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ショートショート93 「River Girl, I will be...」

 青々とした樹木が茂る山に囲まれた場所。

 山々を隔てる境界線のように、澄んだ川がサラサラと音を立て流れている。

 目に見えないほどに細かく砕かれた水しぶきが、清涼な肌触りをもってその場の空気を冷やし、それまで肌にまとわりついていた湿気を追い払って、束の間の休息を肌に、心に与えてくれている。

「川はいいよね〜」

 ゆったりとした口調で語る沙矢子は、容姿はおっとりして見えるが広告代理店勤めのバリバリのキャリアウーマンだ。

 かたや私は商社の契約社員として働いている。

 繁忙期は残業があるものの、それ以外は定時勤務。

 仕事なのでもちろんストレスはあるが、アフターファイブという言葉と無縁な彼女と比べれば、まぁ気ままな方だと思う。

 同じ高校に通い、同じ青春を過ごしたはずだけど、未来というものは不思議なくらいにてんでバラバラで、けど、その頃に培われた友情の名残で、私たちは社会人になってからも、たまにこうして一緒に旅行に出かけている。

 バラバラな方向に伸びた糸が、お互いの存在を忘れないように時たま絡み合い、長い年月をかけて一つの組み紐を編んでいるような、そんな関係性。

 こうやって接点を作っていかないと、彼女と私はあまりにもスタンスが違いすぎて、友達だったということすら忘れ去ってしまいそうだ。


 それにしても、自然は落ち着く。

 嘘みたいに澄み切った川の水を眺めているだけで、日常のモヤモヤみたいなものをいっ時でも忘れられるような気がする。

 とはいえ、洗い流そうと思えば、それを一旦頭の中に出してこないといけないのは辛いところだ。

「次の新規プロジェクト、君にもサポートで入ってもらいたい」

 課長の言葉が脳裏によぎる。

 自分でも消極的だと思うけれど、私はなるべくのらりくらりと生きていたい。

 新規プロジェクトとは、必ず未知のトラブルを孕んでいて、それをクリアするには多大な努力を要求されるもの。

 過去に、その難敵に挑んだ先達たちの苦悩を見るに、そんなことが容易に想像できる。

 そもそも、契約社員の私にそんな負担を強いないでいただきたい。

 給与も待遇も伴わないのに、責任を押し付けるなんて不当じゃないか。

 不満しかなかったが、それを理路整然と主張する自主性もないが故、俯きがちに承諾の意を示すしかない自分にも情けなくて腹が立つ。

「この間、大雨が降ったじゃん?」

 私の不満を知る由もない、と言った様子で沙矢子は言う。

「もう少し濁ってるかな、と思ったんだけど、水が綺麗でよかったよ。やっぱ、川は流れがあるからだなぁ」

 確かに、下流はもう少し水が濁っていたように思えたけど、目の前の水は澄み切っている。

 この水が下流に到達して、あの濁りもどこかへ押し流していくのだろう。

「川を見てるとさぁ、止まるな、動け、って励ましてもらえるみたいに思うんだよねぇ。

 そうじゃないと濁っちゃうぞ、ってね」

 前向きな人は、同じものを見ても感じることが違うんだなぁ、と、宇宙人でも見るみたいな気持ちで沙矢子を見る。

 綺麗な自分でいたい。

 激務と言っていい仕事に耐えていられるのは、そう言うシンプルな気持ちが原動力なのかもしれない。

 ……ふと、河原の一角に水たまりができているのが目に入った。

 大雨で増水した際に河原のくぼみに取り残されてしまった川の水なのだろう。

 中には一匹の川魚がいた。

 清涼な本流の水とは裏腹に、少し濁った色をしている水の中で行くあてもなく、あちらにこちらに頭を向けている。

 いずれ水中の酸素が尽きて窒息するか、あたりを飛んでいるサギの餌食になってしまうのだろうか。

 その姿は、今の私への脅迫のように思えた。

 現状維持を望み、不満ばかりを漏らしている私自身への警鐘。

 それは、上司との面談で告げられる「もっと積極性を持つことが望ましい」と言うフィードバックよりも、リアルな危機感を私に突きつけてくる。

 相変わらず、見た目はおっとりとした笑顔で川を眺めている沙矢子と、目線を落として水たまりを眺める私。

 うーん、頑張りたくはないけれど、少しだけ流れてみるのも悪くはないか。

 現状は違っていても、綺麗に生きると決めている沙矢子に対して、私が留まって淀んでいっては、この友情も神様に取り上げられてしまう気がする。

 目の前の川に目線を戻し「頑張るか……ちょっとだけ」と心で唱える。


 その時、その日初めて、私は沙矢子と同じ方向を見つめていた。


<了>

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