天国へ

死を身近に感じたら、こうなった。

今日、早朝、親族の女性が天国へ旅立った。
これは、それを知った直後からの記録に加筆修正を施したものだ。

第一段階

朝、父から電話があって、彼女の死を知らされた。
両親は、寝ている間に連絡を受けて、別れの準備の応援に駆け付けていた。

身近な人が亡くなると、とにかく訳が分からなくなる。混乱する。悲しいなんて、そんな感情は湧かない。
何事⁉その言葉だけが頭を駆け巡る。

どうしたらいい?何をすればいい?頭がまっ白だ。
何も考えられないまま、とりあえず学校へ向かう。欠席したところで何の役にも立たないから。

この頭を一旦整理したい。そこで、noteを書こうと思い立った。
この思考の波をとにかく記録しようと。そうして書かれたのが上の文章だ。

こんなときに講義を受けても、パニックで内容なんて頭に入らないのではないか。そう思いながら歩みを進めたのだった。

第二段階

講義を受けると、少し頭が冷えてきた。今日の講義は数学系のもので忙しなく脳を動かしたからだろう。忙しさというのは混乱に効くようだ。

なんとか落ち着きはしたが、死を受け止めることはまだできない。
ただ、お通夜、お葬式にむけて何を準備する必要があるのか程度のことなら考えられるようになってきた。

ここでもまだ感情は伴わない。(必要に迫られて)思考は先に進んでいるが。しかし、少しずつ、なんとなく、一つの人生が終わりを迎えたことは認識してきた。

第三段階

今日は珍しくアルバイトのある日だった。だから、死を頭から離して自分を落ち着かせることができた。

今は、夕食も終えたので落ち着いてこのnoteを書いている。それでもまだ、彼女にお迎えが来たという実感はない。

ただ、彼女はクリスチャンだったから、これはお悔みすることではない、なんて考える余裕はでてきている。

彼女と会っていたのは本当に幼いころばかりで、物心ついてからはほとんど会っていない。昨年、一度お見舞いに行った。これが最新の関わりだ。
それに、彼女は(高齢なこともあり)病を患っていて、特に年末から危険な状態だった。いつ何が起こってもおかしくないとまで言われていた。
そもそも、人の命がいつ終わるだなんて、知りえるものではない。彼女が死なない理由なんて存在しないのに。

なついていたわけでもないのに。急な知らせでもないのに。いつかこうなると分かっていたのに。それでも、亡くなったなんて信じられない。そんな気分になるのは、何故なのだろう。

こんなことまで考えられるようになった。

今後

週末、お通夜とお葬式がある。対面すれば、実感が湧くのだろうか。わからない。

とにかく、もうしばらく自分の心を観察する。