小説:上高地にポール・エルデシュが来たら その4(終章)
50万円と無限の豊かさ
上高地バスセンターからバスが出発する。ノボリを持ったアズサが礼をしている。
ノボリを持ったアズサが河童橋に向かって歩いていると、穂高岳が見える眺めの良いベンチにエルデシュが座っている。アズサ、立ち止まって、少し遠くからエルデシュを見る。エルデシュが気づく。
「なに見てるの?」
アズサがほほえむ。
「いやー、証明考えているのかなーと思って」
エルデシュが苦笑して自分の横をポンポンと叩く。アズサが隣に座り、二人並んで穂高岳を眺める。
「講義終わったの?」
「終わった。みんな早く返したよ。アズサの言う通り、山は日が暮れると危ないからね」
アズサがエルデシュを見る。
「50万円も集まったんだって?」
エルデシュは穂高岳を眺めながら、興味なさそうにうなづく。アズサが言う。
「ちょっと取っとけばいいのに。主任が心配してたよ」
エルデシュはメガネをかけ直して、アズサを凝視する。
「アズサ、お金なんかにとらわれちゃダメだ。君はまだ若いんだし。ぼくらはもう無限に豊かなんだから」
アズサは不思議そうにエルデシュを見る。
「無限に豊かなの?」
エルデシュは強くうなづく。
「そうさ。アニューカがいて、仲間がいて、友だちがいて、数学がある。もう無限に豊かじゃないか。アズサに数学はないけど、そのかわりお父さんもお母さんも元気で、未来がある。数学があれば一番いいけど、、、」
アズサが不思議そうにエルデシュを見る。エルデシュがメガネをかけ直す。
「だろ?無限に豊かだろ?お金は生活に必要だけど、それにとらわれていると、その豊かさが感じとれなくなるよ」
アズサが、やっぱり不思議そうにエルデシュを見る。エルデシュが続ける。
「お金で買えるものに、本当に豊かなものなんてないんだから」
エルデシュが穂高岳に目を移す。
「たとえばさ、第二次世界大戦の間、ボクは米国にいたんだけど、アニューカや父や親戚や友だちはハンガリーにいてね、みんなアウシュビッツに送られたんだ」
アズサが驚く。
「えー!アウシュビッツー?死の強制収容所じゃなーい!大変じゃなーい!」
エルデシュは穂高岳を見ながらうなづく。
「大変だったよ。みんなが大変だった。結局、父と2人のオバさんと3人のオジさんと子供の頃の友だちが何人もアウシュビッツで死んじゃった、、、」
アズサが口に手をあてる。エルデシュがアズサを見る。
「いとこのマグダが生き残ってね、アウシュビッツから先に帰っていたアニューカのところに帰ってきたそうだよ。帰ってきても、マグダは無表情で何も言わないでね、、、」
アズサは口に手をあてたまま。エルデシュがアズサを見ている。
「アニューカはマグダをお風呂に入れて、食事をさせて、髪をとかしたんだって。そしたら、マグダはやっと笑ったんだって」
アズサが口に手をあてながらうなづく。エルデシュが穂高岳に目を移す。
「マグダはやっと人間に戻ったんだ。マグダはひどい経験をしたけど、そのとき無限に豊かになったんだ。そんなのお金じゃ買えないだろ?」
アズサが口に手をあてながらうなづく。エルデシュが続ける。
「だからさ、集まった金は全部村に寄付するんだ。だけどさ、、、」
エルデシュがアズサを見る。アズサが口から手を離して「なに?」という顔をする。
「村営ホテルのみんなにおいしいお寿司を食べさせてあげたいんだけど、そのくらい使ってもいいよね?」
アズサ、笑顔で何回もうなづく。
村営ホテルの玄関の外に主任が立ってキョロキョロしている。
「あ、村長!おつかれさまです」
あちらから恰幅のいいおじさんが歩いてきた。
「おー、主任、はーるかぶりだな、がんばってんなー」
主任が恐縮している。
「は。おかげさまで」
村長、主任の前に立って肩を叩く。
「主任、ようやった。ようやった。村のみんなの善意をな、よくぞ広めてくれた。しかも45万円も寄付につなげるなんてなぁ」
村長、主任の肩を叩き続けている。主任、ずっと恐縮している。
「ほんとだぞぉ。お前のオヤジはあんまし取り柄もなかったけんどもな、お前にゃ見所あると昔っから思ってたんだがぁ」
主任がやっぱり恐縮して首を振っている。
「で、どうだ?博士は?ごきげんか?」
村営ホテルの従業員食堂で、寿司職人が二人、次々と寿司を握っている。そこへ村長と主任が入ってくる。村長が主任を振り返って笑う。
「なんだよ。職人呼んだのかよ?大変なもんだな」
主任がうなづく。
「はい。その方がおいしいだろ?とかおっしゃって、松本から」
そのとき、「チンチンチーン」という音がした。村長と主任が音のする方を見ると、エルデシュがフォークで湯飲みを叩いている。
「みんな、聞いてくれ。一言だけ、聞いてくれ」
食堂内にはアズサもマイコもアニューカもジローもタカシも、村営ホテルの従業員もシゲルや松本記者や森村巡査も座っている。
「みんな、ここにいるみんな、一人残らず、ありがとう。みんなのお陰で、思いがけず楽しい滞在になったよ」
アズサが訳して、エルデシュは四方八方に湯飲みを掲げた。拍手が起こる。
村長がエルデシュに挨拶に行こうと進んでいくと、ふと松電社長が座っているのが見えた。
「あっ!滝沢!おまえ、なんにやってんだよ」
松電社長が、アズサとマイコとジローと一緒の席で、楽しそうに寿司を食べている。
「なにって、寿司ごちそうになってんだろ。うまいぞ。お前も食えよ」
村長が苦笑する。
「何でだよ。おまえ、関係ねーだろ」
松電社長が寿司をほおばっている。
「関係なくねーよ。おまえと違って、オレはいつも現場にいるからな。色々と関係あんだよ。あの寿司職人だって、オレが松電のダットサン運転して乗せてきたんだぞ。ボランティアだぞ」
主任が割って入る。
「村長、村長、とりあえず博士に挨拶しないと。ほら、こっちです、こっちです、アズサくん、アズサくん、通訳して、通訳して、、、」
村長がエルデシュのテーブルに行って挨拶をしている。それを2つこっちのテーブルからナオミとレモネードを飲んでいるタカシが一緒に見ている。ナオミが驚く。
「あらー。安曇村の村長まできちゃったよー」
タカシが笑う。
「45万円も寄付すれば、村だって黙ってるわけにいかないだろーなー」
ナオミが「ふーん」と言いながらエルデシュの方を見ていると、エルデシュと目が合った。ナオミがビックリすると、エルデシュがナオミを見据えたまま立ち上がって、ツカツカ寄ってきた。
「な、なに!?」
エルデシュがナオミの目の前に立つ。
「ボス、今度の金曜日休んでいいかぃ?」
タカシがナオミに訳して聞かせる。エルデシュが続ける。
「村長がさ、村の子供たちに説教してくれって言うんだ」
タカシがナオミに訳して聞かせると、ナオミが尋ねる。
「説教ってなに?」
タカシが笑う。
「講演とか講義のこと」
ナオミがエルデシュを見てニッコリして親指を力強くつきだした。エルデシュもビッグスマイルで親指を突き出して、自分のテーブルに戻っていった。
村長と松電社長と主任が一つのテーブルでお寿司をおいしそうに食べている。松電社長が何か言うと、村長が社長を小突いて二人で大笑いしている。横のテーブルからアズサ、マイコ、ジローがそれを見ている。アズサが不思議がる。
「あの二人は仲いいの?」
ジローが答える。
「仲いいよ。高校の同級生」
アズサが不思議がる。
「仲よさそうに見えなかったのに」
マイコが不思議がる。
「そう?松本の人って、あんな感じよ」
アズサが「あ!」と言ってマイコの方を向く。
「マイコちゃん、マイコちゃん、大変。たいへーん。タカシさん、乳の大きい女か数学のできる女しか興味ないんだって」
マイコがものすごーく悲しい顔になってアズサを見る。アズサが悲しそうな顔でマイコの胸を見る。
「困っちゃったよねー」
マイコがものすごーく悲しそうな顔のまま言う。
「あんた、どこ見て悲しい顔してんのよ」
アズサが「エヘへ」と笑う。マイコが悔しがる。
「なによー。この前、あたしの美しい脚をこれでもかって見せつけてやったのに、どーも反応がニブいと思ったら、あれはまさに無駄足だったのね。。。」
マイコが「どーだ」というような顔でアズサとジローを見る。アズサとジロー、なぜか笑うのをガマンしている。マイコが言う。
「笑いなさいよ。遠慮しないで。うまかったでしょ?」
アズサとジロー、小さく手をたたく。
「うまい」
「うまい」
アズサが心配そうな顔で言う。
「しょーがないから、胸に何か入れれば?」
マイコがガリを一口食べる。
「もういいのよ。さっきレモネードあげたとき聞いたんだけどさ、タカシくんカリフォーニア行っちゃうんでしょ?」
アズサが「うん」とうなづく。ジローが言う。
「カリフォーニアは遠すぎるよなー」
マイコがキッパリと言う。
「だから、もういいの。アズサ、色々ありがとう。次探すぞー!」
と片手を振り上げた。
「ほら、あんた達も一緒に。次探すぞー!」
アズサとジローは苦笑しながら一緒に片手を振り上げて「おーっ」と言った。
別れの宴
上高地バスセンター。バスが発進すると、タカシがノボリを持って一礼している。その前に、松電のダットサンが止まって、アズサとエルデシュとアニューカが降りてくる。タカシが笑顔で尋ねる。
「どうだった?どうだった?」
アズサが苦笑する。
「すごいウケてた。なんで子供にあんなにウケるんだろう?さすが数学界のボブ・ホープ」
エルデシュが抗議する。
「そのアダ名はどーだい?「ブタペストのマジシャン」の方がよくないか?」
アズサが考える。
「うーん、マジシャンよりボブ・ホープの方がスゴいんじゃない?マジシャンは世界中にいるけど、ボブ・ホープは一人しかいないから」
エルデシュとアニューカとタカシがうなづく。うしろから声がする。
「タカシくーん」
タカシが振り向くと郵便局の制服を着た女性が立っている。
「あぁ、どーも。どしたんですか?」
「届いたよ。小切手。いましがた」
村営ホテルの従業員食堂にアズサ、タカシ、エルデシュ、アニューカが一つのテーブルに座っている。テーブルの上に「1万ドル」と記された小切手が置いてある。エルデシュが口を開く。
「これくらいあれば大学で勉強できるだろ?これで南カリフォルニア大学に行きなさい。話はしてあるから」
アズサとタカシがジーッと小切手を見ている。沈黙が流れる。アニューカが羊羹を食べ始める。タカシが日本語で、小声でアズサに尋ねる。
「ちょ、ちょっと頭に血がのぼっちゃって、よくわかんないんだけど、い、1万ドルって日本円でいくら?」
アズサが目を上に向けて考える。
「えーと、いまドルが286円だから、、、」
急に、すっとんきょうな声を出す。
「に、に、286万円!にひゃくはちじゅうろくみゃんえーん!!初任給の何年分?8年分?10年分??」
タカシがビックリする。
「えぇー!286万円!!」
タカシが思わず立ち上がる。
「だ、だめですよ。博士。そんな大金、ぼくなんかに、、、」
エルデシュが手で制して、「座れ座れ」と合図している。
「いーんだよ。ボクが持ってたって使わないんだから。前途ある若者に使ってもらった方がいいよね?アニューカ?」
アニューカが羊羹を食べながら、満面の笑みでうなづく。
アズサとタカシが目をむいてエルデシュを見ている。無言で。
エルデシュが見られていることに照れる。
「あ、アニューカ、お風呂入ろうよ。きょ、今日は講演会で疲れたから」
エルデシュが手を引いて、アニューカと一緒に立ち上がって、出口に向かう。タカシが立ち上がって、深く礼をする。エルデシュがそれを一瞥して、そそくさと風呂に向かう。タカシは深く深く礼をしている。
数日後の夜。
村営ホテル寮の灯りが半分くらいになっている。
食堂前のローカを、エルデシュとアニューカが両側から主任を引っ張って歩いている。うしろからタカシが押している。主任がぼやいている。
「なんだよー。なんでボクがお礼されるんだよー」
主任は食堂に入っていって、真ん中に用意されているイスに座らされる。回りを見ると、ナオミ、マイコ、ジロー、シゲルが座っているので、彼らに向かってぼやく。
「なんだよー。困っちゃうなー。なんでボクがお礼されるんだよー」
主任の目の前にエルデシュが立つ。その横にタカシが立る。
「主任、ほんとに、色々ありがとう。あなたは親切な素晴らしい人だ。でも、すっかり長居してしまった。明日帰るよ」
タカシが通訳すると、主任がさびしそうにうなづく。エルデシュが続ける。
「親切な心をいつまでも忘れないようにな。それは君の優れた才能だぞ」
タカシが訳すと、みんなから拍手が起こる。エルデシュが続ける。
「お礼がしたいんだけど、何をしたらいいのかよくわからなかったから、踊り子を呼んだよ」
タカシが通訳すると、主任は「踊り子?」と首をひねる。タカシがレコードプレーヤーに近づいて大きな声で言う。
「それではお呼びしましょう。ローザさんです」
タカシがレコードに針を落とす。西郷輝彦の『星のフラメンコ』が流れる。
食堂のドアの方で音がする。みんなが見ると、アズサが食堂のドアにとりついて中を見ている。ケバい濃い化粧で、フラメンコみたいな衣装で、露出が多い。バラを一輪口にくわえている。みんなビックリして見入る。
『星のフラメンコ』がサビの佳境に入ったところで、ローザが食堂の真ん中まで来て、一心不乱に踊り始める。ナオミとマイコが大笑いして喜んでいる。
「ローザー、ローザー」
「はははは。ローザー、ローザー」
会場がバカみたいに盛り上がって、みんな立ち上がって踊り始める。エルデシュも手をバタバタさせて、飛び上がって踊っている。主任はビックリしながら座ってローザを見ている。
ローザが主任を凝視して止まる。みんなも止まる。ナオミが主任に注意をうながす。
「狙ってる、狙ってる。主任、ローザが狙ってるわよー」
ローザが急に主任のヒザに飛び乗って、頬にキッスをぶち込んだ。
「うっひょー!!」
みんな一斉に両手を上げて、さらに盛り上がる。エルデシュは飛び跳ねている。アニューカも踊っている。マイコが踊りながら、踊っているタカシに近づく。
「アズサって、あんなにステキな子だったの?知らなかった」
タカシが笑う。
「あれはローザだよ。アズサくんがワインを3杯飲むと小悪魔ローザに変身するんだ」
「はははは。ローザー!ローザー!」
ローザがマイコの方を凝視する。踊りながらスタスタとマイコに近寄ってきて、頬にキッスをぶち込んだ。
村営ホテルの電話室でケバい濃い化粧のアズサが電話をしている。
「そんなわけでね、博士もう帰っちゃうの。うん、うん、ほんとにそうだね」
アズサがふと視線を外に向けると、電話室の横でエルデシュが見ている。アズサはビックリする。
「あ、あの、その立派な先生がなぜかこっちを凝視してるから、切るね。うん、うん、またね」
アズサが電話室から出てくる。
「どしたの?」
エルデシュがアズサの手を取る。
「アズサ、ありがとう。ほんとに、ありがとう。君のおかげで良い夏になった。アニューカも喜んでいるよ」
アズサが照れる。
「なによー、急にぃ改まってぇ、やめてよぉ」
エルデシュが感慨深げに言う。
「明日帰るからさ、改めてアズサにお礼言わなくちゃいけないと思ってね。忘れちゃいけないから、伝えておくよ」
アズサもシンミリする。
「うん。でも、夏の終わりまでいればいいのに」
エルデシュもシンミリする。
「そうしたいとこだけど、もう3週間もいるしさ、やっぱり仲間達と話さないとぼくの研究も進まないし、かといって電話使うとすごく高いしさ、、、」
アズサがやっぱりシンミリしている。
「そうー。寂しくなるわねー。。。あっ!」
アズサが急に大きな声を出すので、エルデシュがちょっとビクッとする。
村営ホテルの従業員食堂にエルデシュが一人で座っている。アズサが濃い化粧のまま本を持ってドタバタ入ってくる。
「これ、これ、これ、タカシさんにもらったの。サインして。タカシさんのサインの横にサインして」
エルデシュが本をしげしげと眺めた後、胸ポケットからペンを取り出して書き込む。
美しく、若く、親しい友人であるアズサと、
上高地の素晴らしい思い出に。
ポール・エルデシュ
夏の終わり
数日後の昼下がり。上高地バスセンターの食堂でアズサとマイコがカツカレーを食べている。
「アズサ、タカシくんのカツカレーは何杯食べたの?」
「まだ6杯。せっかくタカシさんのオゴリの10杯なのに、これじゃ消化できないよー」
「まだ10日くらいあるじゃない。1日1杯食べなよ」
「えぇー。そんなに毎日食べたらありがたみがさー」
バスセンターに新しいバスが到着する。
村営ホテルの従業員食堂で、アズサがお茶を飲んでいる。タカシが入ってきてアズサの前に立つ。
「ごめん、カツカレー全部おごれない」
「なんで?」
「さっき手紙がついてさ、南カリフォーニア大学から。大学入れてくれるって」
アズサはお茶をおいて笑顔になる。
「よかったじゃなーい。おめでとー」
タカシが浮かない顔をしている。
「でもさ、来週の新学期までに来いって言うんだよ」
アズサがビックリする。
「来週って、じゃ、早く日本立たなきゃダメじゃない」
「そうなんだ。でも、行かなきゃしょーがないよね?」
「そらー、疑問の余地なんかないよー。せっかくのチャンスじゃなーい」
タカシがうなづく。
「だから、明日出発しようと思うんだ。急いで」
アズサがしんみりする。
「そっかー。ずいぶん急ねー」
タカシもしんみりする。
「でもさ、君にカツカレー10杯オゴリきれないのが心残りでさ、、、」
アズサが少し微笑む。
「うん。あたしも心残り」
少し沈黙が流れる。アズサが視線を感じる。タカシがじっとアズサを見つめている。アズサ、キョトンとする。タカシが思い切ったように話出す。
「だ、だからさ、南カリフォーニアにおいでよ。来年の夏にでも。アルバイトとカツカレー用意しとくからさ、、、」
アズサはビックリした顔になって、少し黙り込む。タカシが目をそらす。
「ダメかな。そしたら楽しいと思ったんだけど、、、」
アズサは何かに気づく。
「うん。行くよ。行く。楽しそうだね。博士とアニューカにも会えればいいね」
タカシ、明るい顔になる。
「それいいね。それいいよ。二人も呼んでみるよ。またみんなで楽しい夏を過ごせるね」
アズサ、美しく笑う。
8月の終わりの昼下がりの河童橋。わりと人が歩いている。
バスセンターの食堂に、アズサとマイコが座ってカツカレーを食べている。
「あーあ、タカシ君も博士もアニューカも帰っちゃって、なんか寂しいねぇー」
とマイコが嘆くと、アズサが同調する。
「寂しいねぇー。寂しいの、やだねぇー」
うしろの方から松電社長の声がする。
「おーい、アズサくーん」
向こうから松電社長が歩いてくる。アズサとマイコが手を振る。
「タカシ君、アメリカ行っちゃったんだって?大変だねー。忙しくない?」
社長はマイコの横に座りながら尋ねる。
「何とかなってます。夏休みももうすぐ終わりで、お客さん減ってるし」
アズサが答えると、社長が尋ねる。
「そう?アズサくんはいつまで?」
アズサが微笑する。
「ヒミツです」
社長が面食らう。マイコが横から口を出す。
「寂しいから見送られるのヤなんだって。だからタカシ君のことも博士とアニューカのこともお見送りしなかったんだって」
社長が残念がる。
「そしたら、送別会はナシか?松本のおいしい中華食べさせてあげようと思ったんだけど、、、」
マイコが笑う。
「ダメダメダメ。アズサは静かに上高地に別れを告げるのよ。オジさん達にまどわされずに」
社長がいじける。むこうで社長を呼ぶ声がする。
「ほら、社長、呼んでるよ」
「なんだよー、もー、じゃ、アズサくん、気をつけて帰ってな。来年の夏もおいでよ。松電でいいバイト用意するから」
アズサが苦笑して一礼する。マイコが言う。
「いーから、いーから、行って、行って」
「なんだよー。マイコ。社長にそんなに冷たくするとクビにするぞー」
社長が笑いながら去って行く。マイコが一口カツカレーを食べてから、しんみりした顔でアズサを見る。
「でもさー、今日でお別れなんだねー。今年の夏は面白かったなー」
アズサもカツカレーを食べながら、シンミリした顔でうなづく。
「うん。面白かった」
上高地バスセンターに濃尾バスが入ってきた。
次の朝。
河童橋を大きなリュックを背負ったアズサが歩いている。
よく晴れていて、穂高岳が美しい。
河童橋を渡ったアズサはバスセンターの方に向かいながら、道の脇の木々を眺めている。もう紅葉を始めている葉がある。秋が、音を忍ばせて近づいてきている。アズサはあたりをジックリと見回しながら歩いて、バスセンターに到着する。
もうバスは到着してドアを開けている。
アズサは、バスに乗り込んで、一番後ろの席に座る。
バスが出発する。
うしろの窓から、アズサが外を見ている。
バスセンターがどんどん遠くなる。
帝国ホテルを通り過ぎる。
大正池を通り過ぎる。
釜トンネルに入る。
バスのうしろの窓から見える上高地の風景がだんだん小さくなり、光の点になり、真っ暗になる。
昭和42年の8月終わり、東京の目白には、まだ江戸の名残のような古い小さな家がたくさん並んでいる。高い建物がポツポツと建っているが、空は広く、夕焼けがよく見える。
夕焼けが、真新しい木造二階建ての家があたっている。
玄関の前の道に、黒い浴衣で黒ぶちメガネをかけたおとーさんが腕を組んで立っている。玄関から、白い割烹着のおかーさんが出てくる。
「おとーさん、おとーさん、外で待ってることないじゃない。ご近所の手前があるのにぃ」
「何がご近所だ!可愛い一人娘がはじめての長旅を終えて帰ってくるんだぞ。おまえもこっちこい!」
おかーさんがしょーがないなという顔で道まで出てくる。
「はいはいはい。おとーさんさんは、もー、あの娘のことになると、、、」
おとーさんが不機嫌そうにつぶやく。
「違う」
おかーさんが苦笑する。
「はいはいはい」
おとーさんが不機嫌そうにつぶやく。
「そーじゃない。「あの娘とおまえのことになると」だ。正しくは」
おかーさんが少しビックリしてから笑顔になっておとーさんの腕に絡みつく。おとーさんビックリ。
「やめろ、なにやってんだ。アズサが帰ってくるだろ!見られちゃうだろ!」
おかーさんが笑っている。
「見られたっていいでしょー。夫婦なんだからー」
おとーさんが小声で連呼する。
「やめろ!やめろ!」
3軒ほど先の角から、アズサが上半身を出しておとーさんとおかーさんを見ている。
「まーた腕なんか組んじゃってー。ご近所の目があるのにぃー」
おとーさんがアズサに気づく。
「アズサ、アズサ、、、」
小走りに近寄ってきて、アズサの目の前に立つ。上から下までジロジロ見る。アズサが困惑する。
「な、なんですか?」
後からおかーさんが小走りにきて、アズサの頭から脚までなぜる。
「ケガしなかった?だいじょぶだった?」
アズサが苦笑する。
「だいじょーぶだよー。貴重な体験してきたんだから」
おとーさんが少し感極まりながら尋ねる。
「そうか。楽しかったか?」
アズサがうなづく。
「はい。すごく、、、」
そして、陽気にハキハキと言う。
「だから、来年の夏はカリフォーニアに行きまーす」
おとーさんが「ガーン」という顔で静止する。おかーさんは、そんなおとーさんを見て笑う。アズサがリュックを置いて本を取り出す。
「ほら。これ、エルデシュ博士とあたしの同僚だった人が書いた本なんだって。その人、まだ21歳なのに、すごいのよ。上高地から南カリフォーニア大学に行ったの。それに、色んな人に会ったの。みんなにサインしてもらったの。すごく楽しくて、すごく勉強になったの」
おとーさんは渋々受けとって、サインに目をやる。タカシ、エルデシュ、アニューカ、主任、ナオミ、マイコ、ジロウ、松電社長、シゲル、松本記者のサインが所狭しと記されている。おとーさんが苦しげに声を出す。
「男か、、、その同僚は、、、」
おかーさんがたしなめる。
「おとーさん、もうアズサちゃんも18歳なのよ?男友だちくらい、いないとウソよ」
おとーさんが少し泣きそうになっておかーさんを見て、渋々うなづいて本を返し、ガックリうなだれながら家の方にトボトボと歩き出す。それを見て、アズサとおかーさんがニヤニヤしている。
「さ、お家入りましょう。今夜はアズサちゃんの大好きなすき焼き!」
アズサは「うっひょー」と叫んで、リュックを背負い直し、小走りにおとーさんの腕にからみつく。反対の腕には、おかーさんがからみつく。
3人の背中に夕陽があたっている。
「たしかに、無限に豊かだ」
とアズサは思った。
昭和42年の夏が終わっていく。
(了)