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他人の配偶者、何て呼ぶか問題 #27

妻も僕も、雇われて働いている。
共働き、である。

子も育てているから、共育て、と云うことにもなる。
妻の方が負担は圧倒的に大きく、共育て、などと僕が云ってしまうのは、ちょっと申し訳ないけれど。


本道敦子・山谷真名・和田みゆき『〈共働き・共育て〉世代の本音』(光文社新書1300)を読む。

ミレニアル世代(1980〜95年生れ)の共働き・共育て夫婦へのアンケートとインタヴューから、働きながらの子育てに潜む問題や、彼ら世代の特徴や価値観、と云ったものが浮かび上がってくる。

僕らもこのミレニアル世代に充てはまっており、共感できる部分も多い。
妻とは八つほど歳の離れているから、同世代という感覚は皆無なのだけど。


いま、共感できる、と書いたが、それは半分くらいで、あとの半分にはモヤモヤしたものも残る。

僕ら夫婦は小さな会社で働いているが、インタヴュイーはおそらく殆どが大企業に勤めているとおもわれる。それも多くは都心で生活しているのだろう(僕らも都心生活者ではあるが)。

大企業と呼ばれるのは、日本の会社全体の1%に満たない。
そのなかで、もはや少数派と云っていい子育て世帯を、世代の価値観のように捉えられてしまうのは、ちょっとちがうんじゃないの、とおもう。

簡単にまとめてくれてんじゃねえぞ、と。


就職活動をしていた頃、と云っても僕自身は碌に就活をしたことがないので、正確には周りが就活をしていた頃、と云うことになるが、有名な企業から早々にいくつも内定をもらうのは、いつだって口の立ついい加減な連中ばかりだった。

逆に、このひと優秀だな、本質をよく理解しているな、働くならこんなひとたちと働きたいな、とおもう連中は、なかなか就職先が決まらず小さな会社へ入っていった。

かれらがいまどうしているか、僕は知らないけれど、この本を読みながら頭に浮かんだのは、あのいい加減な連中の顔だ。

今のシューカツがどうなっているのかも、僕にはわからないけれど、僕らの頃はコミュニケーション能力、てやつが高く評価されていたようにおもう。

この本でも、コミュニケーションを取ることが尊重されている。

対話する相手は夫婦同士であったり、職場の上司や同僚、或いは後輩であったりと様々だが、兎に角、話し合って相手の立場を理解し、解決策を見出そうとする。

話せばわかる、である。

立派だな、とはおもうものの、見倣いたい、とは決しておもわない僕は心根の心底捻くれた天邪鬼なのかもしれない。自覚はある。

話せばわかる、と云った犬飼首相だって、結局は撃たれちゃったわけだし。


コミュ力が高い(とされる)人と云うと、思い浮かぶのは誰だろう。

政治家?コメンテーター?お笑い芸人?アスリート?

政治家は、やってる感と嘘ばかりである。

コメンテーターは論破する。

お笑い芸人は、その場の空気を巧みに読み、適切(そう)な言葉を吐く、と云う意味で、生成AIと見分けがつかなくなる未来もそう遠くない。

アスリートは、強い。勝っている人たちだ。

実際には勝ったり負けたりしているが、勝負事と鍛錬の内で、自らを成長させたがっている。

成長する必要、ある?
などと僕はおもってしまう。
子供には(ことば通りの意味で)スクスクと成長してもらいたいけれど、親も成長、とかは要らないのである。

子育てを少しやった実感としては、負けることのほうが圧倒的に多い。

子はこっちの思い通りに動いてくれないし、急に具合が悪くなったりする。

伊藤野枝の云う不覚の違算だ。

僕は子育てはいかに巧く負けるか、だとおもっている。それはアスリート的な価値観と、決定的に馴染まない。

彼らは危機を乗り越えようとする。

そういうのを沢山経験して、乗り越えることで、親も結果的に成長する、なんてことはあるかもしれない。

が、端から成長を前提とするのは、ちがうんじゃないか。

僕らも共に成長しよう、だから強さで乗り越えよう。

如何にも胡散臭いし、おっかない。

アスリートもお笑い芸人も、コメンテーターも政治家も、強い人、器用な人が求められ重用されている。
そんな世の中になったのは、僕らミレニアル世代の価値観の反映、なのかもしれない。


僕の理想は落語家だ(広義のお笑い芸人、ではあるが)。

寄席に行くと、彼らは総じてやる気がない。

客も真剣には聴いていない。

それでも噺はきっちりやるし、客だって、ここは聴き所だな、と云う空気は敏感に察して、場内がピリッとする。締まる。

真面目にやっている、巧くなりたい、なんてことを彼らは決して言わない。言う人もなかにはいるけど。

そういうのはダサいんである。粋じゃない。

粋じゃないひとがさいきん増えたな、とおもう。


本の内容とはあまり関係ないところで、気になったことがある。

インタヴューのなかでつかわれる、相手の呼称だ(インタヴュイーの使う呼びかたを、そのまま用いている、と注釈があった)。

相手を尊重して、などと云っているそばから、主人、だとか、おヨメさん、なんて云ったりしている。

ことば選びの雑さに、愕然とする。

ある種の照れもあるのかもしれない。だとしてもあまりに無自覚であり、そんな無自覚さが、僕らミレニアル世代の特徴、と云えなくもない。

相手を尊重するなら、夫、妻、ではないか、とはおもうのだが、これらはむしろ少数派で、奥さん、ダンナ、などが比較的多い。この僕の考えは古いのだろうか。

家内、はさすがにいなかったな。

パートナー、はアリだとおもうが、横文字は気障だな、ともおもう。

余談だが、かつて大学での僕の指導教授は、配偶者のことを、ワイフ、と云っていて、当時は、なんだそれ笑、とおもっていたけれど、意外と良いかもしれないな、と今になっておもう。

学者って日本語よりも外国語を使うことのほうが多いから、日常語も無駄に外国語になっていくよね。

僕は漱石に倣って、妻(さい)、と云う呼び方が好きだが、文章ではルビがないと当たり前に、つま、と読まれてしまうし、口語では意味が伝わらないかもしれず使えないでいる。
ふだんはふつうに、妻(つま)、と云っている。

会話のなかで自分の配偶者を登場させるときは、夫や妻でいいとおもうが、問題は、他者の場合である。

他者の配偶者、何て呼ぶか問題、だ。

お嫁さんやご主人、は残念ながらわりと一般的ではあるが、もはや論外であろう。

(余談だが、「嫁」は「息子の妻」の意だが、さいきんは自分の配偶者を指して言う者も多く、苦々しくおもっている。
ネットスラング的に使われるようになって一般化したが、もともとは関西のお笑い芸人が言いはじめたのが元であろう。ここでもお笑い芸人が幅を利かせている。)

奥さんや旦那さんにも違和感がある。

にわかに再浮上するのがパートナーで、これは相手が同性の場合にもつかえ、汎用性も高い。が、横文字はやはり気障である。

僕の推奨したいのは、夫さん妻さん、である。

じわじわ使われはじめてもいるようだが、定着しているとは言い難い。

テキストでのやり取りならならまだしも、発話するにはかなり抵抗がある。

はやく流行ってくれないかな、とおもっているが、きっかけがないと難しい。

一番いいのはドラマやマンガ、あるいは映画と云った視覚メディアでつかわれることか。

朝ドラあたりで、夫さん妻さん、みたいなテーマのドラマが流行って、米津玄師かYOASOBIかあいみょんあたりが主題歌を唄って、年末に流行語大賞と紅白に出て定着、て流れがいいけど、流行語大賞になることばって、すぐに廃れちゃうんだよね。


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