兄姉という名のアイデンティティという名の呪い



You're a big girlとか
Big girls don't cryとか
海外でもそうやって、弟妹がいる子は
「お姉ちゃん/お兄ちゃんなんだから」
という理由で行動感情を抑圧されることがあって

そうやって育った自分が大人になって知った事なんだけど
小さい頃の脳みそって白黒でしか世界を判断できなくて

なんで我慢しなければいけないのか
とか
なんで弟妹を守らなきゃいけないのか
とか
それの理由を「姉だから」という理屈で結論付けられて育った結果
「世界にとって姉の存在の優先度は低い」
と悲観も無く染み付いたアイデンティティが
自己犠牲の塊として形になった


友達に「君は自己犠牲気味だから」と言われて初めて気付く自己というもの
自分はどうなっても良いから弱い者を助けなきゃいけないという決定事項
私は意識外から既にそれに囚われていて
自己犠牲は美学と認知していた

もしかしたら無意識で、それを美学と捉えないと自我が保てなかったのかもしれない





昔、地元で野良猫が殺される事件があった
私が毎日明け方にジョギングしている公園には野良猫がたくさん居て
ある日まだ朝日の登らない暗い公園で走っていたら、ゴルフバットを持ったおじさんが一人徘徊していた

そのおじさんは猫達が雨を凌ぐ時に夜集まる公衆トイレを覗いていて
私は咄嗟に陰に隠れてそのおじさんの後を追い続けた

人の居ない時間帯にパターの練習をしている人もたまに居るから
ただのゴルフ練習かもしれない
でももしあれが猫を殴るバットだったらと思うと私は帰るなんて選択肢は取れなくて
一時間くらい気付かれないようについて行った

万一何かがあったらと思って私はそれをツイッターに投稿した
明け方だから誰も起きていないし、勘違いで警察に迷惑をかけるのも嫌だから

大柄なおじさんだから、もしこの人が悪い人でも止める事は不可能とわかりながらも
万一の時は自分が殺されても構わないから猫を守らないとと強く思っていた

結局朝日が昇るまで私はそのおじさんを尾行して
公園から街に出るところを確認して家に帰った


ツイッターでそれを見た友人やお客さんから
あんな危ないことをしてはいけないと咎められた
公園でできたおじいさんやおばあさんの友達にもそう言われた

私は何故それが悪い事なのかが全く心で理解できなかった
私としては最良の判断を下したつもりだったから



自分の命を明確に一度捨ててから
改めてその日の事を考えたけど
私は
「別の命の為に自分の命が危険に晒される」
という一つの部分に何も感じていなかったから
周りの意見に理解が出来なかったと知った



私は元々怖がりなのもあるので
普段生きていて、痛みにも死にも恐怖心はある
前に、びーちゃんのサンダルが荒波の海に流されるのを取りに向かった時
膝を掬う引潮の強さに命の危険を感じてそれ以上足を進める事を本能的に拒否した
明確に死を怖がった

だけど、目の前に他の命が危険に晒されたり
自分より弱くなった誰かが辛い目に遭っている時には
全く自分の未来なんか見えなくなって
心からどうでも良くなってしまう


自分の命はサンダルよりは価値があって、猫よりも価値は無い
そんな風に自分の命を相対的な序列の中に置いた世界で生きている

自分を軽視しているのとは違う
自分よりも尊くて救われるべき命が多すぎる世界に生きているだけ
自分の命より自分の子供の命の方が大事だと思う親が居るなら
私はその感情がただ人より多いだけ
そのサンダルがその人にとって本当に大切なサンダルであれば、私は命を捨てていた



もし万一あの日に見て見ぬ振りした結果猫が殺されたら
私は自分が見捨てた結果猫が死んだと感じてしまう
自分のせいで命が消える事は自分が撲殺されるよりも辛い事だと知っている
私は小さい頃そういう体験をして、自分が苦しむ事を知っている



自分よりも弱いと判断したものは、命も心も犠牲にしてでも救わないといけない
それを優しさや勇気と誤認していた

優しいと言われることもある
その甘い言葉に溶かされて、自分を優しいと誤認していた
他人にとっては優しいんだろうと思うけど

そうしないと自分を保てないだけだった
姉(自分を捨ててでも他人を救う)という役割を棄ててしまうと
私は自分がわからなくなる

何の為に生まれて、何の為に生きているのか
その魂に親から与えられた理由と使命が「姉」だった


だから私は自分の命なんて惜しくも無い
自分の命を惜しいと感じた瞬間、この世界に居られない
命を捨ててようやくこの世に居られるというジレンマ

強く「Big girls don't cry(姉ちゃんなんだから泣かないの)」という制限を掛けられて
姉に生まれたという曲げられない事実が
甘えてはならない、心配かけてはならない
誰よりも強くなくてはならない
そうしないと存在してはならない
何故なら姉だから
と繋がっていく


私は生涯母親にはなれない
守るべき対象を一つの命に絞れない
みーちゃんが家で待つにも関わらず私は見知らぬ野良猫の為に命を捨てようとした


自分が死んでも他を助けたい

自分が死んでも他を助けなきゃ
は全く違う
私は後者の呪いで動いている

自己犠牲を伴わないと生きていてはいけない
という呪いによって
後天的にそこにアイデンティティを置き
そこに幸せを感じるようになっている

誰かを何かを救う事に幸せを感じる
それは、そういう幸せを感じるという褒美が無いと自分(姉)が保てないからそうなっているのかもしれない
姉に生まれたという事実は曲げようが無い
姉=自己犠牲の公式は消せない程に深く埋め込まれていて、それが私自身になってしまっている

苦しみながらもその宿命に満足しているのは
生存本能かもしれない
私は自分が姉(自己犠牲)の宿命を背負って生きてきた事に誇りも感じている
事実守ったり救ったりした事は、世界から見て悪い事では無い

だから姉になんか生まれたく無かったと心から思った時、私は世界から解放されて死ぬんだと思う



みーちゃんの獣医さんの生き方を見てそう感じるようになった
先生はどうやら自分の幸せの為に動物の命を救っているようではなくて
お金の為でも、喜びの為でもなくて
俗物的なものに全く心動かされずに毎日命を救っていて
最初は「楽しいと感じる事がないのに何で悲観も無く生きていられるんですか?」と思っていた

私の中で存在する筈ない人を
とりあえず『正義感』という俗物的な人が考えた言葉でカテゴライズしていたけど
最近わかった

これが本物の『慈悲』なんだなって


どんな人でもどこかに褒美があるから生きていられると思っていた
この世には四苦八苦があって、毎日苦しみを緩和しながら生きていて
それが娯楽だったり、お金だったり愛だったり
夜お酒を飲めるから仕事を頑張れるとか
ドラマの続きが気になるから家に帰るとか

私昔そんな曲を書いた
天上道の『蔓蕎麦』という曲の中でそれを言及した事がある

「嗚呼 安寧は何処に在るものか?」

この世は欲と苦に満ちている
無明である限り繰り返す 過ちと恐怖に
「飲まれて往く?」
だから人は皆 遠ざからん
生老病死 愛別離 怨憎会 求不徳 五蘊盛
況んや我が身においてをや
天上道 蔓蕎麦


「安らぎは何処にありますか?」
という問いに対して

この世は欲と苦で満ちていて、
真理を知らない人間であるうちは過ちや恐怖に飲み込まれ続けます
だから人は四苦八苦を無意識に遠ざけます
他人の苦しみだって遠ざけたいんだから
自分の身に降り掛かる苦しみなんて尚のこと…


と答えている天上道は、すごく俗物的な回答をしていて
というか回答にすらなってなくて
「どうしたら幸せになれますか?」に
「まず世界の仕組みから話しましょう」みたいな


まんま私の回答方法
本質がわかってないから長々と話してしまう私自身が考えた「天上道」という人間
人間、天上道も私も
だから天上道は六道の輪から抜け出せず天上道に行った


人間の天上道は
「この世の欲と苦しみからは人間である限り逃れられない、だから本能的に四苦八苦を遠ざける」
と言っていて、私はそれだけが真実だと思ったからそんな歌詞を書いていた


みーちゃんの先生を知って、それだけが真実では無い事を知った
使命感に焦燥する事も、喜びに満ち溢れる事も無くて
沈着の中で毎日命を救ってる、救う方法を探してる
生苦、老苦、病苦、死苦、愛別離苦から遠ざけるための医者に私には見えない
みーちゃんを通して、この先生は苦しみと向き合っているんじゃないかと思った

先生の事をまだ何も知らないけど
私からはそう見える
だから私の中ではそれが真実で、そこに光明を見た


私にとっての吾が仏なんだと思う
それを生きている間に見つけられた事は、生きて良かったと思える一つの事に他ならない

先生の事は前から知っていたけど、自分にとって重大な何かを持っている人と知ったのは最近で
だから私以外の人にも、これまでの知り合いの中に、そんな吾が仏が居るのかもしれない




私はこの世の事が知りたくていろんな事を調べて、述べて、歌にして、生きてきて
だから理論上は理解していることが多い

だけど、本来的な意味で理解している事なんて殆ど無くて
誰よりも仏教で言うところの『無明』なんだと思う


『姉』というガワを着てきたので、自己犠牲の本質が理解出来ずに生きてきた
自利利他という言葉があって、それをガワだけなぞるように従ってきた


今まで、私が他人に与えた影響は、私のものでなく他人のものだからそうは思わないけど
自分にかけた今までの全ては自分にとって無駄だったのかもしれない

そう気づいた時に悲観はしなかった
だから後悔の無い生き方は出来ていたと思う

私はこの世の事は未だにわからないけど
この世の事がわからない理由だけは知れた


私は自分の事が嫌いでは無くて
それは「こういう人間になりたい」という願望に自分自身を合わせていったから好きなのも当たり前なんですが
それを砕いた中身の部分が未だに自分ではわからない
好きでも嫌いでもない、わからない

みーちゃんを失った悲しみで未だ無意識に毎日泣いてしまう
それは私の本質なんだと思う
それ以外の自分があまりわからない

私を心配する声、見下す声、悲しむ声
そういう周りの感情すべて、自分自身が液状化しているから何一つわからない



くじで選ばれた健康な一人の臓器強制提供で5人を救う臓器くじ制度は正しい制度か


『臓器くじ』っていう思考実験
私これがくじじゃなくて立候補なら良いのにと思う
私は多分お願いされたら最終的に臓器をあげてしまう


自分の命を軽く見ているのでは無くて
ヒーローになりたいわけじゃなくて
「自分の命を厭わずに他の命を守れ」
そういう姉という名のアイデンティティという名の呪いが
「自分を守る」という選択肢を選ばせない




修羅道というキャラクターに『キナ』という曲を書いた


私、実はこの修羅道というキャラを、かっこいいと思っているけど理解をあまり出来ていなかった
特に曲の前半の、生きている間の心の葛藤が理解できなかった

だから極端に修羅道は心情を歌うシーンが少ない
修羅道があまり内情を表に出す人ではないのもあるけど、何より自分が修羅道の心を理解できていなかったからだと思う


修羅道は国家主義の中でひたすら民主主義を訴える人なんです
でも私自身の魂が国家主義に近いんです


修羅道は戦争で亡くなるけど
『国家こそ至上の価値』
と命を投げ打つ同胞を憂いながら
『全ての命こそ至上の価値』
として死ぬんです


私は同胞側の思想を持っていて
人間魚雷『回天』という歴史を悲しみながらも
私は見送る側でなく乗り込む側の考え方を持っているんだと知った


修羅道はその光明から天へ誘われるけど
最終的に自分の意志で修羅道に落ちる
命の平等性を知って、成仏する(仏に成る)事すらも叶った先で
我が子が殺された悲しみが怒りに変わって修羅になった
結局、修羅道も魂を平等と思わなかった
何よりも我が子が大切だった
そうやって海に落ちてからの修羅道の言葉を初めて私は理解できる
できるから強い想いで歌詞を書けた

「この怒りが罪だと言うなら正義なんて何処にも無い」

多分この言葉が書きたくて曲を書いていた



修羅道の元になった阿修羅も、我が子を想って天から海の底の修羅道に落ちる

怒りで仏から修羅になるという阿修羅の話は
ある種、人間の救いでも絶望でもあるんじゃないかと思うことがあって

仏に成るまで清浄な心を得て
極楽という最高最勝の果報が与えられた状態でも怒り(苦しみ)に満ちる事がある

修羅道は落とされる場所でなくて、自らの意志で落ちる場所で
神になっても毒に冒されて苦しむことがあるという絶望もあるけど
一方でその神様の中の人間性が、人間と神様の魂が地続きなんだと思える部分でもある



修羅道は生きてる間の思想が仏様で
死んで仏に成ってから人間になった

だから前半の修羅道が理解できなかった



私には仏様の言っている事や行動は理解できても
その本質は全く理解できていない

みーちゃんの先生が何を考えているどんな人なのかは知らない
だけど、だから先生の生き様は縁覚に見える


生きているのに遠くに見えて
これが物理で測れない、悟りに似たものを持った人、つまり仏と人の距離なんじゃないかと思う

自分の中で先生に対する感情を「みーちゃんを救ってくれたお医者さんだから特別に感じるんだ」と些末にする事も出来るけど
なんだかそれをやってはいけないと本能的に感じる
それをしたら私は二度と真理を理解出来なくなる気がする


勝手に他人を神様に仕立て上げているんじゃなくて
自分の為でなく命を救うという
俗物的な褒美も無く慈悲を持てるという原理を
私の生きたレールの中には無かった原理を理解したいだけ

弱っているものは助けなきゃいけないという焦燥感に駆られたただの姉から解放されたいだけ

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