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私のキャリア実験ノート(8)研究と実践、大学と社会の橋を架ける。

   迂闊(うかつ)なことに、武蔵野美術大学大学院に入学して改めて知ったのは「大学院」が研究機関だと言うことだった。そこでは、「学習機関」としての大学を終え、自分なりの問題意識に基づいて探求を深めることを求められる。出願時に研究計画を提出した時点で気が付けよ!という話だが(苦笑)。大学院初年度は、グループワーク中心の刺激的な授業を夢中でこなすことで精いっぱいだったが、2年目は逆に個人ベースの研究モードになった。

 その研究のプロセスは、というと以下の通りだ。まず入学直後、学生は教授陣の前で自分の研究テーマを5分間で発表し、質問を浴びせられる。その後、指導教官(主査、副査)を選択し承認されると晴れてゼミに所属する。そこからは、指導教官の方針に沿って研究が勧められる。私は、IBMの開発者としてのバックグラウンドをお持ちの山崎先生に師事することにした。「デザインやアートで社会を笑顔にする」という思いに共感したからだ。

  山崎ゼミでは、週に1回のゼミが開催され、ゼミ員は研究の進捗を報告し先生からのコメントを頂く。私の場合は、働く現場で起こっている様々なひずみによって労働市場が不健全な形で流動化し、組織に馴染めず離職してしまう人と、逆に組織に過剰適応する人に2極分化した結果、企業や組織を変革する人財が減少している現象に着目した。このままでは企業やひいては日本全体の空洞化が急速に生じるのではないか、という問題意識から組織を変革する人財(先見の明のある人財)を生みだすプロセスとメカニズムの解明を研究テーマとした。

  研究のプロセスは、果たして自分が進んでいる道が正しいのか・・・先の見えない暗闇の中を進んでいるようなものだ。その研究テーマが、果たして本当に自分が探求したいことなのか。そのリサーチクエスチョンは的を射ているのか。その仮説にオリジナリティはあるのか。何より、自分の研究内容は社会にとって意味があるのか・・・。現場での開発者と大学での研究者の両方を経験され、「理論と実践」の両面のマインドとスキルを兼ね備えていらっしゃる先生は、学生の抱える不安をエネルギーに変えながらナビゲートしてくださった。

 研究者として突き詰める部分と、時には緩める部分の「塩梅(あんばい)」が絶妙。右往左往している時には「修士論文は試行錯誤のプロセスを記録するもの、と考えて取り組んだ方が良い」というお言葉に救われた。また、とにかく「実験(プロトタイピング)」を求められる。私は、研究テーマに沿った質的調査の分析結果から導き出した仮説の受容性を測定するワークショップを何度も開催した。何よりも、「社会人が大学院で学ぶ意味は、それを自分のビジネスに活かすこと」という価値観が一致しているからこそ、厳しい?指導にも耐えて来ることができた。ズバッと切り込む鋭いコメントには、時には「ムカッ」としたが(失礼!)先生には感謝してもしきれない。

 この研究プロセスを経験して、ハタと気が付いたことがある。キャリアや組織の分野では、次から次へと様々な欧米からの理論が「流行りもの」のように話題となって来た。学習する組織、U理論、ティール組織・・・。だが、「これが問題を解決する処方箋!」と言われながら、なぜ日本の企業の現場にうまく採り入れられないのか。それは、これらがあくまで欧米の企業・組織に文化に根差した「先行研究」の枠に留まっているからだ。そのまま直輸入してもうまく機能しない。もう一段、日本の組織や企業としての文化や文脈に咀嚼(そしゃく)して初めて意味のあるものとして役立って来るのではないだろうか。

 そして昨年、新型コロナが発生した。それによって私の研究テーマの根底をなす問題(企業や日本の空洞化)に拍車がかかるのではないか、と直感し追加調査を行った。その予感通り、いや想像以上に労働市場の地殻変動が起こっていることを知らされた。先日、最終発表会を終え修士論文を「納品」したが、2つのモヤモヤが残った。ひとつは、まだまだ探求の余地を残していること。ある先生が仰った「すべての修士研究は消化不良を残す」という言葉は、その通りだった。もうひとつのモヤモヤは、研究は「社会実装」されて初めて意味を持つが、その段階に至っていないことだ。

 実は、大学院生活には最後のハードルが待っている。「卒業制作展覧会」だ。美大にとって、これこそが一大行事。「自分の研究テーマを、オリジナリティのある造形にせよ」という山崎先生の叱咤激励は3月の卒業直前まで続く。私自身は、「構想と造形」をつなげるこの最後の2か月こそが、社会実装への滑走路となる最も重要な期間だと考えている。そのビジョンは、改めてこのnoteで公開して行きたい。

 2019年春に起業し、大学院に入学して2年。自分のビジネスと研究を同時並行で行いながら見えて来た、自分の役割がある。それは「架け橋」になるということだ。異文化マネジメントの領域では「bridge person(橋を架ける人)」という言葉がある。ある文化とある文化の間をつなぐ人だ。思えば、シンガポール駐在時代にアジア各国の仲間と共に企業内大学を設立した時から、自分の「bridge person」としての役割が始まったのだろう。これからは、理論と実践、大学と社会、サイエンスとアート、世代と世代・・・様々な領域で「橋を架ける」役割を果たすことが、自分に与えられたミッションなのだと思っている(つづく)。

#キャリア #働き方 #デザイン #アート  

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