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【エッセイ】10円だけ、足りないの。


今朝、夢を見た。
自動販売機でジュースを買おうとすると
10円玉が1枚だけ足りなかった。
お札はあったけどそれを崩す気にもなれなくて
買うのを諦めて自販機を立ち去った。
別に、すごく喉が渇いていたわけではない。
ただ私は、なぜだかすごく寂しかった。


奇妙な夢にうなされてだろうか、
目覚ましのアラームが鳴るよりも
4分早く目が覚めてしまった。
二度寝しようにも時間が足りなそう。
またあの世界に戻るのも気が引けたので
諦めてベッドから降りることにした。

カーテンを開けて見上げた空は
低く重たくのしかかる灰色の曇天で
窓を開け網戸にすると
肌にじんわりまとわりつく
梅雨のそよ風が部屋に入り込んだ。
ため息がひとつ、喉を突いて出たが
切り替えて朝の支度に入ることにした。

頭上に停滞する低気圧のせいか
いつもの肩こりと偏頭痛がする。
湿気のせいで髪型も決まらなくて
化粧ノリもあまりよくない。
せめて好きな服を着ようと思ったのだが
最近買った紫陽花色のサマーニットは
絶賛お洗濯中だった。

そんな1日の始まりだったので
母親の「いってらっしゃい」にも
不愛想に返すことしかできず
傘を片手にとぼとぼ家を出た。
通勤時間はぼーっとしていて
気付くと職場のデスクについていて
さらに気付いた時には
足はもう帰路についていた。


帰る頃になると、
朝の重たい雲を太陽が両手で押しのけて
空は重たいグレーから
儚げなパステル色に染まっていた。

下を向いてとぼとぼと坂を上がっていると
スニーカーのつま先に
茶色い泥がついていることに気付く。

そうだ、靴を洗おう。
思い立った私は大きなたらいと
古びたブラシを引っ張り出し、
オレンジに染められた緑の庭に出た。


何かBGMが欲しいなと思い
シャッフル再生で音楽を流してみた。
一番最初に流れてきたのは
Saucy Dogの『煙』。
元彼が好きだったバンドの曲だった。

City-POPやHip-HOPばかり聴いていた私も
彼から教わり邦ロックを聴くようになった。
彼の好きな音楽を聴きながら
ドライブをよくしたけれど
静かに曲に耳を傾ける時間はほぼなくて
ずーっとしゃべってばかりの二人だった。

そういえば、このVANSの白いスニーカーは
そのまたもう一つ前の元彼と
お揃いで買ったんだった。

真っ白じゃなくて、ちょっとくすんだ
この白色が可愛いよね
なんて言いながら二人で選んだ記憶がある。
彼とお別れしてからも
私をたくさんの場所に運んでくれたスニーカーは、
あの頃よりももう少し
くすみが増している気がした。

曲が切り替わる数秒の無音の時間
おばあちゃんの部屋から漏れる
夕方のニュースの声が耳に入った。
今シーズンのプロ野球の戦況を伝えるものだろうか
「タイガース」と聞こえてきた。

生涯で唯一生で観戦したのが、
甲子園球場での阪神戦。
そのまたもう二つ前の元彼に
黄色いユニフォームを着せられて行った。
結果はたしかボロ負けだったけど
客席で飲む生ビールが美味しかったこと、
あと隣で夢中になって応援する
彼の横顔が子供みたいで
すごく可愛かったことだけは覚えている。


丁寧に洗い終わったスニーカーは
くすみがかったあの優しい白色に戻った。
干したスニーカーのつま先から
雫がぽつりぽつりと滴っているのを見て
私はやっと、1日を締めくくる
小さな充足感に満たされた。
空を仰ぐと、哀しい色に染まった夕暮れが
やけに優しく感じられた。

目覚めた時から漠然とした孤独を感じる
切なくもありふれたこんな一日の片隅に
元彼たちは思いがけず静かに存在していた。

彼らに愛されたかすかな記憶たちが
今日を一人で生きる私に
優しい雫をぽつりと垂らしてくれている。

え?10円貸してくれるの?
いや、大丈夫だよ。
もう君に借りは作らないって
決めてるんだよね。
たくさんたくさん、もらったからね。





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