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募金するなら◯◯円にしよう

こんばんは。スナックゆう子ちゃんです。

今日はそうですね、私のささやかな寄付という社会貢献(エライ)についてお話しします。

普段ちんぽのことばかり考えているゆう子ちゃんですが、たまには社会的に善いとされていることもします。

例えば、これは私のルールなのですが、ストリートミュージシャンやパフォーマーがいて、一瞬でも足を止めて聴いたなら、ギターケース(或いは缶、或いは帽子)にお金を入れることにしています。彼らが担う文化は尊いと思うから。

また年収的には貧困家庭に入りそうな私ですが(っていうかぶっちゃけ入ってる)たまにはFree the SlavesSave the Childrenに自発的に寄付したりもします。

ほんで、日々かつかつの生活をする中で、いくら寄付するかというと、自分の中に「自分が痛いと思う金額にする」という基準があります。

例えば、財布の中に千円しか入ってなかったとして、そこから500円を差し出すことはかなり勇気のいることです。

一方で、百万円入ってる財布から一万円出すとすれば、無論こちらの方が与えられた方にとってはより益があるのは事実ですが、百万円が99万円になったとして、その人にとっては多分なんでもないことだと思うのです。

例えば震災や今回のコロナ禍にあって、多くの人に向けて呼びかけられた寄付に賛同することはあっても、そのような災害や非常事態と離れた時、日本人の中にはあまり自発的な寄付をする人はいないんじゃないかと思います。

また、募金や寄付をする、他人に金銭を施す、というのはなんだか上から目線で尊大な行為のように感じられて、実際に寄付をしていてもそれを口にしない方も同時にいると思います。

でもね、寄付、人に金銭を施すということの本質は「困っている人と痛みや困難を分かち合う」ということなのよ。

今そこで困っている人がいて、もし自分がそれを代わってあげたり、直接手助けをできない時に、それでもその人の苦しみを少しでも理解したい、と思った時、私達は文字通り「身銭を切る」ということしか、逆にできることがない。

その時、どうやって金額を決めるかと言えば「自分にとって苦しい額」「自分が痛い額」に他ならない。だって寄付の本質は他人の苦しみを分かち合うことだから。

と、いうことを20年近く前に通っていたカトリックの学校でイタリア人の神父さまから聞いて、ずっと心に残っているという話。

あと、ま〜これはゆう子ちゃんの蛇足なんですが、太宰治が「美男子と煙草」という作品の中で引用しているポール・ヴァレリーの言葉に

 ヴァレリイの言葉、――善をなす場合には、いつも詫わびながらしなければいけない。善ほど他人を傷きずつけるものはないのだから。

というのがありまして、やっぱりどうあがいても募金や寄付って善行なので、善をなす程他人を傷つけるという罪の意識から逃れるためにも、やはり自分が痛みを感じる額でないといけないと思うわけです。

今日の一枚:ケニアのキベラスラム

今日の一曲:Rolling in The Deep/GLIM SPANKY

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