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アシスタントに収まらない。その先の我々の本源

AI周りのあらゆる開発もの。
それを過去の歴史の産物を含め組み換え、今のいろいろにしたというまさに“それ”はとても面白いと思う。

ただひとつ僕が最も気になっていることは人がただの“器”のようになる将来が見え隠れしていること。
一見何かをするとき、上澄の一番楽しいところだけを考えられる将来と彼らが言っているような話に聞こえはするが、人とはそんなに都合よく“そのものだけ”を成立させることなど出来ず、“そのもの”の周辺や積み重ねのようなものの上にあってこそなのではなかったか。
前後左右がAI諸々の現状の進化の中で行われ、本人さえ何をやっているかは疑問だらけなど、成立する世界を考えるだけで不気味以外の何者でもなかろう・・

“人間のふりをした悪魔”と言われたノイマンが開発したENIACが、あらゆる兵器における合理的かつ効率的なものにする手助けのための計算機であったわけだし、またノイマン・アーキテクチャ(非ノイマンさえ派生だと捉える前提にて)、ストアドプログラムという基本が現在に至る全てのコンピューティング関連に底通したものであることからしても、これからのChat GPTやGPT3をはじめとした大規模言語モデルと言われるものが彼らがいうようなArtificial General Intelligenceではなく“Assistant”General Intelligenceとは希望的観測でしかないと思えてならないのです。あくまでもそれがなんだったかという原初的なところに結局は回帰するのではないかと思え、どこかで我々はまたはその一部が道を踏み外し・・やはり希望的観測であったと言う日がくるのだろうと・・

反対に数値化できない、またはされていないところをそのまま真摯に高めて行った先にこそ、我々が思い描くワクワクする時代があるんじゃないか?と思えてならない。(とは、今までも触れた通りであるが)
“仕事”とは一体何だったか。
再考の先にある原点回帰のようなものにも見える。
Digitalの突端とPhysicalは、結局同じものなのではないかと思ってみたりもするし、先にあった京丹後のそれと、京都市内のそれ。その中間にある牛窓のそれにも同じ感情を見出す。
結局のところ、京丹後の“手の届くところのものを紡いで、手の届くところの必要最低限に貢献する”という考えに、人は回帰して行くのだろう・・

今日は朝から暖かい。
日中、17℃まで上がるそうだが、春と間違えて孵化したり咲いてしまう花々がありそうだが・・
味醂味噌の焼きおにぎりに八杯豆腐と白菜の味噌汁の朝食。

八杯豆腐


贅沢なもの・ことはしていないけれど、何でもないものが実は本当に豊かなのだけは間違いなさそうである。

ちなみに・・
八杯豆腐は、水6、醤油と酒:各1、豆腐1丁を厚み半分で1-2cmくらいに切ってさっと煮込んで熱いうちに食べる簡素なものです。
味醂味噌焼きおにぎりは、白米でおにぎりを作り、七輪や網、またはフライパンで両面こんがりするまで焼き、市販の味噌(材料はやっぱり日本のものが望ましい)に本味醂を適量練り込んだものを塗って軽く焼くだけです。ぜひお試しあれ。

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