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父の看取りに向き合った記録②

韓国在住デザイナー、ジャスミンです。
父の看取りのため、一時帰国しています。それについては以下で。

今回は、緊急入院してから6〜10日目の記録です。

毎日ジェットコースター「生きる号」

毎日病院へ顔を出すのが日課になりました。
日によって父の体調は本当に違くて。調子が悪い時は、酸素マスクをしてずっと寝たきり。反応もほとんどできない。
調子がいい時は、うっすら目を開いて、話しかけるとかすかに首を振ってくれる。手をナマケモノ並みのペースでそろりそろりと動かしてくれる。声は出ないけれど、口をぱくぱくして何かを言いたげにしたり。
反応があるだけで嬉しくなるし、生きてるのって当たり前じゃないんだ、というのを目の当たりにするように。

耳はさいごまで感覚が残っている

目もなかなか開けない、声も出せない、手足も動かせない。
そんな状態でも「耳」だけは聞こえている様子。
そこで、少しでも気持ちを和らげられるように音楽をかけることを思いつきました。

昭和の名曲エンドレス

そこで、父が好きであろう時代のメドレーをひたすらかけてあげました。
(個室病棟なのでOK)

父は昭和18年生まれなので、青春時代でいうと昭和40~50年代。
子供の頃、父がよく歌っていた歌を思い出したり、母に聞きたりして情報をゲットしました。
いまは本当にいい時代だよ。曲さえわかれば、Youtubeにだいたいあるんだよね。

きゅうちゃんの曲は聴いていて、こちらが元気になった・・!

ほかにもヒーリング曲や、父がよく吹いていたハーモニカの曲など、とにかく思いついたものは全部流してみました。

看護師さんが部屋にくるたび「あら!いいですね〜嬉しいですね、お父さん!」と父に声かけてくれて、そのやりとりも楽しかった。
(父はほぼ反応なしだけど)

10%の奇跡がおきた!

あるとき、いつものように部屋を訪れたら、父が起き上がって外を見ていました。あれ?なんか元気そう?!
その日はぱっちり目を開けていて、帰る時には手までふってくれた(ナマケモノの動きだけど)
あれ?めちゃくちゃ元気になってる?

翌日医師から呼ばれ、説明を聞くと
「順調に回復されています!当初こちらにきた時は生存できる確率は10%で、90%の方が食事を取れなくなって数日で生きるのが難しくなるとお話ししましたが、お父様は回復されました。」

と。これは、奇跡だと思いました。
家族の誰もが死を意識し、正直なところ母は葬儀場と仮契約までしていました。誰もが、もう無理かもしれないと思っていたのに、父だけは諦めなかった・・!

お父さん、本当によくがんばったね(涙)

この先にあるもの

九死に一生を得た父には、これからリハビリ生活が待っています。
今は歩くことも、自分の唾を飲み込むことも、食事はおろか水も飲むことができません。なので、トレーニングが必要です。
今いる病院ではそれができないので、転院させる必要があると言われました。
また転院先を探すとしても厳しい現実が待っており、Aの病院だと2ヶ月しかいられない、Bの病院だとサポートは整っているが、人気で空いていないなど、今度は受け入れてくれる病院または介護施設を探すのが本当に大変という、頭の痛くなる現状が待っていました。

父にも、この短期間でいろんな場所を移動させられ、関わる方も変わることがとてもストレスになると思います。

果たして、どうなるのでしょうか。ここからは、もう運に任せるしかありません。

応援してくださった皆さんへ

今回たくさんの人から、

・ブログみて、応援していた
・涙せずにいられなかった
・自分の両親とのことを考えた

と言っていただき、応援してくださった皆さんの祈りが届いたような気がします。本当にありがとうございました。
記載していた当初は、明日死ぬかもしれない父のことをブログに書くなんてどうなのか?と脳裏を過りましたが、生生しく、リアルに伝えることが私の役割な気がして始めたものです。
それが、こんなに反響をいただけると知って、本当に感動いたしました。
これからも引き続き高齢である両親がいつどうなるかわからない状態ではありますので、見守っていきたいと思います。

おまけ・ホテルのような病院

今回父がお世話になった成田にある、国際医療福祉大学成田病院が凄まじく綺麗で、まるでホテルでした。

待合室は開放感のある空間とインテリア

フードコートや旅行会社も入っていたり

最上階にはホテルのレストラン?というようなレストランがあったり

個室にはシャワーつき、落ち着いたシックな空間

病院に通うことは楽しいことではありませんが、この病院に来るときは、ザ☀︎病院らしいつくりではなかったので気持ちが重くならず、見舞する側としては助かりました。


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