人生で大切なことは全部、263kmマラソンで学んだ
「100kmマラソンに出ました」というとすごいね!と言われるのに、「263kmマラソンに出ました」というと「へえ」で終わるのはなぜなのか?
距離が長いのもあるでしょうが、多分何が起こるのかよくわからないからではないでしょうか。
でも、意外にも走っているのは普通の中年が多いです。変人かもしれませんが、普通の人。
私も例に漏れずにそう。8年前、持病の悪化がきっかけでランニングを始めたくらいで、陸上部でもなんでもありません。中学校のハンドボール部では、背番号が14人中14番で「絶対に勝てる試合に最後5分間だけ出させてもらえる人」でした(悲しい)。高校では喘息で救急病院に行き、冬に運動すると毎度のこと喘息が勃発していました。体育は良くて3。DNA的にたぶん運動ができるほうではありません。
そんな私でもできたのがマラソンであり、そして生き物としての無限の可能性を教えてくれたのは特にこの、263キロマラソンでした。
この素晴らしさを語りたい。しかしお伝えした通り上記の「へえ・・・」というリアクション。ちょっと寂しいのです。なので、
「263kmマラソンがどういうものか?」
「その道中でどのような出来事が起こるのか?」
「何を学んだのか?」
について、書いてみたいと思います。
50時間の旅路、よろしければお付き合いください。
263kmマラソンとは?
今回のお話の舞台である263kmマラソン。NPOスポーツエイドジャパン主催の「みちのく津軽ジャーニーラン」なる大会です。2023年7月15~17日、青森県にて行われるランニングイベントで、短い部門(166km)と長い部門(263km)があります。長い方の制限時間は51時間。
ちなみに、太宰治の紀行文『津軽』に出てくる名所がチェックポイントに数々登場します。読んでから参加すると、その楽しさは倍増すること間違いなし!(以下参考図書。めちゃおもろいです)
スタート地点は、青森の弘前市の弘前文化センター。1日目の夕方からスタートし、津軽半島冬景色で有名な最北端の龍飛崎を目指して約100キロ北上していきます。2日目は、そこから半島に沿って南下、3日目の夜に弘前に戻ってきます。
イメージがつかないと思うので、平たくいうと「東京駅から名古屋駅まで」と同じくらい。まあ、長いです。
コースマップはこんな感じ。
どんな人が参加するの?
ちなみに、今回の参加者は男性141名、女性22名。
50代が多く、スポーツイベントにしては、年齢層は高め。ぱっと見、みんな普通のおじさまおばさま。
ちなみに、参加資格は”2019年以降に140km以上のレースを完走したことがある人”です。別に誰が出ても良いのでしょうが、「自分で帰ってこれること」を基準にしていると思われます。
青森の奥地に向けて走ると、バスも電車も場所によってはありません。「足痛い、帰りたい」といっても助けにいく人的余裕はありません。よって、自力でバスでもヒッチハイクでもなんでも、戻ってこなければなりません。この「自分でなんとかしてね感」を甘んじて受け取れることが必須なようです。
短い部門を走った感想「二度と出るもんか」
ちなみに、私は4年前の2019年に「みちのく津軽ジャーニーラン」の177キロ(=短い部門)に参加、完走した経験があります。
ぶっちゃけ、当時走り終えた感想は「二度とやりたくない」でした。31時間でなんとかゴールしましたが、尋常じゃなくしんどかった。リアルに失神していた気がします。睡眠不足と疲労により幻覚も見えました。(見ていたはずの車が、視界から一瞬でワープしたり、道のこべりついたガムの跡が消えたり)
そのそばで、さらに長い263キロ(長い部門)を走る人を見て「絶対自分には無理」「人間じゃない」と思った記憶があります。
・・・なのに何を血迷ったのか、今回、申し込んでしまいました。
その理由は2つ。まず「怖いもの見たさ」、そして「今年参加しなければ、参加資格を失う」から。”資格失効”という四文字の名において、思わず参加申し込みボタンを押してしまったのでした。勢いって、こわい。
一緒に出る(ヘンな)仲間の紹介
そんなレースですから、当然不安。一方、ポジティブなニュースもありました。今回、合計4人の仲間が参加するとのこと。しかも、なんと4人中3人は完走経験者!
一人は、私をウルトラマラソンの世界に引き込んだ「提督」こと赤羽氏。彼がいなければ、今の私はいません。提督はなんと、体重が85km近くある巨漢。とてもランナーとは思えない体型ですがこの鬼のようなレースを走り切っています。その知恵と戦略的な勝ち筋は、ゴツメの諸葛孔明のよう。これは、知恵を借りるしかありません。
その他、敏腕弁護士アンディ、イケメンで隙が売りの歯科医師ヒロポン、肉好きの陽気なマッキー。日常でもインパクトある個性あふれるナイスガイたちです。アンディ、ヒロポン、提督が去年、263kmのレースを制覇しています。(この後、みなさん何度も登場します)
263kmを走り切る戦略はコレだ!
263kmというと意味不明な距離に見えます。しかし、実は制限時間を距離で割ると、1kmあたり11分38分で進めば完走できる」となります。つまり「早歩きで寝ずに進めば完走できる」わけです。こう思うと、結構いけそう。
ちなみに大会にあたっては、各チェックポイント、そして関門時間(制限時間)が渡されます。また5kmごとの地図をまとめた30ページの冊子を手にして走ります。
こちらを、赤羽提督が1kmごとのペース表を「ウルトラプラン」として共有してくれました。これをチラチラ見ながら、1kmずつ駆逐していけばゴールにつく!というのが、大筋の戦略です。
1日目_夕方(スタート~46km)
「記録的な豪雨」の予想
レーススタートは、7月15日の17時です。
大会直前の15~16時に大会説明会がありました。終了からスタートまで1時間ありますが、この後に訪れるであろう「無睡眠の50時間の旅路」のために、ちょっとでも寝ようと思います。説明会が終わった直後、ダッシュでホテルに戻り30分だけ寝たのでした。
バタバタと起き上がってスタート地点に向かいつつ、天気予報をみます。ちなみに外はすでにガッツリ雨。
今後の降水確率も100%。天気予報では
・”梅雨前線の影響で雨雲が活発化”
・”東北地方は、7/15~16は断続的に雨。北部中心に非常に激しい雨も”
・”平年の7月1ヶ月分の雨量を超える可能性も”
と極めて不安なニュースが耳に入っています。
雨の中、2日間走り続けると肉体にどんな変化があるのかなど、経験したことも考えたこともありません。とはいえ、「まあなんとかなるっしょ」と、無知による楽観を携えつつ、スタート時間が近づいてきました。
スタート前は「呼び出しされて職員室に向かう気分」
昨年263キロの完走経験を持つヒロポンに「今どんな気持ちですか?」と聞いてみました。「うーん、なんとも言葉にしづらいですね・・・」と前置きしながら、
「あえていうと、先生に呼び出しを食らって
職員室に向かう途中の気分ですかねえ」
と答えてくれました。
絶対怒られる。そこに行っても良いことなどないとわかっている。でも行くしかない状況。
レース前の心境を言葉にするとそんな言葉になるようでした。あははそうなんだね、と私も笑っていましたが、その後、笑えなくなります。
さて、そんなやり取りを尻目に7/15(土)17:00、雨の中で約140名の選手が一斉にスタートいたしました。
皆(この時は)元気なので、「楽しみましょうねー」などと言っています。空も表情も、まだ明るいです。
孤独な夜道がつらい
スタートからゴールまでの263kmの道のりは、「地図」を渡されており、そこにルートが載っています。内容は中学校の地理でもらったあの地図です。合計30ページ。
ちなみに、日の入は19:00、日の出は4:38。
この間は暗闇です。街灯がある場所もありますが、山の中に入ると何も見えません。ゆえに、ヘッドランプと赤色の点滅灯が必須。
スタートしてから2時間ほど、約20km地点の、嶽温泉(だけおんせん)なる山の中の温泉が最初のエイドステーション(休憩所)でした。
17時から2時間、すでに闇夜に包まれまています。見知らぬ土地で雨の中、暗い夜道を一人走り続けるのは実に心細い。。。日中のレースでは体験しない精神的な負荷でした。まだ始まって3~4時間しか経っていないのに、やや憂鬱な気持ちになります。
仲間と会えないかなと期待しつつ足を動かしていると、少し先に複数のライトが固まって走っているのが見えました。ペースを速めて追いつくと、スタート直後に4人のうち3人の仲間(提督、ヒロポン、エンディ)の集団でした。
「やっと追いついた!」
そんな言葉と共に30キロ地点で仲間たちに合流をすると、少し安心した気持ちになりました。走るのは一人でも、「誰かと一緒にいる」ということが気持ちの上での負荷を和らげてくれるんだな、感謝の思いが芽生えました。
「電柱ゲーム」
さて郷に入れば郷に従う、ではないですが、合流した仲間と走っていると、そこには既に”あるルール”があることに気づきました。突然、ランナー4名の船団長の赤羽提督が「ブレイク!」と言うのです。
すると、皆が一斉に走る→歩くに変えました。そして暫く歩くと、スッと手を挙げます。皆が一斉に走り出す。
これは通称「電柱ゲーム」というもの。
400m走って、100m歩く、これをひたすら繰り返すことで距離を稼ぐというゲームです。
”ひたすら走り続ける”という行為がキツいのがジャーニーラン。
「あと◯◯m走れば、歩いてよい」という小さなゴールを決めると走り続ける気持ちが維持されます。
「それを仲間と一緒に行うこと」より、余力がある人は皆をひっぱり、きつい人は、背中を押してもらう、と補い合って進むという戦術の一つです。
そして、「ブレイク(歩く)」→「走る」の繰り返しをひたすら続けて、深夜23時。チェックポイントの「日本海拠点館(46km地点)」へ到達しました。
そして、夜のピクニックよろしく、ヒロポンの恋バナ(?)などで笑いつつ、淡々と歩みを進めていきます。
足を動かし続ける中で、土偶で有名な亀ヶ岡遺跡(64.7km)を過ぎます。湿度が高く、腕に汗の水たまりが浮き上がる中で、粛々と歩みを進めていきます。
ふと気づくと朝4:00。だんだんと空が白んできました。
2日目_朝(80~122km)
提督の異常
2日目の朝8:00頃。
大レストポイント(休憩所)である「鰊(にしん)御殿(97km)」に到着しました。ここは畳があって、横になることできるエリアです。
預けたドロップバックで荷物を交換できるため、雨で濡れて、またたった半日で汗臭く成り果てたTシャツを着替え、またぐしょぐしょに濡れた靴下も履き替えました。
筋膜ローラーで体をほぐして、スマフォやランニングウォッチの充電をします。そして、残った時間で約20分の仮眠をします。
その間に、遅れていた1人、マッキーも合流して、5人が揃いました。
「そろそろ行きますよ。」
仲間の一人が声をかけてくれてそろそろと起き上がり、ゆるゆると走り始めます。少し横になると、体が固まっています。
しかし、たった20分、足を休めるだけでも回復が全く違います。
ちなみに、スポーツウォッチで測定されている潜在スタミナは、100km時点で「0」。あとはハートの世界です。
ここで少し元気を取り戻し、さて津軽海峡の「龍飛崎」を目指そう!と皆で励まし合います。
しかし、走り始めてからしばらくすると、大船団を率いていた仲間であり、本グループのリーダー的存在でもある赤羽提督の様子がおかしくなっていました。声にも力がなくなっており、表情も固くなっていました。
「しんどい・・・」
とつぶやき、息が荒くなっています。
電柱ゲームの声掛けをしてくれていた声も弱くなっているように見えました。「すまん先行ってて」と提督は述べ、結果的に後から追いつく、ということでそれぞれのペースで、次の休憩地点を目指しました。
残りのメンバーで「道の駅こだいら」という休憩できる場所につきました。
トイレに行き、戻るとメンバーの一人が
「提督、ここでリタイヤするそうです」
と言いました。
どうやら内臓系(腎臓)がやられてしまったようで尿の色がおかしくなっている様子。そこからのダメージの回復はこの後は難しそうだろう、、、
とのこと。残念そうな表情で、
「ヤス、すまん」
と残し、ここで提督とは別れを告げることとなりました。
残念ですが、こういう瞬間にあくまでもランニングは1人1人の旅路であることを理解します。自分がゴールするために、仲間の力を借りているのです。「チームを頼りにしつつも結局は自分でなんとかしないといけない」そのことを感じたのでした。
正直、電柱ゲームをはじめ、この大会の戦略を描き、ここまで引っ張ってきてくれた提督がいなくなるのは、寂しいことでした。ぽっかりと空席が空いたような感覚になりました。
5人のメンバーが100kmを経て、4人になりました。
極寒の眺瞰台とボラギノール
とはいえ、ずっと立ち止まってもいられません。
それぞれのエリアと休憩場所で、必要な走行スピード、取得可能な休憩時間が決まっています。ゆえに休憩もそこそこに次のチェックポイントであり前半戦の山場でもある、
「眺瞰台(114km)」
を目指します。
津軽半島を北上し、山道にある展望台のような場所。斜度が11%以上という激坂が7kmほど続きます。悪天候のため、霧も濃く、風も強く、前も後ろも見えません。そして標高が高くなると雲行きも怪しくなってきます。あんなに暑かったのに、今度は猛烈に寒くなってきました。濡れた体が冷えてきます。
「ジメジメして蒸すから、もういらんわ」と、途中まで使っていたウインドブレーカーを捨ててしまったのが仇になりました。
ここに来てノースリーブ1枚があまりにも寒すぎる・・・。仕方なく、尻周辺が擦れた時の対処として携行していた「ボラギノール(軟膏)」をワセリン代わりに全身に塗ります。
なんとなく、保温性が上がった気がしました。(ベタベタしましたが)ボラギノールを全身に塗りたくりながら、眺瞰台をなんとか突破。
お世話になったボラギノール。(保湿剤として)
津軽海峡冬景色の「龍飛崎へ」
やっと折返しポイント、津軽半島の最北端である「龍飛崎(たっぴさき)(122km)」へと到着しました。
時間は2日目の昼14時。
開始から約21時間経過しています。
ここで、約1時間の仮眠を取ることにしました。
そして、去年完走した仲間の一人、エンディが言います。
「これで、前半戦が終了ですね!
ようやく”中盤戦”に入りますね」
え、”前半と後半”じゃなかったのかい!
と思いつつも、まさに中盤戦がこれから始まろうとしていました。
2日目_昼(123~160km)
すでにめちゃキツい。足も痛いし、眠い。
しかし、完走経験のある先輩(エンディ)はこう言います。
「ようやく、ここからが始まりですねえ」
普通であれば「21時間”も”走った」なのでしょうが、263kmマラソンで言えば「まだ21時間”しか”走ってない」となります。基準がおかしい。しかしその前提で参加していると、それが普通に思えてくるのがもっと不思議です。
「魔の中盤戦」のはじまり
ここからが中盤戦のスタート。中盤戦の道中は「魔物がいる」と言われています。その所以は、”延々と続く海岸線で 精神と肉体がやられる”そう。これから120km~175kmまで延々と海岸線の道がひたすら続くのです。そして、途中で日が暮れて夜になる。
精神面が重要なランニングで「コースが変わっていく」というのは、意外と大事な要素です。ですが「ひたすら一本道が続く・淡々と走る・終わりがない」✕「眠い」✕「足が痛い」では、まさに魔のアンサンブル。苦行です。
・・・とはいえ、走るしかありません。約15km先のチェックポイント、「三厩体育館(134km)」を目指します。
20秒だけ寝かせてください
しかし、2時間も走るとこれまでで一番大きな、そして暴力的なほどの「睡魔」が襲ってきました。もう24時間走り続けている。眠くなって当然と言えば当然。
走っていて、眠気に襲われると、どうなるのか?
スピードが急激にダウンし蛇行運転の車のようにふらつきます。”眠いのに走り続ける”という行為に陰鬱とした感情が起こります。ちょっとしたことでイライラしてしてきます。
耐えきれなくなり、
「先に行っててください、20秒寝ます」
と、仲間に告げる私。
路肩で階段を見つけると、そこに体を預けます。時間にして、おおよそ20秒程度。それでも、一瞬目を閉じて脳をシャットダウンすると、少しだけ元気が戻る気がしました。耐えられなくなったら20秒眠る。そんな風に眠気を誤魔化しながら歩みを進めていきました。
丸い浮きが人間の顔に見えた
7/16(日)2日目。夜19:30。スタートから26時間30分。日が暮れて、辺りが一面闇になりました。
現在、約155km地点。絶え間なく続く波の音。
浮かんでいる大量の丸い浮き。あるメンバーは、「丸い浮きが人間の顔に見えた」と幻覚体験を語ります。
2日目の夜が、一番ヤバイ。
そう言われた事前の情報が現実のものとなって現れてきました。しかし、このタイミングになって、私の体は、皆と逆行する形で少しだけ調子を取り戻していました。
「電柱ゲームでもやろうか?」
誰となく言い出し、仲間の中で、比較的元気だった自分がペースメーカーを担う形で前に出ました。号令をかけて、走り始めます。
「スタート!あと400m・・・あと300m・・・あと200m・・・」
「あと半分!」とヒロポンが合いの手をかけます。
「あと100m!、、、終了」そして、100m歩く。
合計500m。2回やれば1km。10回やれば5km。
「もう5km進んだね、めちゃ早いじゃん!」
ヒロポンの言葉に自分が少しだけ、チームに貢献できた気がしました。
ふと、今年の春まで大学院で学んだ「リーダーシップ」とか「チームワーク」の理論を思い出します。これまでの道中は、私は、”フリーライダー(ただのり)”している人でした。
大学院で学んだことを思い出します。「リーダーシップ」とは他者に与える影響力。チームの目標に向けて、誰かに影響を与えることがリーダーシップである。今回、皆が必要なときに、必要な立場を取れたことに一人の戦いと思えそうなこの旅路に「リーダーシップ」を学んだ気もしました。
走る中で、必要に応じて誰かがタイムキーパーをしたり、誰かがペースメーカーをしたり、あるいは誰かが積極的に励ましたりして、共通の目標である完走に向けて役割に担い合う行為も、まさに「チームワーク」を象徴しているようだ、そんなこともぼんやりと考えていました。
「皆の役に立てているようで嬉しいよ」と言っている自分がいました。
濡れた駐車場に横たわる人々
そうこうしながら、次のチェックポイント「道の駅たいらだて(160km)」に到着。時刻は2日目の20:30。
完全に闇となった道の駅の路上、雨に濡れた駐車場に、数名の人が横たわっています。全員、ランナーです。コンクリートの固く濡れた地面の上に体を横たえて、少しでも回復させようとしています。
「15分寝よう」。
我々も次の大レストポイント178kmまで走るためのエネルギーを蓄えることにしました。
1日走り続けると何カロリーなのか?
ちなみに、大事な戦略であるエネルギー補給ですが、1日で走った距離をカロリーで計算すると「6200kcal」と計測されていました。
おにぎり1個が170kcalなので「おにぎり36個分」のようです。もうちょっと言うと、また基礎代謝1500kcalが含まれるので1日走ると「おにぎり45個」が必要になります。
しかし、実際はそんなに食べません。内臓にダメージが出てしまう(消化不良や腹痛など)のほうが恐ろしいため、こうしたしっかりした休憩所でも、「おにぎりを2個、グレープフルーツ2切れ、味噌汁」みたいな簡素な食事で終えます。
不足したエネルギーを人体は何を持って補うかというと「筋肉を溶かしてエネルギーにしている」らしいです。
ふとトイレで体をめくって見ると、、ラクダのコブが砂漠の旅路の最中にしぼんでいくように私の貧弱でペラペラだった体が、更にペラペラになっていたのでした。
2日目_夜(160km~204km)
股間が凄まじく痛い
道の駅たいらだて(157km)を出発し、いよいよ、中盤戦の最終地点の大レストポイント「ふるさと体育館(178km)」に向けて、走り始めます。
このあたりは眠すぎて、実は記憶が明瞭ではありません(ゆえに写真も撮れていません。蛇行しながら走っていました)。しかし、一つ存在する明確な記憶は、
「耐え難いほど、股間が凄まじく痛い」
ことでした。
文字にすると見えづらいですが1日目は雨、2日目も時折雨。湿度も高い状況が続いていました。すると、”全身の皮膚がふやける”という現象が起こります。擦れやスレが起こり、水ぶくれもできます。すでに私の体は、ムレとスレによる右腕と両脇腹に傷が出来ていました。
しかも、戦略的に仕込んだはずの失敗がありました。それは「股間周辺の毛がスレて痛くなる」という事前情報から、デリケートゾーン周辺のヘアを一部剃っておいたのでした。
つまり、忘れていたのです。レースは3日間続くことを。2日もすると、ウニのようにデリケートゾーンにチクチク毛が生えてくる。それが、股間で暴れ回る二個の亀の子タワシのようにデリケートゾーン周辺を傷つけまわったのでした。
お尻とお股(デリケートゾーン)に体育館でころんだ擦り傷のようなダメージがいくつもできていました。
その傷を携えて、汗と雨で蒸れながら走ると、これが、めちゃくちゃ痛い。必然的にガニ股で、カニのように歩くことになります。とはいえ「股擦れでリタイヤはカッコ悪すぎる」と思い、10km先の休憩所まで粘ろう、そこで絆創膏やガーゼなどで応急処置をしよう、そうすればなんとかなる!と思いました。
4人いた仲間は、2人が遅れていました。
1人は、私。股の痛みにより、走るのが圧倒的に遅くなっていました。
もう1人は、マッキー。「オナラをすると腸液が噴霧して、肛門周辺が荒れるから気をつけた方がいいですよ」と言い残し、マイペースで走る彼は1人、後ろを走っていました。
ちょっと前まで電柱ゲームで励まし合っていましたが、疲労で口数も減り、重たい空気が漂っていました。外は既に真っ暗。2日目の夜が一番ヤバイと言われた理由を全身で感じていました。
股メンテナンスポイント「ふるさと体験館」
「股が痛い」「尻が痛い」「眠い」の記憶しかありませんが、気づけば大レストポイント「ふるさと体験館(178km)」に到着しました。
時刻は2日目の7/17(月)深夜0:30です。開始から約31時間経過。
到着と同時に、預けていた荷物からあるだけ絆創膏を集めます。
ボランティアの方に、テーピングを借り、股擦れをした患部に絆創膏をはって、そしてMyタワシをテーピングでぐるぐるに巻きました。傷口が直に触れることはなくなり、苦痛が収まった気がしました。もうちょっと、頑張れる気がしました。
食事を済ませ、体育館のようなところで50分の仮眠をとることにします。
7月17日(月)深夜2時。開始から33時間経過。
現在178km地点。最後の死力を振り絞って、といいたいところですが、そのセリフを言うにはまだ早すぎるタイミングです。
ここからようやく「後半戦のはじまり」。もう、いつになったら終わるんだ。。。5人になった仲間は、1人脱落して4人になっています。
1時間弱の睡眠の後「ふるさと体験館」を発ちます。そして次のチェックポイントである「津軽中里駅(204km)」を目指します。
深夜、赤ちゃんが道端で目を光らせていた
次のレストポイントまでの道のりは、ひたすら山道。真っ暗な街灯もない山道です。あと2時間もすれば夜が明けます。
一方、走りながら重要な事に気づきました。それは”次まで約26km、休憩所がない”ということ。同時に股擦れの処置で頭がいっぱいで水の補充を忘れていたのでした。
「水がない」。
これは致命的です。仲間に話をすると、同じく水が不足しているエンディも語りました。皆抜けることが増えてきています。水なくして走れない。どうする?ということで山道のトイレで水を汲むことにしました。しかし「飲まないで下さい!飲料水ではありません!」と、そんなに強く書く?と思うくらいに警告されており、腹を下しては元も子もない、ということで諦めて走り出しました。
さて、この頃になると走りながら、様々なものが見えるようになります。
いわゆる「幻覚」です。
正常なときでも暗い中だと見間違いという現象は起こります。加えて、暗闇✕睡眠不足✕疲労が重なると、”別のものに見える”という勘違いが脳内で起こりやすくなるようでした。
私が、走っていると、懐中電灯で照らした先のすぐ目の前の路肩の段差に、1歳くらいの赤ちゃんが座ってこっちを見ていました。そして、その目が光っていました。
あまりにもビビって「うわっ!」と一人声をあげました。側にいたエンディが「どうした?」と聞きます。「赤ちゃんが見えた」と私が答えると、「ああ、そう。まあそろそろ、そういう頃合いだよね」と驚く様子もなく、するっと受け流されました。さほど珍しくもないようです。
その他にも、カーブミラーがスーツを来たパンダに見える、とか並んだ木々が象に見えるなど不思議な光景が見えました。
眠すぎて、叫び出す
ただ、そんなのはどうでもよいのです。脳がちょっと勘違いしただけで痛くも痒くもありません。
問題は「めちゃくちゃ眠い」。ただこれだけ。「眠い!眠い!眠い!」と誰が助けてくれる訳でもないのに誰にともなく叫んで見る。「ああーっ!!」と大声を出してみる。でも相変わらず眠い。また水もなくて喉も渇き始めて、トイレの水も駄目。ただただしんどさだけが溜まっていきます。
ただ、エンディが希望を語ります。「そういえば、去年はこのあたりで、私設エイドのおじさんがいた気がする」
闇の中の天使、私設エイドおじさん
山道のトンネルを抜けると、ワゴン車が路肩に停まっていました。まるで「闇の中の天使」にも見える、”私設エイドおじさん”がいました。
この山道、深夜3時にも関わらずおじさんが車を出してくれていました。
毎年、大会のこの時期に、ここで1人深夜~明け方にサポートとして応援してくれているそうです。20km以上何もない山道で、我々と同じように水不足に陥ったランナーに、私設エイドのおじさんが救いの手を差し伸べてくれていました。
ミルクティーやコーヒー、リポビタンDなどを頂きます。そして空だった水も、両方のボトルに満タンにしていただきました。
人の優しさやサポートがあるからこそ、この長い旅路も続けられるのだ。温かくて甘いコーヒーの味とともに、そう思わずにはいられませんでした。
3日目_朝(194~220km)
最後の夜が明ける
現在195km。3日目の朝4時30分。
空は明るくなりました。最後の夜が、明けたのでした。
休憩所まであと10km。でもこの10kmが長い。そして猛烈に眠い。
「ちょっとだけ寝よう」。駐車場のベンチのようなところを見つけ5分だけと思い、横たわります。すると、今度は車に乗った若いお兄さんが小走りで近づいてきました。
「お疲れ様です!お味噌汁、飲みます?」
体が塩分や栄養分を必要としている中、味噌汁という最高に嬉しいギフト、そして優しさが身に沁みました。紙コップに入ったお味噌汁を持ってきてくれます。
「この時間、辛いですよね・・・もうちょっとです、がんばりましょう!」
この方は今回参加されなかったのですが毎年参加されている猛者だそう。その明るすぎる声には、この時間のキツさがリアルにわかるからこそ、元気づけようとしてくれている、そんな想いを感じました。少しの間を置いて、仲間のエンディも加わって、お味噌汁を飲んで、つかの間の休憩を入れました。あと10kmがんばろう。そしたら「津軽中里駅」だ。そこまでいったら、30分寝よう。
マッキー離脱。5人の仲間が3人に
改めて走り始めます。山道は終わりを告げ民家がポツポツ増えはじめ、場所が町になっていました。
そして朝7:00、チェックポイントである「津軽中里駅(204km)」に到着。
そこでは駅にブルーシートがひかれていました、そのままそこに横たわります。チェックポイントに、布団なんて当然ないし、畳もありません。横になればば、それで十分です。
小休止の後、さていこうか、と仲間のエンディ、ヒロポンと共に、歩き始めた時に、エンディが言いました。
「マッキーから連絡があった。足首が痛くて、このペースだと次のチェックポイントに間に合いそうもない。ここでリタイヤになると思う」
とのこと。最初5人で始まった仲間は、3人になっていました。
あと50km。最後の戦い
そして3人で次のチェックポイント、「金木町物産館(212km)」を目指します。時刻は朝8:00を回って、2日間の雨と湿度も忘れたかのような晴れ間も見えます。太陽が登ると元気になります。足取りも比較的軽く、あっという間に到着。
一方、テーピングでぐるぐるまきの股擦れが汗と水分でぐしょぐしょになってきており、大変な痛みを醸し出し始めました。朝になって空いていた薬局で「キズパワーパット」を購入。これを患部にペタペタ貼って、対処をしました。
太宰治の生家「斜陽館」に隣接する、金木町物産館に到着し、皆で「さくらんぼソフト」を食べます。
あと50km・・・!
最後の戦い、という言葉が脳裏に浮かびました。すでに完走経験があるエンディがいいます。
「ここから先は、最後の国道になるけど、それぞれのペースで行こう。
最後のチェックポイント、黒石駅で会おう。」
そして、後半の最大の壁”30km延々と続く国道沿いの道”がここから始まるのでした。ここからはそれぞれの戦い。
朝9:30。制限時間あと10時間30分。
思い出す灼熱の国道
ここからは、自分との戦いです。最後の難関”延々と続く国道”が待っています。1日目2日目とはうってかわった晴天を前に、国道を走り始める中で蘇る記憶がありました。
2019年7月。今から4年前のこと。
私は「みちのく津軽ジャーニーラン」の177km(短い方)を走っていました。その2日目に通ったのがこの国道。その時は31時間のレース、今よりも短かったはず。それでも眠すぎて、ガードレールや田んぼの畦道を見つけては気を失うように寝た記憶がありました。4年前自分が眠った田んぼのあぜ道を見て、記憶が蘇りました。
(そうだ、、、一番苦しかったのが3日目の日中だった)
212km~242km間の約30km。日光を遮るものがない国道が延々と続きます。久々の太陽が顔を出し、朝10:00前だと言うのに、恐ろしく暑い。雲が太陽を隠すことを願って上空を見上げます。
自販機で水を買います。水をかぶるためです。
そうして体を少しでも冷やして、熱を逃がすことで体力を保ちます。
残体力は、ありません。少しでも肉体への負荷を減らそうと試みます。コンビニで氷を買って、首筋を氷で冷やしながら走ります。
いつでも探しているよ、どっかに寝れる場所を
このときには自分の走るペースは、著しく遅くなっていました。2日目の夜は、1kmあたり7分00くらいでも普通に走れていました。しかし、3日目になると頑張って足を動かしても1kmあたり8:30が限界になっていました。
そして、時折、大波のようにやってくる強烈な眠気に煽られると、強風をうけた紙飛行機のようにふらふらとよろめき、前に走れなくなります。1kmあたり12分、13分と減速、あるいは完全に止まってしまうのでした。
体はわずか2~3分の睡眠を求めて、眠れそうな場所を無意識に探しています。信号機の隣に塀を見つけてはその裏で眠れそうだ。スーパーの駐車場を見つけては壁にもたれかかって眠れそうだ。道路の路側帯のようなところに少しスペースがあれば眠れそうだ。
頭の中で、山崎まさよしの『One more time, One more chance』のメロディが流れてきます。
”♪いつでも、さがしているよどっかに君の姿をー”
「君」が「寝れる場所」に差し替わって、寝たい寝たいとにかくすぐに寝たいマンになり果てていました。
3日目_昼(220~252km)
仲間と別れ、一人になる
国道に入る前、仲間のエンディとヒロポンと話しました。
「国道からはそれぞれのペースで走ろう。最後の黒石駅で会おう」。
そう212kmのチェックポイントを出発しました。
最初は3人はほぼ同じくらいのペースで走っていたのですが、220km、230kmと進むに連れて、段々と距離が開いていきました。
私が、徐々に遅れていったのでした。
淡々と走り続ける修行僧のようなヒロポン。そしてねちっこい走りでぐぐっと追い上げてくるエンディ。完走経験者の2人の実力が現れていました。
私は彼らの2人のオレンジ色のTシャツを、視界の先にうっすらと認めるだけになっていました。それは蜃気楼のようにぼんやりと見えるような見えないような状態になり、やがて完全に視界から消えていきました。
LINEで2人にメッセージを送ります。「チェックポイントでもまたずに、先に行って下さい。後で追いつきます」。ここからは完全に1人。
突如あらわれたゴツ目の男性は
一人とぼとぼと走り続けて、235km地点。
変わらず眠気と戦いながら、走ったり、立ち尽くしたりを繰り返していました。ぼんやりした思考の中で、視界の先に仁王立ちをしているゴツ目の男性がたっていました。それは、100km地点でリタイヤした「提督」こと赤羽氏でした。
側には、妻と子供もいました。私設エイドとして応援をしに来てくれたのでした。
嬉しい、、、!
提督と妻がいるまでの数百メートルは、虹がかかったように足取りが軽くなりました。応援してくれる人が、すぐ近くにいるだけで力をもらえる気がします。
「ヤス、大丈夫? 顔死んでるよ」と提督。
「顔、やばいね」と妻。
私がどんな表情かは自分でわかりませんでしたが、顔を作る余裕がないことは確かでした。
「ごめん、ちょっとだけ、寝かせて」
車の中で5分、寝かせてもらいました。何十時間ぶりなのか、やわらかい座席で寝る5分は、とてつもない癒しでした。体力を、精神を、回復させてくれました。
股擦れ、尻の擦れは、もうデフォルト。諦めています。股も汗でしみてキズパワーパットも効力を果たさなくなっているけど、仕方ない。それでも近くのローソンで傷口を洗浄して、新しいキズパワーパットに張り替えて、走り続けました。
そして、チェックポイント「スポーツプラザ藤崎(242km)」に到着しました。
黒石駅が白石麻衣に見えた日
あと、、、あと20km!
現在15時30分。制限時間、あと4時間30分。
1kmあたり12分で走れば(歩けば)20kmとして240分。4時間でゴールができます。
これは、いける、、、!
次に目指す最後のチェックポイントは「黒石駅(252km)」です。古い町並みに佇む駅。観光地としても魅了的な場所です。
しかし、少しずつ日が傾いてきた頃、異変が起こりました。
突然、なぜだが地図が読めなくなったのでした。西日に照らされながらなぜだか「黒石駅」が「白石麻衣」(乃木坂46の元センター)に変換されて、脳内で黒石駅、白石麻衣、黒石駅、黒石麻衣、白石さん、黒石さん・・・?
「あれ、自分はどこへ行こうとしているのか?」と謎の思考ループが始まりました。やばい、これはだいぶやられている。なんとかせねば、、、と近くのローソンを見つけ「メガシャキ」「強眠打破」を3本立て続けにグビグビ飲んで、目を覚まそうと気合をいれました。全くシャッキリしませんでしたが、何もしないよりマシでした。
そして最後のチェックポイント「黒石駅(252km)」に到着しました。また、そこでも提督と妻が待ってくれてました。
少なくなったスマフォの充電をしつつ、残り10kmの道をGoogleマップでオンタイムで目視しながら進むことにしました。先程の「黒石・白石麻衣症候群」のように脳が彷徨わないよう、今進んでいるこの場所にのみ集中するためのささやかな工夫でした。
ゾンビ化したランナー
あと10km。
その数字に、気持ちが高まります。Googleマップ上で初めて現在地とゴール地点が同じ画面で繋がりました。1kmあたり9分50秒と、通常走るスピードの半分以下のペースでしか走れません。
そんな中、人もまばらな住宅街の255km地点にて、ある老婆が道を蛇行しているのが見えました。体をくの字に曲げ、びっこを引いています。それはゾンビ映画のゾンビの歩き方にとても似ていました。
途中フラフラと車道に飛び出してまた路肩に戻っていきます。その予測不能な動きに、恐ろしさすら覚えます。
少しずつ近づいていくと、くの字に曲がって空を向いた背中に、青色のゼッケンがついていました。そこには「263kmの部」とありました。
表情は見えませんが、その方は老婆でもゾンビでもなく、50代くらいの女性でした。大丈夫ですか?と声をかけると、予想外にしっかりした声で「はい、がんばります」と返ってきました。
「最後まで、がんばりましょう」
皆、ボロボロになりながら走っているんだ、と制限時間が際どい中で自分のことと共に、彼女のゴールも願ったのでした。
制限時間、残り2時間。
あと10キロ。
3日目_夕方(252km~ゴール)
ゴールを目指して
時刻は18:00。制限時間はあと2時間。
空は暗くなってきました。残りたった10km。
なのに、わずかの距離が長い。
橋を越えればゴール地点の「さくら野百貨店(263km)」が見えてきます。
みんながゴールで待ってくれているのだろう、そんな妄想を最後の力にして3km、2km、1kmと刻んでいきます。
さくら野百貨店に至る最後の曲がり角でスタッフの方が「お疲れ様です!」と声をかけてくれました。そして、さくら野百貨店の駐車場の入口に入り、ゴールテープが見えました。
大歓声に出迎えられることはなく、人はまばら。盛大な大会ではなく、参加者も137名の大会です。ゴール前に、走り回っている息子がいました。わけがわからない彼をだっこして捕まえて、一緒に、ゴールテープを切りました。
スタートから、累計50時間30分。
長い旅路が終わりました。
263km走ると、体はどうなるのか?
出走者は137人。完走者は54人。完走率は40%。
ゴール周辺には、まばらに人がいるだけです。盛大なゴールではなく、パラパラと拍手が起きるくらいですがそれぞれの旅を終えた、静かな満足感と安堵感がありました。苦しく辛い旅路でしたが、この旅を終えられたことを誇らしく思いました。
さて、この長い旅路を経て、一つ見える景色が変わったように思います。改めてこの旅路を振り返ってみたいと思います。
263kmの旅路の記録
7/15(土)17:00、”警報級の雨”と悪天候の中開催された「みちのく津軽ジャーニーラン(263km)」がスタート。
1日目、雨。
警報級とはならずともじっとりと振り続ける雨。山道を仲間5人とともに、ヘッドライトを頼りにひたすら進む。50kmで、足はもう痛い。
2日目、雨。
明け方、100km地点。仲間の1名が内臓のダメージにより、尿の色がおかしくなったとのことで、離脱。昼には、濃霧と極寒の津軽半島最北端、龍飛岬を走る。ノースリーブで寒さに震える。
午後は、海岸線の眠気を誘う波の音を迫りくる眠気とともに走り続ける。
迫りくる夜では続く、雨と汗で股擦れを起こし、股間の激痛と眠気に耐えながら進む。
3日目、曇時々晴れ。
ここまでで2時間の睡眠。眠い、ただただ、眠い。すべての場所が「寝れるか寝れないか」で判断する視点に変わってくる。到達した200km。1名の仲間は関門に間に合わず離脱。5名いたメンバーが3名になる。
照りつける暑さと睡魔、股間の痛みと足の痛みの四重奏により長く辛すぎる3日目。ひたすら続く国道ではあまりの眠気に失神するように道端に何度も倒れ込む。
ゾンビのようにくの字に体を折り曲げた集団の中、自分もフラフラとしながら走り続ける。夜、19時半、制限時間の30分前、50時間30分でゴール。
言葉にすると、それだけの出来事。
それでも263kmという、かつてない距離を走破したことは自分史上、大きな達成感を与えてくれる体験でした。
ではこのレースで、肉体面において、精神面において、自分は何を感じ、何を得たのか?
以下まとめてみたいと思います。
体のダメージは?
まずよくご質問いただく「体にはどんな変化が起こったのか?」についてです。
正直、私自身、263km走ると人の体がどうなるのか気になっていましたが、走り終えた後の「肉体のダメージ」については、一言でいうと「痛みと眠気」です。
どっちもあまり気持ち良いものではなのであんまり聞きたくないかもしれませんが、せっかくなので記載してみます。(お読み飛ばしいただいて大丈夫です)
肉体のダメージその1は「足の痛み」です。
足首周りを中心にむくみ、3割くらい膨れ上がってりました。また、足首より下が、痺れたようで感覚がなくなっていました。長時間正座をしたときの感じに似ています。
翌日の足首の写真はこんなかんじです。
次に、擦り傷系ダメージ(お股編)です。
股間、おしりの割れ目が何度となく摩擦され、皮がむけて、炎症を起こしていました。温水で洗浄し、ガーゼを当ててて処置しました。しみるし、服が擦れて痛すぎて、股擦れを舐めてました・・・。
ちなみに仲間では、足の裏の皮が向ける人、爪が剥がれる人(10枚中6枚とか。エグすぎる涙)などもいました。
今回は、完走率40%でしたが、リタイアの原因がこうした箇所の怪我、故障であることが多く、いかにして致命的ダメージを避けるかという対策が263kmレースでは重要であることがわかります。
体重の変化は?
次に「体重の変化」について。レース直後に体重を測ったわけではないので具体的な数値はわかりません。しかし、おそらくレース直後は体重が相当減っていたと思います。1日7700kcalを消費していた計算になるのですがそれは、おにぎり(170kcal) 48個分、ラーメン(430kcal) 18杯分、トースト(233kcal)33枚分に相当します。
当然そんなに食べていませんが、それくらいカロリーは消費しているよう。レースが終わってシャワーを浴びた時に、全身を見てみると、胸筋など体の筋肉が著しく減っていました。
人は栄養が足りなくなると筋肉を分解してエネルギー元にするのですが、それを体感しました。また、3日くらいはとにかくお腹が空いて、また体がむくんでいました。
しかし、体重がレースから2日後もたつと、64kgになっていて、レース前から3kg増えていました。多分、しぼんだラクダのコブが急激にエネルギーを吸収するような現象が肉体に起きたのだと思われます。
睡眠はどうなるのか?
最後に「睡眠」について。今回のレースでは、3日間の合計睡眠時間は2時間45分。それ以外は基本、走っています。ただし、睡眠が断たれると極めて厳しい状態になるため、20~30秒だけ道端で眠るなどで、強烈な睡魔をマネジメントしていました。
また10分だけ横になって眠ることで、足の疲れは、明らかに回復しました。人は、必要に迫られると「最小限の休憩で動き続けられるようにできている」と感じました。ホモサピエンスに刻まれた狩猟時代のDNAが目を覚ます感覚です。
ちなみ「レース後は、睡眠負債が溜まっており、翌日は1日くらい目を覚まさないのでは」と思っていました。しかし意外にも翌朝に普通に目覚めました(8時間睡眠)。寝たりなさを感じるかと思いきや、翌朝起きられて自分でも驚きました。(親戚の内科医曰く「人は寝溜めできないんですよ」とのこと)
翌日朝11時発の新幹線で東京に戻り、その後、片付けをしてその日は休みました。ちなみに、私は普段は睡眠がないと、著しくパフォーマンスが下がる人で7時間はしっかり睡眠が欲しい人です。昼間は若干眠くなりましたが、それでもまあ、想像できる範囲内。翌々日から仕事を再開しました。
2日目の夜からは2時間起きに目が覚めてしまいました。理由は「お腹が空いて、目が覚める」のです。とにかく、腹が減る・・・。ゆえに、レースが終わって3日間くらいは、枕元にプロテインバー(200kcal、プロテイン15g配合)をおいて目が覚めた時はそれを食べて、また床についていました。体が修復を求めていました。
ちなみに、この263kmマラソンを経てから、睡眠に対するパラダイム(ものの見方)が変わりました。これまでは「夜にまとまって6時間30分は寝ないとダメ」と思っていましたが、レース後は「多少は無理しても大丈夫」になりました。これまでは、朝3時などに目が覚めたとき「なんとか寝よう…」と頑張っていましたが、レース後は「起きちゃったから、仕事でもするか。眠くなった時にまた寝ればいいや」となりました。人生の多くの時間を占めている睡眠に対するパラダイムが変わって、柔軟に捉えられるようになったのは大きな収穫でした。
人の体は、意外と丈夫にできている
以上のことから「その体には、どんな変化が起こったのか?」をまとめると、私の結論は、『人の体は、意外と丈夫にできている』です。(雑なまとめでスミマセン)
ただ、本当にそう思っていておそらく災害時とか、なんとか移動しないと命の危険があるとき、人の体は追い込み続けてもなんとか回復しようと工夫するのかもしれません。また疲れても、目的があれば次の日でも動けるように回復してくれる。
体に刻まれた太古の記憶は誰もの中に息づいているように感じましたし、それを短期間で目覚めさせたような50時間であったようにも思いました。これはトレーニングをした/していないを超えた話にも感じます。
人生を走り続けるために大切な2つのこと
「経験は最高の教師である」。そんな名言があった気がしますが、この旅路を経てどんなことを学んだのか?
特に、人生という幸か不幸か続いていくレース、すなわち簡単に降りられないレースを、なんだかんだ諦めず、希望を持ちながら走り続けるために学んだことがありました。大きく2つ(+1つ)です。
(1)流れを意識する
1つ目が『流れを意識する』ことです。
しばしば人生、様々な「波」があるといわれます。順境もあれば、逆境もあります。楽なときもあれば、苦痛もあるのが人生。しばし「マラソンは人生のようだ」と例えられますが、263kmという旅路は、まさにそんな人生によく似ていました。フルマラソンだと3~6時間ですが、今回の超ウルトラマラソンでは50時間。距離が伸びた分、リアルな「人生は旅である」感が味わえます。
例えば「自分の体が苦しい」と言っていたら、その体の声に休憩するところは無理せずしっかりと休む。仲間に頼るところは頼る。逆に、体が軽く調子が良いと感じる時はその追い風に乗って、自分が周りを助ければよい、そんなことを感じました。
流れを感じ、流れの中でそのもき自分ができることを淡々と行えばよいのです。
(2)歩みを止めない
2つ目が「歩みを止めないこと」です。もちろん眠たく、辛いときもあります。早く動けないときもあります。その時、一時的に止まることは仕方ない。でも「完全に止まらない」。これはめちゃ大事です。
なぜなら、一度完全に止まったら動けなくなるから。それはそのレースにおいてはリタイヤを意味します。どんなときでも気持ちは走り続ける。足を動かし続ける。そうすると、また訪れた元気な時を活かすことができる。自分に負けず走り続けるから、辛い道のりの中で出会うサポートに心から感謝を覚え、心から感動ができたりするのです。
1キロ12分でと13分でもいい。歩いてもいい。一歩でもいい。ただし完全には止まらない。自分は進み続けているんだ、進み続けるんだと腹を決めること。
人生という長いレースでも、気持ちの上では足を動かし続ける。流れを意識しながらも、歩幅は小さくとも歩み続ける。それが自分の人生でできるだけ遠くへ行くための秘訣なのかもしれません。
遠くへ行くなら仲間と共に
最後に。今回完走できた理由は、提督、マッキー、ヒロポン、エンディのおかげです。もっと広く言えば、そして応援してくれた妻、私設エイドのおじさん、関わってくれた多くの方のお陰でした。
1日目~3日目の昼まで、電柱ゲームや共に思い出を刻んだ仲間がいなければ、うさきの如き寂しがりの自分は、耐えられなかったでしょう。
早く行くなら一人でいけ、遠くへ行くなら仲間と行け。そんなアフリカのことわざがありますが、本当にその通りなのでしょう。
これからの人生、同じように辛いとき楽なとき、あるでしょう。追い風で順境のときも、向かい風で逆境のときもある。ただその時の状況に合わせて、流れに合わせて時に頑張り、時に休む。ただ歩みは止めず、一歩一歩進んでいく。
得られるものはゴールしたときの一瞬の歓喜ではなく、そのプロセスから得られる経験と思い出です。それは時間が経つほどに、輝いていきます。
いい思い出だけ記憶に残る
このあたりでこの263kmのお話も、幕を下ろしたいと思います。学んだことは、これまでもどこかで見聞きした教訓でした。でも自分がその足で、その体で体験したことは「確かな教訓」として我が身と心に刻まれました。
走ることの素晴らしさ、それができることの感謝。
気持ちを揺さぶられた263kmのランニングの旅路と、それに至る5月、6月の100kmマラソン。仲間たちとの練習の日々。
振り返ってみれば楽しい思い出しかありません。
苦痛は忘れ、素敵な記憶だけが残ります。お祭りが終わって寂しさを感じていますが、また次の挑戦を見つけ、走り出していきたいと思います。
長文、お読み頂きありがとうございました!
最後まで辿り着かれた方は、ぜひ「❤️」いただけますと嬉しいです^^
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?