合が生まれるのかの分岐点となった年として総括された。
 
 あれから8年。今年2030年は、かつて国連が掲げたSDGs(持続的な開発目標)のゴールとされた年である。そこで掲げられた17の目標の第8番目は「働きがいも経済成長も」と謳っている。しかし、果たして「働きがい」とは何なのか?という疑問とともに、働きがいと経済成長がセットで論じられることや、それが「ゴール」とされることへの違和感が2022年以降広まって行った。だが、その同じ年に日本の片隅で始まったほんの小さな取り組みが「働くこと」への本質的な問いを提示し、SDGsとは全く異なる形で持続的な社会の形成に寄与することとなった。
 
「働くひとの芸術祭」と呼ばれるこの活動によって、仕事は単なる労働ではなく「仕事それ自体を超えた何ごとかを達成するもの」という認識が多くの人に広まり、一人ひとりがアート作品のように仕事を通じて人生を自分の「作品」として価値生成できる、という意識が徐々に浸透しつつある。だが、社会にはいまだ多くの分断や格差が存在する。「働くひとの芸術祭」は、端緒についたばかりなのだ。
 
 上記は、修士論文「『働くひとの芸術祭』が拓く未来」の冒頭文だ。

大きな妄想、小さな実験

    これは、最初の大学院で研究を指導くださった山崎和彦先生が「創造性」を見事に言い当てた言葉だ。「あなたには創造性があると思いますか?」と聞くと、大多数の人が「無い」と回答する(人間がそのような想いを持つことになった社会の在り方自体も大きな問題だ)。だが、大きく妄想を働かせ小さく試してみる(実験する)ことなら誰でもできそうだ。社会人が研究を行う意味は、とりわけそれが研究に閉じず社会に役立つことに意味がある。私は、論文の出発点として、実現したい未来を妄想することからスタートした。続いて、そこに至るプロセスを明らかにし、未来への行動宣言で締めくくる循環的な構成をとることにした。
 
    研究のもうひとつの特徴は「当事者研究」の色彩を帯びていることだ。当事者研究とは“ぺてるの家”という北海道の精神障碍者のための地域拠点から発した、自分あるいは周囲を対象とした研究手法だ。私は、社会人のすべての研究は大なり小なり、当事者研究の色彩を帯びていると思っている。日本人の働き方を研究するとすれば、日本経済や資本主義の“尖兵”としてのキャリアを歩んで来た自分自身の人生や働き方を振り返り、それがどのような環境要因に影響を受けて来たのかを俯瞰的・多角的に辿り、本研究の内発的動機を明らかにする必要がある、と考えた。
 
   私は、1959年に京都で生まれた。その年、現上皇のご成婚があり、最初の東京オリンピックが決定した。日本が戦後の復興から立ち直り、高度成長へと向かう象徴的な年だった。1970年は、私のキャリアの原体験となった年だ。高度成長の頂点とも言える祭典・大阪万国博覧会が開催され、父が小学校を休ませてくれ会場を訪れた。それは、初めて「グローバル」が日本にやって来たイベントであり、この強烈な体験によって、それに深く関わった広告代理店への志望へとつながる。また、将来的に海外での仕事を夢見る出来事にもなった。一方、1970年は三島由紀夫(1925-1970)が市ヶ谷の自衛隊庁舎で割腹自殺を遂げた年でもある。その前年、三島は以下のような“予言”を残している。

「このまま行ったら『日本』はなくなってしまうのではないかという感を日増しに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目のない、或る経済大国が極東の一角に残るであろう」(「果たし得ていない約束」より)
 
    広告代理店に入社したのは1984年。コピーライター職が最初のキャリアとなった。時は、糸井重里や仲畑貴志といったコピーライター全盛の時代だった。翌1985年、プラザ合意を契機として日本企業の本格的な海外進出が始まり、1986年には男女雇用均等法が制定され、社会はバブルに突入していく。1991年にバブル景気が崩壊。1997年には山一證券が破綻し、同社に務めていた大学の同期は思わぬ形でキャリアの転機を迎えた。同じ年に経営破綻寸前の日産自動車がルノーに救済され、日本の「グローバル化」の象徴的な出来事と言えるカルロス・ゴーンのアライアンスが開始した。
 
    2000年に私が勤務する会社は上場を果たし、それまでの収益基盤だったマスメディア事業からの転換を本格的に志向することとなる。その柱のひとつがグローバル事業だったが、私自身も2005年にシンガポールに駐在することとなり、担当自動車チームのアジア体制強化と自社アジアネットワークを統括するという2つの任務に携わることとなる。その時期は、日本の経済成長率が本格的に低迷期に入り、海外投資比率が一気に高まるタイミングと呼応する。2008年にリーマンショックが発生。それによって、新たな成長の場を求める日本企業が一斉にアジアに押し寄せて来た。
 
    シンガポールから日本への帰任日は、2011年3月10日。翌日、東日本大震災が発生した。日本が想定外の事態に見舞われた時は、社も大きな展開を迎えていた。イギリスのエージェンシーを日本でも最大級の金額で買収し、日本の人事制度もグローバル仕様に変更された。
 
   ヘッドクォーター(本社)の日本人材がグローバル型キャリアのマインドとスキルを具えなければ存在価値を失う。その危機感から、キャリア施策を起案。2014年に人事部門に異動した。2019年3月に定年退職を迎え、翌日起業した。
 
   この研究を始めてからの2年間、2021年春から今年に至るまでに日本や世界がかつてない大きな変化を経験しているのは前回書いたとおりだ。企業の動向に目を向けると、新型コロナという、事業への大きなインパクトを経験し、それまで着手して来なかった構造改革に踏み出しつつある。また、ブロックチェーン技術を活用して企業内に留まらない社会価値となるスキルを認証する取り組みもIT企業を中心として導入されつつある。こうした環境変化と共に、掛け声ではない「一人ひとりが価値生成をする時代」に本格的に突入したと言える。
 
    だが、この30年、物価(消費者物価指数)が約10%上がったのに対し、日本人の給料は逆に10%近く下がっている。そしていま、円安や原材料高によって、急速な物価の上昇に我々は見舞われている。
 
   日本は、そして日本人の働き方はどこに向かって行くのか。いや私たち自身はどうするべきなのかをこそ考えなければいけない。私自身の経験を見直す「虫の眼」と、社会・世界を俯瞰的に観る「鳥の眼」そして歴史的な推移を文脈的にたどる「魚の眼」という3つの眼、そして「アート的価値生成」という眼鏡を通じて考察していく。

※第1回はこちら 「働くひとの芸術祭」はじめます①(旅のおわり、旅のはじまり)|sakai_creativejourney|note
 
#アート  #働き方   #キャリア


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