父親が亡くなるかもしれないので準備しています
こんにちは、ジャスミンです。
おととい、母親から「お父さんが倒れて緊急入院した。このままダメかもしれない」と連絡が来ました。帰国の準備をするかどうか迷って、明日帰国することにしました。
なぜ悩んだのかについての葛藤と、気持ちを書いてみようと思います。
親と姉との関係
うちの家族は5人家族です。
両親と12歳と8歳離れた姉が二人います。
80代の父親は昨年から要介護状態になり、2週間前に施設に移ったばかりでした。
同じく80代の母親は元気ですが、あまり子供との関係はよくありません。
姉1とはそこそこの関係(何かあれば連絡する)のみで、
姉2は昨年、親との関係のことで揉めて一方的に縁を切られています。
私以外の全員は親と1時間以内のエリアに住んでおり、姉2に縁を切られてからは家族LINEからも一方的に外されてしまったので、もともと繋がりがうすかったのに、さらに薄くなってしまいました。
その時点で、口出しできない状況になったので
親に関してのことは、自分のできることだけ、やる。
というスタンスに切り替えました。
韓国に移住するときは大ブーイングだった
昨年末に韓国への移住を決めた際、80代の高齢の両親を置いて海外に移住するということについてかなりブーイングをもらいました。
さんざん言われました。
一部は明らかに偏見じゃない?というかんじ。
結果、わたしは自分の人生を優先させました。
私だっていつ死ぬかわからない、と思っているからです。
そして、姉が世話を見てくれるだろう、それ以外のフォローは私がやろうと役割を切り分けました。
40年越しの引っ越し、父の願い
私が大人になってから、父親はしきりにこの家で死にたくないと言っていました。
実家はUR都市機構のいゆる団地に建築当初から住んでいました。気がつけば40年も住んでおり、子供3人を育て上げた家は当然あちこちが痛み、木材朽ち果て、半ば廃墟のようでした。孫たちにも「汚いから行きたくない・・」と言われる始末で、娘の私ですら、そこに行くのを嫌がりました。父はずっと引っ越したかったのですが、母親が希望の条件を頑なに変えず折り合いがつかないことで放置されていたのです。
そして2年前から父の痴呆が始まり、昨年からは介護に。段差が多く朽ち果てた家には、介護にはとうてい適さないこと、いよいよ父の死が近づいてきていることを機に、私は立ち上がりました。お父さんはここで死にたくないんだ。私はその夢を叶えるのだ。
40年間引っ越しを拒否していた母親を説得し、引っ越しを決意してもらい、家族総出で引っ越しを手伝って、廃墟のような家から綺麗な家へ引っ越しを成功させました。
私は新しい家具をプレゼントし、母親は気持ちが良いと喜んでいました。
その時も父親はほぼ寝たきり状態でしたが意識はありました。元気はありませんでしたが、引っ越し自体は喜んでいるように見えたのです。
父親の病状の悪化と母親の行動が問題に
引っ越し後は父の介護状態が日に日に悪化していきました。
介護が必要な状況にも関わらず、かたくなに介護士に助けてもらうこと拒否する母。自分でまだできる!といっていたのですが、娘たちには毎回愚痴のオンパレードで、こちらも疲れてしまいました。
父がまだ話せるときは、痴呆による被害妄想、罵声、徘徊やトイレミスなどの対応、話せなくなると今度はトイレの排泄ケアやお風呂に入れないため、ケアなど。
お金がなくなるのが怖い母親
母はお金の使い方をしらない人です。
お金を貯めることには長けていますが、気持ちよく使えたことはなかったように思えます。
いつも小さな物差しでお金を扱い、お金を使うことにすごく抵抗していました。自分でできることは苦労して時間をかけて嫌でもやる人です。嫌だ嫌だと毎回言いながらやる姿は疑問ですらありました。
あるとき、そこまでやるのはお金がないのかな?と思っていたら、実はお金自体は結構持っていた事実がわかりました。介護施設に入れる際に、多額の財産を持っていないほうが有利なことがわかり、何百万という生前分与を子供たちが受けました。そのお金をもっと自分たちのために使っていればよかったのにな、と思い悲しくなりました。
それでもなお、お金がないという母親が、かわいそうになったものです。
人に頼ってはいけないという思い込み
また、母は人に頼ることもすごく抵抗がありました。
これまで多くの課題をひとりで解決してきたからなのか、相談もあまりしなかったからなのかもしれません。
今回の介護の件では、老老介護となり、母親にも大きな精神的・肉体的なダメージがあると思いました。
頑張って環境の変化を受け入れてもらうための説得にも力を入れた結果、時間はかかりましたが、介護士を導入、デイサービスへの通いをはじめるなど、自力での介護をやめて、専門家と一緒に進むことになりました。最終的には介護施設を入れることにも話が進みました。
父を看取ることが怖い
韓国に来た時点で、高齢の両親にいつ何が起きてもおかしくないという意識はありました。
4月の中旬に父親が介護施設に入った知らせを聞き、ホッとしていた束の間に、今度は緊急入院。
「帰国の準備をしておいてね、あと喪服も持ってきて」と母に言われその時は何も返事ができませんでした。
帰国するということがピンと来なかったからです。
姉1にも相談しましたが、結局は私が決めることだから。と言われ、もっともな意見ですが、なぜこの状況で私が帰国したいと思わないのか・・と自分自身で不思議に感じていました。
なんでもすぐ、やりたいことは即行動!の私がYESと言わないときは
必ず理由がある。
その日の夜、彼に話を聞いてもらい、彼の意見や、話をしていく中で私がどんな気持ちなのか知ることができました。
このときの迷いの正体は
というのが本心で、どちらも大きな不安になっていました。
弱っている父を見るくらいなら、見ない方がマシだ。
不安定な環境に行くくらいなら、必要な時だけ行けばいいんだ。
不安定な環境というのは私にとって実家も地元も居心地はよくなく、行くと息が詰まりそうになる場所だからです。家族とただでさえいい関係でない上に、自分の落ち着ける場所もない環境に行くことにすごく抵抗がありました。これは、仕事場や自分の家に対してもすごくこだわりが強い部分で、
この問題を解消することこそが、私にとっては一番大切で先にやるべきことだったのです。
なるべく日常も取り入れるための場所を確保する
そこで、実家には泊まらず、病院と実家と車でいける距離にある、ゆったりくつろげそうなホテルを探し予約をとりました。
幸い、自由に移動できる仕事のスタイルやお金はある状態だったので、そこは迷わずに選択することができました。
この二つは、本当にありがたい、私の財産となっています。
それから、信頼のできる友人・知人に相談して、喪服を郵送で送ってもらい貸してもらったり、親の看取りについてのストーリーを聞いて参考にしたり、いつでもうちにおいで!と何人も暖かい声をかけてくれたり、、
本当に彼らに頭が上がらない気持ちです。
また彼も、空港までの送迎や、猫たちの世話も快く引き受けてくれて何かできることがあれば言ってね、と常に私をサポートをしてくれました。
準備はたくさんありました
ひとまず、数日間だけは予定をたてたのでそれに乗っ取りやるべきことをやりました。
頭の痛かったことも、サクサクとこなしていきました。
心が決まったかです。
結果、数時間で手配するものは終わらせることができ、悩んでいた2日間が吹き飛ぶような瞬間でした。
まだ怖い、でもいく
いま、韓国にいてまだ父親を見ていない私は怖さの中にいます。
でもいろんな人が助けてくれる、見守っててくれると思った今は安心しています。帰国の日も決めておらず、何がどうなるのか全くわかりません。
それでも、明日は来るし、同じ1日はない。
ただ、自分にできることを一生懸命やればよい、ですね。
さいごに
相談させてもらった友人。知人。大切な人に感謝を込めて・・!
ミンス・かきこちゃん・もーりーともーりー母・とくどめ師匠・カヨちゃん・いずみさんとあんみちゃん
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