『朝鮮人強制連行』外村大(岩波新書ー新赤版1358)歴史の問題かとおもったら雇用の話だった #3

まえがき

岩波新書の新赤版を2001番から読む、などと云っておきながら、まず紹介する本が2000番以前のものとなった。何とも間が抜けていて、我ながら僕らしい、などとおもったりする。だって仕方ないじゃないか、思い立ったときに読んでいたのが、この本だったのだから。

あくまで原理主義を貫いて、これについては書かずに次の本からちゃんとする!としてもよかったが、せっかく読んだのに捨ておくのも何だか勿体ないし、先延ばしにすると、また次からでいいか、などと油断して、ずるずると書かずに終わりそうでもある。それに何より、何かを「書けそう」な気がして、開き直って書いてみることにする。何事も実践あるのみ、である。

2000番以前は、僕にとってはある種の「紀元前」なわけだが、いつだって僕たちは歴史の中途にいて、以前にも(以後にも)人びとの営みは連綿とつづいていく。あな、あはれなり。などと悠久の彼方へ想いを馳せながら書く。

読むきっかけ

さて、この本を手に取ったのは、下記のYouTube番組を観たのがきっかけだった。現在は有料会員限定で視聴可のため、ここには告知のためのXのポストを貼っておく。

このインタヴューの元になった、以下の記事も読む(元々はnoteだったが、現在はHPへ移行)。

「群馬の森」という県立公園はもとより、そこに朝鮮人追悼碑があったことも今回はじめて知り、それが行政代執行という、強引なやり方で撤去されてしまったことに憤りをおぼえて、強制連行についてもっと知らなければ、とおもった。

上の動画のなかで記者の阿久沢悦子氏が、朝鮮人強制連行について学ぶために読んだ、と語っていたのが、この本である。僕もさっそく読んでみることにした。

因みにだが、下記の番組も今回の撤去について、おもに法律的な問題点や、美術的な視点から扱っていて、大いに参考になった。

読んでの創作

強制連行。強いことばだ。このことばを聞いて、多くのひとはどんな光景を思い浮かべるだろう。たとえばこんなかんじか。

ある日、村に兵隊たちがやって来る。家々を一戸一戸回り、誰かを探している素振りで、屋内へつかつかと土足で踏みこみ、若い男であるあなたを見つけると、兵隊たちは銃剣を突きつけて脅し、あなたが抵抗すれば殴りつけて縄で縛り、あるい逃げようとする者がいれば、その一人や二人は見せしめに銃で撃ち殺したりして、泣き叫んで縋るあなたの妻や母を蹴りつけると、縛られたあなたを引っ張っていって軍用トラックに押し込んで、連れ去る。

あるいはこんなこともあったかもしれない。だがそれは(おそらく)極々少数で、それも戦争の末期、日本に余裕のなくなった敗戦直前の出来事であったろう。

実際はもっと穏やかだ。だからこそ、より悪質と云うべきだが。

村の有力者、それは村長だったり学校の先生だったり、あるいは職場の上司だったり、地主だったり寺の住職だったり、その土地によってさまざまだが、ある日連れだってあなたの元へ訪ねてくる。彼らはひとりの男を伴っている。仕立てのいい背広を着、いい身なりだが控えめに、後ろのほうに無言で座っている。有力者たちは、母の出した茶などを飲んで、ニコニコと談笑した後、場の和んだのを見計らって、話を切り出す。

──ところでお前、内地へ行って、働かんか? なに、いまと変わらんか、ずっとラクな仕事だ。仕事の仕方はもちろんのこと、むこうの言葉も教えてくれる。なに、ほんの二年働いただけで、また帰ってこられる。あるいむこうで暮らしたければ、そのときは家族を呼んでもいい。何よりこのままここにいるより、ずっとたくさん稼げる。住む家も食事も、みんなこのひとが世話してくれる。お前の働く会社の課長さんだ。と云って背広の男を紹介する。

或いは有力者たちの誘いは、金だけではないかもしれない。曰く、お前がいかんと、体の弱い爺さんが行かんといけなくなる。どの村もひとを出してる。うちだけ出さないわけにはいかん。行ってくれんと村のみんなに迷惑がかかる。等々。

──どうだ、行かんか? とこちらの意向を伺うようで、有無を云わせぬ態度である。あなたは気乗りしないが、拒否はできずに、渋々従う。なに、彼らの云うとおり、ほんの少しの辛抱だ。ちょっと稼いで、金と技術を手に入れたら、先のことはまたそのときに考えればいい。

トラックと船と列車を乗り継いで、辿り着いたのは炭鉱だ。毎朝暗い竪坑へ潜っていき、泥水にまみれ働く。労働は過酷だ。あなたが疲れ果てて食堂でぼんやりと、味の薄い味噌汁を啜っていると、隣の席に座る内地人たちの会話が聞こえてくる。きのうはべつの持ち場で落盤事故があって、同胞が何人か死んだらしい。その程度の会話ならずいぶんまえに聴き取れるようになったが、隣の席の内地人たちは、どうせわからないだろう、とおもっているのか、死んだのがおれたち内地の仲間じゃなくてよかった、などと喋りつづけている。食事はきょうも碌に与えられない。それはあなたも彼らもいっしょだ。先日、作業からの帰りに、あなたは同胞たち数名とともに暮らす小屋(と云うよりは監獄に近く、みな密かに「牢屋」と呼んでいる)の近くで、課長を見かける。村へやってきたあの背広の男だ。駆け寄って、話がちがう、もっと安全な職場へ配置替えをしてほしい、と訴えるが、
──それはこのまえ法改正があってできないことになったんですよ。きみらも内地人も、扱いはいっしょです。頼まれても私にはどうすることもできないのです、と心底残念そうに云う。

きのう、仲間がまたひとり逃げ出したらしい。逃げても何人かはすぐに捕まるが、そのままどこかべつの土地へ行って、安全な工場にうまく入り込んで働けているものもいる、と聞く。どこもかしこもひとが足りないのだ。職はいくらでもある。あるいは村へ戻って、まえみたいにまた畑仕事を手伝ってもいいかもしれない。自分も逃げ出そうか、とあなたは考えてみる。まだ体力のあるうち、命のあるうちに、とおもうものの、そんな気力が残っているだろうか、と考えると途端に怖くなって目をつぶる。固いベッドに横臥って、あなたは眠りへと落ちていく。一歩一歩、坑道を進んでいくときみたいに、辺りの暗闇が次第に濃くなっていく──。

内容と雑感

強制連行はあったのか無かったのか、などという言説をしばしば耳にするが、歴史家たちのなかでは、強制連行のあったことは疑う余地のない、紛れもない歴史的事実であり、有無を問うこと自体がトンチキである、と云うのは、この本を数頁読めば分かる。

その上で、強制連行がどのような意図のもとに行われたのか、問題はどこにあったのか、なぜこのようなことが起きてしまったのかを明らかにしていくことが、この本(や歴史研究)の目的であるようにおもう。

この本は、上に記した僕の創作のような、センチメンタルな物語とは対極にある。当時のデータや報道、公報などの史料を読みこみ、朝鮮人強制連行の実態を、時間的経過を辿って丹念に描きだしていく。

話は太平洋戦争開戦以前(といっても日中戦争ははじまっていたが)の1939年からはじまる。

詳細は本を読めば分かるが、朝鮮人強制連行の実態が、いまのこの国の入管や、技能実習生と云われる外国人労働者の問題、さらには移民問題など、現在進行形の諸問題と酷似していることに驚かされる。

人手不足の原因が、当時は戦争、いまは少子化と異なってはいるものの、それに伴う雇用や労働についての政策は似たようなもので、国家権力がひとをモノの如く扱い、使い捨てにするこの国の為政者たちの姿勢は、当時もいまもあまり変わっていない。

過酷で危険も多い炭鉱の労働を、日本人は誰もやりたがらない。ならば代わりに朝鮮人にやらせよう。朝鮮人が働くのなら、職場の環境も改善しなくていい、そうすれば余計な金もかからない。

当時の政治家(と軍人)や経営者たちはそう考えたが、そもそも日本人のやりたがらない仕事は、朝鮮人だって誰だって、やりたくはないのだ。この愚策の結果、劣悪な労働環境は改善されることなく放置されつづけ、日本人の労働者たち(朝鮮人を動員したとはいえ、炭鉱労働者の大多数はずっと日本人だった)にとっても不利益に働き、離職や逃亡する者が相次ぎ、かえって労働力不足が加速する、と云う負の連鎖に陥る。

これは今日の状況とも重なる。安い労働力としての外国人に頼った結果、労働環境を変えるようなイノベーションは起こらず、働き方改革は進まず、賃金は上がらずに衰退する。

朝鮮人強制連行、などと聞くと、歴史や外交の問題と考えがちで、僕のなかでもそれらへフォルダ分けされていたが(実際、岩波新書のHPでもジャンルは「日本史」となっている)、この本を読めば、これは働き方や働かせ方(雇用)の問題であって、きわめて今日的な、じぶん事としてこの問題を捉え直すことができる。

本の情報と読書の記録

初版は2012年3月22日刊。定価は902円(税込)。僕の読んだのもこの初版本である。出版社のサイトでは現在「品切れ」となっており(そのため僕は図書館で借りて読んだ)、手に入りにくい状態となっているのが惜しまれる。

良い本だし、復刊が待たれるが、初版刊行時から12年経って、この国の右傾化のずっと進んだいまとなっては、それも難しいのかもしれない。そもそもいまだったら出版すらできないかもしれず、この状況のヤバさが追悼碑の破壊という蛮行によって顕わになった、とも云えるのだが。

気になって時系列を確認したら、初版発行が2012年3月で、第二次安倍政権の発足が2012年12月26日。いま振り返ってみると、出版には何やらギリギリのタイミングだったようにおもわれるし、この十数年であらゆる事柄が悪化(劣化)したのだなあ、とあらためて絶望もするが、こうやって何とか読めることには、まだ希望があるのかもしれない、などとおもったりする。ほんとうに厭になるほどささやかではあるのだけれど。

Amazonでは古書で手に入れることができる。

著者の外村大とのむらまさる氏は東大教授(この本の執筆時は同大准教授)。日本の近現代史がご専門で、特に在日朝鮮人の歴史などを研究テーマとされている。より専門的な本はほかにも幾らか執筆されているが、新書はこの一冊だけのようだ。45~46歳頃の作品。

僕の読み終えたのは2024年3月15日で、13日間かけて読んだ。角田光代訳『源氏物語』と並行して読んでいて余計に時間がかかったが、それでなくても用語は(僕にとっては)やや難解で、数字も細かく追っていたらなかなか進まなかった。それでもじっくり読むことに意味のある本で(だとおもいたい)、少しずつゆっくり読み進めることでより善く理解できたようにおもう。

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