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なぜ歴史好きでない僕が大学院に行ってまで歴史学を専攻し続けるのか。

 ※校正をしていないので、文章が拙いですが、お許し下さい。
 自己紹介の時に似た話をしましたが、僕は、そこまで歴史が好きではありません。しかし、僕の夢は社会科の教員になることですし、来年度からは早稲田大学の文学研究科日本史学コースに進学します。歴史が大好きというわけでもないのに、

     「なぜ日本史学を?」
   「なぜ社会科教員を目指すの?」


と、そんな疑問を僕は友人、家族からもよくぶつけられます。今日はそういった疑問に対する僕なりの解をここに示そうと思います。(あくまで現時点での考えです)

 僕には、戦国時代好きの父親がいます。父の知識はとてもすごくて、史学科の僕でも知らない人物を沢山知っています。そんな父親のもとで育ったので、僕は戦国時代に対して、細かくて嫌だという偏見を幼い時から抱いていました。大学に入ると、「日本史における荘園制の仕組みを上手く説明できない、できるようになりたい」という理由から、僕は日本史の中世史ゼミを選択しました。
 ここで厄介なことが起こります。日本中世という時代区分の中に、戦国時代が入っているのです。ゼミに入る前から戦国時代が中世の中に位置づけられていることくらい、分かってはいましたけど、やはり嫌でしたよ。上手くなりたいと思って部活入ったら、嫌いな友達が既に所属してたみたいなもんですよ。厄介…嫌いな人間が身近にいる…そんな感覚でした。紆余曲折あって、僕は中世のなかでも戦国時代を避け、室町時代を専攻に扱うことになり、論文を書くにあたっては、当然の如く沢山の古記録.古文書.先行研究に目を通しました。それに、自学のゼミだけでなく、他大学の院ゼミや、各地方の歴史学研究会に出席することで、研究とはどういったもので、教科書の文章の裏には数多の学者による研究がある、といったことを知りました。教団に立ち、授業を行うとなった時に、教科書を読みますが、その教科書の文章の裏にある研究をないがしろにして教員になることはできない、研究者の方と一緒に研究をしてみなければならない。そう思うようになりました。そこで、それまで考えてこなかった大学院進学を見据えるようになっていきました。

 また、僕のように、歴史が好きじゃないという人は、中高生のなかにも多くいると思います。歴史が好きではない人の目線で授業をすることも大事なのではないか、と思っています。あまり歴史が好きじゃないといいつつ、僕は歴史の魅力については少なからずある程度理解しているつもりですし、僕が今の自分の性格を構築できたのは、確実に歴史学を研究したことが一つ、要因として存在すると思います。今も昔も変わらない日本人の姿(例えば、室町時代の日記から確認できる、二日酔いしている官人の姿と現代日本におけるそこらの酔っ払いの姿)や、どんなにすごいなと思う人物でさえ、ミスの一つや二つをやってしまうこと、そんな姿を見て、人間は間違いをしてしまうのだから、許せる範囲内で人の間違いを許してあげようと思い、許せる寛容さを僕は身につけることができたと思うし、どんなにすごい人だって最後は死ぬ、命は何にだって一つ。だからこそ、生き物は大事にしなければいけないな。など、当たり前のことを再確認しつつ、優しく寛容になれた。明らかに高校生の時までは大人の言うことに反発したり、自分とは違う反対意見に対しては否定しまくりだった。歴史学を研究したことが、僕を少し変えてくれたと思ってます。歴史学を好んではいないけれど、そういった歴史学の魅力を僕は感じることができた。こうした経験から、大学院に進学して、もう少し研究してみたいと考えたんです。魅力については伝えられる、そうすることで教え子達へ、学問への入り口を提供することができる。それを社会科教員として行うことも、決して悪いことではないのではないか、と考えています。

[そして最後に]
社会に役立たない学問と言われても、僕は歴史学も役立つとはっきり言いたい。どこが役立つかって?そんなの上述の通りですよ。人の人格形成に歴史学は役立つんだ。優しい人間が増える可能性を秘めてるんだ。そういう人間はきっと社会に出てたくさんの人を助けるんだ。歴史学は、人の内面を美しくすることに寄与するんだと思う。だから歴史学という学問を役に立たない学問だなんて捉えないでくれ。そう僕は考えてます。

脱線しましたが…まとめると、

・歴史学のおかげで、優しくなれた。
・歴史学を通じて今の自分が形成された。
・学者による研究をないがしろにして授業を行うことは自分にはできない、研究者の方と少しは一緒に研究してみる必要があると感じた。

以上の理由により、僕は大学院進学を目指したんです。


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