読書感想文2.0 #19

noteを書きはじめて一月ほどが経つ。
書くリズムもだいぶ身についてき、このあたりで一度、紹介も兼ね、まとめておく。

歴史と現在地

歴史というにはあまりに短いが、元は四年ほど前(2020年11月頃)、日記を書いてみたくなったのがはじまりで、一月ほどつづけたところで飽き、しばらく放ったらかしては、偶に思い出したように書いてはまた放置し、と云うのを繰り返していた(当時の日記は現在削除)。

一月ほど前から(2024年3月)、また書きたくなって、今に至る。

今のところ、わりとつづけられている。
再開したはじめのうちは、書きたいことができたら書けばいい、と週二くらいで不定期に更新していたが、この二、三週は、平日は毎日更新している。

日々書かないとペースがつかめないのだ。
ペースがつかめないと、いずれは飽きてやめてしまう。
僕は飽きることを怖れている。

基本的には平日の朝に新しい記事を出すことにしている。
と云っているそばから、この記事は昼過ぎへズレ込んでしまっているのだけれど。

いま書いていること(2024年春現在)

読んだ本の話が中心である。
僕は本ばかり読んでいるので、書くことと云ったら本のことくらいしかない。
いま書いていること、と題したが、これはずっと変わらないしだろうし、書いていること=読んでいること、でもある。
書くことと読むことは、僕にとって表裏の関係にある。

読んでいる場所は、主に通勤電車のなかと、賃労働の昼休み、それに休日の朝くらいで、時間にして一日一時間くらいか。

さいきんはnoteを書く時間も割かなければならず、読む時間は以前より減った。

つまりは大して読めていない。
僕は読むのも遅いほうで(文庫本の小説で、早くて一頁一分くらい)、一冊読むのに四、五日は掛かる。

新書を読む(主に岩波、時々ちくま)

もともとは岩波新書を読みたくなって、せっかく読むならその感想を書いていこう、と思い立ち、noteを再開したのだった。

書かないと読まなくなるし、読まないと書けない。
鶏が先か卵が先か。どちらか判別するのは難しい。

新書はこれまであまり熱心には読んでこなかったが、読めば読むほど興味が湧いてくる。
新書という性質上、腐るのも早いが、それでもやはり、新作よりは過去の名作を読みたい気持ちが強い。
何をどう読もうか、初心者なりにいろいろ探っている段階である。

岩波新書に端を発しているが、早くもちくま新書へ浮気をしてしまったり、いずれは他のレーベルも読んでいきたい、などと考えている。

絵本を(子どもといっしょに)読む

絵本に興味を持ったのは、子ども(2歳2ヶ月)と読むようになってからだ。
新書とおなじで、読みながら作家を知っていくのが愉しく、関心の幅は広がっていく。

いま思えば、子どものやって来るまえから興味はあって、ひとは子ができて絵本を読むようになるのではなく、絵本を読みたいから子を作るのではないか、などとかつて考えたこともあって、これもどちらが先かわからない話だが、実際に絵本を読むようになった。

但し絵本の場合、子の興味が優先され、自分の思うとおりにはいかない。
この侭ならなさが、また面白い。

脚本家の三谷幸喜が、
僕は制約がないと書けないし、あるほうが俄然やる気が出る。
みたいなことを度々言っているけれど、確かに何も制約がないと、何から読んでいいのかわからず途方に暮れてしまうかもしれない。

子の興味は専ら「くるま」である。
僕は昔話とか童話なんかも読みたいのだけれど。

小説を読む

元は新書のことを書くはずだったのが、書くうちに別の読んでいる本、つまりは小説(や絵本)の話もしたくなった。

読むのが遅くて(岩波)新書だけでは間が保たない、と云うのも大いに関係している。

小説はずっと好きだ。
国内のものを多く読んできたが、ここ数年は海外文学も意識して読むようになった。
古い小説を好み、最近の作家のことはあまりよく知らない。

絵本や新書の感想は、何となく書くコツをつかめてきたが(後述)、小説の感想はまだうまく書けない。
僕は小説が好きすぎるのかもしれない。

司馬遼太郎がどこかで、
信長のことが好きすぎて巧く描けない、
と云っていたが、好きなものって、突き放して書けず巧くいかないのかもしれない。
いっそキライなほうが、どうでもいいや、と云う気持ちで、好き放題書けたりするものである。

心がけていること

理念、と云うほどでもないが、noteを書くうえで心がけていることをまとめておく。
わざわざ公開しなくてもいいのだが、自分への備忘、と云う意味合いもある。

140字で済むことを1万字費やして書く

小説家の西加奈子が、先日テレヴィのインタヴューで、
小説は、たったひと言を言いたいために、何万字も費やして書く。
と云った趣旨の発言をしていて、なるほどなあと思い、僕も実践している。

ダラダラと脱線しながら、時には敢えて読みにくく、兎に角、冗長に書いていく。

それでいて飽きない、何だか読めてしまう、て文章になっているのが理想なのだけど。

短い文章ならX(旧Twitter)に溢れている。
各人の好き放題言える短文は、インスタントだが齟齬も多く、分断ばかり深まっているのが現状ではある。

僕はタイパやコスパにはとことん抗っていきたい。

バズは狙わない

時々観ているYouTubeの番組「ポリタスTV」の津田大介氏が、バズは狙わない、てのを標榜していて、これもまた受け売りで恐縮なのだけれど、いいなあと思い、僕も心がけている。

そりゃ書いた記事は読んでほしいし、読まれれば嬉しいのだけど、読まれることばかり狙うと、おかしなことになる。

そもそも僕自身が、売れてる本、キライだし。

僕の文章なんてそもそも読む価値なんて無くて(と云っても、読んでもらえると嬉しい)、それよりは僕の読んだ本を、あなたにも読んでほしい、と云う想いが強い。

感想読みましたよ、と云ってもらえるのもちろん嬉しいのだけれど、それよりは、感想読んであの本読みましたよ、と云ってもらえるほうがずっと嬉しい、といつしか気づいたのだ。

もっと云うと、僕の感想を読み、その本を読んで、さらにあなたの感想を書いてもらえるのが一番嬉しい。

僕の記事が売れるより、僕の読んで面白かった本の売れるほうが嬉しいのだ。
僕は一円も儲からないのに、だ。
何やら不思議な気もするのだが、そういうスタンスで書いていたら、善い。

読書感想文2.0

読んだ本の感想、つまりは読書感想文を書いてるつもりなのだが、内容については触れていないことがほとんどだ。

本の内容なんてどうせすぐに忘れてしまうし、すべてを書くことはできない。
それに、僕の拙いまとめ書きを読むくらいなら、原典を読んだほうがずっと良い。

内容よりは、本を読んでいるときに考えていたことや、思い出したこと、あるいは思いついた物語など、創作やエッセイのようにして書くのが僕の性に合っているらしい。
と云うのは、幾つか記事を書いてみて気づいた。

だから絵本の感想は子どもの成長記録だし、新書の感想はそこから着想した創作、と云うわけだ。

反面、小説はそれ自体がすでに良くできた創作であり、そこに僕の創作を重ねるのは蛇足のようにかんじられて、何やらおこがましい。
小説の感想が巧く書けない、と云うのはそういうことなのであろう。

本の感想なんて、読むまえから決まっているのかもしれない、とおもうことがある。

さいきんの学校ではどう云う指導がなされているのか知らないが(そもそも読書感想文の宿題は今でもあるのかしら)、その本を評したり売ったりする義務もない、素人の読書家は、あらすじなんて書かなくてよくて、そのときに書きたいことを、好きなように書いたらいいのだ。

小説家の桜木紫乃が新聞のエッセイで、小論文の書き方、みたいなのを娘さんに指導した話を書いたことがあった。
最大のコツは、
どんな課題が出ても同じことを書く、
だそうだ。
読書感想文も、何の本を読んでもそのとき書きたいことを書いたらいいのである。

本は瞑想で云うところのマントラ、想念を巻きとる軸みたいなもので、思いついたことなら本に書かれている内容とは全然関係なくたって書いていい、とさえおもっている。

僕は読書感想文をアップデートしたい。読書感想文2.0、だ。
これを普及させるのが、僕のnoteを書く最大にして唯一の動機、なのかもしれない。

つづいて自己紹介も、おもったが、長くなったので別の機会にしようとおもう。

自己紹介、苦手なんですよね。
僕は就活もまともにやったことがなくて、自己分析とかエントリーシートとか、そういうの、ちゃんと書いたことがない。

noteに日々書いていることが、ひどく長大な自己紹介、と云えなくもない。
だから書きつづけていれば、また巧い自己紹介の書き方を思いつくかもしれない。

そのときにでもまた改めて。

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