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『牛首村』ラストシーンは必要だったのか【ネタバレあり】

『牛首村』を見た。『犬鳴村』『樹海村』に続く"恐怖の村"シリーズ第三弾。監督は前2作に続き清水崇、主演はKōki,が映画初出演で初主演を飾った。

モデルに留まらず、作曲家としても活躍するKōki,は、今回の演技もすごく良かった。ホラー作品は、人間ドラマと違い、あまり感情の揺れを求められないので、デビューにもピッタリだったんじゃないだろうか。とにかくすらりと縦に長いスキニー姿や長い髪がスクリーンに映えた。おでこも理想系で、あれにするには100万円くらいかかりそうだ。とにかく小さな才能の芽さえチャレンジできる彼女の環境が羨ましくなるくらい良い演技だった。

さて、今回はそんな本作のラストシーンの話をしたい。ネタバレしまくり。ここまで300文字も前置きしたんだから許してね。


本作は、富山の心霊スポット、坪野鉱泉を訪れた高校生が失踪するところから物語は始まる。たまたまその子たちの肝試し配信配信を見た主人公・奏音のクラスメイトが、失踪した女の子が奏音とそっくりだったことに気付き、なにかが引っかかった奏音は二人で坪野鉱泉に向かう。

すると、その失踪者は双子の妹の詩音だったことが発覚する(詩音が双子で田舎で失踪って、魅音と詩音を思い出さずにはいられないじゃない)。

実は奏音、昔何者かに誘拐され、行方不明だったことがあり、両親はそれをきっかけに、奏音を富山から離れて暮らすようにさせたのだ。

詩音を連れ去ったのは、その地で昔行われていた生贄で犠牲になった女性だった。その女性は、深い穴に落とされたものの、周りの犠牲者を食べて生きていたらしい。詩音もどうやら坪野鉱泉を訪れたことにより、何かの力が働き、その女性に連れ去られたようだ。

結局いろんなスーパーパワーが働き(このへんはホラーなのでご愛嬌)、奏音は詩音を穴から救うことに成功する。しかし、辿り着いた先は、昔の牛首村で、さらに、その女性に取り憑かれてしまった詩音は、どんどん姿が豹変する。

「逃げて」と意識を振り絞って、奏音を守ろうとする詩音。しかし奏音は昔二人の思い出の中でも言った「一人ではかわいそうだよ」という言葉とともに、豹変する詩音を抱きしめながら崖から落ちた。

ここまでがすごく良かった。村シリーズの中で一番綺麗にまとまった脚本だなと感じた。

そもそもそのラスボスとして描かれる女性も双子であり、飢饉などを解決するべく、双子の片割れを生贄にするという風習の中で犠牲になった子供だった。男たちに担がれ、穴に落とされる子供たち。つまり、責められるべきは、その変な風習で罪なき子供の命を奪った村人たちなのである。

しかし今は現代。その風習はとっくになくなり、奏音たちには、女性の怨念をどうすることもできない。その土地に生まれた双子だからと言って、恨まれるのは理不尽である。

だからこそ「一人ではかわいそう」という未成年らしい理由で、彼女を穴から出し、抱きしめるという、奏音たちにできる精一杯の方法でCUREしてあげるという点がとても素晴らしいなと思った。

結局崖から落ちるとともに魔法は解け、奏音と詩音は現代の坪野鉱泉にたどり着く。二人とも無事に現実で生きていくことになったのだ。

しかし問題はラストシーン。詩音は携帯を取り出し、姉と話す。振り向くと、なんとあの生贄の女性の顔に。つまり肉体は詩音で、心があの女性になってしまったのだ。

それでいいのか。悔しいさ。そりゃ大人の身勝手な儀式で人生めちゃくちゃにされては、溜まったものじゃない。普通の人生も歩みたかったろう。しかし攻めるべきはそんな風習を作った村人たちであって、詩音を消してしまうのはいかがなものか。

数奇な運命に狂わされ、仕方なく巻き込まれることになった双子が、過去に犠牲になった双子をCUREするのが自分の中での理想であった。この映画は登場する女性たちがすごく強く、賢い人たちばかりだから、そういうアプローチも見たかったと少し悔やまれる。

シリーズの中ではグロテスクだったり心臓が跳ねるような描写が一番少なく、だからこそ脚本がしっかりまとまっているような感じがしたので、最後の最後で残念だった。

しかし、ここ1〜2年のホラーでよくみる冒頭の肝試し配信のような描写、もうそろそろリアリティのなさに辟易してくる。Tiktokとか見てるとわかるが、ああいうの配信する人は制服では行かないし、多くは男が率先(しかも地元を知り尽くしたヤンキーみたいなの)である。また、動画配信者を愚か者として描く傾向があるが、若者からするともう少しクリエイターとしての彼らの気持ちに寄り添ってはみてはどうかと思ってしまう。

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