コロナ下の本選びを考える~『猛威をふるう「ウイルス・感染症」にどう立ち向かうのか』
緊急事態宣言のさなかに図書館へ足を運び、目当ての本とは全然ちがう棚で発見した本書。
「このご時世、興味のある人が多そうなテーマだよなあ、まあ有名な先生が監修してるみたいだし」と軽い気持ちで借りてみた。
新型コロナウイルスの話は一切書かれていない
結論から述べると、本書は一般向けに感染症を解説した本としてかなりクオリティが高い。といっても出版は2018年で人類が新型コロナウイルスに遭遇するよりも前。新型コロナウイルスの話は一切書かれていないし、コロナの話だけをピンポイントで知りたいという人には向かない。一方本書はコロナ禍のなかであわただしく企画出版されたやっつけ仕事のような解説本とは根本的に異なり、時間のあるときにおそらくは余裕をもって書かれたはずで、そのぶん内容はとても練られている。そして一般向けの装いでありながら、解説のレベルはかなり本格的だと感じる。
前半はサイエンスの話題
ここからは全体の構成を章ごとにざっくり見ていく。まず序章で感染症の歴史をふりかえりペストと天然痘が紹介される。抗生物質の発見がペストに対して画期的だったこと、ワクチン(種痘)の発明が天然痘に対して画期的だったことを整理した上で、話題は20世紀以降のパンデミックへと移る。20世紀以降、感染症のパンデミックは4度あり、いずれもインフルエンザウイルス(A型)が関わっていることが紹介され「スペイン風邪」「アジア風邪」「香港風邪」の顛末が手短にまとめられる。それらをふまえた上で、最初の章でインフルエンザウイルスのかなり詳細な解説がはじまるという流れ。
1章はインフルエンザの解説といいつつ、実質的にはウイルスの構造、侵入と増殖のメカニズムなどについてインフルエンザウイルスを例にとりながら解説するものになっており、硬派なつくり。ただ細胞内での増殖のメカニズムは後々必要になる場面があまりないためか、かなりざっくりとした説明。このあたりきちんとやりはじめると人間の正常な細胞の構造とかDNA、RNAの話、DNAを複製するしくみ、あたりから解きほぐしていく必要のある部分ではあり(要はそれを乗っ取る形でウイルスは自身を複製するので)、そこをぼんやりとでも知っていないとこの下りはむずかしく感じるかもしれない。一方、インフルエンザウイルスに病原性の高いものと低いものがある理由について、スパイクタンパク質の開裂やレセプターの話からかなりくわしく解説。また2009年の新型インフルエンザパンデミックで起きたとされる「遺伝子再集合」のメカニズムについてもくわしく述べられるなど盛りだくさんの内容。新型コロナ以前は新型インフルエンザのパンデミックが長らく警戒されてきたわけだけど、そこまで警戒される理由について納得するには十分すぎるレベルの解説が最初の章でなされている。意識がコロナに集中しがちないまでも(むしろいまだからこそ)十分実用性のある内容になっていると感じる。
2章ではインフルエンザ以外に視野を広げ、ヒトに対して病原性を持つウイルスの中から代表的な例を取り上げて解説がなされている。特筆すべきは冒頭に出てくる「病原性ウイルスの感染力と致死率」のグラフで、縦軸を致死率、横軸を感染力とする座標の中にいろいろな感染症がプロットされている。感染力と致死率のどちらか一方だけを見るのではなく、両者の関係性から各種病原体の危険度を相対的に評価するという考え方は基本ではあるけれど、ひとつの感染症に関心が集中しているときには意外に忘れられがち。そのためこのグラフを章の冒頭で提示する構成は地味ながら巧みさを感じる。
3章は免疫のしくみをざっくりと解説した上でワクチンの解説がなされる。獲得免疫に液性免疫と細胞性免疫があることをふまえてから、生ワクチンと不活化ワクチンの効能のちがいを説明する流れになっており手際がよい。ボリュームは少ないけれども、押さえるところは押さえた解説という印象。ちなみに新型コロナウイルスのワクチンとしてよく耳にする「mRNAワクチン」は、生ワクチンと不活化ワクチンのどちらともちがう新しいタイプのワクチン。つまり本書の解説から新型コロナウイルスのワクチンのしくみについて知ることはできないので、その点は注意を要する。
後半は感染症対策を社会的取り組みと個々人で行う対策の視点で解説
4章からは論点が一変する。4章では感染拡大を防ぐための社会的な取り組みについて述べられる。まずは国際的な枠組みとしてWHOがあり、WHOと加盟国がどのような協力体制で事態に対応するかといった説明。WHOの話となると、今般のコロナ禍における対応のお粗末さがどうしても強くイメージされる。実際米国の大統領(当時)が脱退を表明するなどしてWHOはネガティヴなイメージを持たれている。しかしそもそもWHOはどのような取り組みをしているのか(あるいはすることになっていたのか)、ニュースなどを見ているだけでは意外にわかりづらい。本書ではそこのところの解説がなされている。続いて本邦政府の取り組みとパンデミック対策。これは新型インフルエンザの発生を念頭に置いて書かれているものの、よく読むと新型コロナパンデミックで実行された対策と多くの点で共通していることが見てとれる。それが実際にどこまで機能したかについては、人によって評価が分かれるだろうけれど。
5章は個々人で行う対策についての解説。これも基本的に新型インフルエンザの流行を想定して書かれているものの、内容的には現在発生中のコロナ禍で十二分に通用する内容となっている。中でも「新型インフルエンザが発生したら」の次の一節は象徴的。やや長いけれども、引用する。
「新型インフルエンザによるパンデミックが発生したとき、最も警戒しなければならないのは、根拠のないデマに惑わされてパニックに陥ることです。過去にも大地震や感染症パンデミックが起こったとき、誤った情報によって誤った対応をしたことで、深刻な二次災害がもたらしたことがありました。何はともあれ正確な情報を集めることが大事です。
一般の人たちの情報源となるのは、テレビ・新聞などのメディアでしょう。しかし、感染ピーク時には、メディアが正常に機能していない可能性もあります。感染者増加により業界全体が深刻な人手不足になっているかもしれないのです。印刷や物流関連が麻痺すれば、新聞を刷ることも届けることもできません。また、メディアが正常に機能していたとしても、ニュースなどの情報は断片的であって全体像をつかみにくい欠点があります。ここに憶測の紛れ込む余地が生じ、混乱の要因となるのです。
新型インフルエンザによるパンデミックが起こった際に有効なのは、パソコンやスマートフォンを使ったインターネットによる情報収集です。信頼できる情報源にアクセスするのが、最も確かな情報入手の方法です」(引用者註:情報入手先のサイトとして厚労省、国立感染研が挙げられている)
「新型インフルエンザによるパンデミック」と書かれてはいるものの、「新型コロナウイルスによるパンデミック」と読み替えてもそのまま通用する内容なのは明らかだろう(なお「べつに感染ピーク時でなくてもメディアは正常に機能していませんが」とか「感染者の動向と関係なくあの業界(おもに記事を書く側)はすでに深刻な人手不足になっていますが」などというツッコミはあまりにも鋭角すぎるので、ここでは考えないものとする)。引用した部分に続けて、まん延防止のための行動制限、自宅待機、時差出勤などについても言及。また感染経路を理解した上でそれを遮断するのが肝要であり、インフルエンザの場合はマスク(不織布)の使用と手洗いが効果的と述べる。このあたりも新型コロナ対策にほとんどそのまま使い回せる。また家族が新型インフルエンザに感染した場合の注意点や対応についてもかなり具体的に解説。新型コロナもインフルエンザと同様に家庭内感染が多く報告されている。本書の記述がまるごと新型コロナ対策に応用できるとまでは言わないけれども、応用の利く場面は決して少なくないだろう。
「新型コロナウイルスの話が書かれていない」なら「読む意味がない」?
さて全体を通して見ると、本書の特色はインフルエンザ対策を中心に感染症対策全般について解説をしている点にあると言える。実際、この種の本はウイルスの構造や病原性、免疫とワクチンのしくみなど生物学的、医学的な側面に的をしぼって書かれることの多い印象がある。こうした解説が多くを占めているのは本書も同様ではある。ただ本書は感染症対策の説明にも紙幅を割いている。また感染症、とりわけ新興感染症対策は行政、医療、個人のレイヤーに分けて考えることが重要と言われるけれども(参考リンク)、本書の解説はこれを押さえた構成になっているのも見逃せないポイント。一方くり返しになるけれども、本書には新型コロナウイルスの話は一切書かれていない。この点が本書最大の泣き所と言える。実際コロナ禍で人々の関心はもっぱら新型コロナウイルスに集まっており、新型コロナの話題に言及のない一般向けの解説書には節分が済んだあとの恵方巻にも似た雰囲気が漂う。しかし新型コロナの最新の話題が書かれていないというだけで「手に取ってもしかたがない」と即断するのは本の選び方として果たして妥当だろうか。もちろん医師や専門家のように最先端の知識を求められるプロにとっては、書かれている情報が古ければ役に立たないだろう。他方で専門家ではない素人にとって、情報の新しさは最優先にすべき条件ではないというケースが実際のところは多いのではないか。それどころか、新しい情報の中にはただ新しいだけで妥当性の検証はまだまだ不十分なものも数多く混じっているわけで、ただ新しいだけの情報は有害にすらなりうる。
ポストコロナ時代の本選び
以上をまとめると、本書は一般向けに感染症を解説した本として大変よくまとまっており、新型コロナの話題が書かれていないからというだけで手に取らないのは非常に惜しいと言える。そして本書にかぎらず、コロナ禍以前に書かれたという理由で門前払いされている良質の解説書はきっと多いにちがいない。感染症や感染症対策について知りたいとき、新型コロナについて書かれているかという点にこだわらず本を探すことで意外な収穫を得られるのではないだろうか。そのような本のチョイスもあるという提案こそ、わたしが本書のレビューを通してもっとも主張したかったことである。