優しい乱暴 原案小説その5

殺し屋は阿呆面が地面に向かって垂れた。突然光の中に現れたのは蟹江だった。蟹江は殺し屋の垂れる顔を両手ですくうつもりだったらしく、差し伸べた手を見ながら「あぶねぇあぶねぇ」と小声でおどけている。水野ははち切れるくらいの笑顔をしたのだが、それが蟹江のおどけのせいだったのか、老婆を救うという発見のせいだったのか、由利はどうでも良かったのに聞く。
「どうして笑う?」
水野は答えるのが面倒だから笑い続けた。蟹江も真似をして笑ってみた。由利も聞いたくせに笑い出して、殺し屋は笑えなかった。
「どうやって救う」
「あぶねぇあぶねぇ」
「何があぶねえの?」
「顔が地面に垂れそうだ」
「そんなわけあるかい」
「だってほら、雨だれみてえに、今にもぽちゃんと」
「顔が雨だれってそんなの」
「阿呆面のせいで足りない考えがこぼれちまうんだよ」
「俺の考えだよ」
「由利が阿呆面とは言ってないよ」
「でも俺の考えだ」
「それを理解出来ないから阿呆面になったんだよ」
「殺し屋?」
「もう笑うしかないよ」
蟹江が阿呆面をしてみせ、由利に両手ですくえと合図する。
「あのおばあちゃんを救うって事は、恋した男を捜すってこと?」
「そうだよ」
「死んでるかも」
蟹江は正しいと殺し屋が反応する。
「じゃあ戦争から退治しないとね」
蟹江が真顔で。
「そんなの無理でしょう」
「無理なの?」
「無理か」
「無理だ」
考えてるうちにどの戦争なのかわからなくなった水野が外を眺めた。
「いい天気だね」
「夜だ」
「星がたくさん見える」
殺し屋が申し訳ない小声で会話に入る。
「どの戦争も退治出来ないよ、過去のは絶対に無理だし、今起こってる戦争だって俺には無理だ、だから俺にはたぶんあんたを救えない、まあ殺し屋なんだし人を救えないなんてどうってこと無いけど、なんだかごめん」
水野は月明かりの中で、諦めてるの、答えは簡単、月の重力が安定を作るの、と意味不明な事を呟き、簡単な答えを教えてくれる。
「おばあちゃんを探そうよ」
由利は知ってるのだ。老婆の居場所を。
「まずバス停に行こう」
水野が老婆に初めて出会ったバス停に行く事にした。
「遠くないよ、すぐ近く」
4人で校舎を離れ、バス停まで歩いたけど、誰も居なかった。
今日の運行はあと最終だけらしい。
「乗る?」
「乗るよ」
由利が即答した。
「どこに行くの」
蟹江が聞いた。
「俺ね、知ってるんだよね、八十五歳の女の子。」
殺し屋が乗らないと言い出した。
水野に繰り返し謝り続けて、バス停を離れていく。繰り返し振り返り手を振るからしつこくて面倒臭くなって、三人は鼻をつまむ事にした。殺し屋はあまりの無力さに闇に消えて行く。
「椰子の実の女の子を恋人にしてあげるよ」
蟹江は驚いて目玉をいつもより大きくしたけどすごくピカピカしていて、目が乾いて涙が出てしまったよと誤魔化す事にして泣いたので、たくさん笑うしかなかった。
たくさんの光が届いて、最終のバスが来た。
「乗る?」
「乗るよ」
水野は最初に乗っていて、なぜか女学生の制服の格好をしていて、ビニール袋に缶ビールを隠しながら飲んでいる。

 銀河バスに乗って

バスの窓から外を眺める女学生は水野知子だ。今日はいい天気、星がたくさんと酒を飲んでいる。他に客は、天使みたいな服装の女の子がひとり。あとは由利と蟹江だけだ。
「お前、濡れてる」
蟹江の隣に座った由利が蟹江の服が少し濡れている事に気がついた。
「たくさん笑いすぎたんだ」
「そりゃいいね」
天使がバスの中をふらふらと歩き始めた。
「あぶないよ」
酔いどれの水野知子が天使に注意した。水野を見る天使の顔は、八十五歳の女の子の顔に似ていた。
「蟹江のお母さん」
「なに?」
「似てるんだ、八十五歳の女の子」
「そうか」
「あの天使」
「うん」
「蟹江のお母さんに似てる」
「そうかな」
ふらふらした水野が天使を捕まえようとしたけど、するりと天使は逃げて由利の前に立つ。
「お母さん」
「俺?」
「次の駅で下りるよ」
「俺は違う駅」
「お母さんの駅だよ」
「俺がお母さん?」
「早く支度をして」
天使が座っていた席から荷物を持って由利に渡す。黒い皮の鞄には見覚えがある気がする。開けろと天使が言うので開いてみると、女物の服と女性の髪型のカツラが入っている。着てみてと言われて中身の服やらを開いてみると、蟹江も楽しそうに着てみてと言う。酔った水野まで参加して着てみてと言うので、バスの後ろの席に隠れて由利は女物の服と女性用のカツラをつけて立ち上がった。なぜか天使が拍手したので、蟹江と水野も拍手をした。由利はバスの窓ガラスで自分を確認した。外の風景が暗闇になるとふっと自分が写る。黒いオカマだな、こりゃ。化け物だ。由利はそう思ったけど、天使はお母さんと言い、水野はかわいいと言う。蟹江は踊りましょうと由利を誘う。
「バスの中だけど」
「難しい」
「色々難しい」
「それは素敵な事だよ」
バスの中で踊る事になった。なんだか現実が遠ざかっていく気分が由利にはしていた。蟹江の手は冷たかった。ゆれるバスの中でゆらゆらと蟹江のリードでチークダンスをして、なんだか現実が遠ざかっていく気分が女装の由利にはしていた。どうせ女装の化け物なら楽しまなきゃと、ハチャメチャにおどけて踊り出す由利、バスは揺れ、転がりそうになるが蟹江が巧みにリードして激しくそして巧みにめちゃくちゃなダンスが続く。酔いどれた水野がベートーヴェンの月光を両手の仕草で演奏する。天使が月光だと言い当てたのだ。
「叶えたぞ」
蟹江が由利をまじまじ眺めて言う。
「女の子と楽しい事がしたい、めちゃくちゃに踊りたい」
化け物のつもりの由利はそれはちがうぞ、俺は由利寿文だし、ここはダンスするような場所じゃないバスの中だと考えていたが、「なんでもいいや」とだけ言う事にした。
「俺は化け物だぞ、女の子じゃない、ここはバスの中だぞ、ダンスする場所じゃない」
天使が由利を叱る様に代弁した。
由利はそれを無視して「なんでもいいや」と言った。
水野の指が実際の鍵盤を叩く様に、月光が聞こえ始めた。
「信じる事ができれば、なんでも叶うんだよ」
天使は悲しい顔をした。
由利はそれを見逃さなかった。
もしかしたら、我々は悲しみばかり信じすぎているのかもしれない。
天使は少し背伸びをして、下りますのボタンを押した。バスはすぐに停止した。
由利は蟹江に先導されバスを下りるとそこは由利が過去に住んでいたアパートの一室だった。
「ただいま」
疲れた顔の女の髪は少しべとついている。
「ただいま」
お互いにただいまと挨拶するなんておかしな夫婦だ。
由利珠緒は由利寿文の妻だった女だ。
「おかえりって言って欲しい?」
「おかえり」
「そうじゃなくて、私に言って欲しい?」
「そうね」
「寂しいのはいつも私って事にしたいんだもんね」
「そうね」
「そのくせ本当に寂しいのは俺だって態度」
「ちがうよ」
「ちがわない、私がそんなに寿文を好きだと思う?」
「思わないよ」
「愛情は永遠だって決めてるの?そのほうが正しい人だから、美しいから、永遠って勝手に流れる時間じゃないのよ」
「そうだね」
「何でも受け入れてるふりで、私を無視してるんだよ、お前は」
べとついた髪が悪霊の雰囲気を演出するように見えた。悪いものはいつもべたべた、べたついてるんだよ、糖分は人体に最悪だろうと心の声が言ったつもりだったが、寿文の左頬が鈍い音で叩かれた。あまりにも鈍い音だったので珠緒はもう一発やり直して叩いて少しかすった様に当たった。もう不意打ちじゃなかったのでごく自然にかわしてしまったのだ。それでより珠緒は逆上して、右頬を鮮やかに叩いた。あまりの鮮やかさに珠緒は口元が緩みすぎてその拍子にげらげらと笑い出した。
私だけがあなたを愛している、という結論に達した発作だった。
私があなたを、男を、人を、誰よりも愛している、誰よりも優しい、その事に全ての正義をゆだね暴力を肯定し狂気を受け入れる、こみ上げる笑顔の発作だと思えば許される。由利君、寿文君、君はいつでもみんなに愛される、誰よりも愛した私にだけ嫌う資格があるでしょう、そうでしょう。
「お酒、赤ワインでいい?」
「飲んでいいの?」
「いつも楽しく誰かと飲んでるんでしょう」
「君とも」
「私は退屈でしょう、たった一杯で酔っちゃうし」
「俺ね‥」
「これは最期の一杯だから、退屈だなんて思わないでね」
「思わないね」
「お酒大丈夫なのか」
「だってもうお腹は空っぽだから、大丈夫だよ」
「空きっ腹に酒はよくないよ」
「くそむかつくユーモアはやめてくれる」
寿文は自分が女装してる事を思い出した。それでゆっくり腹を撫でてみた。珠緒はその姿に怪訝な顔をした後、吐き気に襲われている。それでも寿文はその仕草をやめようとしない、続けながら珠緒の姿を見たせいで涙が鼻の奥を刺激してくる。泣くのかと思えば思うほど、涙が止まらなくなった。化物の涙。
寿文がゆがみ壊れるのがあまりにも芝居臭く惨めだったので珠緒の表情は聖母の様に変わる。マリア、なんてなんなのかよく知らないくせに寿文はああ、マリアなんて感じていると、身体の触れて欲しい箇所箇所を触れてくる珠緒の心地良さにほんのり勃起しそうな気分に襲われていた。ただ自分の快楽しか求めていないのだと、自分自身の快楽しか理解出来ないのだと、弱さを曝け出してされる優しさに溺れていたいと思った。
ずっと傷つけあえば、傷つけて、そのせいで傷つけられたふりをしていれば幸せでいられると寿文は考えていたが、死が襲ってきた。
「お腹が空っぽ」
「君とは無理だった」
「どうして」
「私はもっとかわいがって欲しいから」
「するよ」
「君には無理」
寿文は激しく勃起した性器が婦人服のやわらかさに包まれてあらわにならなかった事に心を救われた。こんな格好じゃ無理矢理組み敷く気分にもなれず、静かに珠緒の支度をやり過ごした。ドアの前で笑顔して、彼女は出て行った。重い扉のせいでとても冷たくドアは閉まった。なぜか施錠され,鍵が郵便受けに転がる音がした。少しの静寂。蟹江鳥生がドアを開けた。買い物袋をぶら下げている。
「ただいま」
「おかえり」
いつの間に買い物に行ってたんだ、と由利は疑問に思ったのだが、水野は?と聞いて返事がなく、無心が続く。蟹江が何か調理をしている。何かと聞くとハンバーグと答えて、ああ、ハンバーグを8キロ食べたいんだったなと由利は思い出し、叶えたい事をまともに叶えていない事にほんの少し動揺する。
「あ」
「大丈夫」
「すまん」
「由利がいるからやる気になったと思うし。由利と水野ね」
水野はどこ行ったか聞こうと思うのだけどすぐに聞くのを忘れてしまう。
「ハンバーグ好きなの」
「好きだよ、かなり好き」
「俺もね、昔は好きだったね」
「今は?」
「たぶんね、昔好きすぎて、今は好きじゃないね、昔の好きを越えられないからたぶんね、もう好きじゃないんだろうね」
「ひき肉8キロも買ったんだけど」
「ひとりで食うのが望みなんだろ」
「いくらなんでも食べきれないでしょ」
「水野は?」
やっと自然と水野の事を聞く。
「ハンバーグならビールだからって、買いに行った」
「酒はいいね」
「由利、飲むの?」
「女とやる時だけ」
「あらら」
「すぐいっちゃって恥ずかしいからね」
「なんだか素直だね」
「どんなふうにしたかった?」
「え?」
「したい事を真剣に考えた事あるか?」
蟹江はフライパンに肉を放り、激しく油が飛ぶ音が鳴る。とても激しい踊りみたいな、大絶賛の拍手みたいな、パチパチと連続した音が鳴る。
「考えるけど、どっちでも良く、痛かったり苦しかったりしないのだったら、すぐに死んだっていいよ、このまま生きてりゃいい事あるのかも、かわいい女の子に触ったりできるかも、すげえ金稼げるとか、あるかもしれないけどあったら嬉しいけど、絶対手に入れたいかと言えばそんな事も無く、それなら誰かに嫌われるより、借金して追われるより、死んじまった方が楽かもよ、でも痛いのも苦しいのも怖いからなぁ、ゆるく特に何もなく誰かに優しくされておかえしにちょっと優しくしたりして、ただ自己満足で満足だった気がしたのだけど、やっぱりなんで人は生きるのか、人を喜ばせるためだってアインシュタインが言う俺もそう。恋人に子供ができてね。人を喜ばせる事の喜びを知ったのですよ。彼女がお腹に赤ちゃんが居るって言ったのです、俺にはそれが何なのかさっぱりわかんなかった、彼女が喜んだから俺も喜んだ、友達とか仲間に教えたらみんな楽しそうに喜んだ、俺の父や母も喜んでくれたのだよ、俺は何にもしてないけど、人を喜ばせるってすごいねって、俺生まれて初めてちやほやされて楽しくてね、誰でも歓迎してくれるものだから毎晩宴した。家に帰ると、奇妙な嗚咽して機嫌の悪い女が髪の毛べとべとで悪霊のように俺を睨んだ。俺はそれに苛立っていました。苛立ちすぎてそんなに辛いならやめてしまえばいいのにと考えてしまうのです。その心の内を知られない様に恋人からも子からも逃げて、ただ幻の喜びに浸っていたのです。ある日お腹が空っぽだって、腹を空かしているのじゃない事くらいすぐにわかったよ、だから取り返しがつかない事したんだってすぐにわかったよ、俺が殺したんです、わかったんだよ」
拍手喝采が響き声が消されて行く。
拍手喝采に蓋がされ音がこもり、どこかの劇場の一幕が終わるかの様です。拍手はまばらになり、じゅうじゅうと油のあぶくを吹きながらハンバーグが現れる。ひき肉8キロの巨大な肉の塊。蟹江は楽しそうに肉にナイフを刺し切り分けて行く。いつの間にか水野と天使が席につき食卓になっている。
誰も何にも言わずに肉を食っている。
由利も喋るのをやめて肉を食っている。

その姿に誰か本物の拍手をくれないか。

全部食べ終わって、蟹江が息を吹く。膨れた腹をさすりながら天使が笑顔する。水野がビールとハンバーグを交ぜた匂いのゲップを放つ。由利が水野にゲップで答える。

その姿に誰か本物の拍手喝采をくれないか。

天使の顔はやはり八十五歳の女の子にも蟹江鳥生の母親にも似ている。
だけど、生まれなかった子供の姿でもある様な気がしている。
由利は奇妙な気分だった。
水野は再び女学生の姿だった。
そして蟹江鳥生は老人になっていた。
由利は、女装した自分がもしかしたら老婆になっているかもしれないと怖くなった。天使は由利に両手を差し伸べ、由利が被っているカツラを引っ張り引きはがすと由利の頭には下りますのボタンが付いている。
「私の駅だよ」
天使はそのボタンを押すと由利のカツラを頭に被った。

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