『ジェンダー史10講』姫岡とし子(岩波新書 新赤版2009)虎に翼 #22
NHKの朝ドラ(朝の連続テレビ小説)『虎に翼』が面白い。
面白い、と云ってしまうにはあまりに残酷で、これが当時の、いや今もつづく女性たちの置かれた状況であることをおもえば、男性である僕は多少居心地が悪く、また恥ずかしくもあるが、ドラマそのものは愉しく観られている。
男、酷いよね。
もちろん、寅子のお父さんや書生さん、大学の先生などなど、いい男もドラマには沢山出てくる。
それでも、女性たちの扱いや立場はやはり酷いものである。
それがいまでも大して改善されていない、てところが一番残酷ではあるのだけれど。
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この酷さはいつどのようにしてはじまったのか。女性たちはどう闘ってきたのか。
姫岡とし子『ジェンダー史10講』(岩波新書 新赤版2009)が、フェミニズムやジェンダー史の歴史的な流れを整理してくれる。
著者はドイツの近現代史がご専門で、彼の国をはじめ西洋の事例が数多く紹介されている。
日本の状況も適宜言及されるが、いずれにせよ、どの国も似たかよったかである、と云うのがよくわかる。
歴史にジェンダーの視点を持ち込もう、という動きは存外新しく、端緒は1970年代後半とか、それ以降の話である。
驚いたのは、現在の家父長制的な仕組みそのものも、たかだか百年とか二百年前とか以前からの話であり、歴史的に見たらずっと浅い話なのである。
そんな程度の家族観、全然、伝統でも何でもない。
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歴史学そのものを研究する、史学史という考え方が面白い。
いわゆる通史と云う考え方があって、僕も高校までの歴史の授業で、そのとおり歴史の大きな流れ、のようなものを意識して学んだが、歴史はそんなふうに一本の線として語れないんじゃないか、大きな流れなんてそもそも存在しないんじゃないか、と云う考え方が、フェミニズム(女性学)やジェンダー史の研究が活発になったことで生まれてきた。
ジェンダー史は単なる女性の歴史を語るだけでなく、歴史の枠組みそのものを揺さぶるアプローチなのだ。
パラダイムシフトはそれが何の分野であれ興奮する。
さいきんでは「歴史総合」と云う科目で、従来の通史にとらわれない歴史観、「歴史」と云うもののとらえかたそのものも、学校では学ぶのだとか。
歴史は変わらないようで、どんどん変わる。
僕らもたえず学び直していかないといけない。
じゃないと自分の都合のいいように、歴史を修正する連中が出てきて、そのデカい声に書き換えられてしまう。
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歴史学のメインストリームは、女性史やジェンダー史を、通史の太い流れのなかに取り込もうとする。
そもそもそんな大きな流れなんてない、と主張する立場からしたら、至極迷惑な話だ。
この構図、歴史学に限らない。
パターナルはいつだって自分たちの側に取り込む隙をうかがっている。
『虎に翼』でも、法廷劇「毒饅頭殺人事件」の顛末がそんなかんじだったなあ、なんてことを思いながら、この本を読んでたから尚更感慨深い。
男たちの常套手段、なのかもしれない。
陰湿だよね。全然、男らしくない。
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ジェンダー史は、大文字の歴史としてひとくくりにされることを拒否する。
各々の歴史は、個々の女性たちの生活の内だったり、彼女たちの語りの中だったり、それぞれの場所にある。
それが新しい歴史の在り方だ。
『虎に翼』も、それら歴史の書き換えのひとつ、と云えるかもしれない。
寅子たちのこれから作っていく歴史も、大いに愉しみである。
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