料理の話

夏だ。火の前に立つのもおっくうになるほど、暑い日が続いている。こんな日はさっぱりした冷やし中華とか冷しゃぶとかを食べたいなあと思っても、やはり、火の前に立つことは避けられない。冷たいまま食べられる冷やし中華の麺なぞを見かけても、何となく食指が動かない。やっぱり、火を通したものの方がおいしいと思ってしまう。

人間とほかの動物が決定的に違うのは、火を使えるかどうかだ。食べ物を加熱することによって効率的に栄養を摂取することができるようになったから、無駄のない消化機能を手に入れ、エネルギーの余剰を脳に回すことができたといわれているほど。火は人類の偉大な発明だ。だがまあこんなに暑いと、さすがにありがたみを感じられるわけもない。

私が料理の工程で一番好きなのは、野菜を炒めるときだ。カレーを作るときに玉ねぎをはじめ具材を炒める工程があるけれども、私はその時に鍋からのぼりたつ香りがたまらなく好きだ。強いスパイスの香りに染まる前の、油をまとったゴロゴロの野菜たちが、一番おいしそうに見える。カレーなんぞになるな、このままおいしく食べられればいいのに。

一人暮らしをしていた時は、自炊をしたくてもできなかった。調理はうまくできても、余った食材をうまく捌く術を知らなかったからだ。食べるのは自分しかいないし、私は仕事の都合で家を空けることも多かったから、冷蔵庫の中で食べごろを過ぎてしまう野菜も多かった。

世の中に横溢するレシピの数々は簡単においしく調理することを教えてはくれても、余った野菜をうまく捌くことは教えてくれない。こればかりは経験と計画性という、料理の技能とは全く異なるスキルを要するなあと理解したところで、私は実家に戻った。作った料理を誰かに食べてほしかった。

自分のためだけに料理をするというのが、どうやら私には向いていない。
一度、きのこの炊き込みご飯が天才的にうまく炊けたことがあり、狭いキッチンで一人驚嘆の声を上げた。鍋からスプーンですくった炊き立ての香ばしいご飯を、誰かの口に運んであげたかった。どう?と、聞いてみたかった。でも、誰に?

それから私は鍋で料理をするのが億劫になった。冬、ホワイトシチューを作りたくなったけれど、焦がさないように懸命に作ったところで私しか食べる人はいない。こんなに白くてきれいでおいしそうで、優しいものなのに、私以外の誰の口にも入らず、誰のお腹も満たさない。そのことが、想像しただけでも無性に悲しかった。

今では家族のために食事を作ることもあれば、恋人のために作ることもある。誰かのために作るのなら、丁寧に作ろうという気持ちにもなる。
彼の家で調理をするときは、まず簡単に作れるおつまみ(梅キュウリやミョウガとしらすの和え物、水菜のサラダ、チーズクラッカーなど)を作って出す。彼はキッチンのそばでそれをつまみに一杯飲みながら、料理をしている私にいろんなことを話して聞かせる。聞いていることもあれば聞いていないこともある。でも彼はその時間がとても好きなのだという。

これが、「私だけ作って大変な思いをしている!」と感じるタイプだったらまあ務まらないけれど、私はあまり苦にならない。自分が作る料理の数々で彼を感服させるのが好きなのだ。いったい何と戦っているのか。彼に「う、うまい」と言わせるために、私は今日もせっせとレシピを探す。


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