ベートーヴェンの交響曲を初めて聴いた7歳時の印象を掘り起こす
最近、私のSNS友達がクラシック音楽にハマりつつあり、ベートーヴェンの交響曲を全曲聴いてもらえた。布教者冥利に尽きる!そこで、今日は初めてベートーヴェンの交響曲を聴いた当時7〜8歳の自分を思い返しながら、その曲のどこに惹かれたのかを順番に語っていきたいと思う。
ベートーヴェンに触れた前提条件
まず、どんな状態で7歳の私はベートーヴェンに触れたのか語っておこう。当時知っている交響曲といえばモーツァルトのは25、28、29、31、33、34~41番。ハイドンは88、92、93、94、96、99、100~104番、ドヴォルザークの9番だけ。
私は既に形式フェチに染まりつつ、CDの解説から得られる情報が限られているせいで、リピートの有無次第であっさり迷子になっていた。今回は便宜的に音楽用語を使う。毎月親にクラシックのCDを1枚だけ買ってもらっていた私は毎度安いワゴンセールの棚に連行された(カラヤンの¥2,800の『悲愴』なんて以ての外だ!)ので、カラヤン指揮フィルハーモニア管弦楽団とセル指揮クリーヴランド管弦楽団という50年代の全集のバラ売りで回収していた。
第1番ハ長調 Op.21
衝撃ポイント→ ①コデッタで第1主題をガンガン鳴らすのはダサい?、②終楽章に序奏があった
①は皇帝協奏曲なんかも典型例だろう。そして展開部を第1主題ではじめるのだから、どれだけ主題に自信があったのかうかがえる。それでも、ハイドンやモーツァルトのキャッチ―さには敵わないなとボヤっと思った。1番でこの出来は凄いことなのだが、5番だけを先に聴いていた私の第一印象は「Allegro con brio=ベートーヴェンのどや顔」の図式を強化しただけだった。
②はAdagio付きなんて初めてだったから。今思えば、先に聴いていた新世界の第4楽章も短い序奏があるが提示部と密着したAllegro con fuocoには異様さを感じなかったのだろう。終盤でまた減速する手の込みようも斬新だった。
第2番ニ長調 Op.36
衝撃ポイント→ ①コーダに力入れすぎ!、②「スケルツォ」って何だよ!?
①は終楽章についてはそろそろ終わってもいいだろ?というくらい仰々しい構造をしている。再現部のコデッタとコーダが融合しているか、コーダが僅かしかないハイドンやモーツァルトしか知らない当時の私には、ベートーヴェンの盛り具合は「やり過ぎ」に思えた。やはりAllegro con brioの彼はドヤ顔している。
②は文字通り。『新世界より』の第3楽章はMolto vivaceなのでScherzoなんて表記はなかったし、Menuettoじゃないな・・・という違和感も持てなかった。最初に聴いた交響曲だし。この第2番のスケルツォという枠は第1番のメヌエットと何が違うのかもよくわからなかった。し、後の交響曲を聴いてもそのライン引きはあえてぼかしてあるように思えた。
第3番変ホ長調 Op.55
衝撃ポイント→ ①長っい!、②そのせいで形式がわからない
①もうお分かりいただけると思うが、こんなに一つの楽章が長い交響曲は当時の私には全く未体験だった。そして免疫がなかった。一つ言えることは、ベートーヴェンはまたしてもAllegro con brioなドヤ顔を三度目の正直で繰り出してきたようだ。そう思えたくらい第1主題偏重主義な音楽。小2の私は第1楽章から第2主題を見つけられなかった。
②これは第2楽章と第4楽章のこと。当時の私は第2楽章=変奏曲かソナタ形式かシンプルな三部形式と相場が決まっていたのである。それが演奏時間の2割ほどで中間部に入り早々に再現部に入ったと思ったら、何度も変転する。解説書の"三部形式"を完全に鵜呑みにしていた私は、後年あらゆる解説は疑うべしという信念の元で余生を過ごすことになった(マジかよ)。変奏曲なのに全く異質な主題に発展する第4楽章も迷宮入り確定だった。
第4番変ロ長調 Op.60
衝撃ポイント→ ①序奏部だけで変奏じみたことをしている、②展開部があるのかないのか
①同じような楽想を何度も繰り返すクドい序奏はモーツァルトの『プラハ』以来だった。耳がハイドン慣れし過ぎていた。そして、カラヤンとセルのリピートすっ飛ばしに最も悩まされたのが3番とこの4番であった。一体どこから反復に入るのだろうか?その悩みはFMで朝比奈と小澤が解決してくれた。同時にカラヤンとセルがすっ飛ばす気分も何となく伝わった。
②展開部がないことはハイドンのフィナーレでよく遭遇してきたが、第2楽章でははじめて。おまけに再現部が結構展開的なので割と迷子になる。第1番と第4番それぞれの第3楽章を聴いて5番の動機は案外前から念頭にあったのではないかと考えたものだ。
第5番ハ短調 Op.67
衝撃ポイント→ ①動機一つで作曲してみせる天才、②ダ・カーポなしの楽章連結という反則技
①動機の話は鉄板ネタ。ハイドンの『太鼓連打』のような二重変奏曲をやっていようが、連結の離れ業をやっていようが運命の動機は終始鳴り続ける。人生で2番目に聴いた交響曲なので、ここまで執拗にやるのが普通なのか?と思ったが、この曲が尋常じゃないことには結構後になって気が付いた。
②第3楽章はダ・カーポするのが自分にとっても定説だったが、楽章連結は実は①より遥かに衝撃的で困惑した。理由は少年の私はクラシック音楽をカセットテープに録音する際、構造把握のために楽章の間を長めに空ける工夫をしていたからだ。因みに録音する理由も色々ある、CDは外出に持っていけないけど、カセットウォークマンなら・・・という時代だったから。
第6番ヘ長調 Op.68
衝撃ポイント→ ①連結と形式打破の合わせ技、②長すぎるコーダが癖になってくる
①3楽章だろうが連結されて困惑したのは5番と同様である。カラヤンはガチのすっとばし志向だと気が付いたのもセル盤を聴いた時だ。私を困惑させたのは連結技だけではない、第3楽章のダ・カーポなしは5番同様だが、第4楽章には形式らしい形式がないし、第5楽章は第2主題が見つからない。形式フェチの私には6番は最も難しかった。
②CDで聴く頃にはラジオで聴いたこともないにもかかわらず、5番同様に第1楽章の冒頭だけは知っていたのだから天下のベートーヴェンだ。しかし、何のテレビドラマだったか失念したが第5楽章が使われていて、自分が本当に好きなのは第5楽章の方だと目覚めた。コーダが全体の4割くらいあるが、終わるころには名残惜しくなるのだ。(わかるぞ、ケーゲルよ、ちょっとあざといけど)
第7番イ長調 Op.92
衝撃ポイント→ ①速度指定の異様さ、②抜群のドライブ感
①まず序奏にテンポ指定がないことに困惑した。sostenuto(=少し音を保持して)の意味は知らなかったが、速度指定一覧表にない単語なのは確かだった。それって演奏する人が困るじゃないの?そこは決めようよ、と。あと、よく取り沙汰される第2楽章のAllegrettoは『軍隊』交響曲以来だったせいかそれほど独自性は感じなかったが、"第2楽章はAllegrettoまでならいいらしい"と勝手にライン引きをしておいた。
②この曲のリズム重視はよく指摘されているが、第一楽章第一主題が始まった時の鮮烈なイメージはそれはもう凄かった。モーツァルトの29番のせいでイ長調が大好きな私は第4楽章まで興奮がおさまらない。今回もきましたよAllegro con brio、こうなったらベートーヴェンにはお手上げだ。
第8番ヘ長調 Op.93
衝撃ポイント→ ①ここへ来て古典回帰?、②第4楽章の異様な構造
①ここまでくると緩徐楽章とも言えない第2楽章もだが、真っ当にメヌエットしている第3楽章も彼の交響曲では独特だ。第3楽章が二つある感じ。因みにヘ長調という調性にはハ短調やニ短調に顕現した自己顕示欲を剥ぎ取った先にあるベートーヴェンの素顔を感じる。なぜ5番や7番ばかりウケるのか?と作曲者が不服だったエピソードに私は同情した記憶がある。障がい者だからといって苦悩一辺倒のはずがない、ゴキゲンで屈託のないベートーヴェンもいていい。
②ロマンティックでカッコいい主題には大いにワクワクしたが、7歳の私にはソナタなのかロンドなのか、どこからコーダなのかもわからないという、7番以上に晦渋な構造だった。区分で混乱させようとするスタンスはハイドンの終楽章と同じで、その点でも古典的なのかもしれない。
第9番ニ短調 Op.125
衝撃ポイント→ ①第一楽章のリピート記号なし&第二楽章のリピート盛り、②最初から"合唱付き"じゃないんだ
①第一楽章の爆発的な再現部の開始は衝撃的だったし、いまだにその燃焼度は重視する。あるべきところになくて、ないはずのところにリピート記号にはまたしても困惑した。トスカニーニやクレンペラーの第二楽章で"また戻ってるよ"と迷子になった記憶がある。そもそも主部だけでソナタ形式って複雑過ぎる。
②そう、私はてっきり最初から歌が入ると勝手に思っていたので、一向に入らずに50分待ちくたびれてようやく"あの部分"と対面することになった。第4楽章も型破りな構造なのだが、協奏曲風ソナタ形式を知ってからは比較的悩まなくなった。この時到達した声を楽器と見なす聴き方のおかげで、未だに歌モノに執着がない。
総括
これを書き殴っている間に、若きカラヤンは6曲目を振り始めた。もはやオッサンになった私から見ると、形式でこんなに悩む小学生いたのね、とちょっと感慨に耽っている。後年の知見も僅かばかり交えたが、本当にこれで悩んで授業を聴いていなかったのだ。
先ほど、母親に「小学校の頃CDを毎月買ったの覚えてる?」と聴いたら「あんたが何を求めて、何を識別して買っているのかさっぱりわからなかったし、多分未だに理解できない」と返ってきた。
とにかく、ベートーヴェンの数々の反則技や既成概念の破壊は、当時に始まり今この瞬間も私に自由の体現の道標を与え続けている。そこには聴く音楽以上に哲学的次元の影響を想定してもいいかもしれない。
今回は友人がきっかけで書いたが、ここを開いて4,000文字も付き合っていただいた方全員に感謝したい。
最後まで読んでいただきありがとうございました!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?