5月31日 雨
梅雨は紫陽花に対してもうちょっと頭を下げたほうがいいと思う。
梅雨の季節のプラスな要素としては、あまりにも紫陽花が頑張りすぎている。紫陽花1人が背負う重荷があまりにもあまりにもなのではないか。
私は全般的な「ストレス」への耐性がべらぼうに低く、人間の生物的な本能には比較的従順なタイプなので、すなわち雨や雪にはめっぽう弱い。
降雨降雪に対して多くの詩人や歌人の皆さんが(努力の結果)感じ取ってきた趣なるものについても、私は完全に目を背けることになる。
起きておひさまが出ていないとその時点でその1日はガン萎えですし、おそらが明るくないともう何も上手くいかない。その上頭上から水分が降ってこようものならブチギレも近い。もうじとじとじめじめしてお洗濯も汗さえも乾きませんみたいなの、かなり苦痛でしおしおになってしまう。
この素晴らしく技術が発展した世の中で「傘」ってなんで現代まで「傘」のままなんですか?
使ったところで確実にどこかしらは濡れる、なんなら風雨となれば ささない方がいいかも、
なんて半ば破綻だろ。
あまりに納得がいかなくて「傘 なんで進化しない」で検索してみたり、自分なりに新たな革新的なアイデアはないものかと模索したこともある。が、そううまくはいかなかったことから、そういうことなんだなとちょっと納得もしてしまった。
これからいわゆる「梅雨」の季節に差し掛かっていくのか、と本日の小雨をぶーぶー嘆いている。
なぜが私の休日(不定休)は降水確率がかなり高い。これは私は雨女なのか。職場からすれば私は晴れ女になるのか。どんな天気の日も私もそこの晴れ男さんもあの雨女さんもいつもこの世界に存在し続けているのですから(コンニチハ!)この理論ってもう気分や話題の一環ってことになりますわね。
こういう世間話を形成するのにあり続けているような事柄たち、日本語の趣として大事にしたい、と日本語が好きな私は思います。天気の話、血液型の話、性格診断、低血圧で朝がきついなんて話、、、
理論より感覚に近い日本語という言語、かなり性に合っている。
英語が好き!って人と同じだけ日本語が好き!だって主張して慈しんだっていいと思うのだ。
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