2024/06/28(下-p.79)#49

きのう久しぶりにnoteを書いたら愉しくてまたきょうも書いている。読書日記のような形式でまた暫くつづけてみようとおもっている。読んだ本の感想を、書いたり書かなかったり、批評はせずに、と云うよりそもそもそんなこと巧くできないので、きょうは何を読んだとか、これ読んでたときこんなことがあったなあとか後から振り返って読めたら愉しいんじゃないか、とおもいながら書いていく。きのうはスマートフォンで書いたが、きょうはPCで書いている。環境が替わると気分も変わってまたつづけられる。

トーマス・マン(高橋義孝訳)『魔の山』(新潮文庫)は下巻に入った。上巻はほかの本と並行して少しずつ読んだが、幾つかの本をつまみ食いのように読むことに疲れ下巻はまた一冊ずつ集中して読む。一日で八十頁近く読めて、けっこう読めるんだなあ、とひとり感心している。これでも読みおえるのに十日かかるのだけど。読みつづけるのが辛くなったら、また短篇などに手を出して気を紛らそうとおもう。

子を園に通わせるため年に一度現況届というものを提出しなければならずその申請を行う。子を預かってもらいこっちは働きたいだけなのに、何でこんなに毎回毎回たくさんの書類を提出しなければならないのかという苛立ちが募る。もっと簡素化できないのか。子育て政策のような比較的さいきんになって整えられた仕組みは、どうも性悪説に立っているとかんじる。ずるをするんじゃないか、嘘を吐いてるんじゃないか。それを防ぐため、許可するまでの手間がかかる。どんどん許可してずるしたら取り締まる、てやりかたじゃダメなのか。どっちがいいとかって話でもないんだろうけど、社会からどんどん寛容さが失われていっているのは、システム自体に或る種の「疑い」を孕んでいるせいじゃないかとおもったりもする。政治家たちは、自分たちが嘘ばかりついているから市民のことも疑ってかかるのだろうか。

子はいつもは園児二人だけの超小規模保育園へ通っているのだが、月に二日ほど近くの大きな園へ行く日があってきょうがその日だった。集団生活に慣れておらず、はじめは圧倒されるが、すぐに適応し遊びに参加していたらしい。家へ帰ってからもひとりで積極的にごはんを食べ、「おかあさんといっしょ」を観ながらやる歌や踊りもいつもより動きは活発で成長をかんじる。僕も妻も集団行動は苦手でおそらく子もそうなるのだろうけど、月に二日くらいならちょうどいいのかもしれない。妻は会社のレクリエーションとかで、僕らの寝るまで帰ってこなかったが、子は大人しく過ごしていた。良い子だ。お母さんがいないと甘えすぎなくて自立が促されるのかもしれない、などというと妻は寂しがるかもしれないけれど。

子を園に迎えに行く前、久しぶりにお気に入りのカフェへ寄りコーヒーとチーズケーキと『魔の山』で休憩する。僕は苦味の効いた深煎りが好みだけれど、きょうは偶には、と酸味の効いたブレンドを注文してみる。これが珍しく美味しくて、やっぱりこのカフェ好きだなとおもう。ささやかな幸福。これくらいがちょうどいい。書店にも寄って、きのう買えばよかったと書いたラブクラウト『アウトサイダー』を手に取ってパラパラと繰ってみるが、きょうは『魔の山』をいいかんじに読めたし買うのはまだ暫く先でもいいかとそっと棚へ戻す。新潮文庫の100冊、なかなかはじめられないな。

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