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父と娘の夜

初日から病院の呼び出しがあり、思いがけず泊まりの付き添いになった姉と私。
あんな囚われていた面会規定とは何だったんだろうと思いつつ、これが看取りの始まりとなった。

残念ながら、その場にいる全員が飲んでしまっていたので、義兄がタクシーを呼んでくれた。
急がないので、気をつけてゆっくり来られて下さいと言う看護師さんの言葉に甘えて、姉とシャワーをざっと浴び、髪も半乾きのまま荷物をまとめて出かけた。

警備員さんのいる夜間通用口を通り、逸る気持ちを抑えながら姉と病室に入ると、担当の看護師さんがしばらく一緒にいてくれた。
父の今の状況について、言葉を選びながらゆっくり丁寧に説明を受けた。
身の置き所のない痛み、というワードを繰り返し聞いたのもこの時だったと思う。
予備知識ゼロでも進んでいく病状が分かるようにと、コピーした看取りのハンドブックを姉と一部ずつもらい、付き添いながら熟読した。

緩和ケアのスタッフは一般病棟とは違い、皆さん笑顔でとにかく穏やかだ。看護師さんは若くて可愛らしい方も多い。
日中しか会えなかったが、2名いる先生は、私達と似たような子育て世代と思われる女医さんでとても話しやすかった。

ここは治療や完治、退院を目的としない分、患者本人の痛みの軽減と心の安寧、見送る家族の心のケアを最優先に考えてくれてると感じた。
私が勝手に抱いていた緩和ケアへの先入観、恐怖心は一気に和らいだ。

目が開かずとも意識がある間はしょっちゅう肘から上を天井に向かって上げる仕草の父。昼間会った時からそうだったが、これが亡くなる直前のサインのようだ。
身体が重く引き込まれる感覚があるそうで、薄がけの布団すら重く感じて払ってしまうのもそのせいだという説明を聞いた。
寒そうなのが気になったが、本人のしたいようにさせた。

この晩は、ジンジャー飲む?と聞くとうんというので、看護師さんにお願いして父の好きなジンジャーエールを二口飲ましてもらった。ごく、ごく、と詰まりそうな音を立てて飲んだが、もはや飲み込む力もなく、誤嚥も怖いそうで、本人もすぐもういいとなった。
空港であれこれ考えて買ったフルートゼリーももう無理そうだなと諦めた。その後食べ物は一切食べなかった。

私達はベッドサイドに置かれた椅子に分かれて座り、その手を握りながら反応があれば話しかけたりもしていたが、極度の疲労と睡魔には勝てず、窓際のソファーベッドと、入口前の通路に横付けされた折り畳みベッド(四年前の付き添い時より格段に柔らかく寝やすかったのが良かった)に分かれて、横になりながら見守ることにした。

静かな病室で、唯一聴こえている父のゆっくりとした呼吸に耳を済ましながら、姉も私もうとうとしていたが、ずっと開きっぱなしの口ではどうしても痰がたまってきてゼロゼロしだす。
1時間おきに、物音を立てないよう見廻りにきてくれる当直の看護師さんと話し、少し吸引することにした。
「嫌なことしてごめんなさいね、苦しいですよね」と謝りながら慎重に吸引してくれたが、鼻から管を入れるのでかなり苦しいらしく、表情を歪めて力が入る父を抑えながら、まだこんなにも強い力が残っていることに内心驚いたりもした。

耳は最期まで聞こえると言うが本当にそうで、はっきりと自発的に話す気力は少くなっていたものの、私達や看護師さんの呼びかけには頷いたり「はい」と振り絞るような声で返事をし、意思の疎通はできた。

自宅にいる時から自力の排泄にこだわりがあり、ずっとオムツなのに急におしっこ、トイレに行くと言って、パンツをずり下げながら動こうともした。
「骨折してるから動くのは無理だよ、オムツだからそのまましていいんだよ」
となだめると、
「あ、そうか」
と力を抜き、あっさり諦めた。た

簡易な呼吸器なのによほど煩わしいらしく、たびたび
「もうよか、もうお終い」
と、死期を悟ったようなことを言いながら指に引っ掛けて外そうとする。眠さと疲れで朦朧とする中、これを制止するのがしんどかった。
今思うと一種の延命だし、果たしてそうすることが良かったのかどうか分からない。
しかし、これを辞めたら本当にすぐ逝ってしまう怖さがあり、優しく諌めるのが精いっぱいだった。

夜が白白と明けてきて、病院が少し動き出した頃、看護師さんに断って姉と朝食を買い出しに出た。
これは付き添いした者にしか分からないだろうが…半分息を殺しながらあの部屋にじっとしていると、やがて、もう限界、動かないとどうかなる!という気持ちになる。
朝食を言い訳に出てきた、と言った方が正解で半分バレていたと思うが。

正面玄関向かいのコンビニもおよそ4年ぶりだ。最初の手術の時も何度かきて、術後のせん妄で夜の付き添いをした時もここに朝食を買いに来た。

完全に運命共同体となった姉とは、とにかくずっと話していて、ふざけたり、冗談軽口を叩くことで、ことの深刻さに気持ちが飲まれないよう努めていたが、食べたり飲んでも心身のきつさは解消されず、流石にこの頃にはお互い体力と気力が限界に近づいていた。

実家にいる伯母たちにも電話を入れ、先生にも昼間はおばたちがきますのでと伝え一旦その場を後にした。

病院帰りに実家に立ち寄り、昨夜からの顛末を話した。
いよいよ終末期に入り、これから先はどうなるか分からないらしいので、昼もなるべく付き添いをつけて欲しいと言われたことと、夜は私達が付き添うので、昼間は出来たらどなたか付き添いを頼めないだろうかと相談すると、快く受けてくれた。

帰ったらてんこ盛りの家事が待っていた。ふらふらしながら洗濯や台所の片付け、猫の世話をするとふたりでリビングのソファーで短く浅い眠りについた。

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