小説:上高地にポール・エルデシュが来たら その3
エルデシュとアニューカのいる日々
翌朝。
上高地バスセンターに最初のバスが着いて、どんどん人が降りてくる。次のバスも、その次のバスも到着する。
小梨平キャンプ場の方からタカシが歩いてきて河童橋の方に向かうと、向こうのベンチにエルデシュとアニューカが座っている。
「先生、アニューカ、おはようございます。よく眠れましたか?」
エルデシュが答える。
「よく眠れたよ。ありがとう。ここは静かでいいとこだな」
タカシが一礼して河童橋を渡り始めると、向こうからアズサが渡ってくる。
「やぁ」
アズサが微笑する。
「おはよー。あのね、あのね、アルバイト長が色々調整してくれたおかげで、アタシはエルデシュ先生とアニューカと毎日朝食のおともするのー」
タカシが微笑する。
「大変だなぁ。がんばってね。アルバイト長はきっと感謝してるよ」
アズサが顔をクシュッとして抗議する。
バスセンターに、アズサが村営ホテルのノボリを持って立っている。バスのクラクションが鳴って、ジローが運転しているバスが目の前に止まる。ドアが開くと、車内からジローが手を振っている。アズサも振り返す。おもむろにマイコが出てきて、お客さんがどんどん降りてくる。お客さんが降り終わると、アズサが車内に話しかける。
「おはよー。ジローさーん、この前、エルデシュ先生の件、ありがとうございましたー」
運転席からジローが手を振る。
「やめろよー。結局ダメだったじゃないか。」
お客さんを見送ったマイコがアズサに近づいてくる。
「どう?先生とアニューカは?リラックスしてる?」
アズサが答える。
「うん。楽しそうだよ」
マイコが鋭い目で言う。
「今度さ、先生とアニューカとお昼食べようよ。あたしの英語が通じるか試してみたい」
アズサが同意する。
「それは楽しそう。やろうやろう。タカシさんにも言っときますよ」
マイコが首を振る。
「タカシ君はいいよ。なんか気になって集中できない」
アズサが目を細めて悪そうな顔でマイコを見る。それを見てマイコは急いでバス車内に入ってドアを閉める。振り向くと、ジローが目を細めて悪そうな顔でマイコを見ている。
アズサが十数人の米国人の団体を連れて河童橋の手前を小梨平方向に歩いて行く。川の横のベンチでエルデシュとアニューカが座ってボーッとしているのが見える。
明神池まで1時間かけて歩き、米国人の団体と一緒に1時間昼食を取り、また1時間かけて河童橋の手前までアズサが米国人の団体を連れて帰ってくると、川の横のベンチでエルデシュが3時間前と同じような格好で座っている。アズサがビックリしてエルデシュに駆けよる。
「先生、先生、どうかしたの?だいじょぶ?」
エルデシュがよどんだ瞳でアズサを見る。
「なんだよ。アズサ、邪魔しないでくれよ」
夜になった。
村営ホテルのたくさんの窓に明かりがついている。
従業員用食堂で笑い声が起こる。
鍋を囲んで、アズサ、タカシ、エルデシュ、アニューカが座っている。エルデシュが苦笑する。
「アズサが急に話しかけるから、証明の1/4くらい飛んじゃったよ」
タカシとアニューカがケラケラ笑う。アズサがすまなそう。
「ごめんなさーい。知らなかったからさー、てっきり気絶でもしてるのかと思って、、、」
アズサ以外のみんながケラケラ笑う。
「そいえば、タカシさんもヘンなとこにたたずんでることがあるけど、あれも証明考えてるの?」
エルデシュが興味深そうに尋ねる。
「例えば、どこ?」
アズサが思い出しながら、
「お風呂のチェックしようと思って入っていったらボーッと立ってたり、出勤しようと思って寮の玄関に行こうとしたら、ヘンなとこにヘンな方向見て立ってたり、、、」
エルデシュとアニューカがケラケラ笑う。アズサも笑う。
「上高地の風景に心打たれてるのかと思ったんだけど、、、」
タカシが苦笑する。
「そりゃ、上高地は美しいけどね、数学はもっと美しいよ」
エルデシュが強くうなづく。
「うん。それは確かにそうだ」
アニューカもうなづいている。アズサが尋ねる。
「アニューカもそう思うの?」
タカシが言う。
「だって、アニューカは数学の先生だったんだもん」
アズサがビックリ。
「えー!この中で数学のことわかってないのはあたしだけだったのー!」
タカシとエルデシュとアニューカがケラケラ笑う。
掃除をする世界的権威
翌朝。
村営ホテルの玄関で主任が15人の団体さんを見送って頭を下げている。のぼりを持ったアズサが先頭に立って河童橋の方に歩いて行く。
主任が頭を上げて村営ホテルの玄関を入っていくと、ほっかむりをして制服をだらしなく着た見知らぬ人物がモップで廊下を拭いている。「あれは誰だろう?」という顔で主任が見ている。モップを持った男は、主任に見られることを避けるように奥の方へ行こうとする。
「きみ、きみ、きみは誰だ?」
モップを持った男はモゴモゴと何か答える。何を言ってるか聞き取れないので、主任が近づいてみると、その男はエルデシュだった。主任はエルデシュを見据えながら声を出す。
「タカシくーん、タカシくーん」
従業員用食堂に、主任が怒った顔をして座っている。向かいにエルデシュとタカシが座っている。タカシが言う。
「いーじゃないですか。エルデシュ博士がせめて何かお礼をしたいって言ってるんだから」
主任が怒気を含んで言う。
「それが迷惑だっていうんだ。こんなみすぼらしいじーさんが、お客様の前に出て行ったら、みなさんビックリされるだろー」
タカシが少し怒る。
「みすぼらしいとは何ですか!この方は世界的な、、」
主任がさえぎる。
「わかってる。散々聞かされたからわかってる。でも、みすぼらしいのはみすぼらしいぞ」
タカシが長考する。急に指で髪をむしる。
「あーぁ、アズサくんが聞いたら、まーた主任の印象が悪くなっちゃうなー」
主任が止まる。メガネをかけ直す。
「え?、、、アズサ君の印象悪いの?」
タカシがあさっての方を見てつぶやく。
「最初は頼りがいのある上司だと思ってたみたいですけどね、博士とアニューカへの応対が、、、」
主任、黒メガネに手をかけて、立ち上がって、そこら辺を歩き回る。数分歩き回ってから、再度腰掛ける。
「わかったよ。わかった。博士は、ナオミ君の下について掃除を手伝ってもらおう。ちゃんと制服着て。」
タカシがエルデシュに通訳すると、エルデシュは立ち上がって主任の手を握る。
「ありがとう。ありがとう。これでぼくの気もすむよ」
主任は苦笑して去ろうとするが、ふと気づいて戻ってくる。
「タカシ君、アズサ君にちゃんと伝えといてくれよ。村営ホテル主任の厚意についてさ」
タカシがうなづく。
アズサが従業員用食堂に入っていくと、ナオミが一人でお茶を飲んでいた。
「お疲れさまー。なんか久しぶりねー」
ナオミが手を振る。アズサがナオミの向かいに座る。ナオミが苦々しく言う。
「まーた部下がいなくなっちゃった」
アズサ、驚く。
「またー?ずいぶんいなくなるのねー」
ナオミが力なく微笑む。
「あたし、こき使ってるわけじゃないのよー。なんでかなー」
アズサがお茶を入れて飲む。
「あ、エルデシュ博士があなたの下について掃除するみたいよ。泊めてもらうお礼に掃除するんだって」
ナオミがイヤそうな顔をする。
「えー!!ずいぶんエライ人なんでしょ?」
アズサが笑う。
「うん。そうだけど、面白いじゃない。数論の世界的権威があなたの部下になるのよ。アインシュタインと机を並べて研究した人よ」
ナオミがビックリする。
「ア、ア、アインシュタイン!でも、そっか。面白いか。村の友だちにみやげ話できるね。あ!あの人、写真撮っていいの?」
アズサがいぶかしげに答える。
「いいでしょ。なんで?」
ナオミが心配そうに言う。
「だって、あとでCIAとかに尋問されない?」
アズサが笑う。
昼過ぎ、アズサがノボリを持ってバスセンターに行くと、タカシがノボリを持って立っていた。
「やぁ、アズサくん、次はどこの団体さん?」
「北欧。28人。通訳さん帯同らしいから楽だけど」
タカシが作り笑いで、
「あのさ、ちょっとさ、村営ホテル主任の厚意について話していい?」
アズサ、いぶかしげに
「なにそれ」
タカシが作り笑いで、
「さっきさ、主任が約束してくれたんだ。博士とアニューカを従業員同様に扱ってくれるって。宿泊も食事も従業員なみに提供するって。村営ホテル主任の厚意で」
アズサが笑顔になる。
「えー、それはよかったねー」
タカシも笑顔になる。
「よかったよー。アズサくんのお陰だよ-」
「なんであたしのお陰?」
「なんかわかったんだよ。主任て、アズサくんに好意持ってるじゃない?」
アズサ、ビックリ。
「えー!そーなのー!?」
タカシがうなづく。
「うん。だから、アズサ君をダシに使ったら、スルスルとウマくいってさ。アズサ君に色々教えてもらったお陰だと感謝してる」
アズサがいぶかしげな顔になる。
夜になった。
村営ホテルの従業員寮。ほぼ全ての窓に明かりがともっている。
従業員食堂に、アズサ、ナオミ、エルデシュ、タカシが一緒の机に座っている。机の上のはワインが置いてあり、みんな少しずつ飲んでいる。少し顔の赤くなったアズサがナオミを紹介する。
「この人が明日から上司になるナオミさんね」
エルデシュがナオミに小さく手を振る。
「アズサ、こーゆー場合、日本語でなんて言うの?」
アズサがちょっと考える。
「うーん、「ふつつか者ですが、よろしくお願いします。」かな」
エルデシュが立ち上がってマネをする。
「ふととかものでしゅか、よろりくおねましらぬる」
アズサとナオミとタカシが拍手をする。エルデシュは満足そうに座る。タカシが小さい声でアズサとナオミにつぶやく。
「でもさー、主任がさー、博士をお客さんの前になるべく出すなって言ってたよ」
アズサとナオミが口を揃える。
「えー!」
「えー!」
主任が真面目な顔で村営ホテルのフロントに立っていると、少し向こうの廊下のハジから、顔の赤いアズサが上半身だけ出す。
「あれ?アズサくん、なにしてんの?」
アズサが破顔してピョコピョコ近づいてくる。そして、なかなか堂に入った甘ったるい声を出す。
「主任、主任、ステキなことしたんですってね」
主任が黒メガネに手をやる。
「な、なにがよー?」
アズサ、うるんだ瞳で主任を見つめる。
「だって、だってぇー、エルデシュ博士とアニューカを、従業員のようにちゃんと扱ってくれるんでしょ?」
主任が黒メガネに手をやる。
「う、うん。だって、世界的な人が困ってるんだから、当たり前だろ?」
アズサ、うるんだ瞳で胸の前で手を合わせてつぶやく。
「ステキ」
主任はほほえみそうになるのを堪えながら、黒メガネを触って目を泳がせながら、アズサをチラチラ見る。
「あ、あた、あた、あた、当たり前のことだよ。あ、あた、あた、当たり前だろ?」
少し離れた廊下のハジから、ナオミとタカシが上半身を出して見ている。
「さ、さすが世渡り上手のアズサ君」
ナオミが同意する。
「さっきまで心からブーたれてた女とは思えないわ」
タカシがうなづく。
「ワイン3杯飲んだだけなのに、アズサ君、別人になっちゃうんだなぁ」
アズサが体をクネクネさせている。
「でね、でね、明日から博士も掃除するじゃない?」
主任がうなづく。
「あのね、あのね、これは美談だと思うの。主任が親切にしてね、そしたら世界的数学者がお礼に掃除してるとこなんて、お客さん喜ぶわよ」
主任が、いぶかしげに黒メガネに手をやる。
「そ、そーかぃ?」
アズサが体をクネクネさせている。
「そーよー。信濃毎日に掲載されてもいい話よ」
主任、少し驚く。
「そーかぃ?信濃毎日新聞に載るくらいの話かぃ?」
アズサが急に主任を手を両手で包む。
「あたし、明日シゲルさんとこによく来てる信濃毎日の記者さんに言ってみる。だから、博士が掃除してるとこ、お客さんにも見せてあげて」
主任、手を包まれてドギマギして、デレデレする。
「しょ、しょーがないなー。わかったよー。アズサくんが言うなら」
上半身を出して見ているナオミとタカシが驚く。タカシがつぶやく。
「さ、さすがだ。アズサ君」
ナオミがつぶやく。
「小悪魔がいるわ。あたしたちの主任が、小悪魔に操られてる」
信濃毎日新聞
翌朝。
小梨平キャンプ場の裏手に設置してある多めのテントがもぞもぞ動いて、タカシが出てきてノビをする。
出勤するために小梨平食堂の前を通りかかると、ミドリが掃き掃除をしていた。タカシが「おはようございます」と声をかけると、ミドリは不機嫌そうに「うす」と手をあげた。
タカシが歩いて出勤して、村営ホテルの従業員寮の玄関をあけると、ちょうどエルデシュが通りがかる。モップを持って、作業着を着て、頭にタオルを巻いている。
「先生、に、似合う」
エルデシュがニヤッと笑う。
「そうだろ?あとで写真撮ってくれよ」
タカシが返事をする前に、ナオミの声が聞こえる。
「ポール!ポール!何やってんのー!」
エルデシュが「イエス!マム!」と大きな声をあげる。
「じゃな。ボスが呼んでるから」
エルデシュが笑顔でそそくさとナオミの声がする方に向かう。
村営ホテルの玄関の外でアズサがノボリを持って立っている。後ろに20人くらいの北欧の団体さんが立っている。
「じゃ、河童橋を渡ってバスセンターに向かいまーす」
アズサが歩き出すと、北欧の団体もそれについて歩き出す。その後ろで主任が礼をしている。
主任が頭をあげてホテルに入ると、手ぶらのナオミが横切っている。その後ろをエルデシュが色んな荷物を持ってついていっている。ナオミがあっちの方を指さすと、エルデシュは荷物を置いて、ちり取りとホウキでゴミを拾う。主任があきれる。
「ナオミくん、ナオミくん、きみ、威張りすぎじゃないか?エルデシュ博士は世界的な方なんだぞ」
「なーに言ってんですか。新人は新人でしょ?いくらエライ博士さんだって、ここではあたしの可愛い手下。ね?ポール」
エルデシュが主任とナオミを見比べる。
「イエス、マム」
ナオミが誇らしげに主任を見ていると、ガタガタと玄関が空いてアズサが入ってくる。アズサが男の袖を引いて玄関の中に引っ張り込む。
「この人、この人が信濃毎日新聞の松本さん。そこで会ったから。松本さん、あれがエルデシュ博士でこっちが主任ですから。あたし、お見送りあるから、、、」
アズサが、急いで、ドタバタと出て行く。
上高地バスセンターからバスが出て行くと、ノボリを持ったアズサが一礼している。
アズサが村営ホテルの玄関を入ると、主任とナオミとエルデシュとアニューカと信濃毎日新聞の松本が楽しそうに話している。ナオミがアズサに言う。
「松本記者にすっかり話しといたよ。村営ホテル主任の厚意を」
主任が照れる。
「やめろよー、ナオミくん」
松本記者が礼を言う。
「面白い話だったよ。ネタありがとう。で、写真撮りたいんだ。きみが帰ってくるの待ってたんだよ」
みんなで村営ホテルの玄関の前にたって写真を撮った。
3日後の朝。
小梨平キャンプ場にも朝が来た。
タカシが出勤しようと小梨平食堂の前を通ると、「タカシくーん」と呼ぶ声が聞こえる。どこから呼ばれてるのかと回りを見ると、食堂のミドリがニコニコして立っている。
「オハヨー。よく眠れた?」
タカシがいぶかしげにミドリを見る。
「え、えぇ、おかげさまで」
ミドリがやっぱりニコニコしている。
「コーヒー飲んでく?」
タカシがうたぐる。
「なに?なに?どしたの?ミドリさん、便秘が治ったの?」
ミドリはそれでもニコニコしている。
「治ってないわよ。。。あんたさ、数学の天才なんでしょ?」
タカシがビックリする。
「え!なんで知ってるの?」
ミドリが信濃毎日新聞をタカシの目の前に出す。一面にアズサやエルデシュや主任が写っている。
「!!」
タカシは走り出した。
タカシが小梨平から河童橋を渡って、その途中にすれ違った何人かの他の宿の従業員が、いつもは見せない生あたたかい笑顔をタカシに向けた。
タカシが小走りに村営ホテル従業員食堂に入っていくと、ナオミと主任とエルデシュとアニューカがバラバラな場所に座って、みんな信濃毎日新聞を見ている。タカシがみんなに話しかける。
「いやー、ビックリしましたねー。一面ですねー」
主任がニヤニヤして記事を指す。
「この「村営ホテルの厚意で」っていうとこがいーなー」
ナオミがニヤニヤして記事を指す。
「「上司のナオミさんは妙齢の佳人で」だってさー」
エルデシュがニヤニヤしながら言う。
「タカシュ、訳してくれよ」
タカシがエルデシュの新聞を受けとって訳し始める。
「数論の世界的権威ポール・エルデシュ博士、安曇野村村営ホテルの厚意にモップ掛けで答える」
エルデシュとアニューカがニヤニヤし始める。エルデシュがナオミと主任を指さしてニヤニヤする。ナオミと主任もエルデシュを差し替えしてニヤニヤする。
「パンパンパンパン」
と手を叩く音がして、アズサの声が聞こえてくる。
「はいはいはいはい、そこまで、そこまでー。みんな働いて、働いてー」
アズサがパンパン手を叩きながら従業員食堂に入ってくる。ナオミと主任とエルデシュとアニューカがそそくさと出て行く。タカシだけが残った。アズサがあきれている。
「朝食前からあの調子なのよー。一回出ていっても、いつのまにか戻ってきて同じことしてるから、困っちゃう」
タカシが苦笑する。
「じゃ、もう博士には訳して聞かせたんだね」
アズサが苦笑する。
「3回訳したわよ。全文」
村営ホテルのフロントにタカシが立っていると、玄関の外が騒がしくなった。外に出てみると、4人が玄関の外に立っていて、あちらから5人が歩いてくる。一緒にマイコが歩いている。
「なに?マイコさん、この人たちはなんで玄関前にいるの?」
「エルデシュ博士に会いに来たんだって。信濃毎日見て」
タカシが9人を引き連れて従業員食堂の前に来る。9人にここで待つようにお願いしてタカシだけ食堂に入っていくと、ナオミと主任とエルデシュとアニューカがバラバラな場所に座って、みんな信濃毎日新聞を見ていた。タカシが主任に話しかける。
「その信濃毎日新聞見て博士に会いに来た方々がいらっしゃるんですが、ここのお通ししていいですか?」
主任がビックリした顔で9人を見ると、9人はササッとエルデシュに近寄って挨拶を始めた。
従業員食堂の外で、アズサとタカシが立って中を覗いている。
「えー!10万円も集まったのー!大金じゃなーい。上高地帝国ホテルに1ヶ月は泊まれるじゃなーい!」
タカシがうなづく。
「そうなんだよ。皆さん数学関係の人でさ、数学界の宝である博士のためになんかしなくちゃと思って、別々に来たんだって。金一封持って」
アズサがビックリする。
「へー。数学界ってものがあるんだー」
タカシがアズサを見る。
「でさ、主任がカッコよかったよ。
「博士とアニューカのご滞在については、安曇野村村営ホテルの厚意で取りはからいました。皆様のご厚意は、どうぞまた、別の機会にお使いください」
なんつってさ」
アズサ、食堂をのぞき込んでいる。エルデシュが話すのを囲んで9人が座っている。
「それが、なんでああなってんの?」
タカシが食堂の中をのぞく。
「みんながそれでも金一封渡そうとして、でも博士も主任もいらないって言うからさ、僕が解答を出してあげたんだ」
アズサがタカシを見る。
「タカシさんが!」
タカシが少しほほえむ。
「うん。博士は講義して、みんなは受講料払えばいいじゃない。うまい案でしょ?」
アズサがうなづく。
「うまい」
タカシが大きくほほえむ。
「だいぶ世渡り上手になった?師匠として鼻が高いでしょ?」
アズサが首を振る。
「まだ、そこまでは」
タカシが「ははは」と笑った。従業員食堂ではエルデシュが9人に講義をしている。
夜になった。
村営ホテルの全部の窓に明かりがついている。従業員食堂で多くの若者が食事をしている。はじっこのテーブルに、アズサ、マイコ、エルデシュ、アニューカが座って、お寿司を食べている。マイコがエルデシュに尋ねる。
「Are You Enjoying The Food?」
エルデシュが笑う。
「マイコは、ずいぶんフォーマルな英語使うんだな」
マイコがアズサに日本語で尋ねる。
「フォーマルってなに?」
アズサがお寿司を食べながら答える。
「形式的っていうか、儀礼的っていか、、、」
アズサが英語に切り替えてエルデシュに尋ねる。
「もっと友だちみたいに話してくれっていうことよね?くだけてね?」
エルデシュがうなづく。
「だって、ぼくたちはもう友だちじゃないか」
アズサがマイコに日本語で言う。
「だから、この場合は「Do You Like It?」でいーんじゃない?」
エルデシュがアズサを指さして賛意を示す。それにしても、エルデシュとアニューカはお寿司をバクバクと食べている。エルデシュがマイコに言う。
「マイコ、おいしいよ。すごくおいしい。ありがとう。昔、カクタニに聞いたことがあるんだ。日本には寿司ってものがあるって。一度食べてみたかったんだ」
アニューカも笑顔でうなづく。マイコが尋ねる。
「カクタニって誰?」
エルデシュがビックリする。
「あれ?知らないの?」
マイコとアズサがうなづく。エルデシュが驚いた顔で話す。
「イェール大学のシズオ・カクタニだよ。教授の。不動点定理を発表した。日本で最高峰の数学者じゃないか」
マイコとアズサがポカンとしている。エルデシュが思い出し笑いをする。
「昔さ、戦争中さ、カクタニとアーサーとロングアイランドで捕まったことがあるよ。スパイ容疑だってさ。ははは」
マイコとアズサは「アーサーって誰?」と聞きたかったが、きっとわからないからやめた。マイコが別の質問をする。
「ハンガリーで魚食べないの?」
エルデシュが少し考える。
「うーん、ハンガリーじゃ、こんな風には食べないなー。そもそも、ハンガリーに海ないからね」
アズサが思いついたように言う。
「そいえば、長野にも海ないよね?5人前も松本から持ってくるの大変だったでしょ?」
アズサが答える。
「思ったよりタイヘンだったわー。最終便空いてるからさ、席一つ確保してさ、たーくさん氷で囲んでさ、大切に大切に持って来たの」
エルデシュとアニューカが感動している。それを見たマイコも喜ぶ。
「良かったら、またそのうち持ってくるよ。また最終便の泊まりがあるから」
アズサが目を細めて悪い笑顔になってアズサを見る。
「マイコちゃんは、タカシさんを狙ってるから、泊まりを志願してるんだって」
マイコが日本語でどやす。
「やめてよー。そんなことまで伝えなくていいでしょー」
エルデシュがおもむろに言う。
「タカシュはレモネードが大好物だよ」
マイコの目が鋭くなって、エルデシュを見据えた。
「ハンガリーの家に1ヶ月くらいいたことがあるんだけど、毎日5杯くらいレモネード飲んでたな。ねぇ?アニューカ?」
アニューカがニッコリしてうなづく。マイコが鋭い目でバッグからメモ帳を取り出して、真剣に何かを書き込む。
朝になった。
河童橋をマイコが制服で風呂敷を持って歩いている。何となくスカートの丈が短い。河童橋を渡ったところで、バスセンターの方へはいかず、小梨平の方に向かう。
マイコがタカシのテントの前に立つ。
「タカシくん、タカシくん」
少し沈黙があって、テントがもぞもぞと動いて、寝間着姿のタカシが出てきてノビをする。
「あれ。マイコさん。おはよ。どしたの?」
マイコ、風呂敷から寿司桶を出して渡す。
「はい。松本のおいしいお寿司。昨日、エルデシュとアニューカに持ってきたんだけど、会えなかったから」
従業員用食堂にタカシが座って、幸せそうにお寿司を食べている。アズサが食堂に入ってくる。
「あ!昨日マイコちゃんが探してたけど、会えたんだ」
「うん。朝ね。昨日はシゲルさんとこで飲み会があって、そのまま小梨平帰ったんだ」
アズサがコーヒーを持ってタカシの前に座る。タカシが朝食を食べている。タカシがつぶやくように言う。
「あのさ、、、」
「、、、なに?」
「このお寿司、すごく美味しいね」
「昨日食べればもっと美味しかったのに。博士もアニューカも喜んでたよ」
タカシが驚く。
「博士やアニューカにも持って来てくれたの?親切な人なんだねぇ」
アズサがあきれる。
「今さら気づいたの?マイコちゃんは親切な美人なのよ」
二人で少し黙々と朝食を食べる。タカシがつぶやくように言う。
「あのさ、、、」
「、、、なに?」
「ボクさ、胸の大きい人か数学やってる人じゃないと、女性としてあんまり見られないんだよねぇ」
アズサが唖然としてタカシを見る。タカシは美味しそうにお寿司を食べている。
タカシが村営ホテルのフロントに立っていると、なんだか玄関に人影が見えて騒がしいので外に出てみる。村営ホテルの前に5人が立っていて、河童橋の方を見ると20人くらいの人が続々と歩いてくる。先頭にシゲルが歩いている。
「あ、シゲルさん、博士への来訪者ですか?」
シゲルが笑顔でうなづく。
従業員食堂で、25人を前に、エルデシュが講義をしている。食堂の外の廊下でアズサが驚く。
「ご、五十みゃんえん!!」
主任が苦笑して口に手を当てる。
「しっ!声が大きいよ」
アズサが笑う。
「初任給の20倍じゃない!」
主任がうなづく。
「そうなんだよ。大金なんだよ。でもさ、それを全部村に寄付するっていうんだよ」
「いいことじゃない。ダメなの?」
「ダメじゃないけどさ、だいじょぶなのかな?少しは残しといた方がいいんじゃないの?」
アズサが合点する。
「あぁ、そーゆー心配ですか。主任はいい人ですね」
主任が照れる。
「や、やめろよ。アズサくん」
アズサが微笑しながら主任を見つめる。主任が黒メガネに手をかけて視線をそらす。アズサが笑う。
「ふふふ。博士はお金が入ると、寄付するか、誰かにあげちゃうんですって。使うこともないし、面倒なことはなくして、なるべく数学に集中したいんですって」
主任が「へー」と感心する。
「やっぱ、世界的な人は違うねー」
二人は、食堂で講義をしているエルデシュを見る。
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