歌う事は『好き』ではなかった



私は、造形化しないと心を見せる事が出来ないんだと
だから歌を歌っているんだと知った


タイムテーブルを気にして歌ってる時がほとんどなんだけど
たまにそういうのを気にしなくて良い時もあって
例えばメドレーの中間で歌を歌ってる間とか

そういう時に歌ってる自分はあまり取り繕って無いなって
こういう風に見られたいからこうしてる、みたいなのって
ステージ上でもお客さんと喋ってる時も、友達と二人でいる時でさえあるのに
歌ってる間だけは何故か無い


私の歌には興味無くて、私と話すのが好きだから来てくれるお客さんも居るし
友達でも、私の音楽が好きではない友達も居て
じゃあその人達には心許さないのかってそういうことでは無くて

舞台上の私自身の本質というものには興味が無い
だけどその本質が頑張って作った私という造形は愛してくれる人達
だから愛しいし嬉しい

人形の中身まで愛さないといけないなんて事は間違っても無い
逆に黒子の私だけ愛されても、じゃあ私が頑張って操作してるパペットショーはつまらないかい?となってしまう


私の場合、ステージ上で歌ってる私が黒子で
ステージから降りてみんなとお話ししてる私がパペットなんだなって
だから、ライブ終了後に私と話すのが楽しいと言ってくれる人の言葉はすごく力になる
あまり話し掛けては来ないけど、ライブ良かったってツイート見つけるのも力になる


取り繕ってる私も、取り繕ってない私も
どちらも認めないと許さないなんて全く思わない
ただ、どちらか一方になる事はできない
だからどちらも存在する事を受け入れて欲しい

私は別に意図して嘘を吐いてるんじゃない
自動的にそうなってしまうだけ
そこに苦しみがあるわけでもない

バランス良くやってこれた
だけどみーちゃんが居なくなって、裏側の私が表出してきて、表側の私が壊れた
みーちゃんが
最初から歪んでる私のバランスをずっと均等に保ってくれていた


唯一音楽以外での心の開示方法
それがみーちゃんだった
私、みーちゃん以外の存在に
生々しい感情をそのまま見せる事がこわくてできなかった
だから歌詞にして、文字にして、造形化しないと
アートにしないと人には心の内を見せられない

本当の自分をどこかで上手く表出させないと生きていけない
だから音楽無くなったら私は
この本当の私を力で殴って押さえつけるという方法しか取れなくなる




「トキさんは歌えなくなっても曲作りが出来るから良いじゃないか」
って、死ぬ前にわりと言われて来た

元気付ける為の言葉なのに、なんでこんなに傷付くんだろうと思ってた

「曲が作りたいの?歌が歌いたいの?」
と友達から聞かれた時に、どっちもやりたいって答えた


やっとわかったんだけど
曲を作るのも歌を歌うのも
やりたいんじゃない
本当の心を表出させる唯一の方法だから
やらないと自分が壊れてしまうんだと思った


夢とか娯楽とかじゃない
本当はステージに立ちたいわけでもない
でもこれ以外の心の見せ方を知らない
曲にすれば醜い心を見せても許される

死にたいと言っても誰も耳を貸さないけど
どこかに飛んで行きたいと歌えばみんな聴いてくれる


私は世の中に出してない曲もいまだにいっぱいあって
自己満足の中で収めて終わりにしてる

心が常に動いていくから
何曲も作り続けている


私は沢山の人に愛される曲が書けない
沢山の人の心を平均化した時に使われる言葉とか
万人が愛する言葉とか
そういうのをわざわざ拾いにいく作業が私にとって何の意味も価値も無いから出来ない
お金とか名声に価値を感じないから出来ない


アートは商売にならないんだね
商売上のアートが結局優位な世界だから
独りよがりな万人受けしないものは些末に扱われる
再生数で判断されるのが真の音楽じゃなくなれば
みんな頑張って豪華なPV撮らなくても済むのにね


みーちゃんを失った今
音楽以外の心の開示の手段は無い
気の許せる仲間と喧嘩したり、泣き合ったり
走って走って汗をかいたり
沢山食べたり
親に感情をぶつけたり
没頭できる趣味を見つけたり
他の人がそうやって心を開放しているように
私はそれが曲を書いて歌うことになっただけ

そういった意味で、曲に関しての承認欲求はあるんだ
歌ってる私かっこいいとか
歌をつくった私すごいとか
そういう承認欲求ではなくて
自己開示している中身に対しての承認欲求はきっとある
だから月子さんに「曲の世界観が良い」って褒められたのは今でも嬉しいなあ




私の心は
『歌ってる自分』というもので承認欲求を稼ぐ歌手を拒否してしまう
歌以外の手段でも満たそうと思えば満たせるなら
コスプレでも水着でもダンスでも、そういうので認められた時の心の安らぎが歌と変わり無いなら
私に歌ちょうだいよって思う

私は歌でしか自己開示できないのに
肺壊れちゃったんだよって


心が拒否するっていうのは
私に無いものを持っている事への嫉妬

これがまさしく仏教で言う所の四苦八苦で

どんなに求めても手に入らない求不得の苦しみ
心や体が思い通りにならない五蘊盛の苦しみ
そしてそんな気持ちになってしまう相手に生きてる限り必ず出会ってしまう怨憎遭の苦しみ

相手は何も悪くない
私を苦しめるのは私自身の心の弱さでしかない
そこで対峙した相手を恨んだり憎んだりする事は一時的に心を軽くできるかもしれないけど苦しみは消えない
私の苦しみは相手が私に与えているんじゃない
私が元々持っている弱さが表出して苦しくなるだけ

人間で居るから苦しい
この世の娯楽に心躍る限り、苦しみとも共存し続けなければいけない

スッタニパータという仏陀の生の言葉が載った本に『蛇の章』というのがある
私相変わらず本質を理解せずに歌詞を書いていたわけだけど

池に生える蓮華を、水にもぐって折り取るように、すっかり愛欲を断ってしまった修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。 ──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
スッタニパータ 蛇の章


この言葉を歌詞にしたけど、あまり理解できていなかった
けど今ならわかる気がする

綺麗な花を折り取るなんて出来ない


と感じる時点で人間だ

綺麗だから、花だから
と自分の中でこの世にあるものに序列を付けている時点で、その逆も心の中で起こりうる
花を綺麗と思う事は、相対的にその周りに漂う腐った葉などには綺麗と感じない事でもある
煩悩があるから何かを愛する、そこに執着が必ず生まれて
善悪、尊卑、そんなものを自分勝手に定めてしまう

悟りを開いた者は花を綺麗と思わない


と安直に捉えてしまっていたかもしれない
だから曲の中で天上道は仏の言葉の通り蓮華を折り取った


違う

悟りを開いた者は花『だから』綺麗と思わない

踏み荒らされた花『だから』哀れに思わない
そう感じるようになった者は、人間の頃の感覚を捨て去る
蛇が皮を脱ぎ捨て去るように

蛇の章はそういった事が書いてあるんだと思った
違うかもしれないけど



ほとんど今に残る仏陀の言葉は必ず誰かの解釈が付いてくる
仏の言葉を色んな人が色んな解釈をしていくから、こんなにたくさんの宗派があるわけで
その中でスッタニパータは最古の仏典って言われてるから
もしかしたら、誰にも変換されていない仏陀の生の言葉に一番近い事が書いてあるんじゃないかと思う

スッタニパータの内容はすごく難解だから解釈が難しいけど、だからどう自分が解釈するかで悟りの道も変わっていくと思う

本当に言葉通り『悟った者は花を綺麗と思わない』って言いたかったのかも知れないし
だから天上道の解釈も別に間違ってない

蓮華を折り取れば悟りを開けると思ったならそれで良いよ
天上道も人間だし


何かに楽しさを見出した瞬間、必ず苦しみも待っている
何かの苦しみを感じればまた、心救われる出来事も起こる

人間で居る限りその輪廻から逃れる事は出来ない




前にお友達のお坊さんが「人間道がなんだかんだ一番良いと思う」と言っていて
幸せな時にはそう感じるのかもしれないとも思った


でも私は、みーちゃんという私にとっての全てを失って
どんな娯楽と共に居ても何も満たされない事を知ってしまった




私は早く人間じゃなくなりたい
みーちゃんと共に早く肉体捨てて、意識という量子エネルギーになりたい
そう思う時点で悟りからは遠いんだろうけど

楽しいと感じた瞬間、まだ人間なんだと思うから
この苦しみが無くなるなら楽しいも無くなって全く構わないから

どちらも私の中から消え去って欲しい

蛇が皮を脱ぎ捨て去るように

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