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34歳おっさんが12日間、人と話してはいけない、目も合わせてはいけない、読み書きや娯楽が一切禁止のヴィパッサナ瞑想修行(インド)に参加してきました。

まずタイトルに関して。完全にこちらの記事をパクりました。

世界一周してる大学生が12日間、人と話してはいけない、目も合わせてはいけない、読み書きや娯楽が一切禁止のヴィパッサナ瞑想修行(インド)に参加してきました。
https://www.aokiu.com/2011/09/02/12-3/

私のダラダラと長い駄文は読まずにこちらの方のブログを読んでいただければヴィパッサナのことについてサクッとご理解いただけると思います。

それでも当方のブログを読もうとする変態の方へ、ダメ押しで伝えたいことを以下「読む前に読んでほしい」にまとめています。


読む前に読んでほしい

  1. めっちゃ長いです
    全体で3万字超えました。もはや論文の文字量です。これでもだいぶ削ったつもりなのですが、クソ長いので適当に読み飛ばしながら読みたいところだけ読んでください。

  2. 全て私の感想です
    私の記憶を頼りに書いてます。一部間違っていることも含まれているかもしれませんし、私の解釈が多分に含まれていますのでご了承ください。また、ネタバレ的な内容も含んでおります。Vipassanaに参加する方で何の予備知識なく突撃したいという方は今すぐこのブログ閉じてください。

  3. 有料記事ですが全文無料で読めます
    ここが一番重要です。私の駄文でお金を稼ごうなどとは微塵も思っていなかったのですが、以下の理由から有料記事にしました。ここで得た収入は全額寄付します。

このブログは全文無料で読める有料記事です

タイトル意味わからないと思うのですが、文章の最後の最後に「ここから先は有料です」と書いてるかと思いますがその先には何もありません。つまり全文無料で読めます。

実はこのブログを書く前に、私の尊敬する先輩の1人から「レポート書いてよ!」「オレ買うよ!」というありがたいお言葉をいただいたのですが、いやこれで小銭稼ぐ気はないですと一度お断りしました。しかし、もしこのブログを読んでお金を払ってやってもいいと思えるちょっと変わった方が世の中におられるとしたら、そのお金を集めて困ってる人の元へ届けてあげることができるかもしれないなと思い有料記事にしました。そうすればこの長い時間かけて書いたのがちょっとは報われるかなと。こんなブログにお金払う人ほんまにおるんかなという気持ちは拭えませんが、とはいえもし課金0だったらそれはそれで悲しいのでその時は、全力でその先輩のせいにしたいと思います。

てなわけで、
ここで発生したお金は全額寄付します。

寄付先は以下です

  1. Vipassna Meditation Center
    https://bhumi.dhamma.org/donations.html

  2. パンカジさんのNPO団体(ブッダガヤの友人インド人)
    https://www.facebook.com/prayasbodhgaya?paipv=0&eav=Afa5G_PNY0dEK1V3YkMj8gxIIVvTSEn-ljFdgktvtljbHxQeAGsboiWFL475mXkw7rQ&_rdr

1 Vipassna Meditation Center
は分かりやすく今回私が参加したヴィパッサナセンターです。Vipassanaへの参加は無料です。寄付のみで成り立っています。12日間食事付き寝場所が用意されて瞑想修行を受けられて、全部込みで無料。先生もスタッフも無償ボランティアとのこと。次の受講者の方のために私も少額ながら寄付しました。もしこのブログでお金を得ることができたら追加で寄付しようと思います。こんなもんはなんぼあってもいいですからね。

2 パンカジさんのNPO団体(ブッダガヤの友人インド人)
に関しては、完全に私の独断と偏見に基づいた寄付先です。実は彼のことはこのブログの最後の「参加前におきた2つのミラクル」という項目で出てくるのですが彼とは運命的な出会いを果たし、彼のおかげで今回Vipassanaに参加できたという経緯があります。彼は日本語も話せるのでブッダガヤのガイドもしながらNPOの活動も行っています。


※第一回寄付完了しました(2024/03/31)

Vipassana基本情報

食堂。朝食、昼食、ティータイム、ガイダンスはここで行う。

私が参加したのは以下

■場所
インドのブッダガヤにあるヴィパッサナーセンター
Dhamma Bodhi Vipassana Meditation Centre
https://maps.app.goo.gl/zFVQMBPssbUe8QFk8

■日時
2023/12/29-2024/01/09
全12日間
要は年末年始

■費用
無料(寄付のみ)

Vipassanaとは?

"物事をありのままに見ることを意味するヴィパッサナーは、インドで最も古い瞑想法のひとつである。2500年以上前にゴータマ・ブッダによって再発見され、普遍的な病に対する普遍的な治療法、すなわち「生きる術」として教えられました。この非宗教的なテクニックは、心の不純物を完全に根絶し、その結果として完全な解脱という最高の幸福を得ることを目的としています。"

https://bhumi.dhamma.org/index.html

今は世界中にセンターがあり、いかなる宗教宗派人種に関わらず誰もが受けられる。
※ただしセンターによっては21歳以上など年齢制限を課しているところもあるので注意。

Vipassanaと言っても一つではなくいくつか種類があるらしい。起源はインドだが、継承されていく過程でインド内でのVipassanaは衰退していたようで、釈迦が行っていたとされる純粋な、正しいカタチではもはやなくなりかけていたところ、Vipassana Meditation代表でミャンマー人のゴエンカ氏がミャンマーで本格的にVipassanaを学びその後インドに逆輸入した。これは私の推測であるが、おそらくインドでヒンドゥー教が発展する過程で仏教が邪魔だったから意図的にVipassanaが弱められたという背景もあるのかもしれない。一方ミャンマーではブッダが行っていた純粋なかたちでのVipassanaが継承されていた。それを持ってきて世界的な発展に貢献したのがゴエンカ氏。

ゴエンカ氏について

https://www.vridhamma.org/S.N.-Goenka

現代のVipassana瞑想の第一人者ゴエンカ氏。彼がVipassanaを体系化しコースとして整え、世界中に広げた功労者。彼のおかげで今のVipassanaがあると言っても過言ではない。
彼はインド人だがミャンマーで育つ。元々商売人の家系で、10代で財を成した元ビジネスマン。20代にもなると◯◯取締役やら◯◯書記など、名前だけでも貸してくれとあちこちから言われ、どこに行ってもチヤホヤされていたとのこと。この世の中、金を持っているというただそれだけの理由でさも偉大な人物として崇められ丁重にもてなされる。慢心や虚栄心がどんどん膨らむ。そんな彼がVipassanaと出会ったのは、20代の頃。
原因不明の頭痛に悩まされており、病院に行くのだが全く治らない。モルヒネを打って痛みを抑えるのだがモルヒネの量もどんどん増え、次第にモルヒネを抑えるためにモルヒネを打つ必要があると言われるほどであった。国外の名医と言われる人の元に訪ね歩くが全く効果なし。フランスの名医、ドイツの名医、アメリカの名医、など各国を渡り歩くも誰も彼の病を治すことはできなかったという。仕方ないとミャンマーに戻るのだがそこでVipassanaを教えていると言う男に出会い、実際に体験したところ原因不明の頭痛が完治。それがきっかけでVipassanaを学び始める。その男というのが前代表ウ・バ・キンでありゴエンカ氏の師となる人物であった。

※ゴエンカ氏は2013年他界されています。もしご存命なら今年の1月でちょうど生誕100周年。

ちなみに私も後から知ったのですが、あのサピエンス全史でお馴染みのユヴァル・ノア・ハラリ氏もヴィパッサナー瞑想を実践している一人。もう20年以上続けているそうです。彼の説明も非常に分かりやすかったのでご紹介します。

私がVipassanaを受けようと思ったワケ

特別大した理由があるわけではなかったのだが、大きく分ければ3つ。

①健康になりたかったから
②興味があったから
③ネタになりそうだから

  1. 健康
    心身ともに一旦リセットしたかった。ただでさえ普段から飲み会だパーティだで自堕落な生活をずっとしてきたのに、クリスマス年末年始となるとどうせ暴飲暴食して不規則な生活になり、寝不足で胃もたれで若干コンディション悪いみたいな生活が目に見えていたので、今年くらいは何かを変えてみようと思った。あとはいわゆるデジタルデトックスがしたかった。

  2. 興味
    シンプルにVipassanaに興味があった。瞑想自体はたまーにYouTubeやオーディオブックなどでやったりしたこともあったし、仏教の考えにも興味があった。私自身は仏教徒ではないのだが、特に原始仏教、ブッダ自身に興味があった。聞くところによると釈迦が悟りを開きブッダとなったのが35歳らしく、実は私も今年35歳になる年なのでちょうどいい機会だと思った。どうせならその悟りを開いたブッダガヤという場所でやろう、そう思った。幸か不幸か、いま独身だし、時間の余裕あるし、こんな機会二度とないかもしれないなと思った。ブッダについては色々調べてもわからないことがたくさんあった。悟りを開くってどんな感じ?急に「あ、オレ今解脱したわ」みたいな感じ?てかなんで座ってるだけの瞑想で解脱できんの?てか解脱って何?皆目見当つかなかった。それをちょっと知れるチャンスなんじゃないかと思った。
    また個人的には量子力学に興味があるのだが、色々と調べていくと仏教と同じ考えに行きつくことが度々あった。つまり、科学を突き詰めていくと、ブッダの教えにぶち当たるのだ。あれ、これってつまりブッダが言っていたあれじゃんみたいな。一見真逆とも思える「科学」と「仏教」が実は深いところで繋がっているんじゃないかなと感じることが多かった。この辺りはまた長くなりそうなのでここでは割愛。

  3. ネタ
    あとはネタにでもなればいいかなと。今私は東南アジアを転々しながらリモートで仕事をするという生活をしているのだが、さすがに1年半もその生活を続けていると若干飽きてくる。何か別の刺激が欲しかった。終わった後に「オレ解脱できましたわ」となってもおもしろいし、「全く効果なしでしたわ」という結末でもそれはそれでおもろいかなと。とにかくどうなるのか全く想像ができない。それがおもしろそうだった。

具体的に何をするの?(ここからが本題)

10日間のプログラムと言っても実際は初日(day0)と最終日を含む全12日間である。(私は行くまで知らなかったw)

1日のタイムスケジュール

4:00 am 起床
4:30-6:30 瞑想
6:30-8:00 朝食休憩
8:00-9:00 グループ瞑想
9:00-11:00 瞑想。
11:00-12:00 ランチ休憩
正午12時~午後1時 先生との面談(希望者のみ)
午後1:00-2:30 瞑想
午後2:30-3:30 グループ瞑想
午後3:30-5:00 瞑想。
5:00-6:00 pm ティータイム
6:00-7:00 pm グループ瞑想
7:00-8:15 pm 講師の講話(ゴエンカ氏のビデオ)
8:15-9:00 pm グループ瞑想
9:00-9:30 pm 質問タイム
9:30 pm 消灯就寝

https://www.dhamma.org/en/about/code
掲示板にかかっていたタイムスケジュール。最初の3日間くらいはいちいち確認しないと次は何の時間か分からなかったが数日経つと見なくてもわかるようになってくる。後半はホールに入りたくなさすぎて1秒でも長くサボるためにずっとこれを意味なく眺め続けていた。

朝4時起床。1日10時間の瞑想。食事と休憩、睡眠時間以外は全て瞑想の時間となる。瞑想中は原則動いてはいけない。目を開いてはいけない。手も足も開いてはいけない。
なお、ご覧の通り朝食、昼食はあるが夕食はない。代わりにティータイムがあり、そこではNew student(新規参加者)にはチャイとカレー味のポン菓子、バナナなどが支給された。なお、Old student(2回目以降)はレモン水のみ。また就寝時間と起床時間を見ていただけると分かるのだが、消灯からすぐに寝れたとしても睡眠時間はMAXでも6時間半である。

以下、時系列に沿って感じたことなどを綴っていく。

Day0 初日

14時までに集合。明日から本格的に始まるday1に向けた体慣らしの時間という感じ。受付を済ませると用意された軽食を済ませる。自分たちが泊まる部屋を案内された後ガイダンスが行われ、夕方の第0弾の瞑想の時間が始まる。そこからがいよいよスタート。その後一切の会話が禁止となる。

宿泊場所の廊下。最初はどこからどう見ても牢屋にしか見えなかったが2日で慣れる。
2人部屋。ブッダガヤの年末年始は割と寒い。ルームメイトのルイスが間違って私の毛布まで使っていたので初日は寒すぎて熟睡できず。こういうときもしゃべれないのがつらい笑

ちなみに初日のみ物販で購入が許可されている。トイレットペーパーや歯ブラシなどの日用品、ベープ式の蚊取り線香、水筒などが購入できる。後にも触れるが蚊対策は絶対にしておいた方が良い。あと寒さ対策。それ以外は意外と何もなくても平気。インドなので飲料水も怖かったが、ちゃんと浄水のウォーターサーバーが提供されるのでそこは心配ない。食事に関しても誰も腹痛を訴える人はいなかった(と思う)。

今回ブッダガヤという片田舎でしかも年末年始の参加ということもあり、一体どんな人がくるのかな?てかそもそも人おんの?と思っていたが蓋を開けてみればざっと男性70名ほど、女性50名ほどが参加していた。うち3割くらいが私を含めた外国人。受付を済ませた後は男女で分かれるため男性側のことしかわからないが、日本人も私の他に2名が参加していた。21歳の東京から来た大学生リョーマくん(現在休学し世界一周中)と、40代男性タケシさん、そして私の3名。大学生のリョーマと私は今回New Studentとしての参加だが、タケシさんはなんと今回6回目となるツワモノであった。

彼のように2回目以降の参加者はOld Studentと呼ばれる。このOld Studentも全体の3割ほど。我々New Studentとは始まる前からすでに風格が全然違う笑 ガイダンスが始まるまでの自由時間でも「え、おまえ、New?Old?」「うわNew?マジかー!がんばろうなー!」みたいな会話で持ちきりである。最初は皆緊張の面持ちだったが、我々日本人同士が盛り上がっていると徐々にいろんな人が集まってきて話しかけてきてくれた。とにかくみんな緊張を紛らわしたかったんだと思う。

アメリカ、イギリス、スコットランド、ウズベキスタンなどなど。やはり本場インド。洋の東西を問わず世界中からたくさんの人が集まってきている様子。中には15回目というインド人の大学院生がいたかと思うと、「驚くなよ。この中には40回以上参加してる猛者もいるらしいぞ」と。あたりを見渡すと一際目立つおじいちゃんが一名。「あれ、あなたハリーポッターの校長役で出演してませんでした?」と危うく言いかけるほどの立派なヒゲを蓄え、俗世とは一線を画したボサボサの長髪、どっしり構えた風貌。一同の視線が彼一点に注がれたことは言うまでもない。別に人と競うわけでもないのに、ベテラン勢を見てると何故か緊張感が高まる。学生時代に、受験会場で周りがやけに賢そうに見えたり、部活の試合会場で他の全員が自分より上手そうに見えたりするあの感じを思い出した。

ガイダンスが終わり、一通りの説明が行われる。Vipassanaでは5つのNGルールがある。

  1. 殺生してはいけない

  2. ものを盗んではいけない

  3. 性的な行為をしてはいけない

  4. 嘘をついてはいけない

  5. 酒、タバコ、ドラッグの嗜好品は禁止

1 の殺生に関してはそりゃそうだろと思うのだが、なめてはいけない。とにかく蚊がアホほど多いのだ。これはここブッダガヤに限った話ではないらしく、京都のVipassanaセンターの方もそうだが会場が人里離れた山の方にあることが少なくないようで、他国で受けたOld Studentに後から聞くと蚊とのたたかいも"Vipassanaあるある"らしい。瞑想中は痒くてもかいてはいけないので非常に辛い。講習中も視界にうじゃうじゃ蚊がいるので全然集中できない。食事中も寝る時も同様。15匹の蚊が舞う6畳一間の寝室で毎日寝ることを想像して欲しい。蚊取り線香的なものは受付で買えたので私は助かった。

直訳すると聖なる沈黙?とりあえずしゃべっちゃダメよと

その他にも
A. 会話禁止(目を合わすことやボディランゲージ含め一切のコミュニケーションが禁止)
B. 娯楽禁止(スマホ、PCなどのデバイス機器はもちろん、本やメモなどの読み書きもNG)

A,B が驚かれることが多いのだが、実はいざ始まってみるとこれは案外余裕。私は普段タバコもお酒も嗜むのだがなぜか12日間で1度も欲しいと思わなかった。では何が辛いか。シンプルに『痛み』である。12日間とにかく痛みとのたたかいと言っても良い。

初日の瞑想が終わり就寝。明日から4時起きの瞑想生活が始まるわけだが、なかなか寝付けない。昨日まで夜12時-1時に寝ていた私が今日いきなり9時に寝れるわけもなく、また部屋が若干埃っぽいからか謎の咳が止まらない。ルームメイトのルイス(スペイン人)の彼も鼻水が止まらず寝苦しそうだった。いきなり寝不足からのスタート。そんな初日。

Day1-3 肉体の限界

肉体的に最もきつい期間。
とにかく痛い。1回の瞑想は約1時間〜2時間で、1日にトータル10時間程度行うのだが、試していただけると分かる。1時間なんてとてもじゃないけど無理。初回の瞑想の際、自分でも驚いた。開始3分。もう痛い。いやいやまじか。5分後たまらず足を崩す。うっすら目を開けて周りを見る。全員キレイに鎮座。え、俺だけ?そして気づく。そういえば、あぐらなんて何年ぶり?今や「座る=イスに座る」なので床に座ること自体が久しぶりすぎて忘れていた。完全になめていた。足を崩してはまたあぐら、数分後にはまた痛みに耐えきれず足を崩す。何度も繰り返しどうにか初回の1時間が終わった。え、これ、1日10時間もやんの?嘘やろ。

瞑想中にはゴエンカ氏の音声が流れるのだが、そこではお経と瞑想のやり方についてヒンディー語と英語で交互にアナウンスがなされる。具体的にはどんなことをするのかというと、簡単に言えば感覚に集中する。YouTubeやSpotifyなどでよくあるような呼吸をどうのこうのとか、「○○のイメージをしましょう〜」とかそういうことではなく、あくまで自然な状態の自分の身体感覚に集中する。呼吸が深かろうが浅かろうが、鼓動が速かろうが遅かろうが、だからと言って意図的にコントロールしようとしない。とにかくありのままを観察する。

最初の3日間は基本的に鼻のみにフォーカスし、今自分にどんな感覚があるかをひたすら観察する、ということをやる。息を吸う時、それが冷たいのか、かゆいのか、こしょばいのか、右の鼻腔から空気が入ってきているのか左からなのか。最初は言っていることがイマイチよくわからない。というか別に何も感じないし。そして何より足や腰が痛すぎてそれどころじゃない。

ゴエンカさんは言う、「この世は無常である。生命、もの、感情、すべてのものはいつか必ず消える。生成と消滅を繰り返す。これが世の理である。今感じているその痛み、痒みも例外ではない。必ず消える。だからじっと耐えよ。」と。繰り返すが瞑想中は動いてはいけない。痒かろうが、痛かろうがとにかく耐えなさいと。痒いからといってかいちゃダメ。痛いからといって足を崩しちゃダメ。耐えろ。無常を意識しながらとにかく耐えなさい、と。

いや、ゴエンカさん、言いたいことは分かるけど、無理やて。こんなん絶対無理。苦痛に顔が歪む。声にならない叫びをあげる。実際、本当に何度か発狂しそうになった。ホールのあのしんと静まり返ったあの場の雰囲気にさすがに堪えたが。

頭の中では、痛い、無理、しんどい、そればかり。いやオレ、股関節人より硬いから不利ですやん。筋肉つけすぎたのがあかんかったんかな。てかわしADHD(診断済み)やん。そもそもじっとしてるなんて無理な人やん。などとできない理由を必死に探す。参加前にみたブログなどで3日たてば痛みがひいてくるという文字を目にしたが、嘘つけと思った。でももう後には引けない。実は私はVipassana前の景気づけとしてブッダガヤの現地のお坊さんに頼んで丸坊主にしてきたのだが、坊主までして気合い入れてきたのにここで逃げ出すとかさすがにダサすぎるw

Vipassana前。現地のお坊さんに丸坊主にしてもらいました。後から動画見たら後ろの小僧ちょこちょこわろてた。
坊主したいて言うただけがなぜが袈裟まで着せられて出家させられてました。最低24時間は出家者として振る舞いなさいというカジュアル出家。ちなみに彼が私の師匠らしい。名前も知らんけど。

あと30分、あと1回の瞑想でランチ、あとちょっとあとちょっと、、耐えろオレ!外から見ればただじっと座ってるだけなのに就寝時にはひどく疲労。だが体が痛すぎてすぐ寝れない。そんな3日間。

Day3-5 集中と成長

集中と成長の期間。
不思議なもんで、最初の3日間を乗り切ると体の痛みは徐々に消えてくる。それでももちろん痛いのに変わりはないのだが、最初5分も耐えられなかったのが、10分、20分、30分とじっとしていられる時間がどんどん伸びていく。

感覚もどんどん研ぎ澄まされていくのが分かる。思考も変わってくる。最初は思考もぐちゃぐちゃで落ち着かなかったのが、どんどん落ち着いてくる。仕事のことを考えていたかと思えば、次の瞬間には過去の思い出に耽っていたり、かと思えば将来のことがよぎり一瞬で不安になっていたり。「この修行が終わったら何しようかなー、とりあえずメールのチェックとSNSも更新したいな。忙しくなるなー。みんな今頃何してんのかなー?そうか年末年始やしみんな飲み会したり同窓会したりしてんだろうなーいいなー、去年は楽しかったもんなー。あ、そんなことより次の宿のこと決めてないんだった。てか足痛ってぇわ、、!」みたいな。

普段そのことを意識したことがなかったので気づかなかったが、思考があっちこっちに飛びまくり。体勢をちょこちょこ変えたり、膝をかいたり顎をかいたり、首の骨鳴らしてみたり、貧乏ゆすりしたり、、それにリンクするように思考の面も散らかりまくり。それが徐々に同じ姿勢でじっと耐えられるようになるにつれて一つのことをじっくり落ち着いて考えられるようになってくる。余計なことを考えなくなるし、集中力が増しているのが分かる。繊細な感覚まで感じられるようになってくる。身体と心はセットなんだということがよくわかる。すごい、すごいぞVipassana。

Before頭の中:最初は思考が飛び飛び
After頭の中:心の平静とはこのこと?

Day4
いつものように朝4時のベルで起床し、瞑想ホールに向かう。すると掲示板に人だかりができている。「Day4:Vipassana Day」と書かれている。お、なになに?なんか始まるのか?好奇心が高まる。Vipassna Day、つまりここからがVipassanaですよ、ということらしい。今までの3日間はあくまでそれに向けての準備期間という位置付け。4日目から本格的なVipassnaのやり方を学んでいく。とは言っても今までとやることは大きく変わらないのだが。ただこういうちょっとした変化がかなり嬉しい。最初の数日は気合いで乗り切れるのだが、4日目ともなると色々限界がくる。そこにこのVipassana Day。待ってました!という感じ。本当によくできたプログラムだなぁと妙に感心してしまった。多分このVipassana dayがなかったら結構脱落者出てたんじゃないかなと思う。

余談だが、ゴエンカ氏も最初のVipassanaの際、あまりの辛さに荷物をまとめて脱走を試みたとのこと。しかし当時は今よりもっと厳格で、施設は高い塀に囲まれていて簡単には逃げれなかったらしい(いや刑務所かよ)。それでも脱走を画策するゴエンカ氏の様子を一緒に参加していた先輩に見られ、引き止められ、諭され、やむなく残ったという話をしていた。こういう話も嘘か本当かわからないが、あのゴエンカさんですら最初はそうだったんだと、我々の辛い気持ちに寄り添い代弁してくれているようで励みになった。

さて、Vipassana dayの内容としては、ざっと言えば今までは鼻の感覚のみに集中してきたのを全身に広げていく、と言った感じ。頭の先からつま先まで。全身の感覚を探っていく。イメージ5-6cmの円をスポットライトのように全身、くまなく、全ての部位に当てていく。まずはじっくり、注意深く。部位によって感覚がわかりやすいところとわかりづらいところがある。わかりづらいところは1分ほど様子を見てそれでもわからんければ一旦次へ。ということを全身でやっていく。後頭部は今どんな感覚?冷たい?痒い?脈打ってる感じ?圧がある?じゃあおでこは?首は?そういうことを全身でやっていく。ここでも感覚と観察がポイントになる。

Observe 観察しよう
Just observe ただ観察しよう
Observe the reality as it is 現実をあるがままに観察しよう
Not as it appears to be そうあるべき、ではなく
Not as it seems to be そうあるだろう、ではなく
Not as you would like it to be そうあってほしいではなく、
Observe 観察しよう
Observe objectively 客観的に観察しよう
Patiently and consistently 忍耐強く、一貫して
Just observe ただ観察しよう
Just observe ただ観察しよう

瞑想中のゴエンカ氏の言葉の一部

そのようなことをずっと言われ続ける。そして言われていることも体感的に理解ができるようになってくる。効果も成長も実感できる。本当に言われた通りのことが自分の体に変化として表れてくる。楽しい。すごい。これいけんじゃね?一瞬希望が見える。

そしてある日の就寝時にふと気づく。あれ、オレ鼻で息できてるな、と。というのも私はアレルギー性鼻炎もちのため鼻が詰まりやすく口呼吸になることが多い。特に寒い時、季節の変わり目、埃っぽい場所+花粉。東南アジアの暖かい地域であってもエアコンをつけて寝ると決まって鼻が詰まりどんなに疲れていても鼻で息ができないので寝苦しいということはよくある。というか運動しているとき以外は基本的には鼻が詰まっているという表現の方が近い。しかし、このVipassanaでは瞑想時に鼻呼吸が前提となるので、もし私の鼻が詰まっていたとしたらStage1でゲームオーバーとなるのだが、それが不思議と一度もない。また初日の夜に発生した軽い喘息もいつの間にか止まっている。結局全12日間を通して一度も鼻詰まりはなく、両鼻ともに非常にクリアに鼻呼吸ができていた。そんなこと今までになかったので私にとっては非常に不思議な出来事だった。

Day5-7 精神的な限界

飽きとダレの期間。
この頃になると瞑想修行にもかなり慣れてくる。と同時に飽きてくる。あれだけ苦しく辛かった体の痛みもだいぶ消えてくる。が、次に襲ってくるのは「退屈」。この時期は精神的に一番きつかった。

1時間が、2時間にも3時間にも感じてくる。瞑想中は原則目を開けてはいけないのだが、時計をちょこちょこ気にし出すようになってくる。もう30分くらい経ったかな?ちら。え、まだ15分!?いやまじか。みたいな。時間のことを意識すればするほど、時が経つのが遅くなる。それまでは集中力が切れてきたら、過去の思い出を振り返ってみたり、考え事をしてみたり、それはそれで楽しかったりするのだが、もうそれも全てやり尽くした。小学1年生から2年生、3年生、、と人生の振り返りは34年分全てやった。歴代の恋人との思い出巡りもやり尽くしたし、当然今年1年の振り返りも終わった。過去にいったことのある国や都市も数え切ったし、過去の経験人数も数え切った。2周、いや3周はした。

人にはそれぞれ普段から度々思い出すエピソードというものがあると思うのだが、今まで忘れていたありとあらゆる場面が浮かんでくる。おそらくこの突如として大量に空いた脳みその容量を脳が必死に埋めようとするかのように。「うわ懐かし!」という思い出がどんどん浮かんでくる。が、それも5日もやっていると全て出し尽くしてしまう。暇つぶしに考えるネタは尽きた。考えてもみてほしい。瞑想時間だけでも1日10時間ある。それ以外の時間も人と話してはいけないしスマホも見ちゃダメということで1日中自分と向き合っているのだから、考え事をする時間なんて十分すぎるほどにある。そしてこの頃から性欲が戻ってくる。気づけばエロいことばっかり考えてしまう。ほぉ、今のオレだいぶ余裕あるなぁと俯瞰してるオレがツッコむ。あかんあかん集中や。3分後。やっぱあかん。集中できん。てかなんやねんこれ!ええ年こいたおっさんらが1箇所に集まって、毎日みんなで瞑想て!長いねん。

ちなみに、後からOld studentの方から聞いたのだが、集中しているからいい瞑想、集中していないから悪い瞑想というわけではないらしい。とにかく自分を観察できていることが大事で、集中していないなら集中していない自分をあるがままに観察できていればそれは良い瞑想ということになるらしい。

とにかく、この時期は"どうやってサボるか"ばかり考えていた。どうやらそれは私だけが例外というわけではないようで、瞑想中にたまらず席を立ち、ホールの外に出てみると私と同じようにぶらぶらしている人や、トイレに行くふりをしてサボっている人をよく見かけるようになる。顔ぶれも固定されてくる。あ、またこいつサボってる。あ、あいつもだ。うわ、ずる。相手のことなんてどうでもいいのにそんなことばかり気になってくる。退屈に感じるのもそのはずで、Day4のVipassana dayみたいなものもその後は特になく、ひたすら同じことを淡々とやるだけ。当然成長や変化も感じづらくなってくる。これあと5日もあんのかよ。もうええて。

休憩時間の過ごし方は散歩or部屋で仮眠。この道は200往復くらいした。

ちなみに瞑想ホールでは自分の座席(座布団)は指定されており、前から3列目くらいまではOld studentなのだが、彼らはいつ見ても微動だにしない。開始から終了まで、朝から最後の瞑想まで、全く動かない。足を崩すなんてことはもちろん、顔をかいたり、蚊をはらったり、あくびや咳すらもしているところを見たことがない。とにかく始まったらその状態を写真で撮って保存したかのように全く動かない。すごすぎ。

この辺りからNew studentの中でも徐々に差が出てくる。その顔には明らかに限界がきているのに、それでも言われたことを忠実に守り、食らいつき、なんとか最後まで頑張ろうとする者。一方、始業のベルぎりぎりに来ては、瞑想が始まるとすぐゴソゴソと体勢を変え、しょっちゅうトイレにサボりに行き、仕舞いにはエロいことまで考えだす者。もちろん後者は私のことなのであるが。一体何をしてるんだろうか。辛いのはみんな一緒なのに(本当に情けない)。

思うに、この期間をどう過ごすのかが一つの分かれ道なんだろう。それは瞑想修行単体としてもそうだが、人生そのものもそうなのかもしれない。人は辛い時にその人の本性が出るというが本当にその通りだと思った。正直Vipassanaはサボろうと思えばいくらでもサボれる。よっぽど人に迷惑をかけない限りはスタッフや先生に怒られたり指摘されることはない。全て自分次第。ただ人にはバレなくても自分が一番わかっている。あ、またサボった、また逃げた、またセコいことしてる。

この間、自分の心の弱さと狡さが露呈し閉口した。オレは弱い。

Day7-9 覚醒と新境地

いよいよ終わりが見えてくる。
今までの自分を顧みて、また周りのがんばっている人たちを見て、オレは一体何をしにきたんだと自分を奮い立たせる。わざわざインドまで来て何サボってるんだと。自分のために来たんちゃうんかと言い聞かせる。再度集中する。てか、これあれやな、走れメロスでメロスが一回諦めかけてたけど復活するあのシーンみたいやな。いやいや、メロスとか今どうでもええねん。みたいな感じで。

すると、初日の痛みが嘘のように、あぐらをかいているこの姿勢が一番楽になっていることに気づく。たびたび姿勢を変えて、体育座りをしてみたり、手を後ろについて座ってみたり、正座してみたり、クッションをお尻に敷いてみたり、背もたれのある座椅子を使わせてもらったり、とにかく色々試すのだが、結局一番ベーシックなあぐらが一番楽。もしかするとこの座り方が人間が最も長時間耐えうる、理にかなった座り方なのかな。そんなことを考える。そして結局サボろうとせずに真面目に取り組み、痛みに耐えて限界に挑戦している時の方が時間が経つのが早く感じることに気づく。

また、この頃になると感覚についてもかなり研ぎ澄まされている。頭からつま先までありとあらゆる部位の細かい感覚まで感じ取れ、自在にコントロールできるようになっている。CTスキャンのようにざーっと読み込むことができる。そのスピードもスキャンの仕方も変えられる。前面と背面同時に読み込んだり、左と右の両面を同時に読み取れたり、頭と足から上下に挟み込むようにスキャンすることができるようになっている。この辺り説明が難しいのだが、とにかく明らかに感覚が鋭くなっている。痛みやかゆみといった強い感覚だけでなく、ちょっと乾燥してんなーとかジンジンしてるなとか、ピーンと張ってるなとか初日には気づかなかった微細な感覚にまで気づけようになっている。思考に関しても同様で、この頃になると自分のことをかなり俯瞰で見れるようになっている。いろんなアイデアがどんどん湧いてくるし、一瞬、新たな境地にいく瞬間もある。気持ちが昂って泣きそうになることもあった。

また疲れや睡眠不足もあってか時々自分がどこで何をしてるのかよくわからない時があった。瞑想中に半分寝ている感覚になったり、逆に寝ている時にも瞑想しているようかのような感覚を覚えることが度々あった。覚醒と睡眠が混在するような不思議な感覚。また痛みの限界を3回、4回、5回と超えた先に、これも一瞬なのだが、『下半身と大地が一体となっているような感覚』が何度かあった。

論理的に言えばただ痺れて下半身の感覚がなくなっただけという一言で済むかもしれないが、確かにブッダの言う『無我』や『色即是空』の概念もこうやって発見してきたのかなと思った。このようになぜ瞑想の延長線上に解脱があるのか、ということが理屈としても体感として少し理解できた気がする。(理屈の部分は後述)

Day9-11 感動のフィナーレ

最後はもう日常に戻るための調整。
Day10ともなると途中で喋ってもOKになる。スマホも解禁される。あれ、もう終わり?もう一日あると思っていただけに拍子抜け。めっちゃ嬉しい。みんな笑顔が抑え切れていない。最後の瞑想が終わった後ホールを出ると、あんなに無愛想で怖そうに見えたスタッフの方たち(インド人)が、満面の笑みで拍手を送ってくれた。そうなるともう我々としてもニヤニヤがとまらない。彼らスタッフも先生もみんな無償でボランティアとして参加しているのだがなぜか理解できなかった。わざわざ12日間も割いてなぜ?と。でももしかするとこの瞬間のためにやってるのかなという気もした。それぐらい盛大におめでとう!みんなよくやり切ったな!という祝福の気持ちを彼らから感じた。

我々参加者の方もみんな気持ち悪いぐらいずっとニヤニヤしながら互いの健闘を称え合った。「どうだった?」「どんな感覚?」「ていうか初めまして笑」10日間も寝食を共にしたのに喋るのは初めてという奇妙な状況。久しぶりに喋ったり笑ったりしたもんだから、表情筋が攣りそうになりながらも、しかし笑いが止まらんという、今思えば全員なんとも言えないキショい笑顔で抱き合うように語り合っていた。辛く厳しい修行を耐え抜いた仲間ということでかなり深い絆ができあがっていた様子。まるで全寮制の野球部強豪校の同期のような。わし野球部ちゃうから知らんけども。

終了直後の集合写真。写真が下手すぎてみんなの笑顔と絆の深さが一切表現できていないという愛らしい一枚。実際の参加者はこの倍くらいいました。

その時の心の状態を言葉で表すとすると、「達成感」、「自信」、「謙虚」、「慈愛」、「利他」、「思いやり」そんな感じ。というのも最後の方は講話の内容も徐々に他者への愛や、慈しみというテーマが多くなってくるからだ。参加者の心は愛で満ち溢れていた。この10日間本当によくできたプログラムだと思った(2回目)。

Vipassanaでも禅の修行でも3日間のコースもあるらしいのだが、やはり10日間のコースを強くお勧めしたい。3日だけだとただ痛みを乗り越えた!だけで終わっていたと思う。逆に言えば20日コースや30日コースとなるとまたもっと別の境地が味わえるのかもしれない。ブッダの時は、山籠りで断食修行6年とかでしょ。そら悟りも開くか。

そしてこんなことも思う。もし仮に、今この場で震災が起きたとしてもここにいる参加者は、我先にではなく、譲り合いの精神で互いを思いやり助け合っていくんだろうなーと。そういうことが容易に想像できたし、実際に例えば食事の際に長蛇の列ができるのだが、会話もボディランゲージもできないなりにもお互いのことを気遣い、思いやっている場面を何度も見かけた。これはなかなかできることじゃない。心身ともに疲弊し、空腹に耐え、苛立ちもストレスも溜まりまくっているはずなのに。人間って案外悪くないのかもしれない。

終了後にとったハスの花。なんだかすごく綺麗に見えた。途中、休憩時間あまりにやることがなく、ひたすら花や木や虫を観察していた。意外と花の中に虫ようけおるなとか、ミツバチってこうやって蜜吸うてるんやとか、よう見たらめしべ多過ぎて気持ち悪いなとか童心に返った気分だった。

私のルームメイトのルイスとももちろん話した。彼には言いたいことがたくさんあった。この期間中、彼には本当に助けられたからだ。ルイスも私と同じくNew student(初回参加)だったのだが、彼は本当にすごくて、朝4時になると起床のベルと同時に起き、誰よりも早くホールに向かって瞑想を開始していた。また瞑想終了後も他の者たちは一目散に休憩に行く中、1人最後まで瞑想を続けていた姿を何度も目にした。肉体的にも精神的にも明らかに限界がきているはずなのに、それでもやめようとしなかった。言葉は交わさなくても10日間も同じ部屋で過ごしていたらわかる。彼は本当に真摯に修行に向き合っていたし、真剣に自分に向き合っていた。彼の背中からはなんというか、常軌を逸した凄まじまさのような、脇目も振らずに真理に到達しようとする執着のような、なんとも形容し難いオーラを感じた。休憩が、とか消灯時間が、とかそういった概念はもう彼にはなかったのかもしれない。

2,500年前、日夜修行に励む出家者たちもこんな感じだったのだろうか。とにかく、そんな彼の姿に私も何度も励まされた。休憩時や就寝前にもこまめに部屋を掃除してくれたり、いつも私を気遣ってくれているのが感じ取れて嬉しかった。とにかく早くありがとうと言いたかった。他の参加者たちも「お前後ろからずっと見てたけど、マジすごかったわ!!」と口々にルイスを褒めていた。彼が褒められるたび、なぜか私まで嬉しかった。

今でも時々彼とはやりとりしているが今も瞑想を続けているらしい。言われた通り、朝晩1時間ずつ。どんだけストイックなんだ。彼からすればストイックにやっているというよりは本当に効果を実感しているからやっているとのこと。なんにせよ、あんたすごいわ。ルームメイトとして誇らしい。

Vipassana終了

こうして私のVipassanaが終わった。
10日間なかなかハードではあったが、参加して本当に良かったと思っている。途中までは、このままだとただ辛くて痛いだけの修行で終わるんじゃね?と思っていたが、10日間を通して本当に言われていた通りの変化を体感できたし、この上なくたっぷりと自分と向き合うことができた。自分の心の穢れを自覚し、一つ乗り越えることができた。

改めて、私の思うVipassanaとは、『今までずっと外に向いていた意識と感覚のベクトル全てを自分の内側に向け、自己の内観に徹する作業』だと思う。もちろんたった10日という短い期間ではダンマ(解脱)に至ることなど到底できなかったが、忘れかけていた人間としての基本・原点に立ち返ることができたように思う。今は非常に良い心の状態を保てている。そしてここまでVipassanaが具体的かつ実践的であるとは思っていなかった。瞑想ってただ座っているだけじゃないの?なんで瞑想で解脱に至ることができんの?という疑問にしっかりアンサーを返してくれた。さすが2,500年の歴史はダテじゃないなと思った。一方、そりゃそうだよなと思う部分もある。というのはこの2,500年の間に何十万、何百万という人たちが参加してきたわけで、データとしては十分な量が取れていることになる。大体人間ってこうすればこういう変化が起きるよねという普遍的な結果はノウハウとして溜まっているはず。そりゃあそんじょそこらの瞑想法とはワケが違う。

このVipassana瞑想修行。日本でも受けられるが、この12日間という時間を確保するのはなかなか大変。誰もができることではないということは重々承知しているのだが、人生死ぬまでに一度は体験してほしいと願う。やっぱり体験しないとわからない。かくいう私はというと、正直な話しばらくの間はご勘弁被りたいのだが、せめて5年に1度か10年に1度は受けたいと思う。しかし本当のVipassana効果は全てが終わった後の日常生活の中で感じることになる。
(以下に続く)

※ちなみにこの章ではわかりやすくするために3日間で区切ってその様子を書いてきたが、実際はその瞬間瞬間で全然違うということを付け加えておきたい。例えば、day5の午前中の瞑想ではかなり集中できたが、午後からの瞑想では全く集中できなかったとか、同じ1時間の瞑想の中でも序盤は早く帰りたいとしか思っていなかったが、後半では自分の感覚をよく観察できていたとか。

後日談

Vipassanaが終わってもうすぐ1週間が経つ。どうせ日常に戻ればすぐ今までの自分に戻ってしまうんだろうなーと思っていたが、意外と効果は持続している。というか今になってVipassanaの効果効能を実感することが多い。いずれにせよ、今の私は過去最高の心の状態をキープできている。

自分の身に起きた変化

非常に抽象的ではあるが、全体的にゆったりとしていて、でもものすごく速く走れそうな、それでいて周りがよく見えて、自分のコンディションにも敏感、そんな感じ。次々と良い気運が巡ってきそうな心持ちで、なおかつ地に足ついた状態。ジタバタせず、冷静に物事を観察できている。今の私、非常に良いです。

具体的なエピソードをいくつか。

1. 怒りに対する対応の変化

まずはVipassanaが終わったその日、私は空港に向かいインドを発った。着いた先はタイのバンコク。この時期はロシアの長期休暇や年始のバケーションということもあり、また1月の冬の季節にもかかわらずここは暖かいということで北半球のあらゆる人たちがバンコクに集ってきている。そして空港を降りて絶句する。経験者はわかると思うのだが、あの入国審査の長蛇の列は吐き気レベルである。あれは一体なんなんでしょう。「行列×待ち時間」のあの異常なストレス。

入国審査の長蛇の列。バンコク、ホーチミン、バリなど人気都市の人の多さは天神祭のそれを凌ぐ。

結局外に出れたのは到着から1時間半後だったのだが、その時の入国審査の担当者がまたくじ運悪く、作業が遅い割に態度が悪い。他の列がどんどん前に進む中この列だけ異様に遅い。そしてようやく私の番。普通に言われた通りのことをしていただけなのに終わりがけになぜか怒号を浴びせかけられた。え?オレに言うてる?なんで?私が困惑しているとおまけのもう一発。「Go!! Finish!! もう行け!お前の番終わりや!もたもたすんな!」沸々と怒りが湧いてくるのがわかる。ここで普段であれば「は?お前どつくぞ?」とこちらも関西弁で応戦するところであるが、Vipassana終えたての私のマインドはこんな感じ。

確かに一瞬イラッとした。が、まずそのイラッとしている自分を客観的に見ていた。「あーオレいま理不尽にキレられてイラってしてんな。こういう時ってオレこういう反応してしまうのか。」預けていた自分のキャリーケースが長いレーンを流れてくるのを待ちながら色々と考える。「いや、待てよ。ここでオレまでイラッとしてなんか意味あるんかな。いやマイナスしかないな。まぁでも考えたらそうか。彼もあの行列何時間も捌いてたらそらストレス溜まるわな。もしかしたら俺の知らんところで失礼なことしてしまったかもしれんしな。ていうか彼ももしかしたら何かあったのかな?実は昨日家族に逃げられたとか、病気を宣告されたとか。」「まぁまぁまぁ、全て無常。そう無常。このイラッとした感情もそのうち消えるでしょう。辛抱辛抱。」

こんな感じで気付けば数分後には完全に怒りは消えていた。今までの自分では考えられない。100歩譲って「俺までキレても意味ないな」までは気付けたとしてもおそらく無理やりその怒りを沈めようとしていたと思う。そして忘れようとするからこそ逆に忘れられずまた思い出してはイライラするということをしばらくは繰り返していたはず。

Vipassanaではあらゆる感覚に対して反応しない訓練をする。痒かろうがかかない。痛かろうが体勢変えない。反応ではなく観察に徹する。無常を意識しただ観察する。それがそれが普段の生活でも癖になっている。そのことで心の平静が保たれ、ちょっとした刺激に対しても動じなくなったようだ。

2. 仕事上のパフォーマンスの変化

もう一つ、仕事上での効果。自分の発する言葉、思いつくアイデア、そもそもの集中力が全然違う。冷静に周りが見えているし、なんというか、どっしりとしている。あくまで主観的な感覚なので仕事のパフォーマンスが他者から見ても上がったかと言われるとわからないが、しかし会う人と会う人(と言ってもオンライン上が多いが)「なんか変わったね」「オーラが違うね」と口々に褒められるようになった。Vipassana前に丸坊主にしたのでそのせいも大いにあるかと思うが笑

働き方としても、私はリモートワークなので実際隣に誰かがいるわけではないため、『自律心』というのが非常に大事になってくるわけであるが、正直今までは手を抜いてしまっている部分も多々あったと思う。意図的ではないにしろ、スマホの通知を見て注意散漫になってしまっていたり、なんか気分が乗らない集中できないという時になかなか自分だけで軌道修正するのが難しかった。しかし今はしっかり集中できている。タスクAをやる時はタスクAのことだけを考えられるようになっている。スマホを10日間も使わず一切の娯楽がない状況で過ごしていたので意識が散漫することなく一つのことにフォーカスする訓練になったのかもしれない。

また自分が関わっているプロジェクトに対しても一歩引いてみれるようになった気がする。そのタスクの意味、意義はなんなのか。ステークホルダーにとってどんな価値があるのか。この仕事の目的はなんなのか。誰の役に立っているのか。本当に今のやり方でいいのか。など、言葉にすればするほど逆に今までそんな基本的なこともできていなかったのかという気もしてくるが、なんせ集中して取り組めている。

客観的に自分を観察する癖づけと、そもそも10日間で頭を空っぽにできたのが良かったのかなと思う。

3. スマホ、娯楽への興味の変化

また、細かいことだが娯楽にあまり興味がなくなった。これもどうせすぐに元に戻るだろうと思うのだが意外と持続している。

例えばお酒。この数年間は週2-3日は飲みに出ていた。多い時は3ヶ月間飲まない日は1日もないという時もあった。昨年ベトナムにいた時の話。いまだに自分でもなぜだか分からないのだが、気づけば一カ月で3桁万円使っていた月があった。もちろん航空券とか宿代なども含めた額なのだが、それでも明らかに使いすぎ。別に高級キャバクラ店やギャンブルなど一切行ってないにもかからわず。毎日飲み代に2万円使ったとしても60万程度なのに。(しかもベトナムで!)いまだに未解決事件である。それくらいにはお酒好きなのだが、あれから一度も飲みに行っていないし今はそもそも飲みたいと思わない。今はバンコクにいるのだが、街を歩けば誘惑が多い。今まででのように遊びに行きたい飲みに行きたいという欲が何故か今はほとんど湧いてこない。22時には眠くなるし、5時には目が覚める。これもすぐ元のペースに戻るのだろうが。

また今は寝る前にダラダラとスマホを見たりすることがなくなった。ながらスマホをしなくなった。ご飯を食べる時はご飯。寝る時は寝る。今までならちょっと移動する時もトイレに行く時も常に片手にはスマホというような生活だったが今は別になくても気にならない。スマホなしで外出もできそうな勢い。これもすぐ元に戻るとは思うのだが。

4. 歩き方、話し方の変化

また、一つ一つの動作が丁寧になった気がする。歩き方、話し方、扉の開け閉め、お店での注文の仕方など。
実はVipassana期間中、スタッフの1人に一度だけ注意されたことがある。休憩時間私がいつものように散歩をしていると呼び止められ一言「Can you please walk more quietly?」もっと静かに歩きなさいと。驚いた。自分の足音が人に迷惑になるような歩き方をしていたらしい。なるほど私の履いていたサンダルが壊れており、靴の底がベロンと剥がれていたのでどうしても歩くたびにパタパタと音がなってしまうという理由もあったのだが、それにしてもこの歳になって人に歩き方を注意されるなんて。全く盲点だった。

ふとOld studentの方々を見ると、一つ一つの動きが本当に丁寧。立ち方、座り方、歩き方。実に余裕があり、それでいて無駄がない。なんというか、美しい。まるで茶道の達人を見ているかのような、一つ一つの所作にある種の美を感じるほどにスムーズで丁寧。(まぁわし茶道の達人見たことないんだけれども)
一方周りを見ると、常にガサガサとせわしない者、咳払いやあくび、鼻をすする者、終了のベルが鳴るやいなや食堂に一目散にかけ出す者。もしかすると、こういうこともなんか関係あるのかなと思いそれ以来取り入れてみたのだが、確かに心に余裕ができる気がする。この辺りは実験中なのでもう少し継続したい。

5. コミュニケーションの変化

私の好きな本「自省録/マルクスアウレリウス」にこんな一節がある。

・手紙を簡単に書くこと

確かDay8か9の時にこの言葉をふと思い出した。そういえば、あの人にありがとう言うてないな。あの人にあの時のことちゃんと謝れてないな。このように瞑想中は本当にありとあらゆる人の顔が浮かびその人にまつわるエピソードがどんどん出てくるのだが、その時に感じたことや普段からその人に対して思っていること。例えば「あなたのこういうところをすごいと思ってます」とか、「あの時のあの言葉は実は今もよく思い出すんです」とか、逆に「あの時に言われたあの一言実は結構ムカついてたんですよねorショックだったんですよね」とか。自分の中だけで処理して人に伝えないまま終わるということが実に多いと気づく。

そして自分発信で、その人宛にダイレクトで想いを伝えることってなかなか普段やってないよなと。想いを伝えるというとオーバーな響きだが、シンプルに「久しぶり」「元気?」とかだけでも思った時に送ればいいのに何故か思いとどまるということが多かった。例えばインスタのストーリーや誰かのあげたポストにコメントするということはあっても(それすらも少ないのだが)、自分発信はなかなかないよなと。

Vipassanaが終わったら送ってみようと思い、ちょっとずつだがやってみている。いまだに照れくさいとか面倒くさいという気持ちもあるにはあるが、やっぱりこれっていい習慣だなと思う。やはりこの世は無常なんだから。その人がいついなくなるかもわからないし、自分がいつどういう状態になるかもわからない。実は先日、大学時代の仲の良い友人が最近まで鬱だったということを告白した。「そういや最近あいつSNS更新してないなー」と実は以前から度々私も気になっていたのに、本人が苦しんでいる間は一切知らず、完治し全てが片付いた後になってやっと分かったということがあった。また30代にもなるとちらほら病に伏す友人も出てくる。そういったことも相まって、思った時にやらんといかんなと思った。ふとその人の顔が浮かんだそのときに「手紙を簡単に書く」これからもやっていこうと思う。

もっとシンプルな話でいうと、お店で注文するときに、しっかり目を見て、なんなら笑顔で「ありがとう」と言うようになった。会話のおまけにひと笑い足すという余裕まである。日常のプラスワン笑顔。これだけでもやっぱり全然気分が違う。こういった一つ一つの小さな変化のおかげか、最近本当にご機嫌に過ごせている。昨日も屋台のおばちゃんがなぜか鶏肉をサービスしてくれたり、カフェの店員さんが私のことを覚えてくれていて気持ちの良い笑顔で接客してくれたり、友人とのランチで何故か彼がスマートに私の会計を済ませてくれていたりと、ちょっとしたラッキーが重なっている。見ず知らずの"外国人"である私に対し、見返りを期待しないささやかなプレゼントをいただけていると思うとなお嬉しく思う。

彼らにいただいた分私が何を分け与えられているのかはわからないが、次々と私の周りで良い気運が巻き起こっているようなそんな気がしてならない。私が歩けばその道が、私と関わればその人が、少しでもポジティブな波を受け取れるような、そんな心持ちで毎日を過ごせている。

印象に残った話と感じたこと

Vipassanaではその日の最後にDiscourse(講話)の時間がある。その時間がまぁ楽しく有意義だったのでそこで印象に残った話を綴っていく。

Discourse(講話)とは

どんな話が話されるのかというと基本的には以下二つ

  1. Vipassanaについて

  2. ブッダにまつわるエピソードと教訓

1はVipassanaの歴史やその瞑想法の具体的なやり方について。
2に関しては、昔ブッダはこんなことを言いましたとか、こんなことがありましたというような話なのだが、そこまで宗教色は強くなく、いかなる宗教宗派あるいは無宗教の人でもスッと入ってくるような話が多い(ユヴァル・ハラリ氏もVipassanaは最も宗教から遠い存在だと言っていた)。それがここまで世界的に流行っている理由の一つなのだろう。

・ネイティブ用(ヒンディー語)
・外国人用(英語)

に分かれて部屋に入り、そこでゴエンカさんのビデオを見るという感じ。
私はインド人アクセントの英語が全くわからなかったのでスタッフにお願いしてこのDiscourseの時間だけ日本語翻訳のオーディオを借りた。よっぽど英語に自信がある人や何度も受けていて内容がおおかた理解できている人はいいが、海外で受ける方は始まる前に事前にスタッフにお願いしておくことをお勧めする。

このDiscourseの時間が参加者の我々にとって唯一の娯楽のようであり、私も毎日この時間を楽しみに瞑想に励んでいた。Day1にはDay1の、Day7にはDay7のその時々の我々の状況に応じた内容になっているため、一言一言が本当に刺さる。今日はこういうことをしましたね、きっとみなさんは今こういうことを思っているでしょう。しかし明日からはこういうことを意識してみましょう。なぜなら、、といった具合。また倫理的な話や生き方などのテーマについても触れるため人間として大事な基本的な部分を思い出させてくれる。なにより彼、話がうまいんよ。

Discourse(英語)の部屋。この時は足を崩してもOK。ゴエンカ氏のユーモア混じりの話口調にみんな声を出して笑ってた。

ということで、特に印象に残った話を紹介する。

※これらはあくまで私の感想であり、私の主観や偏見がかなり混ざっている。これがVipassanaの公式見解ではないということを申し添えておく。

※ちなみに後から調べたらYouTubeにあがってました

①「なぜ瞑想で解脱?」

これが私が今回Vipassanaに参加した理由の一つ。つまりなぜ瞑想することで解脱に至ることができるのか?という疑問を解消したかった。そこに一定の納得感のあるアンサーが得られたので紹介する。

Vipassanaのゴールはダンマ(解脱)に至ること。つまり、生老病死に関わる全ての苦悩からの解放である。そのためには苦悩の原因を理解する必要がある。逆に言えば我々が悩むのは「無知」だから(なぜ人は悩むのかを理解していないから)であるという。多くの人は悩みがあってもそれを抑圧するか、忘れるか、せいぜい個々の事象に対して対処をする程度。しかし、それらは一時的な解決であり、根本原因を理解していないとまた姿かたちを変えて繰り返し悩む。死ぬまで悩み続ける。そのため、まずは苦悩の原因を理解する必要がある。では順を追って説明する。

まず、苦悩とは大きく二つ。「渇望」と「嫌悪」である。渇望とは何かが欲しい、そうなりたいと願うこと。もっと稼ぎたい、もっとモテたい、もっといい車が欲しい、もっと成功したい、もっと認められたい。嫌悪とはその逆。貧しい生活をしたくない、恥をかきたくない、将来の不安を払拭したいなど。ではこの渇望と嫌悪は一体どこからくるのか。前者は「快」から、後者は「不快」から生まれるのだという。

つまり苦悩が起こるのは私たちに「感覚」があるからだという。私たちには表面意識と潜在意識があり、表面意識は我々が自覚している意識、潜在意識は無意識のことである。潜在意識は私たちが生きている間中、たとえ寝ていようとも、常に24時間、身体から感覚を得ている。その感覚が快であれば渇望が、不快であれば嫌悪のサンカーラ(種のようなもの)が生まれる。我々はそうして生まれた渇望と嫌悪に日々、"反応"してしまっている。

例えば、あなたの友人が寝ている間に蚊に刺されたとする。本人は当然痒いのでポリポリとかいているが翌朝尋ねてみても全く覚えていない。あるいは、ずっと同じ体勢で寝ていると体がしんどくなるので寝返りをうっているが当然そのことを覚えていない。また寒ければ布団を被るし暑ければ布団を払いのける。これらは潜在意識が不快という"感覚"を通じて無意識に"反応"してしまっている例である。

ではなぜ感覚があるのかというと「感覚器官」があるからで、感覚器官と何かが「接触」するからであり、、と続いていくわけであるが、大事なことは苦悩が起こる原因は、この日々受けている大量の快・不快の"身体感覚"に意識的か無意識的かに関わらず"反応"してしまっているからである。

ここまで苦悩が起こる原因について語ってきたわけだが、ではその原因に対して我々はどう対処すれば良いのか。まずはこの「感覚」に意識的になることである。痛いとか痒いというような大きな感覚には我々は気づいているが、微細な感覚にまでは気づいていない。まずはそこに気づきましょうということらしい。

その上で、その感覚に「反応しない」訓練をする必要がある。快、不快から生まれる渇望と嫌悪にいちいち反応しない。そういったトレーニングを続けることでやがてサンカーラの生成が止まる。そうすれば全ての苦悩がなくなる。そのトレーニングこそがVipassana瞑想であるという。

不快な痛みや痒みに対して、あるいは怒りや不安などの感情に反応しないというのはイメージしやすい。同様に快に対しても反応してはいけない。例えば、「先生やOld studentのようにもっと良い瞑想がしたい」とか「ブッダが言うような涅槃の境地ってどんな感じだろう?私も味わってみたい」のような思いに対しても反応してはいけない。人がどうとかそういうことではなく、ただ自分の中のあるがままの感覚を観察することが大事である。だからこそ期間中に人と喋ってはいけない。「オレさっきの瞑想でめっちゃいい感じやったわぁ。新しい境地に辿り着けたかもしれんなぁ。」「えーいいなぁ。オレも味わってみたいな」ということがないように。

②「私や私のものに対する執着」

上述の通り、苦悩とは大きく渇望と嫌悪である。さらに重要なのがこの「執着」という概念。私や私のものに対する執着。これが苦悩の大きな所以であると。

何度も繰り返す通り、この世は無常である。全てのものはいつか消える。自分の肉体も生命も感情も記憶も。しかし、我々は「私」というものに対しての執着が非常に強い。例えば、人に馬鹿にされたり否定されたりすると怒りが湧いてくる。あるいは人から酷いことを言われるとショックを受ける。これは自分という人間はこうであるという無意識に構築してきた自分像があるからである。もっとわかりやすく、こんなエピソードが紹介されていた。

あなたとあなたの後輩3人(会社の後輩でも学校の後輩でも)が一緒に街を歩いているとする。話に夢中になるがあまり、そのうちの1人が路上に寝転がっていたホームレスの足につまずいた。するとそのホームレスが言う。「どこ見て歩いてんだバカ野郎!!」と。

この時、以下のパターンを想像してほしい。

a)つまずいたのは後輩で、その後輩がホームレスに怒られた。という場合
b)つまずいたのはあなたで、あなたがホームレスに怒られた。という場合
c)つまずいたのはあなたで、あなたがホームレスに怒られた。しかもそれが公衆の面前であった。という場合。
d)つまずいたのはあなたで、あなたが怒られた。そしてホームレスではなくそれはあなたの息子であった。という場合。

aの場合はもしかすると「お前ダサっ!w キレられてるやん笑」と後輩をなじって笑い話で済むかもしれない。しかし、あなたがキレれたとしたらどうだろうか。しかもそれがb後輩の目の前であったり、c公衆の面前であったり、あるいはそれが他人ではなくd自分の子どもにキレられ、しかもその様子を後輩に見られてしまった、という場合だったとしたら?

驚き、恥ずかしさ、悔しさ、情けなさ、怒り、いろんなネガティブな感情が湧き上がるのが容易に想像できる。今まで後輩に対して築き上げてきた自分のイメージが台無しじゃないかと。自分の子どもにあんなにキレ方されて、親としての威厳0ですやんと。しかし、なぜそこでそんなに嫌な思いをするのか。それは"ワタシ"という執着が強いからだという。我々のわかりやすい言葉で言い換えるなら、要は「プライドが高い」ということだろう。

"私のもの"に対する執着はもっとわかりやすいかもしれない。例えば、スマホを落として画面が割れた。大事な自転車が盗まれた。財布をなくした。給与明細で税金で差し引かれる額を見て驚いた。自分のYouTubeアカウントがある日突然BANされてせっかく集めてきた登録者数が0になってしまった。自分の勤めていた会社が倒産した。リストラにあった。大地震で家財が崩壊した、などなど。

我々が何かを失った時の負の感情や、あるいは自分が持っているものを失いたくないと意地になること。これらは"ワタシのもの"に対する執着から生まれるという。

この「ワタシや、ワタシのものに対する執着」これが苦悩の大きな原因であると。逆に言えば自分に対する執着がなければこういった苦悩は生まれない。ちょっと前に「無敵の人」なんて言葉が日本のメディアでよく騒がれていたが、そもそも何も持っていない人が最強であるというのはある意味ではうなづける。だって失うものがないんだから。そこに執着なんてありようがない。

このようなことはいろんな人がいろんな言い方で繰り返し同じことを言っているように思う。例えば私の好きな岡本太郎の著書「自分の中に毒をもて」「自分の中に孤独を抱け」の中でもこんな言葉がある。

"今までの自分なんか蹴飛ばしてやる。それくらいでちょうどいい"
"自分を大事にしすぎているからいろいろと思い悩む。駄目になって結構だと思ってやればいい。"

結局言ってることは同じ。
私も何かをしようかなと思った時に躊躇する理由はいつも同じである。こんなことしたら人からバカにされそうだなとか、恥ずかしいなとか、失敗するかもしれないし怖いなとか。これは何も転職とか起業とか結婚とか、そんな大きな決断に限った話ではなく、日常でも何度も遭遇しているはずである。

インスタにこんな写真載せたら、「お前そんなキャラちゃうやん」って思われそうやな、とか。
Xでこんなつぶやきしたら、「なに急に真面目ぶってんねん笑」って陰で言われへんかな、とか。
このプロフィール写真はキメすぎかな、とか。
本当はこのワンピース着たいけど攻めすぎかな、とか。
こんなこと言ったら怒られそう(嫌われそう)やな、とか。

全ては自分への執着、プライド。自分が可愛くてしょうがないから。大切にしすぎているから。いつか全てなくなるというのに。そういう私もまだまだ執着の塊であることは否めない。でも年を経るごとに、ちょっとずつ自分を解放し、たまに自分自身を突き飛ばしてみるのだが、今のところそうしたことで大惨事になったことは一度もない。後悔もない。

もしオレが今ここでこんな行動とったらどうなるんかな?よしやってみよう。ほぉなるほど、みんなそういう反応になるのか。と常に俯瞰的、観察的で実験的な思考をもっている何においてもそこまで臆する必要はないということを私は知っていた。だからこそ理屈としても体感としても、執着を捨てることで苦悩から解放されるというのは納得度は高かった。

③「何のために稼ぐの?」

これもよくあるテーマでいろんなところで繰り返し述べられているし、上の内容と本質的には変わらないのだが、繰り返し語られるということは逆に言えば我々人間が繰り返し悩んでいることであると思うのでここでも紹介する。

我々はお金がほしい。なぜならその方が幸せだと思うから。例えば、ある1人の男が久しく会っていなかった友人の家に招かれたとする。知らない間に彼はビジネスを一発当て、大豪邸を建てていた。それを見て、「自分もいつかこんな家に住めたらなぁ」と男は思う。そこで彼は宝くじを購入する。それがたまたま一等当選。3億円ゲット!悦び勇んで豪邸を購入する。(東京だと3億で買える家なんてたかが知れているとは思うがそこはご愛嬌w) 

彼は思う。立派な家も買えたし、これで夢叶ったわと。しかし、ふとリビングを見渡すと、家具家電がしょぼく感じる。前の家からそのまま持ってきただけだから外側は立派な家だけど、家の中がしょぼい。これでは友人を招けない。テレビもこの部屋の広さに対してインチが小さすぎて余計にしょぼくみえる。これではいけない。よし家具家電を買おう(もちろんここでもまたお金が必要になるわけだが便宜上ここでは何とか買えたとする)。

最新の家電を揃え、イタリアの高級家具まで手に入れた。普段使ったことはないけどデュフューザー?といういい匂いのやつも買った。ついでに壁がけ用の絵画まで購入した。価値は正直わからないし、何なら子どもの落書きにしか見えないが、界隈では人気で有名ということでエルズワース・ケリーの抽象絵画にした。これでやっと友人を自宅へ招ける。友人が来る。高級車に乗っている。ほしい。ほしすぎる。翌日メルセデスを購入。こんな金持ちの私がなぜ今まで日産の車に乗っていたんだろうかと不思議に思う。友人が言う。車は何台持ってるの?と。車って一家に一台じゃないの?と内心びっくりしたが、そんなこと言われて買わないわけにはいかない。なぜなら私は金持ちだから。フェラーリ、ポルシェ、ランボルギーニまで買った。車を入れるスペースがないのでリフォームして専用駐車場を作った。まだまだ止まらない。時計も欲しい。靴も欲しいし、いい服も欲しい。奥さんはジュエリーが欲しいという。ついでにカバンも。一つや二つでは足りないらしい。男からすれば色が違うだけで全部同じに見えるが。週末用に自家用ボートも買った。いつ使うのかは分からないが。ついでにワインセラーも買っておこう。ドンキホーテの1本1,500円のワインと正直違いはわからないが。グラスもいるな。やっぱりバカラでしょ。ついでにいいチーズも買おう。もちろんイオンというわけにはいかない。最低でも成城石井だな。ああそうだ、子どもの服も買っておこう。どうせ泥だけになるし来年には着られなくなるけども。

といった具合に、人間の欲は際限がない。(ゴエンカさんの話からかなり私流に着色してしまっているが笑)

これはある程度お金を手にした人なら誰でも知っている。結局収入が増えても生活コストまで一緒に上がってしまうため手元には残らないということはお金あるあるだ。また結局収入が増えてもそれと比例して幸福度が上がるかというのはまた別の話。数々の研究や論文でもそういった結果が出ているのも聞いたことがあるし、自分の体感としても理解できる。執着の話にもつながるが、むしろ多くを得てしまうと今度はそれらを失ってしまう恐怖やリスクに支配されてしまいがちなのでむしろ不自由になってしまうケースも大いにあるように思う。

ただ、一点勘違いしてほしくないのはvipassana、というかゴエンカ氏は別にお金を稼ぐこと自体が悪だとは言っていない。ここはさすが元ビジネスマンとでも言おうか。その視点がある。お金を稼ぐことは素晴らしい。ただ、それが自分のためだけなのか。自分や自分の家族のためだけに稼ぐのか、ということは考えましょうと。稼いだ分はその分誰かに使えばいいじゃないと。一番わかりやすいかたちが「寄付」。そうすれば自分は自分のためだけに稼いでいるのではないと実感できると。自分が稼ぐことで他の誰かのためになる。だからもっと稼ごうという動機にもなると。大事なことはそういうことが我々人間には起こりうるのだということを理解することなのだと。なるほど。

④「知識でなく知恵」

知識がいくらあってもダメ。大事なのは経験を通して得た知恵であると。これも頭ではわかっているがなかなかできない。「人はいつか死ぬ」と誰もが知識として理解しているが、いざ自分の身近な人が亡くなったり、自分の大切なペットが亡くなったりあるいは自分に大きな病気が見つかり、余命が宣告されたとなると我々は動揺を隠せない。嘆き悲しみ途方に暮れる。

無常という概念を頭で理解しているだけではなく、身体感覚を通して知恵にしましょうというのが瞑想。だからこそVipassanaはいう。『何事も実践的でなければ意味がない』と。いくら高尚な哲学を議論してもそれが実践できないのであれば全く意味がないと。「私はVipassanaについて多くを語ることができます。本一冊書けます。ブッダについても詳しいです。でも実践には活かせていません。」これで何の意味があるのかと。本当にその通りだと思った。まるで私に語りかけてきているのかと思った。本をたくさん読んだり、人から話を聞いて知識を得ることについ満足したり、さらっと全体をなめただけですぐ何かを知ったかのような気になってしまう。自分の悪い癖だなと反省した。

余談であるが、私は大学時代ダンスをやっていてプロダンサーの方からもアドバイスを受けることが度々あったのだが、その際にいつも思うことがあった。「あなたたち、感覚的すぎでしょw」と。野球でいう長嶋茂雄さんがイメージしやすいだろうか。「ここをギュッとしめて、グーっともってきた後にスッと抜くいい感じだよ。」みたいな。いや、もっと論理的にわかりやすく説明してよと。筋トレ界隈でいう理論の山本派か感覚の横川派かみたいな(伝わるかなw)。

で、多くの場合、論理的であることが正で、感覚的であることが悪(もしくはバカ)かのように語られるが、どちらが良い悪いということではなくて、どちらも大切だということをこの話を聞いて思った。要は人にうまく説明できなかろうが、それが論理的でなかろうが、そんなことよりもとにかく"やってる人"がすごいんだと。そこまで行き着いた人がすごいことなのだと。逆にいくら口でうまく説明できても、自分で実践に落とし込めてなかったら意味ないじゃんと。それよか、全然うまく語れなくとも「実際にやってる人」、「継続している人」、「その道を突き詰めようとしている人」はすごい。自分もそうありたいと思った。

Vipassana終了後に何人かOld studentの方に話を聞いたのだが、皆あまり口数多くなく「私もまだ修行中なので全然わかりません」というような答えが多く返ってきた。一方、たかが1回参加しただけなのにさもわかったような顔をしていた自分が恥ずかしくなった。

⑤「宗教の本質」

ゴエンカ氏曰く、「宗教の本質」とは以下であるという。

  1. 穢れたこと(正しくないこと)をやめる

  2. 善いこと(正しいこと)をやる

  3. 心を浄化する

たったこれだけ。
では各宗教や宗派で違うのは何か。それは「解釈」。だからそれぞれに戒律や掟が存在する。しかし、いつしかその戒律を守ることやその宗教を流布することが主題となってしまい本質からズレてきてしまっている。時に他の宗教を批判したり、見下したり、対立したりするのもこれが原因である。逆に、上の3つこれだけをやってさえいれば別に特定の宗教宗派や無宗教という違いは言ってみればどうでもよい。

ブッダ自身もこれが仏教だよと、この仏教という私の教えを宗教として広めましょう、とは一言も言っていない。それは後から話を聞いた人たちが(いわば勝手に)取りまとめて仏教という一つの括りにしただけであって、ブッダ自身が仏教を広めるという目的で活動していたのではない。そういったエゴイズムがもし彼に1ミリでもあったのだとしたら、ブッダは今のブッダにはなり得なかっただろう。

私はこの話がズドンと刺さった。なぜならこれは長年私が抱いてきた違和感の正体を明らかにしてくれたからである。というのも私の両親は割と熱心な仏教徒で、私も幼少期から英才教育を受けてきたわけだが、納得のいかない部分も多分にあった。

もちろん全てが悪いというわけではなく私の倫理観や人間性を支える大きなバックグラウンドの一つであることは間違いない。また、もちろん信仰は個人の自由であるので、何も知らない外側にいる人間が勝手なイメージを元に彼らの信心や行いを簡単に批判して良いものではないし、一定のリスペクトはあって然るべきだと私は思う。各自どうぞ自由に信仰していただいて何ら問題はない。ただし、人に押し付けるのだけはご勘弁願いたい。それだけである。

Vipassanaの場合はそういった一種の押し付けがましさ、のようなものが一切感じられなかった。正直私は、どうせプログラム終盤は、慈愛や利他の精神の文脈のもと、寄付や周知のお手伝いを促されるのだろうなと思っていたのだが、そういういやらしさはほとんど感じないままあっさりしすぎなくらいに気づけばプログラムが終了していた。それが一層vipassanaに好感を持てた大きな理由の一つである。

本当に純度の高い善意をベースに設計されているように感じたし、最後に寄付金の依頼を申し添える必要がないほどにマネタイズに成功している、もしくはその自信があるということなのかなと思った。

Youtuberの「チャンネル登録よろしくお願いします」や、ニュース記事の後のLINE誘導、感動物語の最後のグッズ販売よろしく、我々はマーケティングなるものに染まりすぎているのかもしれない。

このようにDiscourseの時間では具体的な瞑想法について以外にもいろんな気づきがあるような話をしてくれる。ただただ人と話さず瞑想するだけではなく、こういったインプットの時間もあり、それを踏まえてまた自分と向き合うというサイクルが非常に有意義であった。

終わりに

ここまでVipassanaを通して自分が感じたことを長々と書いてきたわけであるが、改めて自分の中で非常に大きな出来事だったんだなと自覚した。まさかこんなに多くを得るとは思っていなかったし、こんなにいろんな言葉が湧き上がるとは想像だにしなかった。最初はネタにでもなればいいかくらいの軽い気持ちで飛び込んできたが、実際にやってみると、徐々に自分もガチになっていくのがわかった。どうせなら真剣にやりましょうよと。その価値がここにはありそうだと直感的に理解できたから。

皆さんはセレンディピティやシンクロニシティという言葉は信じますか?昔は私もあまりスピリチュアルな内容は信じない方だったのだが、実は今回このタイミングでVipassanaを体験できたのは私の人生において何か必然めいたものを感じていた。しかも参加する前から。

参加前におきた2つのミラクル

話はVipassanaに参加する2週間ほど前に遡る。当時私はベトナムのホーチミンにいた。11月ごろにVipassanaの申し込みを済ませ、航空券もとり、いよいよ来週からインド入りだなーなどと考えていたある日。その日は友人の誘いで食事会に参加していた。その場には私を含めて6名、日本人とベトナム人の男女で夕食の席を囲んでいたのだが、その中には初めましての方も2名混ざっていた。今思えばその食事会を誘われた時はあまり乗り気にならず、ギリギリまで参加不参加の返事をせずにいたのだが、まぁベトナム最後だし行くかと重い腰をあげて参加したことを覚えている。(結果行ってみれば毎回楽しいのだが)

お酒も進み、宴もたけなわとなった頃ある事件が起きる。私のスマホに届いた1通のメール。みるとVipassana協会からのもの。そこに飛び込んできた文字「Rejected」あなたは拒否されました、と。

直前に届いたメッセージ。Rejectedの文字。なんとか飛行機のチケット取ったんだけどどないしたらええのん!とわずかながらに抵抗を見せる私に対し、「送信専用」のため全く取り合ってもらえない様子w

は?なんで?参加の申し込みは1ヶ月前に完了したと思っていたのだが、実は申請中のステータスだったらしく(この辺りも未だによくわからない)、早い話ドタキャン。いや、こちとら航空券も取ってるんですけどと戸惑っているとその様子を見た友人たちがどうしたの?と。

事情を説明したところ、そこにいた日本人女性アリサさんが一言
「私ブッダガヤに友達いるよー。聞いてみようか?」と。え?実はアリサさんは今はベトナムに住んでいるのだが、数ヶ月前までインドに住んでいたらしく、たまたまブッダガヤにインド人の友人がいるとのこと。しかも、Vipassanaのセンターに繋がっていると。

え、そんなことあります?1ヶ月前に申請した予約がキャンセルされ、そのメールを受け取ったまさにその場に、その日初めて会った日本人女性が、こないだまでインドに住んでたのでインド人の友達がいると。しかも、デリーやムンバイのような大都市ではなく、片田舎のブッダガヤに。さらにその彼はVipassanaセンターにコネがあると。いやどんな確率やねん!あなたの周りに1人でもいます?ブッダガヤに住んでるインド人の友達がいるという友達。しかも、その一番大事な時に出会います?運命ですか?

結局、その場で繋いでもらった彼女の友人のおかげでなんとかVipassanaの予約をねじ込んでもらい参加できたというわけである。そうその彼が冒頭で紹介したパンカジさんである。聞くと、この年末年始の期間はダライラマ氏がブッダガヤに訪れるという年に一番人が集まる時期だったため予約が溢れたのではないか、ということらしい。おかげで生ダライラマも拝むことができたのでラッキーだった。

その数日後、たまたま立ち寄ったバーでまたアリサさんに出会う。ひとしきありがとうを伝え帰ろうとしたところ「あ、VISA大丈夫やったー?」と一言。ん?ビザ?そう、インドの入国にはVISAが必要なのだが、東南アジアの多くはVISAなしでも入国できることに慣れきっていた私はインドのVISA申請を完全に失念していたのである。急いでe-VISAを申請しようと確認したところ、"入国4日前までに申請が必要"との文字。その日すでに3日前。VISAが申請できない。つまり入国できない。そんな事態も奇跡が重なりなんとか乗り越え、ようやくVipassanaに参加できたという経緯があった。

まぁ、相手が相手(インド)なので、もし仮にあの時アリサさんに出会えていなかったとしても、最悪現地で頭下げて頼み込めばなんとかなるんじゃなかろうかという目算もあったのだが、もうこの時点で何かVipassanaが特別なものになりかけていた。「あ、オレ導かれてんなー」と、そう思わざるをえなかった。

「あるがままに見る」とは

今思えばこのヴィパッサナの意味「ものごとをあるがままに見る」というメッセージは私の人生にとって非常に大きなテーマの一つであった。

突然だが、皆さんはジブリ作品の中で何が一番好きだろうか。私にとっては、『もののけ姫』が圧倒的1番である。おそらく初めてこの作品を見たのは私が10歳くらいの時だったと記憶しているが、その時はこんな映画だと解釈していた。

「環境を破壊する悪い人間」vs「自然環境を守ろうとする善良な獣たち」

それがある程度大人になってから見た時に全然違った印象を受けた。最初は完全に見逃していたのだが、この作品の象徴的なセリフが、実は割と序盤に出てくる。それは、主人公のアシタカが呪いを背負い、村長のおばあちゃんの元へ訪れるシーン。その呪いを解くにはどうすれば良いのか。あっちの方で不吉なことが起こってるから行ってみなはれと、村長。そうすればその呪いが解けるかもしれんぞと。それに対してアシタカはこう言う。

「曇りなき眼(まなこ)で見定め、決める」

これが、もののけ姫という作品の最も重要なメッセージではなかろうかと私は思う。つまり、人間には人間の事情があり、獣には獣の正義があると。最初は悪者にしか見えなかったエボシも一方では怪我人をかばい、また女性の精神的な支えにもなっている面を持つ。単に環境破壊反対や共生の一言で片付けられる話ではない。そのように理解した時に初めてこの作品の味わい深さに気づいた。

先述の通り、私の両親は熱心な宗教家であったため、幼少期から宗教というものに対してわりと内側から見ることができた。またある時から一線を引き、外側からも見てきた。つまり内と外とを分かつ境界線のど真ん中に立ち、左足は内側に右足は外側に、どちらもなるべくフラットに見るように努めてきた。世間では、特に日本の場合、そういった宗教に対してある種の拒絶反応があるように感じてきた。怖いとか、胡散臭いとか、そういった信仰をしている人を無条件で否定するような。イメージだけで悪く語られたり、根も葉もない噂をたてられたり、ある側面だけ見られて判断されたり。偏見、固定概念、あらゆるバイアスをそばで見て育ってきた。一方宗教を信心する人たちの中にも、盲信しすぎて本質からはズレてしまっているとしか思えないような人たちも多く見てきた。

宗教に限った話ではない。一部分だけ切り取られて判断されたり、白か黒か100か0かで結論づけられたり、一つの誤りで全てを失ったり。そういったことは日本に限らず至る所で起こっている。最新の宮崎駿作品「君たちはどう生きるか」でも繰り返し描写されていたように、この世は矛盾していたり、全く違うように見えるものがいくつも混ざり合っていたりする。多面的であり多義的。非常に複雑で混沌としている。

量子論なんかを見ていてもいつも思う。
もし仮に「真理」というものがあるとして、我々が今認識しているもの(真実と思っていること)は実は全く違うかもしれないという可能性は大いにありえる。この宇宙が実は11次元だと言われてもピンとこないように、ベルの不等式の破れによってモノ自体の実在性が否定されたと言われてもワケワカメなように。あるいは時間は不可逆であるとか、エントロピーは増大化に向かう一方であるとか、あの相対性理論よりももっとファンダメンタルな熱力学第二法則ですら、実は視点を変えれば違うかもしれない。我々が強く信じて疑わなかったことがその実、前提を変えれば結論が変わるかもしれないのだ。

もっと身近なところで見ても、ほんの10年20年という期間でも簡単に常識が塗り替えられるということを我々は嫌というほど見てきた。科学という一分野を見てもそうだろう。睡眠の科学、栄養の科学、筋トレの科学、ハゲる原因に至るまで。昔はこれが良いとされていたこと、あるいはその逆が、実は全然違いましたなんてことは日常茶飯事と言って良い。

少々マニアックな話になってきたが、要は何が本当で何が嘘かなんて誰にもわからない。あの人はいい人でこの人は悪い人。そんな稚拙なジャッジを下せるわけがない。絶対こうだ、間違いない。そんな断言できること世の中にどれだけあるだろう。結局は自分の目で、自分の感覚で、ものごとをあるがままに見つめるしかないのだ、と。こういったことをこの数年なんとなく思っていた。そんなタイミングでこのVipassanaに出会うことができた。「あるがままに見る」とは、私にとってはそれぐらい大きなテーマだったのだということを今回再確認できた。少々オーバーかもしれないが。

人生に一度はVipassanaを

備忘録も兼ねてだらだら綴ってきたが、これらはあくまで私の感想に過ぎない。たった一回の参加で、さも私Vipassanaについて知ってます!という顔をする気もさらさらない。ただ、この感動を抑え切ることができなかった。この記憶もいずれ忘れてしまうのはわかっているが、ちょっとでも今の気持ちを残しておきたい。当初はあくまで自省録として人様に見せるつもりも毛頭なかったのだが、あまりに多くの人に聞かれるのと、それを一言で片付けることが難しいと思ったので公開することにした。ただ、もしこの長文を一言に集約しなさいと言われたら、「マジで良かったからいっぺん試してみて!」となる。これが一番言いたい。やっぱり体験しないとわからないし人それぞれ感じることは違うと思うので、むしろ皆さんのVipassana体験を私も知りたい。なかなか12日間も時間を確保するのは難しいとは思うが、人生に一度は試していただきたいと願う。

以上。

パンカジさんの話を少し

寄付先のパンカジさんの話を最後に少しだけさせてください。

パンカジさんのNPO団体(ブッダガヤの友人インド人)
https://www.facebook.com/prayasbodhgaya?paipv=0&eav=Afa5G_PNY0dEK1V3YkMj8gxIIVvTSEn-ljFdgktvtljbHxQeAGsboiWFL475mXkw7rQ&_rdr

彼の活動内容は↑のリンク先を見ていただければと思いますが、主に

  1. 女性のエンパワメントのための職業支援

  2. 最貧困地区の村の子どもたちへ無償の教育支援

などです。

インド最貧困地区と言われる村の子どもたちへの無償の教育支援。Japanという言葉を初めて聞く彼らに向けて、私も特別講師としてネイティブ関西弁講座を開いてきました。

パンカジさんについて。正直、最初はもしかして怪しい人なんじゃないの?とちょっと疑っていたのですが(ごめんね)、蓋を開けてみればまぁバカがつくほどいいやつで、たまに腹が立つこともあるのですが、それらを全てひっくり返すほど彼の想いや活動は本物だと思うのでもしお金が集まればこちらにも寄付をしようと思います。(個人的にはすでに寄付済み)

あとこんなこと言うと怒られるかもですが、Vipassanaセンターについては正直な話私が寄付しなくても実はわりと潤ってるんじゃないかなという気がほんのりしておりまして、実際困ってるのはこっちなんじゃないかというそんな思いもあったので。

寄付の詳細に関しては正直めんどっちいので私を信じてくださいとしか言いようがないのですが、まぁいちいち私を経由しなくても直接寄付していたいただければいいかなとも思っています。ご自身の寄付したいところに寄付したい額を払うのが一番ですし。なんにせよ、これきっかけで誰かがどこか困ってる人へ思いを巡らせていただければ、とそんな気持ちです。

てなわけで以上をもってこのブログを終わりにしたいと思います。
いや長すぎ。やめさせてもらうわ。

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